2013年2月1日金曜日

高松山城(広島県広島市安佐北区可部町)

高松山城(たかまつやまじょう)

●所在地 広島県広島市安佐北区可部町
●高さ 標高339m(比高300m)
●築城期 鎌倉期または、南北朝期か
●築城者 熊谷信直
●城主 二階堂是藤・熊谷氏
●指定 広島県指定史跡
●遺構 郭・空堀・井戸・石垣等
●登城日 2012年10月31日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 高松山城は以前取り上げた伊勢ヶ坪城(広島市安佐北区大林町)、及び熊谷氏土居屋敷跡(広島市安佐北区三入南1)の一族、熊谷氏の居城である。
【写真左】高松山城遠望
 南西麓に残る寺山公園(城跡)から見る。

 写真に見える公園及びその奥には現在可部高等学校が建っているが、当時この辺りにも高松山城を守備する寺山城という城砦もあった。
 いずれ当城についても紹介する予定である。


現地の説明板より

“高松城跡

 熊谷氏は、承久の変(1221年)の戦功の賞として、この辺りの安芸国三入庄の地頭職を与えられ、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)から大林の伊勢ヶ坪に移ってきて居城を構えた。次第に勢力を伸ばした熊谷氏は、のちに三入庄の南の入口に位置する高松山(339m)へ城を移した。

 築城は4代目直経の時代であったが、実際の入城は勢力が強大となった12代目信直の時代(1500年頃)と思われる。しかし、入城の年代には諸説があって明確ではない。
 西方眼下に根の谷川が南流し、北方は桐原の溪谷が大きく空堀の役目を果たしたこの急傾斜の高松城は、容易に人馬の登坂を許さず、守りやすく攻めにくいこの近辺では稀に見る名城といわれ、鎌倉時代の典型的山城である。
【写真左】登城口付近
 登城口は北側の熊谷氏土居屋敷跡側から向かうコースもあるが、以前にも紹介したように、崩落個所が多くお勧めできない。

今回は南西麓の可部高校グランドを土手沿いに進み、麓にとりつく箇所にあった登城口から向かった。この日は河原付近で工事をしていたが、駐車するには特に障害はなかった。

 この写真でいえば、右側の大きな看板があるところが登山口で、左の奥には高松山城の頂部が見える。

 熊谷氏はこの城で毛利氏の家臣として活躍したが、毛利輝元が1591年に広島城を築いてこれに移城すると、13代目熊谷高直もこの高松城を廃して広島入りした。のちに熊谷氏は、関ヶ原の合戦(1600年)で敗れた毛利氏に従って山口県の萩に移った。

 この高松城は、徳川幕府が出した「一国一城令」(1615年)によって、跡形もなく取り壊された。山頂近くに本丸、二の丸、馬場(井戸跡がある)、鐘ノ段、明覚寺跡、与助の丸など大きい郭が残っている。
 熊谷氏の遺跡として、この高松城跡と伊勢ヶ坪城跡(大林)菩提所観音寺跡(三入)土居屋敷跡(三入)の四つが県史跡指定を受けている。”
【写真左】高松神社(愛宕神社)の鳥居
 下段に示すように、本丸手前に江戸時代建立された高松神社の鳥居が最初に出迎えてくれる。

 なお、ここから少し向かったところには登城道の右側に2,3段の屋敷跡らしき削平地が見える。


安芸・熊谷氏

 熊谷氏については、上述の2城の稿で概説しているが、熊谷氏が当地に赴いたのは、説明板にもあるように承久の乱の功績によるいわゆる新補地頭として任命されてきたからである。この功績とは、同乱において討死した熊谷直国の功績によるものである。
【写真左】登城道
 前半は急傾斜の谷筋沿いの脇をほぼ直進する。途中で左側の尾根に回り込み、何度か九十九折を繰り返して進むコースとなっている。

 この日、御年輩の御婦人二人が山登りに不釣り合いな軽装で下山してこられ驚いた。地元では気軽な散歩コースのレベルだろうか。



 そして下向してきた時期は、承久3年(1221)から寛喜2年(1230)ごろまでの事と思われる。

 当時この熊谷氏以外で近隣の太田川沿いに下向してきたものとしては、守護職の武田氏をはじめ、相模国の香川氏(八木郷・広島市八木)、武蔵国の金子氏(温科村・同市温品)、下野国の阿曽沼氏(世能・荒山庄・同市瀬野川)などで、諸族の領有地は互いに接近していた。のちにこのことが領地支配を巡っての争いにも繋がることになる。
【写真左】高松神社
 最初のピークにたどり着くと、高松神社がある。
 配置は下段の図のように、西端部の三の丸と二の丸・馬場跡との間の位置に祀られているもので、この写真の南側には帯郭が本丸方向に向かって不揃いながら伸びている。

現地の説明板より


“大文字祭り(高松神社)

 享保5年(1720)に可部の町の大半が焼野原になる大火があった。可部には火を使う伝統の鋳物業が発展しており、町屋も軒を連ねて密集しているので、再び火を出さないようにと願って、火伏せの神として有名な京都の愛宕神社の祭神である迦具土神をお迎えし、可部の町から鬼門(北東)の方角に当たるこの高松山の山頂近くに高松神社を建て祭った。
 このため、京都の大文字の火祭りと同じような「大」の字の献灯神事があり、この高松山で毎年5月の最後の土・日曜日に大文字祭りが行われている。
 また、この神社には甲冑に身を固めた馬上姿の勝軍地蔵が1体安置されており、この勝軍地蔵も火の守り神として厚く信仰されてきた。
  広島可部ライオンズクラブ”

【写真左】遺構配置図・その1
 右上が北を示す。
 本丸跡付近に建つ説明板に図示されたものだが、フリーハンドで書かれ、余りのラフな図面に拍子抜けする。

 左から三の丸(高松神社含む)、甲丸、二の丸、本丸と南に馬場、鐘の檀などが主な遺構となっている。
【写真左】遺構配置図・その2
 この図も大分古いもので、色つきだが大分薄くなって読みづらくなっている。



 各郭の規模などを記した文化14年(1817)の「下町屋村山郷野上改帳」によれば、次のようになっている。

  1. 本丸 縦30間×横20間
  2. 二の丸 縦15間×横10間
  3. 三の丸 縦15間×横10間
  4. 与助の丸 縦12間×横10間
  5. 馬場 縦35間×横5間、井戸一つ
  6. かぶとの丸 縦15間×横11間
  7. 谷が坊寺跡 14間四方
  8. 明覚寺古屋敷 縦8間×横7間
  9. 観音古屋敷 縦15間×横6間
  10. 鐘の段 縦14間×横13間
  11. 井戸 深さ2間、石積
  12. 愛宕社堂宇 梁桁1間四方


 さて、熊谷氏については、直国の子・直時が当地に入り安芸熊谷氏の祖となる。最初に入ったのが、上掲した三入庄北側にあった伊勢ヶ坪城である。

 南北朝時代に入ると、熊谷氏は当時安芸国守護であった武田氏に属していくが、この間熊谷氏は他の諸族同様、惣領家と庶流家の離合集散を繰り返し、室町期を迎える。

 本稿の高松山城に熊谷氏が入城した具体的な記録はないようだが、室町時代初期と考えられ、初代直時から数えて約280年後の第12代の信直の時代といわれている。
【写真左】二の丸
 高松神社側から尾根伝いに北に向かうと、現地の表記による「甲の丸」が出てくる。

 長さは短いものの、小規模な堀切があり、登り勾配となり、それを過ぎると二の丸に繋がる。
 幅20m×長さ20mの規模。


 戦国期に至ると、後に安芸国を武田氏から取って代わり、大内・尼子と対峙した毛利氏に従い、重臣として活躍することになる。

 因みに、以前紹介した出雲国の高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)で、本城経光誅滅後当城に入った熊谷弘実は、12代信直の三男とされている。
【写真左】寺山城跡(可部高校)を見る。
 高松山城の南麓には寺山城という丘陵地(写真中央の小丘)に築かれた出城形式のものがあったが、現在は可部高校の校舎・敷地となってほぼ消滅している。
【写真左】本丸跡・その1
 幅20m×長さ60mと細長い規模のもので、西半分が若干高くなっている。
【写真左】本丸跡・その2
 本丸の北側に一段下がった郭がある。長さ6,7mで三角形の小規模なものだが、北側を扼する位置になる。
【写真左】本丸跡・その3
 東に向かった箇所で、この箇所が一番広々としている。また、両側は険峻な切崖となっており、要害性は高い。
【写真左】空堀
 本丸と下段の鐘の段を連絡する位置に構築されたもので、深さは2m程度だが、幅・長さとも大きいものである。
【写真左】鐘の段跡
 「この所は、敵来襲のとき知らせる場所である。なお、梵鐘は三入八幡神社にある」と書かれている。
 幅20m×長さ15mの規模。


【写真左】鐘の段側から北へ降りる付近
 鐘の段の下には3,4か所の小郭が連続し、そのまま尾根伝いに下ると、土居屋敷跡へつながる。
 従って、当時はこの屋敷へ下るルートがもっとも使用されていた道と思われるが、現在はあまり使用されていないようだ。
【写真左】南方に太田川河口・広島市街地を見る。
 大分靄がかかっているが、視界がいいときは広島湾も見えるだろう。
【写真左】馬場跡
 本丸の南側には馬場跡がある。
幅7m×長さ45m。
【写真左】井戸跡
 馬場跡の東端部付近に残るもので、直系1m程度のもの。



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