2013年1月3日木曜日

星ヶ城・その2(香川県小豆島町大字安田字険阻山)

星ヶ城(ほしがじょう)その2

●所在地 香川県小豆島町大字安田字険阻山
●登城日 2012年9月24日

◆解説
 今稿は、西峰のさらに東方に聳える東峰の城郭を中心に紹介したい。
【写真左】星ヶ城山遠望
 小豆島の最高峰であるこの星ヶ城山(険阻山)は標高816.6mだが、瀬戸内に浮かぶ島々の中でも最も高い山である。

 比高は殆ど標高と同じく800mを測るので、南北朝期、信胤らが築城した際の労力は大変な苦難が伴っただろう。



信胤とお才の局

 ところで、小豆島は前稿の冒頭でも紹介したように、オリーブや景勝地・寒霞渓など観光地としての知名度の高い島であるが、伝統文化もしっかりと受け継がれている。

 なかでも地元に残る農村歌舞伎は、江戸時代には島全体で30もあったという。現在では肥土山と中山地区の二つの地区になったが、公演日になると、島内外から多くの客が来るという。

 そのうち中山地区の歌舞伎演目の中に、今稿で取り上げた星ヶ城主・飽浦信胤を題材にしたものもある。
【写真左】星ヶ城案内板
 下方が北を示すので、右側のエリアが前稿で紹介した西峰の城郭、左側が今稿の東峰の城域を示している。

 両城間の距離はおよそ300m程度離れており、配置形態から言えば「一城別郭」という様式になる。
【写真左】西峰と東峰の中間点
 上図に示されているPマークに向かう道との分岐点でもあるが、この辺りは平坦部が多い。







 前稿では武家方であった信胤が、途中から南朝すなわち宮方に属した理由を述べていなかったが、一人の女性を巡って、信胤と足利尊氏の執事であった高師秋との確執から生じたものだったといわれている。

 尊氏の執事といえば、高師直・師泰兄弟が有名だが、この師秋も同じ高氏(こうのし)一族で、この師直・師泰の従兄に当たる。この師秋には当時京都では三美人の一人といわれた「お才の局(つぼね)」という愛人がいた。
【写真左】人工井戸
 東峰の城域に入り最初に目にするのが、この人口井戸跡である。
 「深さ5.5m、ほぼ2.5m平方の広さがあり、雨水などを貯水して緊急の場合に備えたものと考えられる」と記されている。

 このあと、時計回りに進む。




 信胤はこの美人の「お才の局」に横恋慕して、師秋らと袂を分かち小豆島に連れてきたという。そして、険阻山に星ヶ城を築き、また麓の安田には居館を建て共に住んだという。

 前稿で信胤が南朝に帰順した時期をはっきりと記していなかったが、暦応2年(延元4年・1339)すなわち、後醍醐天皇が没した年に帰順している。
【写真左】居館跡
 説明板では西峰の居館跡がよく見渡せる場所に建てられている、とあるが、現状では周りの樹木に遮られ、まったく西峰は見えない。

ただ東西峰の居館跡は、どちらもすべて北側に配置されている。明らかに南麓(南方)からの攻めを意識した建て方と思われる。

 そして、この辺りは土塁などで区画した跡が見られ、居館の防禦を意識している。


 こうしてみると、高氏一族には女に絡んだ話が多い。
 塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)などで紹介した、塩冶判官高貞の美貌の妻を横取りしようとした高師直もその一人である。

 ただ、今回は、高師秋の愛人「お才の局」を信胤が奪い取ったという話なので、師秋と師直を同列に扱うことはできないが…。
【写真左】東の出隅
 居館跡から空濠のような道を時計回りに進むと、出隅と呼ばれる箇所がある。

 東峰の北東端部に当たり、この箇所には石垣跡らしき遺構が残る。




 さて、安田の館に「お才の局」を住まわせ、星ヶ城に拠った飽浦信胤だったが、正平2年(貞和3年・1347)6月3日、細川師氏の攻撃を受け、一か月の激戦の末、武運尽き果て落城した。この戦いでお才の局は信胤と同じく安田の地で自刃したという。

 現在この安田地区には「お才の局」を祀った「お妻の局社」という小祠が祀られ、彼女と信胤の悲恋をうたいあげた香川県の無形民俗文化財「安田踊り」も残る。
【写真左】東峰頂部を見る
 空濠のような箇所から上に上がると、きれいに整備された頂部が見える。
【写真左】祭祀遺構・その1
 現地の説明板によれば、発掘調査によって土師器の細片が多数出土し、城が築かれる以前の古い祭祀の遺構と思われる、と書かれている。

 インドから中東当たりにある寺院の建物にも似ているような印象を受けるが…。



◎関連投稿

【写真左】祭祀遺構・その2
 この祭祀遺構付近が主郭と考えられる。











【写真左】東峰阿豆枳神社
 祭祀跡から少し下がった位置に、西峰と同じく、東峰にも当社が祀られている。
【写真左】東峰から大鳴門橋・淡路島を見る。
 左側が淡路島、右側が四国鳴門市になる。

 細川師氏が淡路島から船団(軍船)を組んで航行してきたとき、この東峰からはよく見えたことだろう。
【写真左】井戸跡
 東峰頂部から少し降りたところには、もう一つの井戸跡がある。

なお、この他に頂部から南に65m先に烽火台があり、下段の方には石塁を築くため石の採取場であった「舟形遺構」などが残る。

0 件のコメント:

コメントを投稿