2013年1月22日火曜日

鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)

鴨山城(かもやまじょう)

●所在地 岡山県浅口市鴨方町鴨方
●別名 鴨方城・加茂山城・石井山城・清竜山城
●築城期 応永14年(1407)
●築城者 細川満国
●高さ 標高168m(比高140m)
●遺構 郭等
●登城日 2012年11月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 備中・鴨山城は、前稿「猿掛城」のある矢掛町から南西約10キロほどむかった浅口市鴨方にある鴨山に築かれた山城である。
【写真左】鴨山城の石碑
 当城四ノ檀附近に祀られている。










 築城者は細川満国といわれ、鴨山城の麓には城主細川氏とかかわりの深い長川寺(ちょうせんじ)という寺院がある。

 鴨山城そのものの説明を表記したものはないが、戦国末期当院を中興した細川通董(みちただ)の墓が祀られ、その脇に彼の事績が記されている。なお、一部判読不明な箇所があり、それらは○印としている。
【写真左】鴨山城遠望
 麓の長川寺付近から見たもの。











“鴨山城主7代
 細川通董公墓碑

 従五位下 下野守通董公は、天文4年鴨山城主5代晴国の嫡男として出生、伊予国宇摩郡川之江に在城後、6代輝政の継嗣として毛利氏と盟約を結び、永禄2年笠岡大島青佐山(在城7年)・鴨方六条院竜王山(在城9年)を経て、天正3年(1575)鴨山城に入り、一門の栄誉を継承した。
【写真左】長川寺
 本堂をはじめ山門など最近新しく建替えられたようだ。



 菩提寺長川寺の諸堂修復、寺領○20石をはじめ、近隣寺社への浄財の寄進とともに、伝統文化や地域産業の振興に寄与するなど、名君の誉れが高かった。

 その治領は備中浅口・小田二郡・伊予宇摩・温泉二郡、松山にも及んだ。天正15年(1587)豊臣秀吉の筑紫征討の際、毛利氏に随伴出陣、その帰途赤間関(下関)で客死した。
 その霊骸は家臣によってこの地に葬られたが、元和年間山崩れにより諸堂什器流失の惨事のため、○○○5年改替再建立された。(以下文字不鮮明のため省略)”
【写真左】細川通董の墓
 宝篋印塔や五輪塔といった形式のものではないようだ。







備中守護細川氏

 室町幕府が最も安定していたのは応永年間(1394~1428)のころである。このころ、現在の岡山県下にあって、美作国と備前国は、明徳の乱で山名氏を倒した赤松氏(義則)が守護として支配し、幕府内では侍所の任をもって四職の一人とされ、備中国においては、三管領の一翼を担った細川氏が守護として君臨した。
【写真左】登城口
 登城コースは麓の長川寺側から徒歩で登るものと、北側の尾根沿いに設置された道路を車で向かう二つのものがある。この日は車で向かった。
 ここから歩いて数分で本丸へたどり着く。写真は数台分確保できる駐車場付近。


 そして同国守護代には前稿で紹介した庄氏と石川氏があてられた。
 しかし、この守護領国体制も30有余年後の応仁年間に至って、さまざまな矛盾が露呈し崩壊していくことになる。そして未曽有の大乱応仁の乱の勃発がここに始まる。
【写真左】一の檀附近
 鴨山城は南北に細長く伸びた尾根を利用して築城されて、長さ約300m、幅平均20mという規模を持つ。

 北端部に「一ノ壇」という郭を置き、そこから南にやや弓なりに下って「二ノ壇(おそらくこれが主郭か)」から「五ノ檀」まで続く。「五ノ檀」からさらに数10メートル下った所には「陽の郭」という単独の郭があるが、物見櫓などがあったものと思われる。
【写真左】磨崖仏
 鴨山城にはこうした磨崖仏が彫られた巨石が点在している。







 ところで、備中守護職細川氏については、『日本城郭体系第13巻(藤井駿「備中守護の細川氏について」』で、この鴨山城の項で特記されている。これによれば、同守護の流れは次のように整理される。

   備中守護    氏名
  1. 初代      細川 頼之(管領)
  2. 2代       細川 満之(頼之の実弟)
  3. 3代       細川 頼重(満之の次男)
  4. 4代       細川 氏久(頼重の子)
  5. 5代       細川 勝久(氏久の子)
  6. 6代       細川 之持(初代頼之の弟詮春の末孫)
  7. 7代       細川 政春(鴨山城主2代持春の孫)
【写真左】一ノ檀から西方を俯瞰する。
 この辺りも巨石で構成されている箇所が多い。








鴨山城主細川氏

 そして、鴨山城主初代は、同守護初代頼之の孫(頼元の次男)満国から始まる。満国の生没年は不明だが、父頼元は応永4年(1397)に没しているので、満国が生まれたのは南北朝後半期であろう。

 満国の兄・満元は父の家督及び管領職も受け継ぎ、主として幕府の要職を務めていくことになる。
【写真左】二ノ檀付近
 幅12m×長さ30m余りでかなり広い。この郭からさらに下段の三ノ檀との比高差は3m以上もあり、事実上の主郭とされている。




 鴨山城主の流れは次の通り。
  1. 初代   細川 満国(頼之の孫)
  2. 2代    細川 持春(満国の子)
  3. 3代    細川 教春(持春の子)
  4. 4代    細川 政国(管領満元の次男持賢の養子)
  5. 5代    細川 晴国(守護7代政春の次男)
  6. 6代    細川 通政(晴国の養子)
  7. 7代    細川 通董(晴国の子又は、通政の子)
 このように、鴨山城主としての流れも、管領・守護職であった細川氏一族の中で錯雑したものとなっている。
 細川氏一族の系譜については、嫡流をはじめ、その分流も多岐にわたり、非常に複雑である。詳細は省くが、鴨山城主の細川氏についていえば、嫡流(吉兆家)の分流の一つとされる野洲家の流れである。
【写真左】四ノ檀
 三ノ檀と四ノ檀の境ははっきりしない状況だが、四ノ檀は幅が狭くなるものの、長さはかなりあり、50m以上を測る。
 この先には五ノ檀が尾根先端部に控える。



 築城したのは、初代満国である。説明板にもあるように、このころ満国は、備中国浅口郡・同国矢田郷、そして四国伊予国の宇摩郡・温泉郡、さらには関西の摂津国小林上下庄、丹波国畑之庄など広範囲な領地を治めていた。
【写真左】石碑
 冒頭で紹介した石碑の裏側で、「五ノ檀」付近に建立されている。細川氏家臣の末裔が建立したと記銘されている。




 前々稿備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)で紹介した庄氏などは、南北朝から室町初期のころまで細川氏(吉兆家)の家内衆として支えていた。

その後、応仁の乱などをはじめ幾多の戦乱が当地にも及び、一旦これらの領地を失うことになる。

細川通董

 再び浅口鴨方に細川氏の再興を打ち立てたのが、初代満国から数えて7代目の通董である。通董の生誕年は、天文4年(1535)とされている。
【写真左】巨石
 麓から見ると、特徴あるこれら巨石が突出しているように見える。








 この翌年の天文5年(1536)出雲の尼子経久・晴久は備中・美作を攻略、さらに翌6年には東に進んで播磨に攻め入った(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)。そして翌7年11月、赤松政村は淡路に敗走、本願寺光教は経久に戦勝祝を送った。

 これに対し、翌天文8年10月、淡路に敗走していた赤松政村は、阿波国細川持隆を頼み、備中国で逆襲を試みるも、再び敗れた(「証如日記」)。
【写真左】五之檀先端部から鴨方の町並みを見る。
 この位置から登城道が下まで続いている。中央部には長川寺が見え、鴨方の町並みが広がる。


 このころ、細川氏の被官(守護代)であった庄為資は、尼子氏に与していた。備中国攻めにおいて尼子氏が優位に立てたのも、この庄氏の力によるところが大きい。

 備中国における細川氏・野洲家はこうした大きな流れの中で、否応なく当地(備中国)を離れなければならなくなった。

 通董が最初に在城したのが、瀬戸内を渡った伊予宇摩郡の川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)であるが、当城の幕下としてしばらく留まることになる。この地は当時細川氏の領地でもあった。その後、尼子氏の備中支配が弱まると、再び当地に戻り旧領回復を目指すことになる。
【写真左】青佐山城(おうさやまじょう)遠望
 現在の浅口市と西隣笠岡市の境にある山城で、標高249m。水島灘(瀬戸内)が南方に拡がる。当時瀬戸内に浮かぶ島だったと考えられ、典型的な水軍城だったと思われる。


 備中国に戻ったのは永禄2年(1559)といわれている。このころから毛利氏の支援を受けていたようで、最初に瀬戸内側の浅口郡大島村に上陸し、青佐山城を築城し、以後7年間在城した。

 同9年(1566)には鴨方町六条院に移り、龍王山城を築城(9年間在城)。そして、天正3年(1575)父祖伝来の鴨山城に入ることになる。

 鴨山城に入城した通董はその後、南北にそれぞれ支城を配置した。北方には杉山城・西知山城、南方には初期の居城であった龍王山城・青佐山城などである。しかし、室町期に隆盛を誇った名族細川氏の勢威は、戦国末期にはもはや衰微のものとなっていた。
写真左】鴨山城から南方を見る。
 おそらくこの視界に支城・龍王山城などが入っていると思われる。

 なお、鴨山城の支城ではないが、左側に見える山は、泉山(H:221m)といわれ、これも山城といわれている。



 通董は鴨山城に入城するころ、同国国吉城(岡山県高梁市川上町七地)攻めにおいて毛利氏に従軍している。備中国守護職としてその名を高めた細川氏は、備中兵乱の時代にあって、安芸国の国人領主だった毛利氏の傘下として参戦せざるを得なかったのである。

そして関ヶ原の合戦後、通董の子・元通は、浅口少輔九郎と名乗り、長州藩主毛利秀元の客将としてこの地を去った。末孫はそのまま長州で明治維新を迎えているという。

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