2013年1月2日水曜日

星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)

星ヶ城(ほしがじょう)その1

●所在地 香川県小豆島町大字安田字険阻山乙586番地の4
●高さ 標高817m
●築城期 南北朝時代(興国元年・暦応3年:1340以前か)
●築城者 佐々木三郎左衛門尉飽浦信胤
●遺構 空堀・鍛冶場・郭・井戸・狼煙台等
●備考 寒霞渓
●指定 県指定史跡
●登城日 2012年9月24日

◆解説(参考文献「サイト:たまらなく小豆島 オリーブ探検隊」等)
 オリーブと寒霞渓、そして小説「二十四の瞳」で有名な瀬戸内に浮かぶ小豆島は、観光地として有名だが、この島にも古代・中世にかけて数か所の山城が記録されている。
【写真左】星ヶ城(山)遠望
 西方にある展望台(四方指)から見たもの。
 山頂広場までは、寒霞渓を眺望しながら登るロープウェイを利用する方法と、麓から車で「小豆島スカイライン」を使って向かう二通りがある。

 当日は車で向かったが、かなり急勾配の登坂やカーブなどがあり、車には大分負担をかける。ブレーキなど十分に整備・確認してから登った方がいい。

山頂広場に登山口案内が出ているので(下段案内図参照)、ここから徒歩で二つの城郭(西峰・東峰)に向かう。


 主だったものとしては次の5か所が挙げられる。
  1. 星ヶ城(険阻山)H:817m 
  2. 皇踏山城(香川県小豆郡土庄町淵崎)
  3. 高見山城(香川県小豆郡土庄町乙)
  4. 城山(城名不明)H:111m 小豆島町池田~室生
  5. 安田城(居館跡か) 小豆島町安田
【写真左】星ヶ城案内図
 登山口である山頂広場に設置されたもので、最高所の東峰に至るまでに、4つのピークがある。

 1番目が三笠山(671m)、2番目は無名だが、3番目に当城の一つである西峰(804.9m)があり、4番目が東峰(816.6m)である。

 なお、これら連山の北側にも道路が走っており、東西峰の中間地点から歩いて向かうこともできるが、山城探訪としては、やはり麓の登山口から向かう方が遺構の確認を順を追ってできるのでお勧めである。


 このうち、№3の高見山城については、正式には山城としての定義がされておらず、はっきりしないが、瀬戸内の東方を横断する水軍船などを監視する場所として、この小豆島に城砦が築かれたことは想像に難くないだろう。

今稿ではこの中の「星ヶ城」を取り上げるが、そのうち「西峰の方を紹介することにする。

現地の説明板・その1(寒霞渓の山頂広場)

“県指定史跡 星ヶ城跡へのご案内
(昭和47年4月27日指定)

 これより小豆島最高峰星ヶ城まで、約2.3kmの遊歩道が造られています。
 星ヶ城は東峰と西峰からなり、周囲を断崖に囲まれた天険の要害に造られた中世の山城です。
 南北朝時代、南朝に味方して備前児島半島の飽浦から渡来した佐々木信胤が、戦時の城としたものといわれています。
 現在、東峰、西峰を巡る苑路を設けてあり、居館跡、井戸などの数々の遺構が昔を偲ばせてくれます。
   昭和63年2月   内海町教育委員会”
【写真左】登山口付近
 山頂広場からすぐに三笠山山頂まで500mと書かれた案内板がある。先ずはこれに従って進む。






現地の説明板・その2(星ヶ城神社境内にある由緒より)

“由緒
 
 興国元年備前国飽浦城主佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤 星ヶ城ヲ築キテ之ニ據リ南朝ニ黨ス
 脇屋義助ノ伊豫国ニ下向スルニ際シ大ニ援助スル所アリ後本島ヲ所領セシニ正平2年細川師氏ノ襲撃ヲ受ケ應戦力メタリシモ刀折レ葥盡キテ遂ニ戦没セリ
一、祭神    佐々木信胤
          阿木局
          岩倉大明神
          八代神主
          佐々木信胤家臣一統
一、大祭日   毎年 旧3月16日
              旧9月16日
一、星ヶ城神社  昭和24年5月19日建立後 阿豆枳神社攝社トナル

   星ヶ城神社奉賛会”
【写真左】星ヶ城神社
 三笠山を過ぎて約1キロほど進むと、星ヶ城神社がある。
 由緒にもあるように、昭和に入ってから建立された新しい神社である。




飽浦信胤(あくらのぶたね)
 
 星ヶ城の城主は飽浦信胤といわれている。別名佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤といい、おそらく元は佐々木源氏系と思われるが、説明板・その2にもあるように、備前国の飽浦城主であった。
【写真左】飽浦城(高山城)遠望
 小豆島に向かう新岡山港のフェリー乗り場から見たもので、西方には形の良い「常山城」も見える。






 この飽浦城というのは、現在の岡山市児島湾南岸(児島半島)の飽浦と北浦の境に聳える別名「高山城(H:215m」のことで、南北朝期この児島も文字通り小豆島と同じく、瀬戸内に浮かぶ島であった。

 高山城については、管理人は未登城だが、鎌倉末期に信胤が当地を支配していたころ築城されたといわれている。
【写真左】西峰・その1 外空濠
 前記の神社を過ぎてしばらく歩くと、最初に星ヶ城の一つ西峰の城域に入る。

 この場所から50m先にある「一の木戸」から攻め寄せる際の防禦とされ、深さ3.5m、幅19mと記されている。
 さらに先には、空堀によってできた残土を盛り上げて造成した土壇が控える。
【写真左】西峰・その2 阿豆枳島(あずきしま)神社
 土壇を過ぎるとご覧の神社がある。








現地の由緒より

“西峰阿豆枳島神社由緒
  祭神  大野手比賣(おほぬてひめ)
       罔象女神(みづはのめのかみ)

古事記に曰く「次に小豆島(あずきしま)を生みたまひき亦の名は大野手比賣と謂ふ」
往古より我が小豆島の祖神を祀る阿豆枳島神社はここ星ヶ峰の頂上に鎮座ましまして島の平和と繁栄を祈願し奉祀しています。
毎年9月16日祭典を斎行しています。
  平成18年9月16日
     星ヶ峰御鎮座二百年
阿豆枳島神社  宮司 森 潤
阿豆枳島神社奉賛会会長 木下光三”



 さて、飽浦信胤については、備中・福山城(岡山県総社市清音三因)で、延元元年・建武3年(1336)5月の福山合戦の際述べているが、このときは同じく児島の豪族・田井信高らと共に当初尊氏派、すなわち武家方に与していた。
【写真左】西峰・その3 ここでちょっと休憩
 奥に先ほどの神社が見える。左の大岩は小豆島南方を俯瞰できる展望台として利用されているが、下段の写真に見るように、見事な絶景が眼下に広がり、疲れがいっぺんに吹き飛ぶような見晴らしである。
【写真左】西峰・その4 寒霞渓
 少し靄がかかっているが、紅葉の時期などはもっといい眺めになるだろう。
【写真左】西峰・その5 内海湾及び四国さぬき市方面を見る
 写真中央の二つ並んだ島のうち、右側の奥には「二十四の瞳」学校跡がある。





 その後、田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも述べたように、脇屋義助は、兄・新田義貞が延元3年・暦応元年(1338)越前国藤島で敗死したあと、南朝方の総大将となり中四国へ下ることになる。したがって、飽浦信胤が武家方から南朝方へ移ったのは、この時期と考えられる。
【写真左】西峰・その6 下の空濠
 西峰の主だった遺構としては、阿豆枳島神社を中心にしてその外周に反時計回りで、



  1. 土壇
  2. 内空濠
  3. 水の手曲輪
  4. 居館跡
  5. 鍛冶場跡
  6. 下の空濠
などが配置されている。
写真は神社の北側にある下の空濠
【写真左】西峰・その7 居館跡
 下の空濠の近くにあり、平坦面が確認できるが、現状は藪コギ状態になっている。





 
 そこで、説明板・その2(由緒)では築城期を興国元年(1340)としているが、おそらくこれは竣工した時期と思われ、実際にはその2年ぐらい前、すなわち脇屋義助が越前国から四国に渡ってきたころに合わせて、信胤が築城を開始したと思われる。
【写真左】西峰・その8 水の手曲輪
 居館跡から少し下がった所にある郭で、山頂部から北側の山腹の降雨を集めて貯水する施設と書かれている。
 曲輪としているが、実態は下段に示す「鍛冶場」で使用する水の確保や、飲用水としての貯水施設だったかもしれない。



細川氏星ヶ城攻

 星ヶ城が攻められたのは正平2年、すなわち貞和3年(1347)とされている。従って、信胤が星ヶ城を築いてから7,8年後である。

 攻め入ったのは、武家方の細川師氏である。このころの細川氏については、川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)でも記したように、当時讃岐・阿波・淡路国を治めていたのは同氏であったが、脇屋義助が康永元年(1342)7月に急逝すると、師氏の実兄であった細川頼春はその機に乗じて讃岐・伊予の境目である川之江城(仏殿城)に攻め入った。
【写真左】西峰・その9 鍛冶場跡(1)
 西峰の中で北端部にあたる個所で、説明板では、「城を築くために必要な金具や武器を製造するために築いた鍛冶場跡、多数の鉄滓が散乱している」と記されているが、落ち葉などで埋もれてしまっているようだ。



 頼春の川之江城攻めは大義名分的には、武家方として宮方を打ち破るというものであったが、実態は伊予国に蟠踞する名族河野氏を攻略することが最大の目的であったといわれる。
 従って、細川氏による星ヶ城攻めも、そうした流れの中で行われたと考えられる。
 
なお細川師氏は、その当時現在の南あわじ市(淡路島)八木養宜中に居館「養宜(やぎ)館(平城)」を構えていた。
【写真左】西峰・その10 鍛冶場跡(2)
 鍛冶場跡付近にはこうした石が多く散在している。

 鑪跡には石垣による段が構成されていた箇所が多いが、おそらくこの鍛冶場も、「けら」の段階から製造をしていたものと思われる。


その後の飽浦氏

 ところで、飽浦信胤はこの高山城(飽浦城)から小豆島の星ヶ城に移ることになるが、残った一族は戦国期に至るまで当地(飽浦)を支配し、天文年間には飽浦美濃守、天正年間には飽浦美作守の名が残る。
【写真左】西峰から東峰を望む
 西峰と東峰の頂部高低差は10m余で、東峰がわずかに高いが、この間は鞍部となっており、西峰を過ぎると少し下っていく。



次稿では、東峰を紹介したいと思う。

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