2013年12月30日月曜日

姫倉城(高知県香南市香我美町岸本)

姫倉城(ひめくらじょう)

●所在地 高知県香南市香我美町岸本
●築城期 不明
●高さ 68.3m(比高60m)
●城主 姫暮氏、桑名丹後(長宗我部氏)等
●遺構 土塁、郭
●備考 土御門上皇歌碑・仙跡碑、こどもの森公園・月見山
●登城日 2013年8月4日

◆解説
 姫倉城は高知県の旧香我美町(現香南市)にあって、安芸氏の武将姫倉氏の居城とされている。
 
 位置的には、戦国期土佐の雄となった長宗我部氏の居城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)と、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)の間にあることから、両氏による戦いがもっとも激しくなったところといわれている。
【写真左】姫倉城遠望
 姫倉城の南端部を国道55号線と、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が走り、その南(左側)は土佐湾(太平洋)の長い海岸線が伸びる。
 写真は東側の国道55号線沿いのコンビニから撮ったもの。

 
現地の説明板より

“史跡の森(姫倉城跡)
 大忍荘は南北朝期から熊野新宮の領地で、戦国時代一部を除いて安芸氏の勢力下に入り、姫倉城は安芸の武将・姫倉右京の居城であった。

 長宗我部元親の大忍討入りの時、長宗豊前が奪取して、姫倉豊前守と称した。天正14年、豊前守が九州戸次川で討死すると、嫡子太郎右衛門があとをついだ。

 元親は天正の頃、家臣の持城の破壊を命じ、以来400年の幕を下ろすこととなった。
    香我美町教育委員会”
【写真左】配置図
 姫倉城(月見山)は、「四国のみち」という四国全土を歩く自然歩道のルートにも含まれているが、この図では上部に月見山が描かれている。

 なお、中央部の香宗川岸に「香宗城」が描かれているが、別名「香宗我部城」といわれ、香宗我部氏の居城とされている。管理人は訪れていないが、小さな八幡宮が祀られている。
【写真左】月見山こどもの森総合案内板
 姫倉城のある月見山は北側から伸びる細長い尾根上に築かれ、北側から「わんぱくの森」「つどいの森」などのエリアが設けられている。

 このうち姫倉城は下段に示す「土御門上皇歌碑」がある「史跡の森」の中に位置づけされている。
 ただ、この図には姫倉城の名称は入っておらず、最下段に書かれている「シバ広場・スベリ台」あたりになる。

 
姫倉氏と長宗我部氏

 姫倉氏が仕えた主君は安芸氏である。安芸氏については、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)でも紹介したように、戦国時代になると土佐七雄の一人とされ、国虎は土佐一条家の房元の娘を娶り覇を唱えた。

 長宗我部氏が土佐の制圧を開始して、さらに勢力を強めることになったきっかけは、以前紹介した本山氏の拠る朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)の攻略である。
【写真左】登城口
 公園は南側から向かう道と、東側奥の駐車場から歩いて向かう道の二つがあるが、この日は後者のほうから向かったため、公園内をやや下りながら歩いていくとご覧の看板が見える。
 ここから歩いて2,3分で城域に入る。


 このころは朝倉城主・本山氏と、長宗我部氏の力は拮抗しており、両者とも土佐湾岸の掌握を目論んでいた。これは、具体的には浦戸湾岸地域を支配することによって、海上権益を得て土佐東西への足掛かりをつくるためであった。
【写真左】登城道
 公園になったため、当時の登城道ではないと思われるが、雰囲気は十分に感じられる。
 写真右側が既に中心部になる。



 特に山岳部に本拠をもっていた本山氏などはこの狙いが強く、朝倉城を手中におさめていた同氏にとってもっとも重要な場所となっていた。

 しかし、永禄6年に長宗我部氏が当城から本山氏を追放し、長宗我部氏がこの地域を抑えた。ここから長宗我部氏の土佐東西に侵攻する基礎ができた。
 
 さて、東方侵略の一つである姫倉城攻めの際、長宗我部軍は陸路も使ったと思われるが、主だった隊はおそらく軍船を利用したのだろう。現在、姫倉城の南端部は太平洋の荒波が直接打ち寄せてはいないが、当時は殆ど海岸部の絶壁にあったものと思われる。
【写真左】二の丸か
 最初に現れるのが主郭の北側に設けられた2幅10m前後の規模を持つ帯郭状のもので、二の丸的な位置づけのものと思われる。
 この正面に本丸(主郭)が控える。

 夏場のため草丈が長く伸びあまりいい条件ではなかった。
【写真左】さらに上にある本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
 予想通りここも雑草が繁茂し、遺構の状況としては芳しくないが、凡その形状は確認できる。

 直径凡そ15m前後の円形をなし、周囲には高さ1m前後の土塁が取り巻く。
【写真左】本丸・その2
 土塁を写しているつもりだが、これでは分からないかもしれない。

 また、周囲の立木も南側を伐採すれば、土佐湾・太平洋が俯瞰でき、当時の状況がより把握できたかもしれない。
【写真左】再び二の丸へ降りる。
 本丸の北西端には少し開口部があり、そこから階段と梯子状の通路が設置してある。大分古びた梯子を注意しながら降りる。

 この位置での二の丸と本丸の比高差は約6,7m位だが、南(海側)はやはり敵からの侵入を意識していたのだろう、切崖状の箇所が多くみられた。


土御門上皇歌碑

 ところで、姫倉城は北側から南の土佐湾岸沿いまで南に延びる月見山の先端部に当たるが、当城から尾根筋に北に向かうと、土御門上皇の歌碑が建立されている。

 土御門上皇については、これまで、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)などで紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】土御門上皇仙跡碑
 裏には「大正11年3月 高知縣香美郡」と刻銘されている。








 現地の説明板より

“土御門上皇土佐遷幸と歌碑建立の経緯

 1221年(承久3年)後鳥羽上皇(82代天皇)が、鎌倉幕府打倒の兵を挙げるも幕府によって鎮圧された「承久の乱」によって、父君、後鳥羽上皇は隠岐の国(島根県)へ、弟の順徳上皇(84代天皇)は、佐渡の国(新潟県)へ、そして、土御門上皇(83代天皇)は、土佐の国、のちに阿波の国(徳島県)へ配流となった。
 この事件以降公家政権は、急速に衰え幕府の優位は決定的となる政治史上画期的な事変であった。
【写真左】歌碑入口付近
 北側から向かう位置で、公園内を南北に縦断する道の一角にある。







   土御門上皇は、事変の局外者で後鳥羽上皇の倒幕を誅止したほどで幕府も処分する考えはなかったが、上皇は、一人都に留まることを心苦しく思われ、自らが願い出て土佐遷幸が決定した。

 土御門上皇は、承久3年10月10日、供の者を従え香川県綾歌郡松山村に上陸、四国山脈、丹治川を超え、土佐に入国、そして、現四万十市蕨岡字天皇山に入った。

 その後、畑(幡多郡)は小国にて御封米難で守護も困難とのことから、約6ヶ月後の承久4年5月に阿波の国に移られる途上、しばしの間、月見山多聞院常楽寺(現宝憧院)に皇居を構え、月見山で月を眺めし故、山号を月見山と申し、また当時「脇の磯の北、常楽寺の南腹にいかにももののふのふたりし老木の松があり、この松(延命松という)の上の月影を愛でされたと言われている。
【写真左】歌碑付近から南東方向を俯瞰する。
 現在月見山から眺望できる箇所は周囲の木立のため余り多くないが、おそらく上皇もこの景色を眺めたことだろう。

 土佐湾に突出した手結岬が見える。



 土御門上皇の「土御門院御集」に掲載されている
 「かがみのや たがいつはりの 名のみして こふるみやこの かげもうつらず」
 の和歌は、上皇が京の都を偲んで詠まれた常楽寺滞在中の作と言われる。

 ここ、月見山山上には、上皇滞在を記念して大正11年(1922)「香美郡会」が発起となり当時の高知県知事「阿部亀彦」の揮毫による「土御門上皇仙跡碑」が建てられている。
【写真左】歌碑設置付近
 月見山全体がこうした公園などに改変されたため、姫倉城としての遺構は南端部のみしか残ってないが、細長い尾根と東麓部の急峻さを見れば、現在の公園ほとんどが姫倉城の城域として構成されていた可能性が高い。


 しかし、上皇が詠まれた歌碑はなく、有志より建立の話が持ち上がり、地元岸本でも、この和歌は歴史的にも関係の深い岸本ほか5ヵ村を鏡野になぞらえ「香我美町」と命名をしたと香我美町史に謳われていることから、地元有志も賛同、平成21年7月10日実行委員会を結成、同年11月3日(文化の日)を歌碑建立除幕式と定め、活動を行った結果、565名におよぶ人々から浄財を得ることができ、和歌は、京都の「財団法人 冷泉家時雨亭文庫」のご好意により重要文化財「土御門院御集」の筆跡から拡大彫刻することが許され、予定通り11月3日に完成の運びとなったものであります。
                         以上
   平成22年4月3日 
     月見山土御門上皇歌碑建立実行委員会”

2013年12月29日日曜日

土佐・安芸城(高知県安芸市土居)

土佐・安芸城(とさ・あきじょう)

●所在地 高知県安芸市土居
●別名 安芸(安喜)土居
●築城期 延慶2年(1309)頃
●築城者 安芸親氏
●城主 安芸国虎、長宗我部氏、五藤氏等
●形態 平山城
●遺構 石垣、土塁、堀、郭
●高さ 40m
●指定 安芸市指定史跡
●登城日 2013年8月4日

◆解説
 土佐・安芸城は、高知県の東部安芸市を流れる安芸川の中流土居にある平山城で、築城したのは安芸親氏といわれている。
【写真左】土佐・安芸城遠望
 西側から見たもので、独立した小丘陵地に築かれている。このため、城館としては小規模なものである。




現地の説明板より

“安芸城跡    市指定史跡

 安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)安芸親氏によって築かれたという。安芸氏は、この地方の有力な豪族の1人で、戦国時代には土佐七雄の1人といわれた。

 城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸(詰の段)からは平野が一望できる。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要塞であった。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門は枡形の広場もみられる。
【写真左】案内図
 安芸城跡には歴史民俗資料館、書道美術館などが建ち、また南側には武家屋敷などがある。

 また、安芸城の北西2キロほど行ったところには、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の生家もある。



 戦国時代の末、永禄12年(1569)長宗我部元親に攻められ、激戦の末落城、安芸氏は滅びた。
 その後30年間長宗我部氏が支配したが、慶長6年(1601)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣・五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構えた。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っている。
   安芸市教育委員会”
【写真左】濠
 当城の全周には濠が巡らされていたが、現在は特に南側が土塁とともに整備され、見事な景観を保持している。





安芸氏

 安芸氏の出自については諸説紛々あるが、壬申の乱(672年)で配流された蘇我赤兄の後裔といわれている。
 当城の築城期が延慶元年といわれているので、花園天皇のころである。またこのころ、幕府が伊予国の河野氏に対し、当時熊野灘で出没していた海賊を討伐するよう命じているので、土佐湾を指呼する安芸氏にとっても何らかの関わりもあったのだろう。
【写真左】入口付近
 大手門と思われる箇所で、現在残る土塁部の石垣などはおそらく山内一豊時代の重臣・五藤氏のころのものだろう。




 室町期に至ると、土佐国は細川吉兆家が守護職となり、安芸氏はその守護代としてしばらく続くことになる。応仁の乱の際は東軍である細川勝元に加勢し、その当時安芸氏分家の畑山氏から養嗣子として入っていた元信や、その子元康が戦死し一族が途絶えかけたが、元信の実弟元盛が兄に代わって本家安芸氏に入り、安芸氏を再興させた。
【写真左】安喜(安芸)土居内外細図
 江戸時代後期に作成されたといわれる絵図で、左上が安芸城になる。

 江戸時代となってからは山内氏の家臣・五藤氏が城下町として整備しているが、下段にも示すように、城下には武家屋敷がほとんどで、商人たちの建物はこのエリアには入れていなかった。







 戦国時代の大永6年(1526)、安芸氏と同じく土佐一雄のひとつで、西隣に勢力を誇っていた香宗我部氏を破り、さらに元盛の曾孫になる国虎の代になると、当時同国盟主とされた土佐一条氏と縁戚関係を結び、隆盛を極めることになる。ただ、このころから長宗我部氏の台頭もあり、次第に領地境界を巡って同氏との紛争が起き始めた。

 最終的には説明板にもあるように、永禄12年(1569)長宗我部元親は安芸城を攻めることになるが、安芸城内にいた譜代の主だった家臣らが元親に内応したため、国虎は自害の道を選んだ。

 その後、長宗我部元親は香宗我部氏の家督を継いだ実弟の親泰を当城に送りこんだ。
【写真左】土塁
 濠を隔て城域を囲繞する石積みの土塁で、高さは約3m前後のもの。
 一豊時代の五藤氏が築いたものといわれている。
【写真左】毒井戸跡
 現地の説明板より

“永禄12年(1569)7月、安芸城は圧倒的な長宗我部軍に包囲された。

 敵に背後を突かれ、不覚をとりながらも安芸勢は城を打って出ては奮戦、籠城24日に及んだが、ついに城の東安芸川の対岸の岡より火矢を放たれ、城は炎上した。

 この間敵に内通するものあり。機をみて城の井戸に毒を投じ、長宗我部の陣に走った。為に城内の兵ら倒れる者多数、士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主安芸国虎は、残された全将兵と領民の助命を条件に、自らは菩提寺である浄貞寺に入り自決した。
 以来、この毒井戸は、安芸落城を早めた原因の一つとして、今に語り伝えられている。”
【写真左】登城口付近
 城域の東側に登城口がある。平山城であるので、2,3分で主郭にたどり着く。
【写真左】中段南側の郭
 主郭を中心にして南北に郭段が2,3段連続する構成で、特徴的なものはないが、東の安芸川側である切崖はさすがに意を用いている。
【写真左】主郭附近
 上掲の郭からさらに上に登ると、外観から想像する以上に規模の大きい主郭が現れる。

 最大の平坦地が長径30m程度あり、そこから下の写真にもあるように、南にも数段の郭が連続する。
【写真左】主郭南端部
 主郭を南に向かうと、1.5m程度低くなった段があり、さらに南に行くにしたがって幅が狭くなり、急峻な切崖が濠に落ちている。
【写真左】藤崎神社
 五藤家を祀る神社で、東麓に建立されているが、次のような由来が記されている。

“藤崎神社

 元亀元年(1570)、織田信長の越前朝倉攻めに従軍した山内一豊は、敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られた。重臣の為浄(ためきよ)は、その矢を抜こうとするがなかなか抜けず、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み、矢を抜き取った。

 慶長6年(1601)、土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて、五藤家に安芸を預けた。武功のきっかけとなった鏃(やじり)は五藤家の家宝となり、為浄がはいていたわらじは、藤崎神社のご神体となったと伝えられる。
   安芸市教育委員会”


安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区

 
 安芸城のエリアは、赤線で囲んだところで、指定史跡となっている。
 城砦の規模は概ね南北250m×東西100mと、南北に長い。
 また、その東麓を安芸川が流れているが、その対岸には北から伸びた横山という弓状の細い丘陵部がある。

 地取りとしてはむしろこちらの方が、理想的に思えるが、当時こちらにも安芸城を補完する施設(支城、船溜まり、屋敷跡など)があったものと考えられるが、遺構の記録はないようだ。

 この図と併せて、伝統的建造物保存地区についての説明が次のように記されている。

【写真左】安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区範囲図

“安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区

 土居廓中(かちゅう)は安芸平野のほぼ中央、安芸川の西岸に位置し、周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地です。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、長宗我部氏に代わって土佐に入った山内一豊は、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸の五か所の土居に家老または重臣を置きました。
【写真左】武家屋敷付近
 当時の道幅のまま残っている。
 代表的な屋敷として、野村家のものがあり、写真にはないが、一般公開をしている。


 本来、「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指し、この五か所の土居には、家老屋敷を中心に小規模な城下町が形成されました。

 その一つ、土居廓中は、安芸土居に置かれた五藤氏の城下町です。城下は、武家地にみで構成され、町人地は2キロメートルほど南の安芸浦や土居廓中までの街道沿いに形成されました。

 土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割とともに、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残り、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に伝えています。

 昭和49年(1974)に地元住民により結成された「ふるさと土佐土居廓中保存会」が主体的に保存に取り組んできたこの歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。”
【写真左】岩崎彌太郎生家
 安芸城から北西に向かった一の宮という地区にあり、一般公開されている。

 探訪したこの日も猛暑で、いささかバテ気味になった。入口付近には屋台風の喫茶店があり、注文したソフトクリームが実にうまく、ここから安芸城をしばらく遠望することができた。

2013年12月23日月曜日

土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)

土佐・蓮池城(とさ・はすいけじょう)

●所在地 高知県土佐市蓮池字土居
●築城期 嘉応2年(1170)
●築城者 近藤家綱
●城主 近藤(蓮池)家綱、藤原国信、大平氏、一条氏、本山氏、吉良親実等
●形態 平山城
●高さ 30m(比高20m)
●指定 土佐市指定史跡
●備考 城山公園
●登城日 2013年7月2日

◆解説
  土佐・蓮池城は、仁淀川の西岸土佐市の城山公園にあって、平安後期に築城された平山城である。当城から約10キロ余り北東へ向かった仁淀川対岸の位置には、以前取り上げた土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)があり、当然ながら朝倉城とも深いかかわりがあった。
【写真左】蓮池城
 北側を走る土佐市バイパス56号線から南に枝分かれする細い道を入ると、消防署の前を通る。すぐその反対側に2,3台駐車する場所がある。

 この日は、雨のため足元が泥濘あまりいいコンディションではなかったが、城山公園とされた蓮池城の要所には、アジサイが雨に打たれて色鮮やかに咲いていた。


 現地の説明板より・その1

“蓮池城の興亡

 ここに城が定められたのは、嘉応2年(1170)平氏の家人近藤家綱(蓮池権頭)が、平氏荘園の守護として居城したのに始まり、その後源頼朝の討手に滅ぼされた。

 建久3年(1192)藤原国信が居城して大平氏を名乗り、広大な勢力圏を形成し、文化面でもすぐれた活躍をした。

 天文15年(1546)、幡多一条氏が東進し、大平氏を滅ぼし、一条氏の番城となったが、弘治3年(1557)には本山氏が一条氏を撃退して城を奪った。

 永禄3年(1560)、長宗我部氏と本山氏の争いが起こり、これを機に一条氏が城を奪回した。永禄12年(1569)弘岡城主吉良親貞が一条氏を追い、その子親実が城主となったが、長宗我部盛親の継嗣問題で元親の逆鱗に触れ、親実は自刃し、こうして400年余、戦国武将が興亡を繰り返してきた蓮池城の歴史は、幕を閉じた。”
【写真左】案内図
 現地は城山公園として整備されたため、当時の状況をどの程度まで保存したものか分からないが、本丸跡と思われる箇所が、左側中央の展望広場で、そのから下(南東方向)に延びる中央広場・自由広場などが二の丸と思われる。

 また、さらに下がった削平地は三の丸や、大小の帯郭形式の形態をもった城砦であったと考えられる。


現地の説明板より・その2

蓮池神社

“この神社は、蓮池権頭家綱公を祀る。嘉応2年(1170)平氏の家臣近藤家綱が平氏荘園の守護として蓮池城を創建し蓮池姓を名乗った。
 善政により権頭に任せられた後、越知町柴折に刺客の手に倒れ遊行寺に葬られた。以来八百数年目に御霊を故山に迎えたものである。

  昭和52年4月24日
    土佐市郷土誌研究会…(以下略)”
【写真左】東側に伸びた削平地
 おそらく二の丸の一部と思われる郭跡と思われる。








近藤家綱(蓮池権頭)

 蓮池城の築城者は平家家臣・近藤家綱といわれる。これは後段で詳述するように、平安時代末期、公卿・大炊御門家の藤原経実の四男・経宗が承安元年(1171)から文治5年(1189)まで土佐国を知行していたことからによる。

 平治元年(1159)12月、源義朝・藤原信頼らは院御所を襲い、上皇を内裏に移し天皇ともども幽閉した。これに対し、平清盛は官軍となって鎮圧、翌2年義朝の子・頼朝は伊豆へ配流、その弟希義(まれよし)は土佐国介良(けら)荘へ流罪となった。
【写真左】南側に伸びた箇所・その1
 上掲の削平地よりも規模は大きく長い。この辺りで約1m程高くなる。






 嘉応2年(1170)、権大納言に復帰していた平重盛は、七男・宗実を当時左大臣であった土佐国知行の藤原経宗の猶子とした。

 おそらくこのころ、近藤家綱は土佐に赴いたと思われる。なお、この近藤氏も、以前取り上げた阿波の白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)の近藤氏(大西氏)と同族の可能性が高いと思われる。
【写真左】南側に伸びた箇所・その2
 途中に馬渕重馬先生頌徳碑というのがあり、そこから少し西側に向きを変えて、20mほど伸び先端部に出る。
 郭の長さではこの箇所が最も長いようだ。


 治承4年(1180)8月、源頼朝は平家追討の決意を固め伊豆に挙兵した。このころ土佐に流罪となっていた希義は、地元の土豪・夜須七郎行宗(ゆきむね)の庇護を受けていた。そして、頼朝挙兵の報は土佐の希義らの耳目にも触れ、彼らも源氏再興の狼煙を挙げようとした。

 ところが、この動きを事前に察知していた近藤(蓮池)家綱らは、これを阻止するため、希義を殺害した。時に寿永元年(1182)といわれ、希義が殺害された場所については、現在の南国市にある年越山附近といわれているが確定していない。
【写真左】帯郭
 先ほどの先端部から見えたもので、比高7,8mはあるだろうか。整備されているので何とも言えないが、この箇所は険峻な切崖と思える。


 希義を殺害した家綱ではあったが、説明板・その2にもあるように、その後越知町柴折において、伊豆右衛門有綱と夜須行宗に討取られた。

 ところで、家綱が討取られた越知町柴折という場所だが、管理人が調べるところでは、現在当地には折という地名はなく、また遊行寺という寺院は現存していないようだ。ただ、地名として(小字名か)「遊行寺」というのがあり、その麓を流れ、仁淀川に合流する「坂折川」という支流があるので、「柴折」ではなく、「折」ではないかと考えられる。
【写真左】本丸に向かう。
 手前の広場が「さくら広場」といわれた箇所で、おそらくこの付近に虎口などがあったのだろう。

 この位置から本丸まではご覧の階段が設置されている。高さは10m弱か。


大平氏

 土佐・大平氏については、以前朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)でも取り上げたように、室町後期に至って、土佐七雄の1人といわれた。

 頼朝が征夷大将軍となった建久3年(1192)、蓮池城の城主は藤原国信となった。国信はその後、姓を藤原から大平氏と名乗る。この大平の姓名はどこから来たものだろうか。

 大平姓については、出典元は不明ながら、近藤氏の始祖が駿河国廬原郡(庵原郡)(現静岡市清水区大平)大平郷にあったことから、大平姓を名乗ったとされている。
 しかし、この説には確定したものがなく、むしろ後段に示すように、上掲した越知町に関係した土地から名乗ったのではないかと考える。
【写真左】本丸跡
 長径30m×短径20m程度の楕円形の郭で、その奥には蓮池家綱を祀る神社が鎮座している。






 国信は藤原秀郷の系譜に繋がるという。そして、実兄は同国高岡郡尾川郷に入部した近藤元国だとされる。

 尾川郷というのは、現在の越知町の東隣町佐川町の本郷耕(ほんごうこう)となっているところで、前記した越知町五味の遊行寺の南方の山を越え3キロを隔てたところである。そして、この五味遊行寺の西隣の地名が、「中大平」と「大平」である。このことから、国信は元々この越知町大平の出ではないかと考えられるのである。
【写真左】蓮池城の石碑
 「土佐市史跡 蓮池城址」と刻銘された石碑で、本丸の片隅に建立されている。








鞠ケ奈呂陵墓(天皇陵参考地:横倉神社)

 ところで、遊行寺のある五味の横倉山(H:774m)には平知盛一族が安徳天皇を奉じて潜伏したといわれる鞠ケ奈呂陵墓(天皇陵参考地:横倉神社)が所在している。(安徳天皇陵墓参考地・横倉山(高知県高岡郡越知町五味・越知)参照)

 平家の落人が四国の山間地に逃れたという伝承は数多く残っているが、その中でもこの越知町の横倉山を中心とした区域には「越知町平家会」という団体も作られている。
【写真左】蓮池(近藤)家綱権頭を祀る祠
 これとは別に左側にも祠がある(下段写真参照)
【写真左】別の社殿
 雨のため近くによって撮った写真ではないが、確か「八幡宮」と書かれていたように記憶する。
 八幡宮であれば、鎌倉期以降城主となった大平(藤原)氏を祀ったものだろう。

 なお、この日は時間がなく、訪れていないが、これとは別に当城(城山公園)の東尾根筋に、「吉良神社」が建立されている。



 こうしてみると、平家落人が居た場所に、鎌倉幕府が開かれて間もなく、藤原氏近藤流の大平氏がいたと仮定すれば非常に興味深い話となる。もしそうであれば、当然ながら大平氏は、平家落人を誅滅する義務があったのだろう。しかし、その処置は行われず、当地で落人達は生き延びた。

 こうしたいきさつを考慮すると、そのときの大平氏の務めは、ほとんど戦意が消失した平家を監視する役目があったと想像される。
【写真左】蓮池城から土佐市街地を見る。
 この日は密度の濃い霧雨が朝から降り出し、土佐の町並みは霞んで見えた。





 そして、当地・大平に入った近藤氏は、平家落人の再興の動きがないことを確認したうえで、蓮池城へ入り、改めて最初の赴任地である大平の地から大平姓を名乗ったのではないだろうか。

 従って時系列的にこの間の動きを見るならば、文治元年(1185)に壇ノ浦で平家が滅び、越知町に落ち延びた平家を追うように、近藤氏が横倉山麓の大平に入り、それから約7年ほど落人の監視を行った上で、建久3年(1192)、地頭職と思われる役職をもって蓮池城に入城したのではないだろうか。
【写真左】本丸最頂部
 神社・祠の背後はさらに5,6m程度高くなった基壇状の高まりがあり、当時は物見段のような役割があったものと思われる。
 現在は電波塔のような施設が建っている。


室町期・戦国期

 ところで、後に土佐国の盟主となる土佐一条家は、応仁・文明の乱の最中、和泉堺からもともと所領していた荘園幡多荘へ下向することなる。

 このとき、一条家(前関白一条教房)を船で紀伊水道から土佐湾を経て幡多荘へ向かわせたのが、この大平氏である(土佐・中村城・その1(高知県四万十市中村丸之内)参照)。
 こうして、鎌倉期に大平氏が当城を居城してから、約350年余り同氏の支配が続くことになるが、戦国期に至ると、説明板・その1にもあるように、当城を含むこの地域も度々支配者が替わることになる。

 前述したように、このころの土佐国は、土佐七雄が文字通り群雄割拠し、その頂点には、先ほどの幡多郡を本拠地とした土佐一条氏が盟主となっていった。
【写真左】南側を見る。
 当城は形態として「平山城」と記しているが、麓の土佐市街地は全体に低地にあり、鎌倉期ごろは南方を流れている波介川が当城の麓を流れていたのではないかと思われる。

 そして、城下には船溜まりとしての施設があり、本流仁淀川に一旦入り、そのまま土佐湾・太平洋へと航行する船影もあったのではないかと思われる。



  この頃の状況については、いずれ近隣の城砦を投稿する機会があれば、改めて述べたいが、説明板その1の中で書かれている弘岡城(吉良城)主であった吉良氏については、「吉良物語」の中で、同氏の遠祖が近藤(蓮池)家綱に殺害された希義、すなわち頼朝の弟であると伝えられている。

2013年12月17日火曜日

日和佐城(徳島県海部郡美波町日和佐浦445-1))

日和佐城(ひわさじょう)

●所在地 徳島県海部郡美波町日和佐浦445-1 城山城園内
●築城期 室町時代か
●築城者 日和佐肥前守
●別名 渭津城
●高さ 標高65m
●遺構 ほとんど消滅
●備考 城山公園(模擬天守) 日和佐勤労者野外活動施設
●登城日 2013年11月17日

◆解説
 前稿上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)から南に30キロ余り南下し、太平洋岸の入り組んだ海岸部に入ると、先の合併で新しく美波町となった旧日和佐町がある。この町には、四国霊場として有名な23番札所薬王寺がある。
 日和佐城は、この薬王寺から日和佐川・奥潟川河口を挟んで東方に聳える小山に築かれた山城である。当城の北麓から東に目を転ずると、風光明媚な太平洋の海岸部を俯瞰できる。
【写真左】日和佐城遠望
 奥潟川を挟んで西側から見たもの。
 左に進むと、日和佐港(太平洋)に出る。






 本丸跡に建っている模擬天守に、当城の概要を紹介した詳細な資料があったので、抄出しておく。

 現地の資料より

“「日和佐城と城主について」

 日和佐川の清流をこえて、北は日和佐の町並み東には黒潮洗う太平洋を見下ろし、また、西には名刹「医王山・薬王寺」の瑜祇塔(ゆぎとう)と相対する景勝の地に建っているのが日和佐城であります。

 この地は古来より城山と呼ばれており、今から440年ほど前の戦国時代といわれた室町後期、元亀・天正の頃の日和佐肥前守の居城の跡であるといわれております。
【写真左】模擬天守入口付近
 この位置まで整備された道が続き、手前には広い駐車場がある。







 阿波の国村誌には「日和佐壘地、城山と称す地位三段最も高きところ40間、東西14間、南北22間、石垣所々に散在」と記されております。

 中世末期の山城として水陸の要害の地であり、城の構えは守備に必要な柵や石垣の簡単な建物であったと思われ、今日のような天守閣の存在はありませんでした。

 室町幕府の末期において、日和佐にも郷村を中心として武力をたくわえ、中世の争乱の世に生きた土豪的武士団として、日和佐肥前守、濱隠岐守、日和佐和泉守との三説があるが、元亀・天正のはじめに日和佐に拠ったのは、日和佐肥前守であることが、日和佐肥前守の先祖である日和佐掃部助廣康が、長享2年(1488)に日和佐領主として書いた文書が子孫である高知赤岡に居住した濱家に所蔵されている。
【写真左】駐車場付近
 模擬天守側から南方を見たもので、この先からさらに高くなった尾根が続いている。






 日和佐肥前守は、ここを根拠地として阿波の守護であった細川真之を助けて、荒田野(阿南市)に出陣して軍功をたてております。

 天正3年(1575)海部郡に侵攻した土佐の長宗我部軍に対処することとなり、その主将香宗我部親泰の起請文を受け降伏したのが、天正5年11月17日のことでありました。

 当時、阿波は三好氏が勢力を誇っており、日和佐肥前守は主君である細川家再興のために三好氏を討つという共通の利害に長宗我部氏の武力を必要としたのであります。

 翌、6年9月12日には、長宗我部元親の起請文を受け忠節を誓っておりますが、日和佐肥前守はそれ以後記録上から姿を消しており、後継者となった城主は肥後守(ママ:肥前守か)の弟と推定される日和佐権頭であります。

 権頭は主君細川家の再興を願い、長宗我部軍に従いますが、その願いもむなしく、細川真之が天正10年丹生谷奥(旧鷲敷町)で亡ぶに至り、浪人となり大阪天満に蟄居した記録が残っていおります。
【写真左】模擬天守
 以前は資料館のような建物だったようだが、現在はめぼしい資料はあまりなく、展望台の用途としてのみ使われているようだ。



 長宗我部元親は、天正10年四国制覇を成し遂げますが、その後、羽柴秀吉の四国征伐に敗れ、土佐一国に退去を余儀なくされます。
 そのおり、元親は以前より見込んでいた日和佐権頭を連れて高知に帰っております。

 以後、権頭は日和佐姓から濱の姓を名乗り土佐赤岡を中心に郷村発展の基を築いております。
【写真左】展望台から日和佐湾・太平洋を見る。











 その後、江戸時代に入り、阿波に入国した蜂須賀家政もまた、権頭に諸奉行格として列せる旨の書面を送り日和佐帰参を勧めており、そこで権頭は四子のうち二子を連れて日和佐に帰り、日和佐の込潟(薬王寺の麓)に居を構え、近世を通じて重要な地方行政に参画しているのであります。
 このように、濱家は土佐、阿波両藩主より重用されたのであります。

 元日和佐城主である日和佐氏(濱氏)は、単に武勇の士だけでなく、時代的な才腕と声望が高かったことが窺われるのであります。”

【写真左】展望台から薬王寺を見る。












長宗我部氏の阿波侵攻

 長宗我部氏が阿波南部を攻略し始めたのは、天正3年(1575)の末ごろといわれている。最初に攻め入ったのが、土佐国に隣接する海陽町の海部城である。

 さらに北上して日和佐に入るが、説明板にもあるように、日和佐氏は当時阿波国の実質上の盟主となっていた三好長治に敵対しており、元の主君である細川真之を支援していたといわれている。
 
 ただ、上掲の資料とは別に、現地に祀られている城山神社由来記に書かれた内容と整合しない部分があり、なんとも判断がつかない。参考のため、関係個所のみ抜粋しておく。
【写真左】城山神社
 模擬天守のある敷地の一角に小規模な祠が祀られている。








“城山神社 由来記

 当地は、平安時代に「和射郷」の中心となり、鎌倉室町時代にわたり「日和佐庄」と呼び、安土・桃山時代(天正初期 1570年代)にこの地の豪族日和佐の後裔、日和佐肥前守が長宗我部勢の侵攻を防ぐため、標高60mのこの地に城を築いたとされている。

 天正5年頃、長宗我部勢の侵攻により落城し、日和佐肥前守一族は、軍門に下ったが住民はこの地を城山と呼び、また日和佐城址として親しんできた。当時は当時は東西が14間、南北が22間あり石垣も処々、昔を偲ばせるものもあったが、今は新日和佐城となっている。……(以下略)”
【写真左】薬王寺山門
 四国霊場の一つで、参拝者の人影が絶えることがない。









 日和佐氏に関する戦国期の史料は余り残っていないようだが、当城が海に面した実質上「海城」であったことを考えると、水軍城主としての面も持ち合わせていたと考えられる。
【写真左】薬王寺から日和佐城を遠望する。