2012年12月31日月曜日

吉田郡山城・その2(広島県安芸高田市吉田町吉田)

吉田郡山城・その2

●所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田
●登城日 2012年3月10日

◆解説
 今稿では前稿の続きとして、釜屋の檀の西隣にある姫丸の檀から紹介していきたいと思う。
【写真左】釜屋の檀から姫丸の檀に向かう連絡路
 前稿でも紹介したように、本丸を中心に凡そ6本の尾根に構成された曲輪群が放射状に交わり、各曲輪群もそれぞれ尾根下で連絡路が設置されている。
【写真左】姫の丸檀配置図
 現地の説明板より

“姫の丸檀跡

 本丸の北にのびる峰にあり、基部の段は通路で、西は釣井の檀へ、東は釜屋の檀へつながる。

 ここから北への3段もほとんど比高差を持たず連なり、さらに北へ3段あるが、主要には基部の3段が機能していたとおもわれる。
【写真左】姫の丸檀

 基部の両側には一部に石垣も残っている。

 この檀に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、文化13年(1816)夏長州藩士武田泰信がこの石を見て、拓本にとり持ち帰ったと伝えている。”
【写真左】釣井の檀・その1
 釣井の檀は姫の丸檀の西隣に設置された曲輪群で、全長75m×幅15mの規模。

 ほとんど1段の構成となっており、かなりの広さを感じる場所である。
【写真左】釣井の檀・その2
 写真にはとっていないが、この檀には石垣が残る。
【写真左】井戸跡
 釣井の檀基部付近に残るもので、直径2.5m。

 本丸に近いこともあって、最も重要な水源だったと思われる。
【写真左】配置図
 上記の釣井の檀の隣にあるのが、勢溜の檀だが、ここで先に二の丸・本丸に向かう。
【写真左】二の丸跡

 現地の説明板より

“二の丸跡

 二の丸は本丸の南につながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。

 東西30m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、実用面積は約400㎡と本丸より一回り小さい。

また、この石塁の外側には、幅0.5mから1mの平坦面もみられる。

 この二の丸の南側には、高さ約3mの石垣が残るが、この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、ここから石を運んだという記録があるので、石垣は曲輪の東西両側にもあった可能性が高い。

 南にある三の丸へは、幅1.5mの通路があり、礎石も残ることから、小形の枡形をした門、あるいは塀があったものと思われる。”
【写真左】二の丸から本丸方面を見る。
 二の丸と本丸下段との比高差は約2mある。
【写真左】本丸・その1

 現地の説明板より


“郡山城本丸跡

 郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。
 その北端は一段高くなった櫓台がある。

 櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。
 この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになる。
【写真左】本丸・その2
 手前が櫓台


 城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。
【写真左】本丸・その3
 櫓台


 曲輪も大小合わせて270断以上みられる。
 大永3年(1523)に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、郡山全山に城郭を拡大していった。

 元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し就げた。
  平成3年3月 吉田町教育委員会”
【写真左】本丸・その4
 櫓台の北端部から見下ろした切崖

 この写真の下が、前述した「姫の丸檀」の基部になると思われるが、見ごたえのある要害堅固な切崖である。
【写真左】勢溜の檀
 先ほどの本丸を降り、残った尾根曲輪群の一つ、北西方向にある勢溜(せだまり)の檀に向かう。



現地の説明板より

“勢溜の檀跡

 勢溜の檀は、本丸の峰から南西へ長く伸びる尾根を、御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、10段の大型の曲輪からなる檀で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500㎡から700㎡の広さの曲輪を4段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を3段、さらにその先端には付曲輪を加えている。

 この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸方向への防禦は厳重で、たとえ、この方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の檀の曲輪群から攻撃できる構造になっている。
 ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。”
【写真左】勢溜の檀
 勢溜の檀は説明板にもあるように、非常に長い曲輪群である。

 なお、説明板の文中下線を引いた箇所については、勢溜の檀とは別に、「矢倉の檀」という名称で記されているものもある。

 この「矢倉の檀」までは400m弱の距離があり、そこまで行って、再び上がるのも難儀だったため、向かっていない。

 このあと、勢溜の檀の東谷に降り、満願寺跡に向かう。
【写真左】勢溜の檀の東面から満願寺跡に向かう道
 満願寺跡との比高差は約20m程度あるため、かなり下の方に降りる雰囲気がある。

 写真下段の道で左に向かうと満願寺にたどり着く。
【写真左】満願寺跡・その1

 現地の説明板より

“満願寺跡

 満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南で御蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。現在でも境内の北側に、東西に二つの蓮池が残っている。

 毛利氏が入城する以前のかなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると、天平12年(740)に行基菩薩が当地こられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木像を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したということに始まる。

【写真左】満願寺跡・その2
 蓮池跡
 現在は池の体をなしておらず、湿地帯のような状況となっている。

 このあと、東隣に隣接する妙寿寺跡及び、同名の曲輪群に向かう。




 大永3年(1523)元就の本家相続が決定し、郡山に入城するにあたって、この満願寺法師栄秀の説により入城の日(8月10日の申酉の刻)が決められたことや、永禄10年(1567)には、越前の幸若大夫が満願寺に滞在し幸若舞を舞ったこと、同11年(1568)には、観世大夫宗節一座の能狂言が行われたこと、さらに、元亀3年(1571)には、法華経読誦千部会が行われたことなど記録にある。

 この寺は、毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに萩城内に移っていたが、現在は防府市にある。”
【写真左】妙寿寺跡付近
 満願寺跡をそのまま東に向かうと、この箇所がある。ここも湿地帯のような痕跡となっており、池や庭園などがあったものと思われる。

 妙寿寺は、毛利家の祈祷所並びに、毛利煕元(ひろもと)の菩提所、また毛利隆元夫人の菩提寺であったと伝えれれている。

 江戸末期の文久年間には、浅野支藩の火薬庫が設けられていたという。
【写真左】妙寿寺曲輪群
 現地の説明板より


“妙寿寺曲輪群

 妙寿寺曲輪群は、長さ41m、幅24m、面積約1,000㎡で、周囲を石垣や石塁で画した方形の曲輪を中心に、それから東西にのびる幅10mから15mの帯曲輪状の曲輪、およびそれらに伴う小曲輪群からなる。

 この小曲輪群は、南を守るための通路として利用されたものらしく、特にこの西側の曲輪群は、満願寺からの道を正面で壁として防ぐ、枡形を意図したものと考えられる。(以下略)”
【写真左】尾崎丸・その1 堀切その1
 尾崎丸の見どころは何といってもこの3条の堀切である。

 現地の説明板より

“尾崎丸跡

 尾崎丸は、満願寺仁王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用した3条の堀切で隔てた独立的な曲輪群である。


【写真左】尾崎丸・その2 堀切その2

 中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さをもつ2段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差をもって、小さな付曲輪と長大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。

 なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎勢と称されていることから、隆元の居所と考えられる。”
【写真左】尾崎丸・その3
 この辺りが隆元の居所と思われる。
【写真左】旧本城へ向かう
 尾崎丸を過ぎ、「⇒旧本城」という案内標識を見つけ、その方向に向かったが、途中で倒木や道が崩落していて断念した。

 途中で道を間違えたのかもしれない。
【写真左】鍛冶炉跡(西谷地点)
 旧本城を諦め、南麓側にある整備された道路に出て、出発点の駐車場方面を進むと、ご覧のような崖を修復した箇所が見える。

 この崖の下に鍛冶跡があったようだ。
【写真左】常栄寺跡
 上記鍛冶跡を過ぎると、道路の南側に削平地が現れる。常栄寺跡という。


現地の説明板より

“常栄寺(じょうえいじ)跡

 常栄寺は、毛利隆元の菩提寺である。
 永禄元年(1563)隆元の没後、元就は隆元の尊師山口の国清寺(こくしょうじ)の僧、竺雲恵心を招き、開山とした。

 寺は翌永禄7年(1564)扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、正親町天皇の「常栄広刹禅師」の勅願を受けた。

 天正19年(1591)の分限帳によると、1,480石5斗余を領している。
 寺跡は、2段の曲輪からなり、上の段は60m×25m、下の段は40m×10mでかなりの広さを持つが、建物の配置は明らかでない。
 毛利氏の防長移封後、山口に移った。現在の常栄寺は雪舟庭としても有名である。”
【写真左】毛利隆元の墓
 常栄寺跡を過ぎ、道路右の階段を上った所に隆元の墓がある。


 現地の説明板より

“毛利隆元墓所

 隆元は、毛利元就の長男として大永3年(1523)多治比猿掛城内で生まれた。吉川元春(二男)小早川隆景(三男)の兄にあたる。

 幼名を少輔太郎といい、天文6年(1537)人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称した。以後、天文10年(1541)19歳で帰還するまで大内氏に優遇を受けた。

 天文15年(1546)24歳で家督を相続した。3年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文22年(1553)に長男幸鶴丸(輝元)の誕生をみた。

 永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比に一時帰還した。
【写真左】高宮町にある隆元逝去の地

 郡山城には入らず、出雲に出発、途中安芸佐々部(高田郡高宮町)で、和智誠春の饗応を受けたが、まもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6年(1563)急逝した。菩提寺は常栄寺である。”

2012年12月30日日曜日

吉田郡山城・その1(広島県安芸高田市吉田町吉田)

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)・その1

●所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田)
●指定 国指定史跡
●築城期 旧本城 建武3年・延元元年(1336)、本城 大永3年(1523)
●築城者 旧本城 毛利時親、本城 毛利元就
●城主 毛利氏
●高さ 旧本城(標高300m/比高100m)、本城(標高400m/比高200m)
●遺構 本丸・二の丸等郭約130か所、堀・居館跡・石垣・土塁・井戸等
●形態 山城(放射状・輪状連郭式)
●登城日 2012年3月10日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今稿は安芸国(広島県)の吉田郡山城を取り上げたい。
 当城については、今さら紹介するまでもない有名な城郭だが、戦国期毛利元就の本拠城で、県下でも最大級の巨大山城である。
【写真左】吉田郡山城・本丸
 本丸櫓台から二の丸を見る。










 当城に最初に登城したのは、10年以上前だったと思う、余りの大きさに戸惑い、一部しか見ていなかったように記憶している。今年の3月久しぶりに登城した。
【写真左】立体的な案内図
 主だった遺構部分は、その都度写真で示す予定だが、この図は南麓部の駐車場に設置されているもので、分かりやすい案内図である。

 なお、この付近は市民の憩いの場としても整備されているようだ。
 ここで車を停めて、上に向かうと登城口の案内板がある。




現地の案内板より

“安芸 吉田郡山城

 郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。

 郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川の合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は1km四方に広がる。遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸のほか、御蔵屋敷の檀、勢溜の檀、姫の丸の檀など大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。
【写真左】洞春寺跡・毛利一族・元就墓所
 先ほどの駐車場からしばらく歩くと、毛利一族の墓所及び、洞春寺跡が見える。


 現地の説明板より

“洞春寺跡

 洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元年(1573)に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であった嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)を開山とした臨済宗の寺跡である。

 輝元の広島移城の際、広島城下に移ったが、毛利氏と共に山口に移転、まもなく萩城下に移された。明治2年(1896)、再び山口市内に移された。
 遺構は、等高線に沿って馬蹄形に6段の平垣面に区切ったもので、墓所のある段を中心に、3段が広く約4,000平方メートル(1,200坪)あり、この地に建物があったと考えられている。
    平成2年3月  吉田町教育委員会”

従って、遺骨などは既にないと思われるが、主だった墓としては、

  1. 元就墓
  2. 興元墓
  3. 幸松丸墓
  4. 隆元夫人墓
  5. 先祖合墓
  6. 百万一心碑
  7. 嘯岳鼎虎禅師墓
などがあった。

 天文9年(1540)9月、尼子晴久が3万の大軍を率いて来攻したが、毛利勢は小勢ながらよく戦い、翌年1月尼子軍を敗退させた。その後、毛利氏はこの城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばした。

 天正19年(1591)輝元の広島城移築後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。

 郡山城は中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。”
【写真左】本丸方面に向かう登山口
 さきほどの境内跡の西側に当たる個所で、ここから城域に向かう。
 





大江広元と毛利氏

 安芸毛利氏の系譜については、説明板にもあるように建武3年(1336)当地に旧本城を築いた毛利時親を始祖としているが、時親以前の系譜についてはおおよそ次の通りである。

 この毛利時親は、曽祖父を大江広元としている。大江広元は鎌倉開幕期の政所別当となった朝臣であるが、彼の子5人のうち、四男季光(すえみつ)が、相模国毛利荘(現神奈川県厚木市)入部し、毛利氏を名乗ったのに始まる。
【写真左】登城道・「本丸まで530m」の位置
 先ほどの登山口から本丸まではおよそ700mぐらいあるが、全体になだらかな道で、巨大山城の割に険峻な箇所は少ない。



 季光は承久の乱などで活躍し、一時は評定衆に列せられるまでになったが、後に鎌倉幕府の内乱「宝治合戦」の際、三浦一族に属して敗北、本人及び長男・次男・三男とも自刃した。

 しかし、四男経光はたまたま、この合戦に荷担していなかった(領地の一つである越後佐橋庄:現新潟県柏崎市にいた)ため許され、毛利荘は没収されたものの、他の所領は残った。従って、この四男経光がもし他の兄弟らと一緒に宝治合戦に参加していたら、この段階で毛利氏は滅びたことになる。
【写真左】登城途中から吉田の町並みを見る。
 吉田郡山城から麓を眺望できる箇所は少ない。
 この写真は唯一登城途中から俯瞰できた箇所。



 さて、からくも命を免れた経光の子には、6人の男子が生まれ、その中の四男時親がのちに安芸吉田荘を治めることになる。
 鎌倉幕府の終焉と南北朝の動乱が始まる頃である。時親には長男・貞親、次男・親元、三男・広顕の3人の男子があった。

 この時期は他の諸族同様、一族延命を担保するため、武家方(北朝)と宮方(南朝)にそれぞれ属させた。時親はかなり長寿であったらしく、最終的に曾孫(貞親の子・親秀衡の子で長男元春)とともに、延元元年(1336)吉田荘に移住し、最初の居城を築いた。これが郡山の南東尾根に築かれた旧本城である。
【写真左】左(釣井の檀・姫丸の檀)、右(本丸)との分岐点(蔵屋敷)
 登城道を登りきると、最初に見える箇所で、下図の「蔵屋敷」の入口付近に当たる。
【写真左】本丸を中心とした配置要図
 この位置から先ず三の丸に向かい、そのあと四方の尾根に構成された曲輪群に向かう。
【写真左】三の丸・その1
 当城の中でも最大の規模を持つ郭で、城兵が度々この場所に集められた場所でもあったと思われる。

 現地の説明板より

“郡山城の三の丸跡

 三の丸は、城内で最大の曲輪である。曲輪内は土塁や、削り出し等によりさらに4段に分かれている。
 二の丸とは、約35m下段にあって、東西40m、南北47mの広さがある。西の段と南の段は石塁で隔て、北の段とも1mとの比高差を持たせて石垣で画している。
【写真左】三の丸・その2
 石塁跡

 この西の段からは二の丸・御蔵屋敷につながる曲輪への通路がのびており、しかも西の段下の石垣や階段がみられるところからみて、登城には御蔵屋敷から南側の帯曲輪を経由し、その階段を上がるとこの三の丸虎口(西の段)に繋がると考えられる。

 西の段は周囲を石垣や石塁で囲まれていることもあり、この部分が郡山城のなかでは最も新しい時期の遺構であったと考えられる。
  平成3年3月
    吉田町教育委員会”
【写真左】厩(うまや)の段
現地の説明板より


“厩の檀跡

 本丸の東南方の長さ約400mにも達する長大な尾根の基部にあって、17mと24mの段から尾根に沿って7段と、それから北に分かれる4段の曲輪からなる。

 最大の曲輪は、尾根の上中央の基部から3番目の曲輪で、約410㎡の広さがあり、それから下方へは帯曲輪状の小曲輪を並べている。北側の4段は基部の曲輪の守りのためと考えられ、いずれも小さい。
【写真左】厩の檀位置図

 なお、基部の曲輪から釜屋の檀へは通路がのび、南側の段へも通路があり、幅3mから5mの付曲輪がある。この南側下の段が馬場と呼ばれているところから、厩の檀には厩舎があったところと考えられる。”
【写真左】厩の檀から釜屋の檀に向かう道
 厩の檀から反時計方向に回って、北東の尾根に築かれた釜屋の段、及び羽子の丸に向かう道で、尾根の下に配置されている。
 この斜面もかなりの切崖となっている。
【写真左】釜屋の檀
 本丸から比高差15mを測り、小規模な郭が5段連続する。
 石垣などは見られない。

釜屋の檀の先端部に進むと、次の「羽子の丸(はごのまる」に進む。
【写真左】堀切
釜屋の檀と羽子の丸の間に構築された堀切で、深さ3m、幅は7m前後だが、当時は相当深かったものと思われる。
【写真左】羽子の丸・その1
 南北に主だった郭が連続して3か所配置され、各々は帯曲輪で連絡し、一部には付郭も加えている。

 最も高い位置の郭は650㎡もあり、独立した城砦としての機能も窺える。
【写真左】羽子の丸・その2
 羽子の丸先端部から北東麓を見る。
羽子の丸は本丸を起点とすると北東方向になり、甲田町方面(三次市方面)を扼する位置である。

なお、説明板には羽子の丸の先端部から北東に下る尾根には何も遺構を示すものは書かれていなかったが、戦略的にはこの位置にも何らかの城砦施設があったのかもしれない。
【写真左】羽子の丸側から振り返って釜屋の檀方面を見る
 振り返ってみると、各郭段の切崖に高い要害性がうかがわれる。
 




次稿では本丸を中心に、残った郭群を紹介したいと思う。

◎関連投稿
多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)

2012年12月25日火曜日

万徳院跡(広島県山県郡北広島町舞綱)

万徳院跡(まんとくいんあと)

●所在地 広島県山県郡北広島町舞綱
●建立 天正3年(1575)ごろ
●創建者 吉川元長
●遺構 本堂跡、礎石、庭園、門、番所その他
●指定 国指定史跡
●探訪日 2011年6月1日

◆解説
  吉川元春館跡から北東へ2キロほど登った丘陵地にあり、元春の嫡男元長が建立したといわれている。
【写真左】万徳院跡
 ガイダンスホール青松(下段参照)が入口付近に建てられ、その奥に写真の石碑が建つ。






現地の説明板より・その1

“史跡吉川氏城館跡 万徳院跡

 万徳院跡は1575(天正3)年ごろに吉川元長(毛利元就の孫)が発願して建立した寺院の跡です。境内地には本堂や庫裡などの礎石建物跡や庭園があります。
 周辺には万徳院と関係がある礎石建物や墓があります。このうち境内地と参道周辺を発掘調査し、整備しています。
 指定年月日 昭和61年8月28日
         平成9年9月2日追加指定
 指定面積 110,207㎡
       千代田町教育委員会”
【写真左】ガイダンスホール及び駐車場付近
 中央の建物がガイダンスホール青松で、この写真の奥に万徳院がある。

 ガイダンスホールや駐車場などが設置され、整備が行き届いている。



現地の説明板より・その2

“ 万徳院は吉川元長が宗派にとらわれない「諸宗兼学」の寺として1575(天正3)年ごろ建立しました。

 東西80m、南北45mの境内からは本堂、庫裡、位牌を納めたと考えられる霊屋(たまや)、風呂屋、番所、門などの礎石建物跡や、大小の庭園跡、水道跡などが見つかりました。発掘調査によって、寺院の建立で発揮された当時の人々の多様な技術が明らかになりました。
【写真左】上から見た写真
 入口から直線で参道が伸び、境内地へと向かう。














 建立当時の建物は本堂と庫裡の北半分でしたが、1587(天正15)年、元長が没すると菩提寺とするために大改修を行ったようです。その後、1600(慶長5)年に吉川氏が山口県岩国市に移封されると、同時に万徳院も移転しました。
     千代田町教育委員会”
【写真左】参道から境内地を見る。
 参道周辺には庭園風の小川が流れ、野花が咲いていた。
【写真左】境内建物配置図
 中央に門と番所が置かれ、これとは別に右(北側)には通用門が設置されている。
 中に入ると、中央に本堂が置かれ、庫裡が北側に接続して建っている。

 また、南側には庭園が作庭され、本堂裏(西)にも小庭園及び、風呂屋などがあった。

 水道などはこの風呂屋の西から引き込み、庫裡の西側隅に枡があるので、風呂屋、及び小庭園、庫裡などから出た排水をこの枡にまとめていたようだ。その近くには東に向かって小川があるので、この川に流していたのだろう。
【写真左】門の付近
 写真の右方向へ進むと通用門がある。

【写真左】東側に伸びる石積み
 前稿「吉川元春館」と非常によく似ているが、規模はこちらの方が少し小さい。
【写真左】小庭園近くの礎石
 庭を眺めるための建物跡だったのだろう。
【写真左】本堂跡付近
 さすがに本堂とあって、礎石は大きなものが使用されている。
【写真左】庭園跡
 南側にある庭園で、石の配置などはおそらく当時のままだろう。