2012年4月27日金曜日

北田城(広島県広島市安佐北区白木町井原)

北田城(きただじょう)

●所在地 広島県広島市安佐北区白木町井原
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 井原氏か
●形態 丘城
●高さ 標高195m(比高35m)
●登城日 2011年2月25日

◆解説
北田城は広島市安佐北区の北東部井原にあって、北隣の安芸高田市の向原町と接する位置に築かれた山城である。
当城に関する詳細な記録はあまりないが、説明板にもあるように当城南方にあった鍋谷城主・井原氏と関連する城と考えられている。
【写真左】北田城の東にある大堀切側から櫓台を見上げる。










現地の説明板より

“本城址は神之倉山山系から北西にのびる低丘陵の先端にあり、郭の構成は主郭から北西方面に大小8郭を並べるが、中途から2方向に分かれてY字型を呈している。


また、主郭の後方(現在、道が通っている場所)には大堀切を置いて尾根を分断している。
城主については不明であるが、鍋谷城主井原氏関連の城とも考えられている。
 参考文献「山城」”
【写真左】縄張図
 現地に設置された遺構配置を主体とした縄張り図で、小規模な山城ながら密度の高い遺構を持つ。
【写真左】大堀切
 冒頭で示した東麓部を走る林道となっている箇所で、左側が城砦だが、右の尾根にも竪堀跡が少し残っている。


 駐車は写真にあるように、奥に向かったところに少しスペースがあるので、1台は確保できる。
【写真左】西側の斜面
 登城するにはこの西側に道が設置されている。比高はあまり高くないものの、切崖としての要害性は十分あるだろう。
【写真左】本丸から東方に櫓台を見る。
 登るとすぐに本丸にたどり着くが、その奥(東方)には、櫓台がある。


 本丸の規模は幅15m前後で、奥行は25m前後か。平坦な仕上げとなっている。
【写真左】櫓台から本丸を見る。
 櫓台は3~4m四方の楕円型で、大きくはない。
 このあと、本丸から下の方に向かう。
【写真左】本丸から下の郭を見下ろす。
 本丸から下の郭を見ると予想以上に高いことが分かる。おそらく10m前後あるだろう。


 下の郭は説明板にもあるようにY字に分かれた配置をとり、中央部にはなだらかな窪みを持たせている。
【写真左】西側の郭の土塁
 下の郭のうち、西側部については保存度の良好な土塁が残る。


 幅・高さとも1m前後のもので、この左下の麓からの侵入を防いでいる。
【写真左】本丸直下の郭部の土塁
 本丸直下の郭の東西には土塁が連続し、さらにその間を3本程度の小土塁が区画している。


 この郭から簡単に本丸へ向かうことを防ぐ目的としているものだが、連続する堀をこれだけ細かく区画しているのも珍しい。
【写真左】Y字型の郭
 郭として定義はしているが、防御性を考えると、当時はもっと深く掘った空堀もしくは巨大な竪堀ではなかったかと思われる。


 竪堀に入った敵を左右の高い郭段から敵を攻撃する際、有利となるからだ。
【写真左】北田累代之墓
 Y字郭の東に延びた先端部に設置されたもので、大正12年5月建立とされ、「酒井某」と刻銘されている。


 写真にみえる散在した石は、おそらく五輪塔だったものだろう。酒井氏がそれらをまとめて新たに供養したと思われる。




神之倉山

ところで、北田城の周りにはこのほか、南方には鍋谷城・見張城及び井原氏居館跡などがあり、おそらくこれらも井原氏に関連したものだろう。

【写真左】神之倉山遠望
 写真中央部には、ハングライダーのテイクオフする場所がある。

このうち、今稿の北田城と鍋谷城・井原氏居館跡などは、いずれも神之倉山の西麓にあり、これら諸城の後陣として神之倉山が戦略的にも含まれていたと思われる。
当然情報連絡のルートとして当山が大きな役目を負っていたことは十分推察できる。
【写真左】神之倉山山頂部
標高561mの地点。

2012年4月26日木曜日

三ツ城(広島県東広島市西条中央7 三ツ城古墳)

三ツ城(みつじょう)

●所在地 広島県東広島市西条7 三ツ城古墳
●指定 国指定史跡
●形態 丘城
●高さ 237m(比高10m)
●城主 平賀広相
●登城日 2011年7月27日
●備考 三ツ城古墳

◆解説
前稿でも述べたように東広島市には多くの古墳が点在している。今稿の三ツ城はその中でも代表的な古墳でもある。古墳が城砦として使われたものとしては、今月とりあげた美作の「美和山城」がある。
【写真左】三ツ城古墳・第1号古墳
 前方後円墳で全長92m






従って、史跡名でいえば「三ツ城古墳」といい、城砦というよりも「古墳」の扱いが一般的となっている。このため、現地にある説明板には城砦の記述はまったくなく、山城ファンとしては残念だが、致し方ないだろう。

所在地は前稿「鏡山城」と同じく、東広島市内にあって、鏡山城から北東へ約2キロの三ツ城小学校の南・三ツ城公園内にある。
【写真左】2号古墳
 中央左のお椀型のもの。











現地の説明板より

“史跡 三ツ城古墳
史跡三ツ城古墳は、丘陵を利用して造られた3基の古墳からなる古墳群です。
第1号古墳は、かぎ穴のかたちをした全長約92mの前方後円墳で、広島県内では最大の古墳です。墳丘は3段に築かれ、斜面は葺石で覆われています。それぞれの段には、円筒埴輪と朝顔形埴輪が約1,800本立て並べられています。後円部の頂上には、箱型石棺を中に入れた石槨が2基と、箱型石棺が1基設けられています。
【写真左】3号古墳


 葬られた人は、大きさなどから考えて、安芸の地域をまとめていた大豪族と思われます。
 第2号古墳は、お椀を伏せたかたちの円墳で、斜面には葺石がありますが、埴輪はありません。


 第3号古墳は、楕円形の古墳です。尾根と第2号古墳とを分ける溝の中に造られています。墳丘の中央には箱型石棺が1基あります。


 三ツ城古墳は、昭和26年(1951)に最初の発掘調査が行われ、戦後における広島県の古墳研究の出発点のひとつとなりました。この古墳は、この地域の歴史を考えるのに、欠くことのできない重要な文化財です。


 このため、昭和57年(1982)6月3日に史跡に指定されました。東広島市では、これらの古墳を、永く保存し活用していくため、昭和62年(1987)度から5年にわたり古墳整備のための調査をすすめ、平成2年(1990)度から平成5年(1993)度にかけて、文化庁の史跡等活用特別事業により、古墳が造られた当時の姿に復元しました。また、古墳以外の部分は、建設省の補助事業により、公園として整備しています。”
【写真左】周辺部
 公園として整備されたため、戦国期当時の状況は全く不明だが、この写真の右側のような底部は濠として使われたのかもしれない。





平賀氏

当城にかんする史料はほとんどなく、城主が「平賀広相」であったという記録が残る。

平賀氏については、以前「平賀氏の墓地」・「御薗宇城」(2010年6月18日投稿)で既に紹介しているが、同氏は出羽国(秋田県)平賀郡の出で、初期には現在の東広島市高屋町高屋堀に「御薗宇城」を築き、文亀3年(1503)には、白山城に移っている。
【写真左】3号墳の後部
 郭跡にも見えないことはないが…。

平賀広相(ひろすけ)は、戦国期当初大内義隆につき、その後毛利元就に属した。

なお、広相は南北朝期、安芸高屋保を本拠とした平賀直宗の後裔である。

2012年4月24日火曜日

鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)

鏡山城(かがみやまじょう)

●所在地 広島県東広島市西条町御薗宇
●別名 西条城
●築城期 長禄・寛正年間(1456~66)
●築城者 大内氏
●形態 山城
●遺構 郭・井戸・土塁・竪堀・堀切等
●高さ 標高335m・比高110m
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年7月27日

◆解説(『日本城郭体系第14巻』等)
 鏡山城は現在の東広島市に所在する国指定史跡の城砦である。
 東広島市は、市街地を訪れるたびに大きな建物が増えてきている。旧西条盆地という広大な平坦地を持ち、近年その良好な地理的条件から近代的な建物が次々と建ち、さらに隣接自治体との合併により巨大な都市へと変貌を遂げている。

 そうした近年の姿とは別に、当地は往古から人々の生活があったらしく、弥生時代を中心とした多くの遺跡が点在する都市でもある。
【写真左】鏡山城
 本丸付近の大岩
 人為的に石積みされたものかもしれない。








現地の説明板より

“国史跡 鏡山城跡
  平成10年1月14日指定

 南北朝から戦国時代にかけて、この地域は「安芸国東西条」と呼ばれ、山口の守護大名大内氏の所領でした。大内氏は、九州博多を有して海外貿易に力を入れていました。

 鏡山城は、大内氏が安芸国支配の拠点とし、あわせて瀬戸内海中央部を押さえる目的で築いたものです。大内氏は、大内氏と海外貿易をめぐって対立する細川氏との接点となっていたため、鏡山城をめぐって激しい戦いが行われました。
【写真左】鏡山城遠望
 鏡山城周囲は、「鏡山公園」として整備され、地元市民の憩いの場として活用されている。








 戦国時代に入ると、出雲尼子氏が勢力を伸ばし、大永3年(1523)、鏡山城を攻め落とします。同5年(1525)、大内氏は鏡山城を奪い返しますが、その拠点は盆地西方の杣城(そまじょう)・槌山城(つちやまじょう)に移され、鏡山城はその役割を終えました。

 城跡は、標高335mの山頂に位置する御殿場と呼ばれる郭を中心に、約300m四方に広がる大規模なもので、ダバ(段場カ)と呼ばれる郭や、堀切・畝状竪穴群・石塁などからなり、中でも井戸跡は5か所もあり、多くの人が城内にいたことをうかがわせます。

 平成10年1月14日、室町時代を代表する地域の拠点的な城跡として、国史跡に指定されました。

  社団法人 東広島市観光協会”
【写真左】縄張図
 東西に延びた郭群(1郭・2郭)を中心に、東に5郭、南に3・4郭を配し、さらに下には南郭群を置き、北には数条の竪堀を設置、西には南北に巨大な2条の堀切(竪堀)を構えている。



大内氏

 鏡山城の築城期は冒頭で示したように、長禄・寛正年間(1456~66)とされているが、大内氏が当地を治めていたのはこれより以前とされているので、『城郭体系第13巻』でも指摘されているように、室町初期には築城されていた可能性が高い。

 鏡山城が所在する地域は、旧東西条といわれ、鎌倉初期は国衙領であったが、その後東寺領となり、南北朝期には大内弘世(霜降城(山口県宇部市厚東末信)参照)が当地を事実上武力制圧しているので、鏡山城もすでにその頃築かれていた可能性もある。
【写真左】堀切
 南郭群にあるもので、大分埋まっているようだ。









大内政弘

 さて、この長禄・寛正年間を境に応仁の乱が勃発することになるが、政弘は義父にあたる西軍の山名宗全に味方し、応仁元年(1467)8月、政弘は摂津国において東軍を破り入京、その後約10年の間畿内において戦うことになる。

 文明9年(1477)10月、政弘は東軍に降り、幕府は周防・長門・豊前・筑前の四国を政弘に対し守護職として安堵したが、その際この安芸東条・西条及び、石見も安堵されている。

 政弘はこのようにほとんど在京での活躍が多いが、鏡山城での戦いは細川氏と対立した動機からのものが多いようだ。
【写真左】4郭
 南東部に突出した郭で、大手門が築かれていたとされている。この上部には3郭があり、広い通路と連絡されている。





戦国期

 説明板では尼子氏が鏡山城を攻め落としたのは大永3年(1523)となっているが、「毛利文書」によれば、その前年(2年)に、尼子経久と毛利元就が鏡山城を攻略し、同年7月5日、経久はこの日出雲国に凱旋した、と記されている。

 尼子氏と大内氏の戦いは、永正14年ごろからすでにその兆候が現れ始めている。そして大永元年(1521)9月、大内義興(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)は石見大麻山にて尼子経久と戦火を交えた。おそらくこの戦いが大内・尼子の最初の本格的な戦いと思われる。なお、この戦いは直ぐに幕府の足利義晴が調停に入り、停戦した(「安西軍策」)。
【写真左】3郭
 通称「馬のダバ」といわれている箇所で、東西30m、南北11mの規模を持つ。
 西側に土塁と竪堀、南側に畝状竪堀群が配置されている。


 「馬」とはこの3郭が城の南側で、干支でいう午(うま)からついたものという。


 しかし、それもつかの間で、大永4年(1524)大内氏と尼子氏の鏡山城での戦いは最も激しくなった。同年5月、義興は息子義隆を伴って安芸国に入り、尼子氏が押さえていた属城を次々と攻撃していく。そうした最中、石見国では益田氏と、三隅・福屋両氏の争いが激化、大内氏は自らの戦いも行いながら麾下の内紛調停も行わなければならなかった。

 同年7月になると、今度は尼子氏は毛利元就と連合し、再び鏡山城を攻めたてた。翌5年6月、義興の将・陶興房は、安芸国米山城(こめやまじょう:東広島市志和町志和東)の天野興定を落とし、服属させた。そして興房はこの天野興定と組んで、同国志芳荘で戦った。

 以後、義興が没する享禄元年(1528)ごろまで鏡山城を中心とした戦いが続くが、義興が亡くなった後はしばらく直接の戦いはいったん収まる。
【写真左】「中のダバ」
 3郭から上がると通称「中のダバ」といわれる郭に出る。


 この西側に主郭とされる壇があり、事実上本丸の一部と考えられる。
 東西に約60m前後、南北幅20m前後のもので、平坦な仕上げとなっている。
【写真左】「中のダバ」から先ほどの「馬のダバ」を見下ろす。
 高低差もかなりあり、切崖も効果をもったものである。
【写真左】2郭から1郭方面を見る。
 奥に見える高台が1郭になるが、手前の2郭の方がやや長く、規模が大きい。


 右に見える四角いものは井戸跡(下の写真参照)。
【写真左】2郭から東方下に「下のダバ」を見る。
 3郭から東に犬走りのような郭を抜けると5郭(下のダバ)が見える。


 2郭との高低差はかなりあり、ひょっとして10m程度あるかもしれない。このため手前に転落防止用のロープがかけられている。


 なお、この下のダバをさらに下ると、東西100m、幅10m前後の規模の「屋敷跡」があったといわれている。
【写真左】井戸跡
 中の方まで確認はしていないが、地形から考えると、相当深いものだったものと思われる。


 なお、この井戸跡とは別にこの近くにも大きなくぼみ(穴)が残っているが、これも井戸跡だったかもしれない。
【写真左】1郭から2郭を見る。
 2郭と1郭との段差は約3m前後ある。この1郭は通称「御殿場」といわれ、いわゆる本丸に当たる。
【写真左】1郭(本丸・御殿場)
 東西30m×南北11m。西側にむかうと尖った形となり、その下には堀切を介して「石門」があったとう。


 なお、本丸には礎石建物があったといわれている。
【写真左】本丸から北に「陣ヶ平」を見る。
 本丸からの眺望は東西は期待できないが、南北方向は確保できる。


 この写真の看板越しにみえる山は、おそらく向城として使われたと思われるが、「陣ヶ平(城)」といわれた城砦。
【写真左】北郭群へ向かう。
 次に1郭と2郭の取次部から降りる道があり、ここから北麓にある北郭群に降りていく。
 途中に再び別の「井戸跡」がみえる。
【写真左】畝状竪堀群・その1
 北郭群の見どころは何と言っても「畝状竪堀群」である。


 登城したこの日は、最近伐採整備されて間もないころだったこともあり、遺構がはっきりと確認できた。
 おそらく10条ぐらいはあるかもしれない。
【写真左】畝状竪堀群・その2
 南東麓の竪堀から上を見たもので、上部は5郭の切崖。

2012年4月20日金曜日

尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)

尼子義久の墓(あまごよしひさのはか)

●所在地 山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺
●探訪日 2010年11月5日

◆解説(参考文献『尼子盛衰人物記 妹尾豊三郎編』等)
 長門国の山城が続いたところで、今稿は永禄年間、出雲尼子氏の居城月山富田城が落城したとき、時の城主であった尼子義久が眠る墓を紹介したい。
【写真左】尼子義久の墓
 宝篋印塔の形式を持つものだが、義久が没した慶長年間となると、墓の様式も戦国期と比べると大分変化している。





 場所は山口県の萩市の東隣阿武町奈古にある大覚寺という寺院にある。

現地の説明板より

“尼子氏の奈古(なこ)移住と大覚寺


 山陰の雄 尼子義久は永禄9年(1566)に毛利氏の軍門に降り、安芸長田の円明寺に幽閉。許されて一族が奈古に来たのは、関ヶ原敗戦後、慶長年間に入ってからと思われる。 
 義久は慶長15年(1610)に没し、義久の法号によって、それまでの光応寺は大覚寺と改められた。義久、秀久の墓は、本寺の裏山に建てられている。
   阿武町”
【写真左】大覚寺山門
 大覚寺はJR山陰線奈古駅から北東へ約1キロほど向かった阿武町奈古の町の北方にある旧道沿いに建立されている。





尼子義久

 尼子義久についてはこれまで平田城・その2(島根県出雲市平田町)宇山城(うやまじょう)跡(島根県雲南市木次町寺領宇山)満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2で度々紹介してきているが、尼子晴久の嫡男で、晴久急死のあと跡を継いだ。

 毛利元就が本格的に月山富田城を攻め始めるのは、永禄5年(1562)ごろで、このとき義久は若干22歳と若かった。
【写真左】大覚寺境内
 写真中央にある樹木は、県指定天然記念物となっている「ビャクシン(白杉)巨樹」。
 イブキの変種で、地元の方言では「ビャクタン」ともいわれているという。


 義久の墓は、この写真でいえば左側の方にある。


 永禄9年(1566)11月、義久はじめ富田城に籠る尼子方はついに毛利方に対し、抗戦の停止を申し出ることになった。

 月山富田城が落城した経緯はこれまでも紹介しているので省くが、その際の処置については尼子方も毛利氏に対しいろいろな条件を付帯させている。つまり、尼子方にとっては「和睦」の形を取ろうとしていたわけである。

 そしてその間両者との交渉役に当たったのが、斐川高瀬城主であった米原綱寛である。綱寛は元々尼子方に属し、その後毛利方に鞍替えしていた。ちなみに、この後山中鹿助が尼子再興の旗を挙げたとき、再び尼子方に戻ることになる。
【写真左】灌漑用水池に建つ石塔
 境内の西側には灌漑用水池があるが、その中央にはご覧のような変わった石塔が立っている。
 一瞬この石塔が義久の墓と思ったが、よく見ると周囲に小さな地蔵がぎっしりと取り囲んでいる。


 何かの目的で設置された宝篋印塔形式の供養塔なのだろうが、ご住職不在のため、確認していない。


 尼子方富田城の使者であった立原源太兵衛久綱は、綱寛の斡旋で直接毛利方の吉川元春・小早川隆景と交渉することになった。毛利方(元春・隆景)らは伝聞によれば、尼子方が富田城を明け渡すならば、「石見銀山に五千貫の土地を与える」と伝えたという。この条件を義久は承知し、正式に明け渡しの段取りが整ったといわれる。

 しかし、実際には石見銀山での所領宛行(替地)はなく、尼子一族の決別が待っていた。主だったもの69名は一旦西方の杵築(大社)まで移動し、そこで別れの宴が開かれた。69名の中には義久はじめ、山中鹿助・立原久綱・三刀屋蔵人らがいた。
【写真左】尼子義久の墓・その1
 正面から見たもの。
 なお、大覚寺には末弟・秀久の墓も当地にあると記されていたが、確認できなかった。






 ところで、義久には弟二人がいた。倫久(ともひさ)と秀久である。義久らに随従が許されたのは、以下の通りである。

(1)義久随従者
  家老:大西十兵衛
 卯山(宇山)右京介・立原備前守・本田与次郎・大西新四郎・馬木彦右衛門・力石兵庫介・福頼四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾宗五郎・大塚勝五郎・正覚寺等

(2)倫久随従者
  家老:多賀勘兵衛
 長谷川小次郎・山崎宗右衛門・松井勘左衛門等

(3)秀久随従者
  家老:津森四郎次郎
 秀久については家老以外の者の記録がないため不明だが、義久と行動を共にしていることから、義久の他の家臣が兼ねていたのだろう。
【写真左】尼子義久の墓・その2
 墓の前には尼子氏家紋である「平四つ目結」の石造塀が施されている。




 

 なお、義久の正妻については、同行が許されず、後に阿佐の観音寺で黒髪を落とし、「宗玉禅尼」と名乗り義久の現世菩提を弔ったといわれ、当寺(観音寺)に彼女の墓があるといわれている(「尼子盛衰人物記」)。

 しかし、これとは別に現在島根県出雲市にある同名の寺院(観音寺)にも義久正妻の墓が建立されている。
【写真左】尼子義久の妻の墓・その1
 所在地 島根県出雲市観音寺


 伝承では、義久の妻は近江国の京極修理大夫の子息・五郎という人物の姫だったといわれ、杵築で別れたあと、当地出雲の観音寺で出家し余生を送ったともいわれている。

近江・小谷城・その3(滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山)参照)

【写真左】尼子義久の妻の墓・その2
 現地の説明板より
“円光院 宝篋印塔
 戦国時代の武将・尼子義久公の室・円光院殿の墓で、永禄9年(1566)毛利氏に降り安芸に護送された公と悲しい決別の後、黒髪を落とし仏門に帰依されたが、慶長15年(1610)没せられた。
(四絡まちづくり推進協議会)”




 さて、その後義久三兄弟は最初安芸長田(広島県向原町)の円命寺に幽閉され、それから16年後の天正16年(1588)、義久は尼子家の家宝であった名刀・荒身国行(頼国行)を毛利輝元に献上する。

 その効果があったものか、翌年には幽閉を解かれ、毛利氏の客分として処遇を受け、志路の根の谷(広島県高田郡白木町大字白路)に館を宛がわれ、570石を与えられた。

 慶長元年(1596)、義久は終の棲家となる長門に移され、阿武郡奈古に入った。ここで1292石を給せられる。しかし、このころから病弱の身となったため、同郡嘉年村五穀禅寺に入山、「友林」と号し仏門に入った。そして後には、同郡奈古郷上浴において、しばらくは平穏な余生を送ったが、慶長15年(1610)8月28日、当地において逝去した。享年70歳。

 長門にあった義久は、亀井茲矩(慶長17年没)と同様、尼子氏一族の中で最も長く生きながらえた一人となったわけである。
【写真左】義久の墓から北東方面を見る。
 二度と出雲の地に戻ることのなかった義久にとって、長門のこの地で去来するものは何だっただろうか。

2012年4月19日木曜日

霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その2

霜降城(しもふりじょう)・その2

●所在地 山口県宇部市厚東末信
●登城日 2012年1月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
今稿は前稿に続いて、本城を取り上げる。
「前城」を過ぎ「本城」に向かって北に進むコースとなるが、ここから一気に急勾配の谷となって降る。
【写真左】前城を過ぎて本城に向かう。
 北側の面は南側の登り道とは極端に違って急勾配の降りとなる。






本城にあった説明板より

“霜降城(本城)
 指定年月日 昭和43年7月4日


 本城は、南に前城。北に後城(南峰、北峰の二峰)、西に中ノ城を配した中心の城であり、霜降山の最高地点(250.2m)にあります。頂上部の面積は約1300㎡で、これを取り巻くように西側に空堀が掘られ、そこから出た土砂は、空堀の前面に盛られ、土塁を形成しています。空堀は、上部幅15m、深さ4m、長さ42mにも及び大型なものです。
【写真左】分岐点・その1
 本城に向かう途中にある分岐点で、奥に向かうと本城へ、右に降りていくと「持世寺」方面に繋がる。


 土塁は、空堀に沿って高くそびえ立ち、さらにその下部には石垣を築いた崖状の土塁が存在します。これらは霜降城の中でも最大規模の遺構です。


 この他に、北側に突出した形の平坦地があり、まだ遺構は見つかっていませんが、西側(末信方面)からの攻撃に備えたものと考えられます。


 200m級の四連峰に構築された城の大きさは、山口県内でも最大級であり、南北朝時代の山城の遺構を明らかに残している数少ないものとして学術的にも貴重な史跡です。(以下は前稿と同文のため省略)”
【写真左】分岐点・その2
 さらに進むと、本城の南麓部に至るが、この箇所で、右へ向かうと「後城」へ、また左に向かうと末信の地区へ降りていく。


 この日は、時間がなかったため、後城は省略し、そのまままっすぐ「本城」へ向かった。
【写真左】本城・その1
 本城が近づくにつれて傾斜がきつくなっていく。登城コースは東側から回り込む道がついており、この写真は2,3の腰郭を通り過ぎて、空堀東端部側に設置されたもの。
【写真左】本城・その2 空堀
 幅約15m、深さ4m、長さ42mという大型のもので、左側が土塁となっており、土塁を超えた下段面との比高は、当然ながら高く7,8mはあるだろう。


 右側が本丸となる。
【写真左】本城・その3 主郭
 史料によれば、本丸の規模として主郭頂上部面積は1600㎡で、三角点を中心に2段に分かれている。
【写真左】本丸・その4 標柱
 主郭の隅に設置され、昭和42年7月4日指定とある。
【写真左】本丸・その5 巨石その1
 本城にはこうした巨石が部分的に点在している。
【写真左】本丸・その6 巨石その2
 こうした巨石は主に主郭の周囲にあることから、当時これらの石をつかって主郭が構成されていたのだろう。


 またこの写真は先ほどの空堀上端部にあったもので、より空堀としての要害性を高めていたものと思われる。
【写真左】本丸・その7
 主郭からさらに北に向かって2,3段の腰郭が伸びている。


 先に行くほど尾根幅は細くなり、特に東面は天然の要害をもっている。
【写真左】再び空堀
 主郭から北の郭へ降りて、西に回り、再び南側の空堀へ出る。


 なお、西側は帯郭状の形状だったものと思われるが、大分崩落し原型をとどめていない。