2012年3月31日土曜日

備中寺山城(岡山県高梁市川面町)・その2

備中寺山城(びっちゅうてらやまじょう)・その2

●所在地 岡山県高梁市川面町
●登城日 2012年3月28日

◆解説
 3月20日に当城麓を確認してから8日後の28日、今度は登城を目指して向かった。
 寺山城の登城コースは、車で向かう場合二つある。一つは、西側の谷を上がり途中で鋭角に接続する枝線があり、その道を進む。もう一つは、東側から向かう道もあるが、現在途中で道路の改修工事もあり、大分大回りすることになる。

 ただ、道の精度はこちらの方がいい。どちらを選んでも最終的に寺山城の北側に設置された駐車場にたどり着ける。
【写真上】備中寺山城遠望
 南麓の高梁川を挟んで国道180号線から見たもの。




戦国期

 現地の説明板にもあったように、当城は元亀年間には成羽城主・三村元親鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)に攻められ、天正の備中兵乱(1574~75)においては、毛利軍が陣を張ったとある。

 室町期備中国の守護は細川氏であったが、16世紀に入ると同氏の支配力は衰退し、地元の土豪・農民を中心とした土一揆が頻発、また国人相互の争いも増え、不安定な様相を呈してきた。
【写真左】駐車場付近
 寺山城の背後(北側)に整備された駐車場がある。東西どちらからの道でもアクセスできるが、幅員は車1台分なので、対向車が来た場合、ガードレールがほとんどない道なので注意が必要。

 この写真にある位置から約300m徒歩で向かうと、城域に達する。


 そうした中、守護に変わって着実に力を蓄えたのが、守護代だった木村山城主・上野氏、備中・猿掛城主・荘氏幸山城主・石川氏らである。

 その後、成羽の土豪で鶴首城主・三村氏、備北の楪城主・新見氏、塩城山城主・多治部氏などが急激に台頭してくる。

 三村元親は永禄10年(1567)に、大軍を率いて備前国明禅寺明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)参照)において、宇喜多直家を主力とする浦上氏と戦うも、寄合軍団の域を抜けない統率力の低さから、敗戦してしまった。しかし、その後三村氏は毛利氏の支援を受け、備中松山城を拠点として回復しているので、寺山城はこの段階で三村氏の勢力下に入ったと思われる。
【写真左】城域の入口付近
 この場所からすでに右側に土塁が見える。寺山城を構成している東西に延びた尾根群と、北側から伸びてきた尾根との接合部に当たり、搦手になるのだろう、意識的に両側を削り狭めている跡がうかがえる。



 そして、最終的には毛利氏が備中を押さえるにあたって松山城を拠点としているので、寺山城は北方の守りを固めるための支城としての役割を持っていったと思われる。
【写真左】堀切
 上記の入口から進んで行くと、ご覧の堀切が出てくる。
 写真右側が本丸・西の丸遺構群で、左側に向かうと東の丸及び、馬場跡につながる。

 なお、この堀切をそのまま進むと南側の竪堀・環濠に接続するので、切通的な機能も併せ持っている。


 最初に左側(東)の東の丸・馬場跡コースに向かう。
【写真左】東の丸・その1
 この辺りは尾根幅は狭く、北側は天然の要害を持ち(犬走りのようなものはある)、南面にはご覧のような竪堀状のものが見られる。


 ただ、この竪堀は下に向かって掘られたものでなく、尾根沿いに並行しているラインが長いため、近代戦争で使用されたような塹壕のような役割があったのではないかと思われる。
【写真左】東の丸・その2
 堀切
 東の丸は東西に延びる尾根筋の途中にこのような堀切を設けている。向こう側を登りきると、今度は南に向かってかなり長い郭が伸びる。
【写真左】東の丸・その3
 南に伸びる一段目の郭
 長さ約30m弱のもので、この突端部の下にはさらに3段程度の郭段が控えている。
【写真左】東の丸・その4
 南に伸びる2段目の郭
 写真に見える川が高梁川で、左側が下流となり備中松山城へ向かう。右に向かうと新見に至る。麓は川面の町並み。
【写真左】東の丸・その5
 上記の郭から西方に本丸を見る。
南に突出した3段目の郭から見たもので、この位置から本丸まではおよそ300m程度は離れている。
【写真左】馬場跡・その1
 先ほどの東の丸の3段目の郭から東面に走る帯郭をたどって引き返し、馬場跡に向かう。

 東の丸と馬場跡との高低差は約20m程度あり、現地には階段などは設置されていないため、滑りながら降りていく。
 写真中央上に見えるのが馬場跡。
【写真左】馬場跡・その2
 東の丸を降りた地点で馬場跡の西端部に至るが、この北側に先ほど紹介した犬走りが見える。

 この犬走りをそのまま向かうと、寺山城の北側入り口に至る。
【写真左】馬場跡・その3
 幅10~5m、長さ約100mの規模で、先端部は1m程度高くなっており、櫓台の施設があったものと思われる。

 当城の東端部にあたることから、東方及び北方を扼する役目があったものと思われる。
【写真左】馬場跡・その4
 馬場跡から振り返って東の丸を見る。
馬場跡から再び東の丸へ戻ろうとしたところ、予想以上の高さと勾配であることを改めて実感した。
 




次稿では、本丸と西の丸を中心に紹介したと思う。

2012年3月30日金曜日

備中寺山城(岡山県高梁市川面町)・その1

備中寺山城(びっちゅうてらやまじょう)・その1

●所在地 岡山県高梁市川面町
●築城期 平安後期(1159~67ごろ)
●城主 難波六郎経俊、三好阿波守尊春、毛利氏など
●高さ 310m(比高200m)
●遺構 郭・堀切・竪堀・土塁など
●登城日 2012年3月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今年(2012年)3月20日、四国の神社仏閣・山城探訪を終えて、いつもなら高速道路を使って帰るのだが、ワンパターンとなった岡山・米子自動車道の道中は、いささか食傷気味にもなっていたこともあり、高梁川と並行して走る国道180号線を使って帰ることにした。

 備中松山城(岡山県高梁市内山下)の西麓を過ぎ、鳴門大橋というところを超えた途端、真正面に伐採された3つの頂をもつ連山が現れた。
【写真左】寺山城遠望
 南東麓の川面駅付近から見る。


次稿以降で現地遺構を紹介する予定だが、寺山城は三つの峰と、右側に見える低い尾根筋を使った馬場跡を含め、4つの区域から成り立っている。



気になったので、少し過ぎたところで対岸の旧道を使ってUターンし、JR伯備線の川面(かわも)駅に車を止めた。すると、ホームの奥に四角い立て看板が見える。

【写真左】ホーム側に設置された看板

「川面の町の背後にそびえる 寺山城跡
 製作 平成22年度川面小学校卒業生一同」

とある。



 すでに夕方近くになっていたが、「これは見ておかなくては」と、できるだけ近くに向かうことにした。川面駅からさらに南東に進むと踏切があり、これを超えたところにさらに立派な看板が見えた。

詳細な縄張図を添えた「寺山城跡」の看板である。

“寺山城跡


 川面の町の背後にそびえる寺山城。
 鎌倉時代の難波六郎経俊、室町時代の三好阿波守尊春らの在城を伝える。
 天正の備中兵乱(1574~75)では、毛利軍が陣を張り、備中松山城を攻めたという。


 城域は東西およそ650mに及び、備中でも有数の大規模山城である。
 山上には多数の郭や堀切、土塁などが今も残り、堅固な城の様子を伝えている。
【写真左】寺山城の看板




寺山城の縄張り


 中世の山城は、山頂や尾根上を中心にして、郭と呼ばれる平坦面を造成し、そこに建物を建てたり、兵(あるいは村人)を集めたりして敵に備えた。

 また、敵の侵入を妨げるため、堀切や土塁などを設けて防御を固めた。これらの施設の構成、配置のあり方を「縄張り」と呼んでいる。”



 『日本城郭体系第13巻』によれば、説明板にもあるように、難波六郎経俊という武将が城主であったという。おそらく築城者も彼難波経俊と思われる。

難波六郎経俊

 平治元年(1159)12月9日、源義朝・藤原信頼らは、前年譲位し院政を始めた後白河上皇の院御所を襲い、上皇を内裏に移し天皇とともに幽閉した。熊野参詣にあった平清盛は急ぎ京へ戻り、義朝・信頼を破り、上皇と天皇を救った。これが世にいう平治の乱である。

 このとき、平家方の平重盛に随従していたのが、当時備前を本拠としていた難波二郎経遠・三郎経房兄弟で、隣国備中からは妹尾太郎兼康がいた。
【写真左】撫川城
所在地 岡山県岡山市北区撫川(撫川公園)








 妹尾太郎兼康については、備中・撫川城(岡山県岡山市撫川)でも紹介しているが、最期は木曽義仲に討たれることになる。

 今稿「備中寺山城(以下「寺山城」とする」の城主とされる難波六郎経俊は、名前から考えて、この難波二郎・三郎らの兄弟と思われ、六男だったものと思われる。

 このことから、平治の乱による論功行賞によって、難波兄弟のうち六男・経俊については、この備中川面の地が安堵されたと想像できるが、具体的な事例からいえば、つぎに述べる動きのほうがより信憑性が高い。
【写真左】「かわもの昔 見て歩き」と題された川面町の史跡案内図
 この案内図には、寺山城の他に山城としては、「城平山城」(鴨谷城平山)も記され、築城者は近くに、六郎屋敷・六郎谷などという地名が残っていることから、寺山城と同じく、難波六郎経俊であったといわれている。


 このほか、元亀年間に成羽城主・三村元親に攻められ、千人の死者が出たことから、「千黒塚」といわれる塚が記されている。


 それは、平重盛が仁安2年(1167)に権大納言となってから、東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討の宣旨を受ける(「兵範記」)ことになるが、おそらくこの中の山賊の追討を任されたのが経俊と思われ、備中に移住していくことになったのではないかと考えられるからである。

 次稿では戦国期の様子と併せ、寺山城の遺構を紹介したいと思う。

2012年3月28日水曜日

星居山の宝篋印塔(広島県神石高原町阿下)

星居山の宝篋印塔(ほしいやまのほうきょういんとう)

●所在地 広島県神石高原町阿下1091
●星居山高さ 標高835m
●建立時期 寛弘2年(1005)
●備考 孝徳天皇御陵所・性空上人御廟所
●探訪日 2011年11月3日

◆解説(参考資料「神石高原町HP」等)
このところ山城より墓石関係が続くが、今稿も備後(広島県)の神石高原町にある星居山頂上に建立されている宝篋印塔を取り上げることにする。
【写真左】宝篋印塔・その1
 星居山のほぼ頂部に建立されている。









現地の説明板より

“星居山と宝篋印塔


 郡内最高峰(835m)の星居山は、霊場として多くの名僧修験者の足跡を残している。
 孝徳天皇の御陵所であった。「宝篋印塔」は性空上人の廟所として、寛弘2年(1005)に建立、高さ2.4mで、石造物として由緒あるものである。
頂上から、晴天時には、北は大山、東は瀬戸大橋が見える。”
【写真左】星居寺の石碑
 星居山の頂部周辺には星居寺という寺院があったようだが、現在は無住のようだ。
 


ところで、星居山までは林道が整備されているが、管理人は北東側の油木から入り、カーナビに任せたところ、とんでもなく狭く、急坂急カーブの道を進む羽目になった。
県道259号線の南側からいい道がついているので、その方が安全である。
【写真左】星居寺本堂
 無住のようだが、時々上がってこられるようだ。


 









性空上人

性空(しょうくう)上人は、平安時代中期に活躍した天台宗の僧で、播磨書写山に入って修行し、円教寺を創建した。
36歳で出家した後、西国各地で山岳信仰を行っているので、この備後の星居山でも修行を行ったのだろう。

性空は寛弘4年(1007)に亡くなっているので、この宝篋印塔はその2年前に建立されたことになる。おそらく性空が当山を去ったのち、弟子たちによって建立されたと思われるが、この時期のものとしては規模も大きく、堂々たる風格を持っている。また、保存状態もよく、優美でさえある。

ただ、宝篋印塔という形態の墓石が建立され出したのは、概ね平安末期ごろからといわれているので、性空のように寛弘4年(1007)に亡くなっていることを考えると、少し疑問も残る。
【写真左】無線中継局の建物
 星居山は国有林になっているが、周辺は「星居山森林公園」として活用されている。






星居山

神石高原町も含め近在の山々のなかでもひときわ高い山で、独立峰であるが、往古天空より星が降るという現象が起き、それを聞いた時の天皇孝徳が、この地に滞在し、その体験からこの山を「星ノ居山」と命名したといわれている。

宝篋印塔のある頂上部を中心に、公園化され展望台やグラススキー場などアウトドア施設が造られている。
【写真左】展望台と宝篋印塔
 約200m程度歩いて登っていくと、ご覧の展望台が見えてくる。また、その脇には「宝篋印塔」が見える。

実はこの山に宝篋印塔が祀られていることから、当山に城砦遺構があるのかと期待していたが、公園化による造成工事もあって、そうした遺構は確認できなかった。

おそらく山岳信仰であったため、寺院跡の遺構しかなかったものと思われる。
【写真左】宝篋印塔・その2
 宝篋印塔や五輪塔などは、これまでおおむね城砦の麓などに建立されていることが多かったが、星居山のような頂部に設置されているものは珍しいと思われる。
【写真左】宝篋印塔・その3
【写真左】祠跡か
 近くに東屋のようなものがあるが、その手前には墓石か石碑のようなものがあったと思われる礎石が確認できる。
【写真左】展望台から西方を見る。
 展望台からは360度のパノラマが楽しめるが、この日は少し霞んでいた。写真は西方の上下町方面を見る。
【写真左】展望台から北方を見る
 道後山や帝釈峡などがこの方向にある。





2012年3月27日火曜日

坂越浦城(兵庫県赤穂市坂越)

坂越浦城(さこしうらじょう)

●所在地 兵庫県赤穂市坂越
●築城期 室町時代
●築城者 山名氏
●高さ 不明(50m前後か)
●城主 山名氏・赤松下野守村秀
●形態 海城

◆解説(参考資料「サイト:帝國博物学協会 播磨國」等)
 前稿「児島高徳の墓」が所在する位置から少し下がった所に築かれた海城である。
【写真左】坂越浦城・その1












現地の説明板より

“坂越浦城跡・御番所跡


 坂越浦城は、「坂越浦砦」または「坂越城」とも呼ばれ、室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いたといわれています。


 その後、龍野城主である「赤松下野守村秀」の通城(かよいじろ)となり、坂越を支配したといわれています。
 江戸時代には、この展望台の前の小高い場所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。”
【写真左】坂越浦城・その2
 築山があるが、遺構ではないだろう。
【写真左】坂越浦城から北方の山並みを見る。
 ここから北にウォーキングコースをたどると、茶臼山(城)・五輪塔などがあり、さらに稜線を東に進むと宝珠山などへつながる。


 この日は、時間もなく麓の当城しか訪れていないが、「城郭放浪記」氏が茶臼山城を登城・紹介されているのでご覧いただきたい。



城主・赤松氏

坂越浦城については詳細な史料を持ち合わせていていないが、築城者とされる山名氏と、その後赤松氏に移ったとする動きは、両氏の盛衰変遷と重なる。

説明板にある赤松村秀は、出自に諸説あるものの、父を赤松政則とすれば、遡って祖父は赤松時勝で、以下義雅→義則→則祐→則村、すなわち円心にたどり着く。

現地は完全に公園化されているため、遺構はほとんど確認できない。しかし、この高台から坂越港・播磨灘を俯瞰すると、中世から多くの船が行きかい、戦略的にも航路の要所であったことが想像される。
【写真左】坂越浦城から播磨灘を見る。
 この写真の左に少し見えているのが「生島(いきしま」といわれ、天然記念物とされている原生林が残る。


 城下の町は、旧庄屋や、入母屋の大屋根を持つ造り酒屋・酒造の白壁などが残り、明治初期までの建物も多い。




2012年3月26日月曜日

児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)

児島高徳の墓(こじまたかのりのはか)

●所在地 兵庫県赤穂市坂越●参拝日 2011年10月25日

◆解説(参考資料『サイト「城郭放浪記」』等)


児島高徳

 児島高徳については、これまで美作の院庄館(岡山県津山市院庄)で取り上げているが、今稿は全国に複数あるといわれる彼の墓のうち、播磨赤穂坂越にある「児島高徳公墳墓」を取り挙げる。
【写真左】児島高徳墓地・その1













 ところで、高徳については、今ではそもそも実在していなかったという説や、彼の存在を示す史料としては『太平記』のみに登場する武将であるため、架空の人物であり、また実在したとすれば、『太平記』の著者といわれている小島法師自身ではないか、ともいわれている。

 このこともあって、現代の体系的にまとまれられる史学上の文献などには、児島高徳を全く掲載していないものもある。

 そうした存在の有無を論じる知見など到底管理人は持ち合わせていないが、しかし、当地に彼を祀った史跡などがあること自体が、歴史のひとコマともいえるのではないかと思われるので紹介しておきたい。
【写真左】「さこし歴史と自然の森」案内図
 このあたり一帯は、史跡と自然を一体化した「里山ふれあい森づくり」という事業が行われ、高徳の墓をはじめ、宝珠山・茶臼山(山城)・大避神社・妙見寺などが紹介されている。




 さて、児島高徳が祀られている赤穂市の坂越は往古より栄えた湊町で、少なくない史跡が点在している。高徳に直接関係しないものもあるかもしれないが、併せて紹介しておきたい。

現地の説明板より

“坂越浦船岡園
 児島高徳卿 墓所ご案内


 備後三郎児島高徳は、備前(岡山)児島字林、五流尊龍院四世頼宴大僧正の三男に、正和元年(1312)誕生しました。
 約650年の昔、後醍醐天皇は、鎌倉幕府に捕えられて隠岐の島へ配流されました。天皇を救出しようと、児島高徳と和田範長の一行は後を追い、「院の庄」でようやく合流、暗夜にまぎれて高徳一人が行在所に忍び込み、桜の幹に「十字の詩」を下記残し、傷心の天皇を慰め勇気づけました。
【写真左】児島高徳墓地・その2
 中央の五輪塔形式の墓石が高徳の墓で、「児島高徳卿墓」と命名されている。
 この場所の上には「白勢稲荷」があり、その東側に下段に示す「妙見寺」がある。


 ここから少し下がると、忠魂碑があり、さらに下ると現在「展望広場」とされている公園があるが、これは次稿で予定している「坂越浦城」跡である。


『天莫空勾践時非無氾蠡』(天コウセンを空うすること勿れ、時にハンレイ無きにしも非ず)


 建武の中興(1338)以後、備前(岡山)熊山城の野戦で高徳は落馬、重傷となりました。一行は東方に陣する官軍に合流しようと坂越浦に到着、高徳は妙見寺で養生し、回復のあと、四国、淡路方面の豪族たちを味方につけ、上洛軍を導く作戦に出陣しましたが、正平20年(1365)5月13日、坂越浦で54歳の生涯を閉じました。
【写真左】遥拝所
 高徳の550年祭にあたる大正3年(1914)、墓地周辺を開拓し「船岡園」と名付けたとされる。船岡とは、吉野南朝にあったとされる吉野山から命名されたという。
 したがって、この方向は大和吉野の船岡神社に向かって遥拝する角度になる。


●明治天皇は、南朝の忠臣児島高徳卿に従三位の位階を追贈されました。
●大正3年(1914)5月13日、坂越浦の旧家奥藤謹治氏を会長とする児島贈従三位旧跡保存会により、船岡園を設置し、墓前祭を執り行っています。
 平成20年5月  児島高徳卿 顕彰会”


上記説明板にある備前「熊山城」とは、現在の岡山県赤磐市奥吉原の熊山神社境内がその場所といわれ、管理人は登城していないが、『城郭放浪記』氏がすでに登城・紹介しているのでご覧いただきたい。

◎関連投稿(追記)
熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)

 現地には児島高徳が当地で挙兵した際、腰かけたといわれる腰掛岩や、我国ではほとんど見られない珍しい形の「石積遺跡」などがある。中世山城としての価値もあるようだが、なぞの多い遺構が多く点在している。
【写真左】坂越の港から播磨灘を望む
 写真右の突出した所の反対側は千種川河口で赤穂港になる。また坂越湾の東は相生湾が隣接する。
 写真中央の霞んだ島は、西島や家島。




 説明板に書かれている高徳が没したとされる正平20年(貞治4年)(1365)の状況は、室町幕府内部も混乱を来しているころで、そうした浮足立ったところを南朝方として攻め入ろうとしたのだろう。

 足利義詮の時代は、南朝方のとの抗争よりも、むしろ足元の幕府内部の対立が激しく、貞治元年(1362)7月に幕府の最高権力者となった斯波高経は、わずか13歳の嫡男・義将(よしまさ)を執事(管領)とさせ、もう一人の雄・佐々木道誉と妥協を図った。
【写真左】大避神社
 瀬戸内海三大船祭の一つとされている重要有形民俗文化財「坂越船祭り祭礼用和船六艘及び船倉一棟」が所有されている。




 しかし、その高経はわずか3年で失脚、義詮は越前に奔った高経・義将を山名氏冬・佐々木氏頼・土岐頼康らに追討を命じた。貞治5年(1366)8月8日のことである。
 これらの動きの背後には、常に佐々木道誉が絡んでいたとされ、当時の政界の黒幕とされている。


小倉御前の墓

 坂越の町の路地裏奥には、児島高徳とは別に南北朝時代の後亀山天皇の皇子(みこ)小倉宮の墓と伝えられているところがある。
【写真左】小倉御前の案内標識
 坂越の町の通りに設置されているが、歩いていないとわかりにくいかもしれない。この写真の左側路地を入っていく。





現地の説明板より

小倉御前(おぐらごぜん)の墓
 この五輪塔は、南北朝時代の後亀山天皇の皇子・小倉宮の墓と言い伝えられています。皇子は、京都嵯峨の小倉山に住み、人々に小倉宮と慕われていましたが、将軍家との争いのために坂越に逃れて隠れ住みました。しかし、争いに負けたことを知った小倉宮は、坂越浦に身を投げて亡くなったと伝えられています。
 その場所を御前岩といい、船祭りの日にお供えをして供養をしています。”
【写真左】小倉御前の墓
 五輪塔形式のもの5,6基が祀られている。場所は一般の民家の後ろにある崖との間にあるため、目立たない場所となっている。


 当時は海を前にした位置だったのだろうが、家が建ち始めてしまったため、このような場所となっている。
 周りの墓石は妻子や近臣の者たちのものだろうか。


 小倉宮の父・後亀山天皇は南北朝時代の南朝方として最期の天皇で、その子が小倉御前といわれている。本名は、小倉宮恒敦(つねあつ)という。

 説明板にある「将軍家との争い」とは、南朝方の父・後亀山天皇を最後として、南北朝合一が図れるが、その際、北朝方と南朝方の天皇のいずれを皇位継承とするかとするもので、恒敦(小倉御前)は父に従わず、吉野で抵抗を続けたとされている。したがって、史料によっては小倉御前の死去した地は吉野とされているものもある。


妙見寺観音堂

上掲した妙見寺には現在赤穂市の指定有形文化財となっている観音堂がある。
【写真左】妙見寺観音堂













現地の説明板より

“赤穂市指定有形文化財 指定番号28
 妙見寺観音堂
  所在地 赤穂市坂越1307番地の1
  所有者 宗教法人 妙見寺
  指定日 平成9年3月31日


 宝珠山妙見寺は、天平勝宝(749~757)ごろに行基によって創建され、大同年中(806~810)の空海の再興を経て、盛時には16坊5庵を抱えた大山岳寺院であったといわれている。
 観音堂は、万治2年(1659)に、妙見寺の奥ノ院として宝珠山上に建立されたが、後に大破したため享保7年(1722)に現在地に再建されたものである。
【写真左】観音堂周辺の墓地
 この墓地を下っていくと、児島高徳の墓につながる。









 建物は、桁行3間、梁行3間(約7m四方)の本瓦葺きで、山のの斜面にもたれ掛けるように造られた懸造り形式の構造になっており、坂越湾の絶景が望めるようになっている。


 また、桁を支える蟇股(かえるまた)には十二支が彫り込まれており、細部にわたって意匠が凝らされている。
 昭和55年には老朽化のため、一部修復されているが、こうした懸造り形式の建物は、近世社寺のなかでは全国的にも例が少なく、建造物として非常に価値の高いものである。
   赤穂市教育委員会”

2012年3月22日木曜日

上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3

上月城(こうづきじょう)その3

●登城日 2006年11月29日、及び2011年12月13日

◆解説(「山中鹿介幸盛」妹尾豊三郎編著等)
  今稿では毛利方によって落城した上月城における尼子勝久、並びに山中鹿助の最期について記しておきたい。

尼子勝久の最期

 尼子再興軍の主として上月城で毛利氏と戦った尼子勝久は、孤立無援の状況に陥り、天正6年(1578)7月5日ついに降伏した。傍らには山中鹿助が勝久の前に無念の涙を流し、両手をひざまずいた。
【写真左】尼子勝久の追悼碑
 麓に建立されているもので、「尼子勝久公四百年遠忌追悼碑」と刻まれ、当時の地元上月町長の謹書と記されている。


また裏書には
“尼子勝久後裔
 第31代当主 佐川英輝
     分家 佐川守利
     仝   尼子滝雄
         奉献
昭和47年4月建立 ”
と刻銘されている。   
 

 開城したこの日の朝、毛利方から派遣された検視の将たちが、用意された書院の間に待機していた。おそらくその場所は上月城の本丸ではなく、麓の場所であったと思われる。勝久は兜を脱ぎ、白装束に身を包んでいた。
そして、鹿助をはじめ、主だった家臣と最期の別れの盃をかわし、辞世の句を詠んだ。

「宝剣手に在り、殺活の時に臨む、これはこれ殺活自在の体、如何がこれ勝久末期の一句

すべて来る劃段(かくだん)千差の道 南北東西本郷に達す”」

 勝久の介錯は池田甚四郎が行い、その後自らも自刃し、続いて新宮党の一族といわれている氏久が続いた。

 勝久らの自害によって、正式な降伏が認められ、吉川元春・小早川隆景・口羽通良・宍戸隆家連署による起請文が鹿助に渡された。そして籠城者の大半に退城許可が下され、残兵は次々と下城していった。
 下城していった者たちに対し、鹿助はこれまで共につき従ってくれたことへの感謝と併せ、今後は尼子への忠義を捨て、各々自由に他の主君へ仕えてほしい旨を勧めたという。

鹿助の最期

上月城の敗戦処理を一通り終えた鹿助は、一時毛利方の作った仮屋に幽閉され、5日後の7月10日、備中に帰る毛利軍に警固されながら旅立った。鹿助を監視・警固したのは、粟屋彦右衛門・山縣三郎兵衛ら手勢500余騎である。
【写真左】山中鹿之助追頌之碑
 勝久の追悼碑の脇に鹿助の石碑が建立されている。








 一説では唐丸籠(とうまるかご)に入れられ護送されたというものあるが、播磨上月城から、後に移動した輝元の陣所・鞆の浦まで、その手段で運ぶのは現実的に無理があり、しかも唐丸籠が使用されたのは江戸期に入ってからというのが定説になっているので、これはあり得ないだろう。

 鹿助は上月城で大半の城兵と別れたが、それでも従者60余人が彼につき従ったという。彼は信長から拝領した四十里鹿毛という名馬に跨り、勝久から別れの品として受け取った尼子累代の名刀「荒身国行」を腰に差していたといわれている。そして鹿助らを取り囲むように粟屋彦右衛門らの手勢が囲んでいたとされる。

 ただ、馬に跨っていることは理解できるが、脇差をこの段階で未だ身に着けていたというのは理解できない。おそらく出立の段階でこれは毛利方に預けられたと思われる。

阿井の渡し場

 鹿助主従は備中の高梁川と成羽川が合流する「阿井の渡し場」までやってきた。当時高梁川は甲部川と呼ばれていたが、成羽川と合流する地点はもっとも川幅が広くなっている箇所である。吉川元春からの密命を受けていた天野中務少輔元明は、この渡し場で鹿助を殺害する計画を立てていたという。
【写真左】阿井の渡し場にある鹿助の供養塔












 すでに捕らわれの身になっていた鹿助を、この場所で殺害する動機が今一つはっきりしないが、かといって本国安芸まで連れて帰る必要性もなかったのだろう。渡し場にあらかじめ小舟一艘を用意し、先に鹿助の妻子や郎従を対岸へ渡した。

 鹿助は折り返し戻ってくる小舟を待つため、川岸で待機していた。すると、天野の家来で腕の立つことで知られた河村新左衛門が、突然鹿助の背後から切りつけた。鹿助は直ぐに応戦し二人は水の中で格闘となった。そのあと新左衛門に続いて、福間彦右衛門・三上淡路守等が加勢し、ついに鹿助は殺害された。天正6年(1578)7月17日のことである。享年34歳であった。
【写真左】阿井の渡し場付近
 高梁川と成羽川が合流する地点で、中央には大きな中洲が見える。

 写真にみえる川は高梁川で、右に向かうと成羽川との合流地点に至る。


鹿助の墓及び塚

 現在鹿助の墓及び塚といわれている箇所は次の通りである。

(1)観泉寺(高梁市)

 当院は阿井の渡し場から成羽川を少しさかのぼった同市落合町阿部にある。 ただ、先般(2012年3月20日)参拝した折、墓所付近は改修工事が行われており、明治35年に建立された墓が今どこにあるのか確認できなかった。

 鹿助の位牌は「幸盛院鹿山中的居士霊位」と記され、当院に安置されている。
【写真左】観泉寺
 この写真の左側に墓地があるが、そこに向かう付近の道路周辺は工事が行われていた。






【写真左】「山中鹿介胴墓」
 道路わきに設置されているが、鹿助の墓そのものを示すものは、しいて言えば左側にある小さな五輪塔ぐらいなものである。



 また、観泉寺とは別にこの寺に向かう途中の高梁病院手前の十字路に「山中鹿介胴墓」と記された説明板があり、その脇に石仏像や五輪塔などが集められたものがあったので、現在はこの箇所が墓とされているのかもしれない。

参考までに、現地にある説明板には次のように記されている。

“(中略) その首は、輝元のいる松山の本陣に送られ、遺骸は観泉寺珊牛(さんぎゅう)和尚の手により、赤羽根の「石田畑」に葬られていたものを、遺骨を再度掘り出し布片に包み、瓶に収めて埋葬し、墓碑を建立したものであります。(以下略)”

(2)鞆の浦の幸盛首塚(福山市)

 輝元が陣所を備中松山城から備後鞆の浦に移動し、鹿助妻子等もここまで連行されているので、首はこの鞆の浦で埋葬されたといわれている。

(3)阿井の渡しの塚(石碑)

 冒頭に示した写真だが、この石碑は鹿助が殺害されてから100年以上も経った江戸時代の正徳3年(1713)、当時の松山藩主石川主殿頭の家臣前田時棟が、同藩士佐々木郡六と建てたもので、供養塔である。

(4)幸盛寺の墓(鳥取県鹿野町)

 亀井茲矩が後に因幡鹿野に封ぜられたとき、当地に「幸盛寺」を建て、鹿助の墓も建立している。
【写真左】鳥取県鳥取市鹿野町の幸盛寺の鹿助の墓
 五輪塔形式のもので大型である。(2006年1月参詣)




     主だったものは上掲の通りだが、鹿助が殺害された後、首の処置については、これらとは全く違うものだったという伝承が残るものを次に紹介しておきたい。

    徳雲寺の鹿助首塚

     阿井の渡しを流れる成羽川をさかのぼり、新成羽ダムの貯水池をさらに越えると、備後国に入るが、ここからさらに成羽川を北上していくと、東城町(現庄原市)の国道314号線と、東側を走るJR芸備線に挟まれた山間部に徳雲寺という古刹がある。

    この寺の境内奥にひっそりと鹿助の首塚が安置されている。
    【写真左】徳雲寺
     備後南国33か所・観音霊場22番地
     勅使門という入口から本堂まで広大な面積を誇り、手前には庭園が整備され周囲には椛などが植わっている。
     

     阿井の渡し場で殺害された鹿助の胴が、地元高梁市の観泉寺に埋葬されたことは事実と思われるが、首実検を終えた後、何らかの経緯で尼子方、もしくは鹿助に縁のある者がそれを手に入れたのだろう。

     徳雲寺をさらに北上し、高野に向かえばやがて備後と出雲の国境である王貫峠に至る。鹿助に随従していた家臣が、鹿助の故郷である出雲月山まで持ち帰り供養しようとしたが、力尽き果てたか、あるいは熱い夏の時期であるため、生首の状態が悪くなり、この寺に埋葬することになったのかもしれない。
    【写真左】山中鹿助首塚
     本堂奥の斜面に安置されている。
     形、大きさとも小ぶりなもので、敢えて目立たないようにしていたのではないかとも思える。


     右側の墓地には当院歴代住職の墓が並んでいる。


     ところで、この徳雲寺は室町期の文安から長禄年間(1446~57)にかけて、当地を支配した宮政盛によって建立されている。

     戦国期には尼子氏に属していたが、天文3年(1534)に毛利元就によって攻略され、以降毛利氏の家臣となった。おそらく、徳雲寺に埋葬された背景には、毛利氏に対しては、面従腹背であったといわれる宮氏の意向もあったのかもしれない。