2012年1月29日日曜日

荒隅城(島根県松江市国屋町南平)

荒隅城(あらわいじょう)

●所在地 島根県松江市国屋町南平
●築城期 永禄5年(1562)
●築城者 毛利元就
●高さ 50m
●遺構(消滅) 郭・帯郭・堀切・土塁・柱穴・加工段・溝・土器溜り・柵列・掘立柱建物
●遺物 土師器・陶磁器・石製品・金属製品
●廃城 永禄10年(1567)
●備考 洗合城・洗骸城
●登城日 2008年1月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『新雲陽軍実記』等)
 前稿まで紹介してきた「白鹿城」でも度々触れているように、永禄年間に毛利元就が「白鹿城」や「月山富田城」を攻め落とすため、宍道湖北岸の荒隅山に陣所として築いた平山城である。
【写真左】荒隅城跡遠望
 宍道湖を挟んだ南岸の国道9号線側から見たもの。






 現在その跡地には、天倫寺という寺院や、サウナの施設、南平台という団地などが建ち、往時の面影を残すものはほとんど残っていない。しかし、高台から南麓に宍道湖を眺めると、元就がこの場所で白鹿城・富田城攻めの軍議を重ね、またあるときは遊興にも耽ったというのも理解できそうである。
【写真左】天倫寺・その1
 天倫寺の略歴は以下の通り。


 荒隅城が廃城になったあと、江戸時代に入ると堀尾吉晴が入封し、この地に臨済宗の寺院・龍翔山瑞応寺を建てた。

 そして堀尾氏改易になると、京極氏が入封し、この寺を宍道湖南岸に移し、円成寺とし、松平直政の代になって、この地に信州から僧東禺を招き、神護山・天倫寺を開山し今日に至っている。臨済宗妙心寺派。

 この辺りは、荒隅城の東端部に当たるとされているが、この階段下付近がおそらく船着き場(軍港)だったのだろう。

現地の説明板より

“洗合城跡あらわいじょうあと
 永禄5年(1562)中国平定をめざす毛利元就は、この辺りに山城を築き、富田城攻略の前線基地としました。


 毛利元就がここに城を築いた理由は、前面に宍道湖を眺められるこの地が見通しがきき、兵員や物資の輸送に便利であること、中海と宍道湖を結ぶ水道をおさえることができること、また法吉(ほっき)の白鹿城―当時尼子氏の支城『出雲十旗(いずもじゅっき)』の筆頭の城―を攻めるのに絶好の地だったことなどが考えられます。


 城の範囲は、東は天倫寺のある辺り、西は南平台住宅地全域、北は国屋(くや)地区の県道沿いまでであったようです。


 過去2回の発掘調査で、郭・土塁・柵・堀切の遺構が発見されています。また、出土品として、灯明具(とうみょうぐ)、明時代の青磁片、小型和鏡、古銭等があります。
 ここから毛利元就は、永禄6年(1563)白鹿城を攻撃して勝利し、永禄7年(1564)本陣を東出雲町京羅木山(きょうらぎさん)に移しました。”
【写真左】天倫寺・その2
写真の階段右側に上記説明板が設置されている。










荒隅城の規模

 当時荒隅城は宍道湖岸に並行して伸びる丘陵上に築かれ、説明板に書かれている範囲から試算すると、東西約500m、南北最長400m程度となるが、『懐橘談』という史料によれば、次のように記されている。

“山の長さ20余町、其外谷々多し。山の頂平かなる所に乾堀を掘り、茂木を構え、60間四面に本陣を立てたり、諸士四方谷々に帷幕(いばく)を張り、外に町屋を立て商売を通ず”

 と記されている。この記録をそのまま換算すると、山の長さは2,000m以上で、およそ100m四方の本陣が建ち、毛利方の各諸将の帷幕が谷々に張られ、外には町ができたということである。
【写真左】天倫寺・その3
 本堂
 本堂の西側には墓地が階段状に延びているが、おそらく当時この場所は郭段の形状をもったものだったのだろう。






曲直瀬まなせ道三

 荒隅城に陣を構えていたころ、元就は齢65歳となっていた。天文年間に大内義隆に従って尼子氏の居城月山富田城を攻略していたときから、すでに20年の歳月が流れている。

 老境に入った元就にとって、山陰の冬は本国・安芸に比べて、さすがに堪えたのだろう。
荒隅の陣所には、京から当時名医といわれた曲直瀬道三を呼び、治療をしながら指揮に当たった。

 また、こうした長期遠征を覚悟していたこともあり、荒隅城(陣所)では戦の合間には慰労も兼ね、連歌師や猿楽の今春太夫も出入りしていたという。

 荒隅城が使用されたのは、永禄5年から同10年までの約6年間であるが、既述したように毛利氏の遠征軍が2万から3万ともいわれているので、荒隅城周辺はおそらく一つの町を形成していたと思われ、発掘調査でも、夥しい遺物(土師器・陶磁器・石製品・金属製品等)が確認されている。
【写真左】天倫寺から南方に宍道湖を見る。
 荒隅城跡は小丘ながら、南斜面は東西に険峻な崖となっている。
 このため、天然の要害としても理想的なものだったのだろう。



 陣所として東端部には多くの船を停泊できる湊を設置し、ここから東西に向けて多くの指令を発していったものと思われる。
【写真左】二基の宝篋印塔
 当院の墓地は本堂後ろの北から西にかけて階段状に設置されているが、北側の一角にはご覧の宝篋印塔が二基建立されている。

 現地に特記されたものはないため、詳細は不明だが、戦国期または江戸初期のものだろう。
【写真左】陣所跡か
 荒隅城の遺構はほとんど消滅という記録だが、この写真にある個所は天倫寺墓地の西端部で、人工的に谷間を広く取り、囲繞された空間を残している。

 毛利氏に従った多くの一族らは、谷間に帷幕を立て、陣所を設けたといわれるので、案外そうした箇所だったのかもしれない。
【写真左】高台の墓地から本堂を見る。
 現在ある本堂から北西に向かった墓地は階段状に約200m程度伸びているが、その段も郭段だった可能性もある。


 写真は北西側の墓地から南東方向を見たもので、当時宍道湖の湖面を行き交う軍船の様子が手に取るように分かったのだろう。
【写真左】西方の満願寺城から荒隅城を遠望する。
 満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)は、湯原一族の海城で、大永元年(1521)尼子経久に属したが、永禄5年(1562)毛利元就が荒隅城に入ったとき、城主春綱は毛利氏に属している。

2012年1月27日金曜日

白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2

白鹿城(しらがじょう)・その2

◆解説(参考文献『新雲陽軍実記』等)
 今稿では永禄年間に白鹿城が落城した顛末、及び周辺の遺構について補足しておきたい。
【写真左】高坪山城
 白鹿城から西南に延びる小白鹿城側の尾根の西麓にある鶯谷を挟んで西側に屹立した出城で、白鹿城の外郭としては最も西方に配置された。


 城砦遺構は確認されていないが、北麓を走る真山林道淵には、「元高坪土橋」というものがあったらしく、当時鶯谷を跨いで小白鹿城側の尾根に導いていたのだろう。このため、戦略上重要な城砦となったと思われる。
 写真は西側からみたもの。

先ず、前稿の説明板と重複する箇所もあるが、本稿では西の谷登山口にある説明板も追記転載しておく。

“白鹿城跡
 この城は、松江市の中心から北方4キロの島根半島の山脈にある白鹿山(標高149.8m)に築かれた山城で、軍記物では白髪城とも書きます。すぐ北側の真山には、この白鹿城に対する毛利の向城として築かれた真山城があります。

 城のはじまりはよくわかりませんが、戦国時代に尼子氏の本拠地であった広瀬の冨田城を防衛する上で、この島根半島一帯は、水運や軍事上重要であったため、白鹿城を築いて戦略拠点としました。
【写真左】小白鹿城遠望
 北側からみたもの。












 一方、尼子打倒と出雲制覇をもくろむ毛利勢は、元就をはじめ吉川元春、小早川隆景が自ら出雲に乗り込み、永禄5年(1562)宍道湖北岸の荒隅山に荒隅城を築き、冨田城攻略の向城としました。しかし、先ず半島の拠点である白鹿城を落とす必要がありました。


幾たびかの攻防戦の末、ついに翌6年(1563)10月落城しました。そしてこの3年後にとうとう冨田城も毛利勢の手に落ちました。

 今、城跡には本丸、月見御殿、水ノ手、井戸跡、一ノ床、二ノ床、三ノ床、大黒丸、小白鹿、高坪山、大高丸、小高丸と呼ばれる郭などの遺構が残り、当時使われた陶磁器や、かわらけの破片などが発見されています。

平成9年3月”
【写真左】鶯谷から南方に松江城を見る。
 松江城は山城でなく、近世城郭であるが、慶長16年(1611)堀尾吉晴が築城した。





白鹿城落城

説明板にもあるように、尼子氏居城月山富田城を支える「尼子十旗」の筆頭城砦であった白鹿城が落城したのは、永禄6年(1563)10月末である。

この前年の10月、毛利勢は元就をはじめとし、吉川元春・小早川隆景らは赤穴の「瀬戸山城」(2010年2月24日投稿)を発向し、北方の尼子の支配地へと向かった。
瀬戸山城を発向する段階で、同氏に与していた主だった武将は次の通りである。
  1. 宍戸隆家
  2. 平賀太郎左衛門隆直
  3. 天野民部大輔元定
  4. 熊谷伊豆守信直・同兵庫介・同左近・同佐馬介
  5. 三善修理亮
  6. 山内新左衛門
  7. 高野山久意・同五郎兵衛
  8. 古志清左衛門
  9. 有地美作守
  10. 益田越中守
  11. 出羽中務介
  12. 佐波常陸介
  13. 小笠原弾正小弼
  14. 三沢三郎左衛門
  15. 三刀屋弾正左衛門
  16. 香川左衛門
  17. その他、木梨・池上・祖式・都野・久利・三須等
これらの勢力で約2万騎を数えた。
そして、出雲国尼子氏をこの戦いで破るべく、元就は他国の諸将にも広く催促した。このころの毛利氏の勢威はひときわ高くなり、中国における対抗者は尼子氏を除いてほとんどいなくなっていた。
【写真左】白鹿城と小白鹿城
 写真左側(北側)が白鹿城、右の尾根を進むと小白鹿城がある。


 この尾根の奥(東)には長谷という谷があり、その向こうの尾根筋には一ノ床・二ノ床・三ノ床が配置されている。


 このため、毛利氏の武威に恐れをなし、その後各地から馳せ参じた面々は以下の通りである。
  1. 但馬国 山名祐豊・太田垣・柿谷
  2. 因幡国 山名源十郎豊定・武田高信
  3. 美作国 三浦一族・佐用・新見・江見・斉藤・葦田・玉串
  4. 備前国 浦上・宇喜多・一色・波多野・赤井・荻野
  5. 播磨国 神吉・別所・上月・矢島・小寺
【写真左】白鹿城本丸・月見御殿付近を見る。
 西側から見たもの。










白鹿城の攻囲

永禄5年(1562)12月10日、元就は、先ず白鹿城の南方にある宍道湖岸荒隅山(あらわいやま)に陣を置き向城とした。そして湖岸には東西にわたって乱杭・逆茂木を立て、船掛りを造り、東方の中原・末次の泥地に堀と柵を巡らせ、北方の比津原・生馬・法吉に馬の掛け場を残し、白鹿城から3,4キロ四方隔てて取り囲んだ。
【写真左】荒隅城跡
 宍道湖岸にあったといわれ、現在天倫寺という寺院が建つが、城跡としての遺構はほとんど消滅している。


 当時毛利元就は、ここを大規模な陣所とし、京都から公卿なども招いて、詩歌会や蹴鞠の遊びや遊興を度々していたという。



 また、元就は荒隅城に陣を置きながら、翌年(永禄6年)1月には、豊前大友氏との戦いを一旦終結させるべく、幕府に対し和解調停を要請し、3月には益田藤兼に対し改めて盟約を結び、杵築大社国造職となった千家虎千代丸の相続を祝い太刀を送るなど、着々と出雲国での基盤を固めていった。
【写真左】白鹿城西の谷登山口
 以前にも紹介したが、2か所ある登山口の一つで、この場所には車が2台程度駐車できるスペースが確保されている。






 この戦いはもちろん白鹿城を攻め落とすことが目的の一つだが、当城を落とすことは、尼子氏居城の月山富田城との連携を断つことになり、富田城の攻略が最終目標だった。すなわち、白鹿城を落とせば、月山富田城が孤立し、毛利氏とっては戦略的にも明らかに優位に立てる。そのため、元就は焦らずじっくりと戦況を注視しながら持久戦を布いた。

 前稿でも紹介したように、籠城戦で長戦(ながいくさ)となった場合、もっとも必要なものは兵糧と水の確保である。白鹿城に残る巨大な大井戸は、籠城する松田氏らの飲料水として活用され、彼らの命の担保でもあった。

 これに目を付けた毛利氏は、わざわざ石見銀山から抗夫を呼び寄せ、井戸の水脈を断ち切るべく、麓から坑道を掘っていった。その作戦を知った松田氏らも穴を掘っていったため、珍しい地中内での戦が行われたという。
【写真左】白鹿城西の谷登山口から真山城を見る。
 この場所からは北東方向になるが、真山城の城域南部(三ノ床)が俯瞰できる。







月山富田城からの援軍

ところで、白鹿城が毛利の大軍に取り囲まれているとき、尼子氏本城の冨田城ではどのような動きがあったのだろうか。

晴久亡き後継承した嫡男義久は、城内で一族郎党を集め、白鹿城に向けて援軍を送るべく軍議を重ねたが、意見がまとまらなかった。

以前にも紹介したように、継承して間もない義久に対する家臣からの信頼は確立しておらず、ある者は毛利方へ与し、さらには、尼子氏一族内における老臣派と立原源太兵衛・山中鹿助ら若手の近習たちとの確執が生じていた。
【写真左】白鹿谷から真山城を遠望する。
 この谷が白鹿谷といわれるところで、写真左側には、白鹿城登山口がある。
 ただ、この箇所にはご覧のように道路が狭いため駐車は困難。




 果たせるかな、毛利方の2万とも3万ともいわれる大軍の前に、統制が乱れ始めていた尼子氏が抗戦しても良い結果は生まれなかった。

 永禄6年(1563)8月13日、毛利軍は白鹿城の外郭を攻撃し焼き払った。おそらく、南方の小白鹿城・高坪山当たりが狙われたのだろう。
9月23日、やっと富田城から援軍として、亀井能登守以下7千余騎が先陣として、以下倫久はじめ2陣・3陣を率いて白鹿城に向かった。

 白鹿城の手前で、毛利軍と対峙し交戦を期していた尼子軍は、毛利軍が出てこないと見るや、陣を解いて一旦引き下がろうとした。そのとき、小早川隆景らの軍勢が突如現れ、瞬く間に倫久らの軍を打ち砕き、倫久は辛うじて富田城に逃げ帰った。
【写真左】白鹿城周辺配置図
 紹介が前後するが、改めて当城周辺の配置図を添付する。












白鹿城の終焉

 それから6日後の29日、白鹿城内では富田城からの援軍の大敗をうけ、兵糧の欠如、戦意の喪失が色濃くなり、毛利方に降参する方策が図られることになった。

 ところで、前稿(「白鹿城・その1」)で、説明板にもあるように、白鹿城の城主であった松田誠保の妻を、尼子晴久の姉としているが、史料によっては、誠保の妻ではなく、誠保の父・松田左近将監吉久の妻としているものもある。

 そして、吉久の弟は常福寺普門西堂という豪勇武士で、白鹿城の二の城戸を固めていた。
常福寺というのは、白鹿城の三ノ床から南東部にさがったところにある寺院で、現在も所在している(写真参照)。同寺の名が彼の名に冠されているところをみると、おそらく出家し、当院の住僧でもあったかもしれない。
【写真左】常福寺
 白鹿谷の南端に所在する。
 なお、この境内に白鹿城にかかわる武士(松田左近将監吉久や常福寺普門西堂など)の墓などがあるか探してみたが、残念ながら見当たらなかった。




 10月29日、ついに毛利元就は白鹿城を攻略した。誠保の父・吉久とその弟普門西堂は本丸で自害、吉久の妻も「…女ながら敵に降って辱めをうけるより、いさぎよく死んで父祖の恩に報いたい」といって、自害した。

なお、誠保は落城の隙をついて脱出し、隠岐国に奔った。こののち、彼は鹿助らと尼子再興を期し、行動を共にすることになる。
【写真左】常福寺から白鹿山城及び真山城を遠望する。
 白鹿山城は左側(西)手前になり、真山城は右側(東)の奥に見える。

    2012年1月26日木曜日

    白鹿城(島根県松江市法吉町)・その1

    白鹿城(しらがじょう)・その1

    ●所在地 島根県松江市法吉町●築城期 室町時代後期
    ●築城者 松田・尼子氏
    ●城主 松田誠保
    ●別名 白髪山城
    ●高さ 154m
    ●遺構 郭・井戸・空堀
    ●備考 尼子十本旗の一つ
    ●登城日 2007年12月23日、及び2012年1月18日

    ◆解説(参考文献『尼子盛衰人物記:編者 妹尾豊三郎』『日本城郭体系第14巻』『新雲陽軍実記』等)
     白鹿城については、これまで 平田城・その2(島根県出雲市平田町)十神山城(島根県安来市安来町)で少し触れてきたが、今月取り上げた北東部に近接する真山城(島根県松江市法吉町)と関わった山城である。

    築城期については明確な資料がないが、戦国期尼子氏の居城・月山冨田城を守備する尼子十本旗の第一の城として『雲陽軍実記』に記されている。
    【写真左】東方より白鹿城を見る。
     真山城の南麓登城口付近にある三叉路(白鹿上池と白鹿下池の間)から見たもので、写真左側頂部が本丸位置になる。
     正面の奥に向かう道路(真山林道)を進むと、白鹿城の西の谷登山口にたどり着く。



     現地には説明板が2か所あるが、最初に白鹿城の南東部の登山口(常福寺側)にあるものを転載しておく。

    “白鹿城址


    白鹿山は白髪山とも書かれ、標高154m、尼子氏十旗の筆頭で、永禄年間は尼子晴久の義兄・松田左近誠保(まさやす)が城主であった。
     永禄5年(1562)毛利元就が出雲に侵攻し、尼子の本拠富田城の攻略に先立って洗合(あらわい)(松江市国屋町)に本営を築き、白鹿城も包囲した。
     松田左近誠保は、弟の常福寺住僧普門西堂らと力を合わせ、防戦に努めた。


    毛利軍は、石見銀山の抗夫を動員して井戸の水源の切断を計れば、尼子軍は城内から坑道を掘り、地中でこれを迎撃したり、矢文を射て戦意をそぐなど激しい攻防戦が行われた。


     永禄6年(1563)籠城1年の後、兵糧も水も断たれ、毛利軍の総攻撃に矢玉も尽きて落城した。
    左近の妻(晴久の姉)は自害、一族郎党多数が討死、左近は脱出して、のち元亀2年(1571)の尼子再興軍の戦いに加わったが、その後の動静は不明である。


    法吉 白鹿 真山の自然と文化を育む会”
    【写真左】白鹿城配置図
     後述するように、この日の踏査箇所は井戸跡・本丸・月見御殿・一ノ床までで、他の遺構については踏査していない。


     いずれ機会があったら主だった遺構も踏査したいと思う。



    松田氏

     応仁元年(1467)に始まった応仁の乱において、当時出雲・隠岐守護であった京極持清は、東軍方細川勝元へ味方した。これにより出雲国守護代・尼子清貞は東軍方として活躍することになる。

     これに対し、安来・中海を本拠としていた松田備前守らは、事実上西軍方として尼子氏の居城富田城を攻めた。翌年の応仁2年(1468)6月20日のことである。

     応仁の乱はその後約10年にわたって繰り広げられるが、出雲国で一つの節目となったのが、文明8年(1476)に起こった『能義一揆』である。

     『尼子盛衰人物記』(妹尾豊三郎編著)には、この時の首謀者の一人として、十神山城主・松田三河守があったとし、この一揆にはさらに奥出雲最大の国人領主・三沢氏が参加し、清貞追放の引き金にもなったと記している。
    【写真左】西の谷登山口
    白鹿城への登山口はこの西の谷のものと、南東部の白鹿谷の2か所がある。今回(2007年)はこの場所から向かった。




     ただ、松田氏の動きについては、他の一揆に加わった諸氏とはその後の動きに差異が認められる。
    というのも、守護であった京極持清が文明2年(1470)8月に亡くなり、後を引き継いだ政高になると、彼は文明5年(1473)2月11日付で、松田三河守に出雲国法吉郷を安堵している(「小野文書」)。

     このことから、松田氏は途中から守護代であった尼子氏に与し、能義一揆の首謀者としてではなく、むしろ鎮圧する側に立っていたのではないかと推察される。

     そして、安堵された法吉郷とは、まさに白鹿城の本拠地である。このことから、松田氏が当地を支配し始めたのは、この年(文明5年)と考えてよいだろう。

     永禄年間に城主であった松田誠保は、尼子氏から政久の息女を娶った。彼女は、尼子晴久の姉であり、従って誠保は、晴久の義兄に当たる。
    【写真左】大井戸跡・その1
     西の谷側から向かうと割と早く遺構に出会える。
     写真は大井戸跡といわれたもので、直径は4m以上あったと思われる。
     この井戸が、説明板にもあるように、毛利方が石見銀山から抗夫を呼び寄せ、水脈を断ち切ったといわれたものである。
     毛利方によって断ち切られる前は、おそらく満々と湛えていただろう。
    【写真左】大井戸跡・その2













    白鹿城

     築城期についてははっきりしないが、上掲したように松田氏が京極政高から当地を安堵された文明年間、すなわち室町後期と考えられる。

     主だった遺構としては、上図のように北方中央に本丸及び、月見御殿を置き、そこから左右にΛ(ラムダ)字のように、二つの分岐した尾根伝いに郭群を南に伸ばしている。東側の尾根としては、上から順に、「一ノ床」「二ノ床」「三ノ床」と配置され、西側には、「井戸」「大黒丸」「小白鹿城」といった出城形式の城砦を配置している。

     なお、この西側尾根とは別に、西麓の鶯谷を介して小白鹿城の西方に聳える小丘には「高坪山城」があり、東側尾根東麓の白鹿谷の東方には「常福寺丸」という小規模な出丸も配置されている。
    【写真左】本丸跡
     井戸跡から北東に少し向かうと、やがて本丸にたどり着く。


     登城したのが5年前(2007年)ということもあって、記憶が薄らいでいるが、規模はさほど大きなものでなかったと記憶している。
    【写真左】月見御殿付近
     記憶に間違いがなければ、この箇所が月見御殿といわれた箇所と思われる。


     本丸と近接した場所であるが、戦がないときはこの場所で、「月見」など風流な催し物をやっていたのだろう。
    【写真左】一ノ床
     本丸・月見御殿から南東側に延びる尾根に造られている郭で、この写真の奥に向かうと「二ノ床」「三ノ床」へとつながる。
    【写真左】祠
     一ノ床付近に祀られている。
    【写真左】一ノ床から二ノ床方面を見る。
     残念ながら、この日は二ノ床・三ノ床まで踏査していない。また、西側の尾根にある「大黒丸」や「小白鹿城」までも足を運んでいないため、ご紹介できない。


    幸い、『城郭放浪記』氏が「二ノ床」「三ノ床」を紹介されているので、ご覧いただきたい。

    2012年1月24日火曜日

    大高丸跡など(島根県松江市東生馬町清谷)

    大高丸跡(だいたかまるあと)など

    ●所在地 島根県松江市東生馬町清谷
    ●高さ 不明(200m余)
    ●遺構 郭等
    ●備考 白鹿山城砦砦群
    ●登城日 2012年1月18日

    ◆解説(参考文献『島根県遺跡データベース』等)
    前稿に続いて「鳥ノ子山」からさらに南の尾根伝いを進んだ大高丸跡を中心に紹介したい。

    ところで、度々参考にしている『島根県遺跡データベース』では、この大高丸跡も含め、この尾根筋に配置されている「白鹿城」「小白鹿城」そして、「真山城」までを『白鹿山城城砦跡群』として定義している。

    確かに白鹿谷を中心とし、東西に走る尾根筋に城砦が点在していることから考えて、城砦群とすることに違和感はないが、そこまで包含するならば、前稿で紹介した北方の尾根筋にある「鳥ノ子山」や「あかはげ山」もこれらに含めてもよいのではないかと思われる。

    さて、今稿では「大高丸跡」も含め、南方の「白鹿城」「小白鹿城」を除く、北側の城砦群、すなわち「真山城」の稿で紹介した地元の案内図でいえば、下記のものを取り上げたい。
    参考までに、再度地元の案内図を添付しておく。

    【写真左】白鹿城跡・真山城跡案内図


    このままでは小さいと思われるので、この写真にアイコンを持っていき、クリックすると個別画面として拡大するので、ご覧いただきたい。


    左側(西)のルートとで、上から下に向かっていく。








    主な山の名称
    1. 天狗山(資料によってはこれを「鳥ノ子山」としているものもある)
    2. 玄武山
    3. 尻廻し山
    4. 大高丸
    なお、大高丸山の南方にある「小高丸」については、当日東側の尾根を降りて行ったため、踏査していない。

    はじめにお断りしておかなければならないのは、踏査撮影したものの、上記の1~4までの境がはっきりと認識できず、明確に比定できていない。したがって、およその位置としての紹介としたい。
    【写真左】寺床の上付近から南西方向を見る。
     鳥ノ子山の南西部で、東麓を下ると寺床といわれる箇所があるが、その先をしばらく進むと、眺望が開ける。


     写真にみえる右側の高い山が大高丸で、この位置はまだ北方に位置している。
    【写真左】天狗山付近
     このあたりから尾根が南進し始める。


    『島根県の山』(山と渓谷社)では、この天狗山を「鳥ノ子山」と同定しているが、位置的に現地案内図と照合すると、天狗山はだいぶ南にあるため、この山を「鳥ノ子山」とすることには無理がある。


    東の真山城側の尾根に比べ、写真のように割と平坦な箇所が多い。
    【写真左】「鳥ノ子山」を振り返って見る。
     全体にこの尾根筋では眺望はよくないが、上記の位置で振り返ると、木々の間から「鳥ノ子山」の姿が見えた。


     おそらくこの位置は、天狗山と玄武山の中間地点だろう。
    【写真左】虎口か
     おそらく玄武山付近と思われるが、この位置で変化を持たせた小郭段が2,3か所認められ、土塁状の高まりが確認できた。


     また、この場所から少し南進した箇所で下段の写真に示すように、東方の真山城をはっきりと見る場所が出てきた。


     このことから、東麓・白鹿谷の中間地点から直接この場所へ登り降りし、南接する「大高丸」への虎口としての役割があったかもしれない。


    【写真左】東方に真山城を見る。
     この場所からは真山城の一ノ床から主郭まで全景が俯瞰できる。


     戦略的には敵方の動きを監視する上でもっとも重要な場所となっただろう。
    【写真左】大高丸・その1
     大高丸の主郭に向かう道については表示がない。


     玄武山を過ぎ、尾根の東側に踏み跡が続き、そのまま進むと、途中からさらに尾根中心から東(左)に逸れ始める。


     気が付くと、大高丸の南麓部に来ていた。このため、そこでUターンし、南側から大高丸の主郭を目指して直進する。


    踏み跡はほとんどなく、傾斜はあるものの割と緩やかなため、直進して登る。
    【写真左】大高丸・その2 腰郭
     登城途中西側に見えたもので、規模は小さいが、幅3m前後で南から西にかけて伸びている。
    【写真左】大高丸・その3 主郭
     ご覧の通り、荒れ原野然としているが、中央部から全周に降り勾配となり、西(左)側へそのまま緩やかな平坦面をたもち、「小高丸」のほうへ続く。
    【写真左】大高丸の主郭から西(実際は南だが)の小高丸方面を見る。


    小高丸の方へは今回向かっていないが、次第に尾根が細くなり、比高も下がり頂部に小規模な平坦地があるようだ。


    なお、小高丸を過ぎて南側に降りると、白鹿城の西の谷登山口につながる。
    【写真左】大高丸南の郭
     大高丸を過ぎ、東尾根を伝って進むと、それまでの緩やかな尾根道が無くなり、急勾配の下りとなる。


     その途中に見えたのが、写真にある郭である。登山道の整備が優先されたためか、遺構の残存度はよくないが、南方の白鹿城に近接していることを考えると、当時はこのあたりに城砦遺構が多数設置されていたことが想像される。
    【写真左】東方に真山城の「一ノ床」西側面を見る。
     急斜面の下山途中から見えた真山城だが、「一ノ床」付近の西側斜面には大規模な崩落箇所が見える。
    【写真左】南方に白鹿城を遠望する。
     上記とほぼ同じ位置から見えたもので、白鹿城の北方の様子がよく分かる。

    2012年1月23日月曜日

    鳥ノ子山(島根県松江市法吉町~鹿島町)

    鳥ノ子山(とりのこやま)

    ●所在地 島根県松江市法吉町~鹿島町
    ●高さ 253m
    ●遺構 削平地・物見台か
    ●備考 天狗山
    ●登城日 2012年1月18日

    ◆解説(参考文献『島根県の山(山と渓谷社)』『新雲陽軍実記』等)
    前稿「真山城」の写真で少し紹介している「鳥ノ子山」周辺を取り上げる。

    真山城主郭を過ぎ、北の稜線に向かうと、一旦鞍部となった「持田越し」という地点に出る。ここから寺床・本谷口方面につながるが、そのまま尾根筋をたどり、急坂を一気に登ったところが、「あかはげ山」といわれたところである。
    【写真左】あかはげ山
     文字通り赤茶色の地肌が露出している箇所で、この一角だけ草木があまり生えていない。

    あかはげ山をすぎると、尾根筋は次第に西に旋回し「鳥ノ子山」の稜線へつながっていくが、途中で幅の広い削平地が確認できる(下段写真参照)。
    この箇所は尾根ルートの北東部となり、このあたりから北方方面の視界が開けていく。

    【写真左】削平地
     この付近ではもっとも幅の広い尾根で、しかも平坦地となっている。

    【写真左】鳥ノ子山手前の眺望箇所
     鳥ノ子山手前の尾根筋だが、写真にあるようにこの箇所だけ北側に大きな岩が残り、北方方面の見晴しがいい。


     写真の奥に見える山は、おそらく大平山(502m)だろう。

    このあと、さらに西に向かうと「鳥ノ子山」に至るが、さすがに屹立した山であるため、距離は短いものの、急坂となっている。
    【写真左】鳥ノ子山・その1
     頂上部に設置された看板。


    大分年数が経っているいるため、文字がかすれているが、「鳥ノ子山」と読める。
    【写真左】鳥ノ子山・その2
     頂上部は5,6m四方と狭いが、フラットな面になっている。
    【写真左】鳥ノ子山・その3
     南東方向に真山城を遠望したものだが、麓から眺めた真山城の形と大分違い、南端部の傾斜がかなりのものであることが分かる。

    また、頂部である主郭から並行して南に延びる「一の床」までの長さが相当あり、尼子氏や毛利氏らが大挙して陣を構えたことが改めて実感できる。
    【写真左】鳥ノ子山・その4
     北西方向に日本海を見る。
     鹿島港から出向した船が見える。視界がもっと良いと、おそらく隠岐の島が見えるだろう。
    【写真左】白鹿谷との分岐点
     鳥ノ子山を過ぎると、今度は南方向へのコースとなる。
     左側に降りると、白鹿谷につながる。今回はこのまままっすぐ南に向かう。


    なお、鳥ノ子山周辺部には明確な遺構は確認できなかったが、このあたりも尼子・毛利の合戦の舞台となったことは間違いないだろう。

    特に、永禄5年(1562)の「白鹿城 二の城戸大合戦」では、毛利方が白鹿城を落とすべく、全周囲を包囲している。

    次稿は、鳥ノ子山からさらに南の稜線へ向かった「大高丸跡」「白鹿山城砦跡群」エリアを取り上げたい。