2012年11月10日土曜日

釜峰山城(広島県庄原市口和町湯木)・その1

釜峰山城(かまみねやまじょう)・その1

●所在地 広島県庄原市口和町湯木●築城期 戦国期
●築城者 湯木三郎兵衛則正
●城主 湯木則正、涌吉、則重
●遺構 七条の連続堀切・厳洞窟・釜峰神社・光明寺跡・石垣・堀切・土塁等
●備考 釜峰山森林浴公園
●高さ 標高650m
●登城日 2012年10月24日

◆解説(参考文献『ものがたり 三次の歴史 三次地方史研究会編』等)
 釜峰山城は、以前取り上げた蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1から南方約15キロ下った釜峰山(H:788m)の南西に延びる尾根筋に築城された城砦である。
【写真左】釜峰山城遠望
 南麓側から見たもの。
 下の道をこのまま住んでいくと、登城口に繋がる。

 釜峰山を越えていくと、ほぼ真北に蔀山城が位置する。
 


現地の説明板より

“釜峰城跡(標高650m)

 群雄割拠する戦国時代に、自然の天険を利用難攻不落の要塞として釜峰山を選んだ湯木三郎兵衛則正がこの地に築城し、15代則重まで続く。

 城主の守護神として、三の丸東方の岩壁に、「天狗社」を祭祀していたが、則重が毛利に従い長州に落ちる前、現在地へ勧請したと伝えられる。
【写真左】駐車場及び登山口付近
 駐車場はこの場所とさらに上にもあるが、ここから先の道は舗装されておらず、一般の登山者はこの場所に停める。3,4台は駐車できるスペースとなっている。

 写真の鳥居は中腹に祀られている釜峰神社の二の鳥居で、この他金屋子神社があったことを示す祠などが鎮座している。




 1989年3月。口和町文化財保護委員会と新祖隆太郎氏の調査によると、階段式山城。安土桃山時代(戦国時代)の山城である。

特徴
  • 中心郭(本丸)背後(東側)の七条の堀切。―他の山城では見られない珍しい堀―
  • 南側斜面に設けられた虎口(出入口)をもつ郭の配置。
  • 西側は断崖絶壁(この下に社がある)。
  • 北側は急斜面で上り下りは極めて危険困難。
  • 南方山麓に見留山(東側)大仙山(西側)の山頂に小城跡や古井戸もあり、金の茶釜の伝説もある。”
【写真左】案内マップ
 登城口付近に設置されている。
なお、釜峰山城を含めたこの地域は同マップにも書かれているように、「釜峰山森林浴公園」として整備されている。

こうした案内図があると、方向や距離感が把握でき、ありがたい。
 また、左下には釜峰山城の縄張図も添付してあり、後ほど紹介したい。





和泉合戦と大合戦橋

 当城については、黒岩城(広島県庄原市口和町大月)・その1及び黒岩城・その2で少し紹介しているが、当城が歴史上もっとも知られることとなったのは、天文21年から22年にかけての和泉(泉)合戦である。この戦いは後に「備北の天王山」ともいわれた。
【写真左】黒岩城









 
 天文20年(1551)、大内義隆は長門大寧寺において、重臣・陶晴賢のクーデターにより自害した(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)。この時から安芸吉田の毛利元就は、安芸・備後の支配を目指すようになる。

 そうした中、天文22年(1553)、それまで元就に恭順を示していた三次盆地に勢力を張っていた江田氏が突然、尼子方に寝返った。このため、元就は直ちに江田氏を攻めるべく三良坂に兵を進めた。
 これに対し、出雲の尼子晴久も本隊を率いて奥出雲の王貫峠を越え、備後高野の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1に入り、さらに南下し口和の湯木に兵を進めた。
【写真左】光明寺跡
 登城後しばらく進むと「光明寺跡」が右手に見えてくる。
 現地の説明板によると、城主湯木氏は守護神として、天狗社・祈願所光明寺・菩提所法林寺を勧請したとされる。

 光明寺は1556年ころ(弘治2年前後)、竹林山光明寺として宮内村へ移ったが、1956年当院を閉じた。湯木氏末孫は内海町西福寺住職という。


 当時釜峰山城には、吉川氏の家臣13名が派遣されていたが、尼子方によって全員が殺害、その後、晴久は城主・湯木涌吉を味方につけ、毛利氏と対峙する重要拠点とした。

 この報を知った元就は途中から兵を分け、口和町大月に吉川方と併せ4千の兵を配置、さらには黒岩城の和泉氏の協力を得て、竹地谷川を挟んで、尼子氏と対峙した。この時の戦い場所が、黒岩城・その2で紹介した「大合戦橋(おんがせしばし)」である。
【写真左】厳洞窟・その1
 登城途中に見えるもので、断崖絶壁にあるが、この日は木立が遮りよく見えなかった。


現地の説明板より

“厳洞窟

 近郷稀に見る断崖絶壁に鎮座まします霊験あらたかな天狗社は、古くから籠り修行の場として知られている。
 深谷の衆流を集め、社前から落ちる数丈の滝で身を清め行に励み、傍らの洞で雨露を凌んだ場という。
 三次の妖怪退治の稲生武太夫もその一人。
【写真左】厳洞窟・その2

 尼子の十勇士の一人、山中鹿助も若年修行場としてこの地を選んだと伝えられている。

 1540年のころ、尼子晴久が三千余騎を率いて高野山蔀山城から釜峰城へ押し寄せたとき、山中鹿助は先鉾をつとめ息もつかさず戦えども、天然の要塞を容易に攻めることができず、遂に水攻めになさんとしたが、その効なく云々―尼子戦記より”

湯木氏

 説明板にもあるように、当城の築城者は湯木三郎兵衛則正とされ、釜峰山城の築城期も戦国期とされている。そして、最期の当主まで15代続いたということになっているが、仮に戦国時代をおおよそ100年とすると、城主の在任期間は平均して、6~7年程度と非常に短いことになる。

 蔀山城の多賀山氏などと同じく、備北と出雲の狭間で常に揺れ動いていた小国人領主の苦労が推察される。
 
 湯木氏に関する資料はあまり詳細なものはないが、毛利方となった最期の当主第15代則重は、他の一族同様長門へ移ることになる。
【写真左】釜峰神社本殿
 厳洞窟を過ぎるとすぐに釜峰神社にたどり着く。本殿の下には社務所が建っている。



 現地の説明板より

“釜峰神社(天狗社)
   標高555m

 城主の守護神として、山腹に祀られていた天狗社を、15代城主則重公が、現在地へ勧請したと伝えられ、明治維新に釜峰神社と改称された。「天狗さん」と親しまれている。

 軍神と崇められ霊験あらたかな「佐田彦の神」は、日清日露の両役から、特に第二次世界大戦中は、近郷近在は勿論のこと、四国九州に至るまで、多くの人々が兵士の武運長久を祈ったが、戦後はお参りの人もなく荒びれ放題に放置されていた。
 戦後この山で働く人に事故災難が絶えず「これでは」と、杉谷哲次氏が発起人となり。1981年春、本殿を寄進祈願した。

 参拝者の一人―白蛇を見た―瀬川勧文集原稿より 広島市在住(口和町竹地谷出身)
 1981年の夏(昭和56・8・14)御礼参りをした時の2,3分の出来事。

 本殿の花立から枯れた榊を取り出し、傍らの岩に置いてお酒を供えていると、置いたばかりの榊の中から、20cm位の茶色がかった白蛇が、極めてゆっくりと這い足もとの方へ下り始め、本殿下の石積みの中へ入っていった。その後は全く姿が見えなくなった。本殿の中だろうか(社務所・写真掲示)。
 霊験あらたかな天狗様の化身ではないかと直感し、世にも不思議な出来事に拘わりあったことを感謝している(以上抜粋)。

 当時の湯木氏子総代が立ち上がり、1985年12月、神具等持ち寄り大祭を機に多くの方々の浄財により、1988年4月、拝殿社務所の落成。「交通安全」「心願耐達」「気力の充実」を祈願している。
 大祭は4月29日(みどりの日)と決め、釜峰神社奉賛会がお世話をしている。
 釜峰山森林浴公園の二の鳥居に、大天狗を安置した山門が1996年に落慶し、皆様の御来遊をお待ち致しております。”
【写真左】本丸まで400mの地点
 釜峰神社本殿から本丸まで400mと書かれた表示板。
 なお、この場所には「天狗名水」とされた谷水が流れている。

 ここから先は、一段と傾斜が険しく、きついルートとなるが、こまめに九十九折に道が整備されているため、ありがたい。
【写真左】登城道・その1
【写真左】登城道・その2

 












この辺りから城域に入るが、今稿はここまでとし、次稿で紹介をしたい。

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