2012年10月30日火曜日

興禅寺と春日局(兵庫県丹波市春日町黒井)

興禅寺(こうぜんじ)春日局(かすがのつぼね)

●所在地 兵庫県丹波市春日町黒井
●山号 大梅山
●開基 荻野悪右衛門直正(黒井城主)
●宗派 曹洞宗別格地
●本尊 釈迦如来
●中興 寛永3年(1626)移築
●指定 国指定史跡
●探訪日 2012年10月14日

◆解説
 前稿黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の南麓に建立された寺院で、江戸期に活躍した大奥の春日局(かすがのつぼね)が生まれたところとされている。
【写真左】興禅寺
 南側の総門・参道から見たもので、向背には黒井城が控える。








現地の説明板より

“春日局生誕地(興禅寺)案内

 興禅寺は、山号を大梅山といい曹洞宗の別格地で、本尊には仏師春日の作・釈迦如来を祀り、七堂伽藍がよくととのった名刹です。

 戦国時代、この寺域一帯は、背後の山城黒井城(国指定史跡)の下館でしたが、天正7年8月、明智光秀の丹波攻めで落城。その戦後処理と西丹波一円の統治のため、ここに入ったのが光秀の重臣斉藤内蔵助利三です。今でも斉藤屋敷の伝承が残り、水濠と高石垣、白のねり塀のたたずまいは、往時の景観を良く残していて国の史跡の一部となっています。

 この年の春、母お安(あん)との間に生まれたのが、お福(後の春日局)で、寺内にはお福の「産湯の井戸」や「腰掛石」など残り、幼い日の春日局をしのぶことができます。
   丹波市観光協会”
【写真左】高石垣と七間濠
 斉藤氏の屋敷跡としての雰囲気が今でも残る景観である。









斉藤内蔵助利三

 お福(春日局)の父斉藤内蔵助利三は、美濃斉藤氏の一族といわれている。ただ有名な斉藤道三とは別の系譜で、父は利賢。

 利三は明智光秀とは縁戚関係にあり、明智氏の筆頭家老として重用された。光秀の本能寺の変に際して、当初反対していたというが、最終的には主君である光秀に従った。変後山崎の戦いで敗れ、逃走するも近江堅田で捕らわれ、最期は京都六条河原で斬首となった。去年49歳。
【写真左】楼門
 楼門(山門)は、ベンガラ色に染まり、屋根は武家屋敷風の趣を感じさせる。
 






春日局(斉藤福)

 利三には男4人、女3人の子があった。お福(春日局)はその三女といわれている。テレビの『大奥』などで度々紹介され、徳川第3代将軍・家光の乳母として知られる。

 お福が生まれたのは、天正7年(1579)といわれているので、丹波黒井城落城の年である。この3年後に本能寺の変が起こり、父が斬首されるので、3歳になったばかりで父を失うことになる。

 その後、母方の親戚であった公家・三条西公国に預けられた。ここで公家としての素養を中心に、書道・歌道などを習得していく。
【写真左】お福産湯の井戸・その1
 お福が生まれて産湯を浸かったといわれる井戸。
 本堂の裏にある。






 春日局が後に江戸幕府大奥の権力者となっていく大きな転機は、稲葉正成に嫁いだことからだろう。

 正成は小早川秀秋の家臣であったが、関ヶ原の戦いでは、当初西軍方の旗色を示していた秀秋を説得し、東軍方に寝返らせたことから、家康に勝利をもたらした。
【写真左】お福産湯の井戸・その2
 今でも水が出ているようで、きれいに管理されている。
【写真左】宝篋印塔
 由来など明記されたものはなかったが、お福産湯の井戸からさらに奥に進んだ小道の脇に建立されている。

 お福と拘わりのあった武将のものだろうか。

2012年10月29日月曜日

黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)

黒井城(くろいじょう)

●所在地 兵庫県丹波市春日町黒井
●別名 保月城・保築城
●築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 赤松貞範
●城主 荻野氏など
●高さ 標高356(比高220m)
●遺構 本丸・二の丸・三の丸・西の郭・東の郭、石垣など
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年10月14日

◆解説
  前稿柏原・八幡山城(兵庫県丹波市柏原町柏原)からJR福知山線に沿って北上していくと、ぐるっと東に旋回して黒井駅にたどり着く。この付近を通ると、左手に形のいい山が見える。これが標高350m余りの猪ノ口山といわれた山で、この中腹部から頂部にかけて築かれたのが、黒井城である。
【写真左】黒井城遠望・その1
 南西麓から見たもので、中腹にある石踏の段をはじめ、本丸等頂部が綺麗に整備されていることが分かる。

 撮影日 2017年6月18日
【写真左】黒井城遠望・その2
 南麓から見たもの。
【写真左】黒井城登城案内図
 次稿に予定している「春日局庵」側に設置されている案内図で、駐車場はこの場所(春日局生誕地・興禅寺)と、そこから少し上った黒井城登山口にある場所の2か所がある。




 現地の説明板より

“戦国の森 黒井城跡

 黒井城跡のある城山は、町民の誇りと愛着を感じる春日町のシンボル的存在で、戦国の森として、春日町における丹波の森の中心となっています。

 ここは戦国時代の古城跡で完全な山城であり、天正7年、明智光秀の丹波攻めにより落城にあた荻野悪右衛門直正の居城のあとで、戦国の山城「黒井城」の遺構が落城時のまま残り、貴重な文化財として国の指定史跡となっています。
【写真左】黒井城全体図
 城域を示した要図で、主だった遺構は、南麓から順に


  • 三段曲輪
  • 太鼓の段・水の手曲輪
  • 石踏の段
  • 出丸
  • 本城
  • 西の丸

等が記されている。

 山頂では春日町を一望でき、山東平野を眼下に望み、晴天には京都の愛宕山、丹後の大江山を望見することができます。

 ふもとには、「春日局」幼名お福が呱々の産声をあげたと伝えられる当時の下館跡(興禅寺)が、七間濠・高石垣と白いねり塀で戦国時代の居館のようすを今に伝えています。”
【写真左】登城口付近・駐車場
 直下にある駐車場で、この場所には5,6台が確保され、手前にも4,5台駐車できる場所がある。
 登城したのが日曜日で、しかも晴天であったこともあり、少なくない登山者が来ていた。
 登城道はこの写真の奥に見える階段と、手前から登る道があるようだが、ほとんどの人はこの階段のコースから登っているようだ。
【写真左】三段曲輪付近
 本丸から約700m手前にある個所で、尾根伝いに中小の郭段が連続している。










築城期

 築城期は南北朝時代といわれている。建武2年(1335)12月、新田義貞と戦った赤松貞範がその戦功によって足利尊氏から当地・丹波国春日部を与えられたという。赤松貞範とは、赤松円心(則村)の子である。

 この年12月11日、足利尊氏・直義は、伊豆の箱根竹下で新田軍を破った。世にいう「竹下の戦い」である。この戦いで貞範の軍は新田軍の脇屋義助(脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺参照)方7000余騎に対し、わずか300余騎で戦い勝利したという。この時の恩賞として、尊氏より当地・丹波春日部荘と播磨の一部を与えられた。以後、教貞に至る5代まで約120年の間、当地を治めることになる。
【写真左】太鼓の段との分岐点
 本丸から約400m手前にある位置で、まっすぐ進むと、このあと「石踏の段」が控える。
 太鼓の段はここから右に向かう。
【写真左】太鼓の段
 南東方向を扼する曲輪で、写真手前が太鼓の段。その先には「東出丸跡へ」と書かれていたので、向かったものの、途中から道が急傾斜のためほとんど消滅し、足元が滑る一方だったので断念した。





明智光秀丹波攻

 黒井城主として赤松氏が支配した後、当城の城主の経緯ははっきりしないが、赤井氏や荻野氏らとなっている。このころの詳細な記録が残っていないのは当地に限らず、畿内から西国全般に言える。

 大永7年(1527)2月細川高国政権が崩壊すると、それから20年余りにわたって京都を起点に、畿内・西国の諸国は離合集散を繰り返し、下剋上の世となっていく。そして、天文19年(1550)11月の三好長慶が入京し、一つの節目を迎えた。
【写真左】石踏の段・その1
 太鼓の段から再び登城道に戻るとすぐにこの郭段が出てくる。本丸から300m手前に構築されたもので、眼下に春日の町並みが見える。
【写真左】石踏の段・その2
 最上段にある展望台からさらに下に向かって、約4段程度の曲輪が残る。
 左上段に舞鶴若狭自動車道が見える。







 さて、天正年間に入ると、知られるように織田信長の天下統一に向けた動きが活発となる。信長の命を受けた明智光秀が、丹波攻めを行った中で重要な戦いの一つが、黒井城の攻略である。この戦いは天正3年(1575)と、同7年(1579)の2回にわたる。

 信長が西国の入口である丹波・播磨に侵攻していったのは、以前にも述べたように、対毛利氏との対決がその背景にあった。特に丹波の西方には但馬があり、そして因幡が控えている。山陰の攻略は尼子残党である尼子勝久・山中鹿助らを支援し、特に因幡においては天正2年(1574)、私都城・若桜鬼ヶ城を攻略させた。このため、但馬の山名祐豊は豊国救援のため、一旦毛利方に通じた。

 そこへ、今度は今稿の黒井城主・荻野(赤井)直正が但馬へ進入したため、祐豊は再び信長方に転じた。

 翌天正3年(1575)10月、明智光秀はこの荻野直正を攻めるべく丹波に入り、黒井城を囲んだ。光秀らの丹波攻めを機会に同国の国人衆はほとんど光秀に属したという。しかし、その翌年に至ると、光秀に属していた丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の城主・波多野秀治が謀反し、途端に光秀は敗退を余儀なくされ、京へ退いた。これが第1回目の光秀による丹波攻略である。そして、天正7年改めて丹波攻めを行い、丹波平定を終えた。この結果、山陰道から侵攻しようとした毛利勢の東上ラインは塞がれることになる。
【写真左】東曲輪跡
 石踏の段を過ぎると、途端に九十九折となって傾斜がきつくなるが、200m余りで頂部にたどり着く。
 最初に目に入るのが、この「東曲輪」である。ご覧の通り石積みがしっかりと残っている。
 本丸付近の概要を示したものが、下段の図である
【写真左】黒井城跡本城部
 上記の写真である東曲輪跡はこの図でいえば、三の丸の右側の石積みになる。

 本丸・二の丸・三の丸併せた規模は、東西約170m×南北約45m。
【写真左】三の丸
 先ほどの石積みを過ぎると、三の丸の曲輪が見える。
 奥に見えるのは、次の二の丸の石積み。
【写真左】二の丸
 三の丸より奥行がある曲輪で、本丸の規模とさほど変わらない。
 奥に本丸の石積みが少し見える。
【写真左】堀切
 二の丸から本丸に向かう位置に分断するように縦に堀切が残る。
 現地には茅などがあって分かりづらいが、2,3m程度の深さはあるだろう。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
 現地には黒井城の別名保月城と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】本丸・その3
【写真左】西の丸
【写真左】西の丸から本丸を見る。
【写真左】竜ヶ鼻砦か
 本丸から北側の中腹に見えたもので、この箇所だけ露出している。
【写真左】本丸から南麓の春日の町並みを見る。
 奥に見える山並みには、向山(H:569m)や清水山(H:546m)などがあり、それを超えると、光秀が丹波攻略のために築いた金山城(H:537m:未登城)が控える。
【写真左】本丸から南東方面を見る。
 この方向には、丹波・篠山城(兵庫県篠山市北新町2-3)や八上城が控える。

2012年10月24日水曜日

柏原・八幡山城(兵庫県丹波市柏原町柏原)

柏原・八幡山城(かいばら・はちまんやまじょう)

●所在地 兵庫県丹波市柏原町柏原
●築城期 南北朝期
●築城者 荻野氏
●城主 波多野氏・小林氏・明智光秀・堀尾吉晴など
●高さ 150m(比高50m)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2012年10月14日

◆解説
 兵庫県の北東部にあたる丹波市の南部・柏原にある城砦で、文字通り当地には八幡神社が祀られている。

 ところで、柏原は「かしわばら」又は「かしはら」と呼ばず、「かいばら」と呼称する。当地は、信長の子孫が治めた織田家ゆかりの町でもあり、今稿の「八幡山城」の他に、国指定となっている「柏原藩陣屋跡」などが残る。
【写真左】柏原・八幡城跡に立つ三重塔
 万寿元年に男山八幡の別宮として建立された神社であるため、戦国期における当社の建物の位置関係は分からないが、この辺りが最高所であることから、事実上主郭としての役割を兼ねていたのかもしれない。


現地の説明板より

“八幡神社(本殿および拝殿)
 万寿元年(1024)男山八幡の別宮として創建後、明智光秀の丹波攻めで戦火にあったが、天正10年(1582)豊臣秀吉が武将堀尾茂助に命じて再建させた。

 構造形式は、本殿拝殿がつづいた複合社殿で三間社流造桃山期の手法で、各部の彫刻は室町時代の様式です。
 大正2年、国の特別保護建造物、昭和2年国宝、昭和25年国の重要文化財に指定され、昭和50年1月から21ヶ月をかけ国庫補助事業として本殿は半解体、拝殿は解体修理が行われた。”
【写真左】主郭(拝殿)下から見る。
 現在本殿に向かうための道が整備されているため、郭等の遺構が判然としない箇所が多いが、切崖の情況は現在とほぼ同じだったものと思われる。



小林平左衛門重乾の討死

 当城については、以前沢田城(兵庫県篠山市沢田)で触れているが、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の城主波多野氏の家臣だった小林平左衛門重乾が、天正7年(1579)、明智光秀に攻められ、沢田城落城後、この八幡山城において討死した場所でもある。

八上城(高城山)及び支城とされた沢田城が次々と明智光秀によって落とされ、西北に敗走し最後にこの地で討死したものと思われる。


堀尾茂助

 天正10年(1582)、秀吉が八幡神社の再建を命じた相手は堀尾茂助、すなわち後に家康から出雲・隠岐24万石に封じられた堀尾吉晴である。当時38歳前後である。
【写真左】本殿と三重塔
 中規模であるが、風格と趣を備えた建物である。










 吉晴が頭角を現し出すのは天正年間に入ってからである。

 特に丹波国(黒江)においては3,500石を、またこの年(天正10年)即ち本能寺の変後、天王山の戦いなどにおいて武功を挙げ、同国(丹波)柏原を中心とした氷上郡を所領として、6,200石余りを扶持された。

 八幡山城の八幡神社再建は、これに併せて行われたものである。
【写真左】郭段
 小規模ながらこうした郭段の痕跡が見える。
【写真左】竪堀か
 歩道等の施工があるため、はっきりしないが、堀切もしくは竪堀のような跡がある。

 なお、この八幡山城の細い尾根を少し上っていくと、数段の郭・堀切などの遺構が散見されるというが、管理人はそこまで向かっていない。
【写真左】社殿側から後方を見る。
 この位置は特に険峻な切崖となっており、要害性が高い。


【写真左】正面から見る。
 丁度この神社下の柏原の町では秋祭りが行われ、本殿では子供さんを含めた一家族がお祓いをしていた。普通より1か月早い七五三をしていたのだろう。
 神主さんが本殿から出てこられた。
【写真左】三重塔
 平成元年3月31日、兵庫県指定文化財となった。

 この塔は文化10年(1813)から同12年にかけて建立されたという。

 江戸時代後期建立の塔婆で、神仏混淆当時の名残りをとどめた数少ない歴史的建造物。

2012年10月22日月曜日

黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)

黒田城(くろだじょう)

●所在地 兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 赤松氏か
●城主 黒田氏
●高さ 稲荷神社本殿付近40m前後、主郭付近(350m前後)
●遺構 郭等
●備考 稲荷神社(清綱稲荷大明神)
●登城日 2012年10月14日

◆解説(参考資料「サイト:播磨黒田氏 黒田官兵衛」「北はりま田園空間博物館編 まるごとガイド」等)
 兵庫県のほぼ中央部には、西脇市と多可町という町がある。この二つの自治体を併せて「北はりま地域」という。旧国名でいえば、丹波・但馬国が接し、二つの河川である加古川・杉原川が隣国を繋ぎ、播磨灘(瀬戸内)に注ぐ。

 当地を含めた播磨国には、「風土記」としては完成本の『出雲風土記』に及ばないものの、『肥前国風土記』などと同じく、一級の史料として『播磨國風土記』が残る。これによれば、今稿の黒田城がある黒田地区は、土が黒いことを以て「黒田庄」と為した、とされている。
【写真左】黒田城位置口付近
 JR加古川線の本黒田駅から東に約1キロほど向かった地区にある。

 黒田城は下段に示すように、この写真の左側の尾根を中心として築かれている。



播磨黒田氏黒田官兵衛

 さて、この黒田庄は戦国武将で名軍師といわれた黒田官兵衛(孝高・如水)の生地ともいわれている。彼の本貫地としては、今のところ三説あり、断定はできないが、地元の郷土史「黒田庄町史」には、黒田部落所有の古文書の中に、黒田官兵衛孝高の系図の写し1巻が伝えられているとし、この地が最も信憑性が高いとされている。
【写真左】黒田城(稲荷神社)を遠望する。
 手前の田圃あたりに構居があったとされ、黒田城の主郭(本丸)は、稲荷神社の奥の尾根筋を向かった位置にあった。

 なお、向背の妙見山を中心とした山並みを越えると、隣の丹波国に入る。


 また、「播磨黒田氏 黒田官兵衛(以下『播磨黒田氏』とする)」というサイトでは、官兵衛の先祖から始まり、同氏が活躍した記録、史跡などが詳細にわたって調査されたもので、同氏の全容を知ることができる。

 官兵衛の出自については、今のところ近江佐々木流黒田氏と、播磨黒田氏の2説が主流を占めている。詳細はサイト『播磨黒田氏』に記されているが、管理人も同サイトで述べているように、官兵衛も当地、すなわち播磨の出である可能性が高いと思われる。そしてこの黒田氏の始祖は、赤松円光であるという。
【写真左】稲荷神社が祀られている山
 黒田城のいわば出城のような役目を負った城砦で、今回の登城はこの稲荷神社が祀られている頂部までの探訪である。


 彼は赤松円心の実弟である。円心についてはこれまで、駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)などでも紹介しているが、かれの主だった活躍の地は、駒山城や白旗城(未登城)を中心とした赤穂郡上郡地域、すなわち西播磨である。そして、円光が活躍した場所は北東部にかけたこの北播磨地域である。

黒田氏を名乗ったのは、円光の子・重光である。かれは黒田庄に入って黒田氏を名乗った。以上のことから、播磨黒田氏は赤松氏の庶流ということになる。

 さて、官兵衛は当ブログでは中津城(大分県中津市二ノ丁)で取り上げているが、晩年太宰府天満宮内に草庵を構え、隠居生活を送り、慶長9年(1604)、京都伏見の藩邸で死去した。享年59歳。

 名だたる戦国武将の中でも、強烈な個性を持ち、しかも文化人であった。管理人が興味をそそられる武将の一人でもある。
【写真左】稲荷神社参道始点
 参道に入る前の地点には小さな川が横断している。濠の役目もしていたのかもしれない。





黒田城

 黒田城はこの黒田庄超黒田に所在する丘城であるが、現在当地には稲荷神社が祀られている。サイト『播磨黒田氏』によれば、黒田城はこの稲荷神社を含め、ここから後方の天狗山(H:485m)までの尾根続きに、三の郭・二の郭、そして主郭が築かれていたという。そして、この東西のラインの南北には、それぞれ出郭が数か所築かれていた。

 稲荷神社の西麓、すなわち現在の水田地帯には、構居跡があった。平時住まいをするところであるが、この田圃には旧字名で「構」というところがあったことから、この位置を比定している。官兵衛はこの構居(屋敷)で生まれたという。
【写真左】参道の鳥居
 麓から連続する鳥居を潜っていく。尾根筋にそってまっすぐのびる道で、鳥居の間隔は次第に拡がっていく。
【写真左】頂部・本殿付近・その1
 いわゆる主郭部となる個所で、多少の傾斜はあるもののほぼフラットな削平地で、20m四方の規模となっている。

 いわゆる郭としての機能があったものと思われる。
【写真左】頂部・本殿付近・その2
 東側の切崖
 細尾根のため東側はかなり険峻なものとなっている。

 なお、この東側後方には堀切があったとされているが、現在管理用の道路が敷設されているため、はっきりしない。
【写真左】稲荷神社
 祀られているのは、正一位清綱稲荷大明神で、小規模ながら熱心な地元の氏子の皆さんによってきれいに管理されているようだ。
 
【写真左】主郭から黒田庄の町並みを見る。
 北(右)から東にかけて加古川が流れ、播磨灘に注ぐ。

2012年10月18日木曜日

男坂城(兵庫県養父市大屋町宮垣)

男坂城(おさかじょう)

●所在地 兵庫県養父市大屋町宮垣天満山
●築城期 不明
●築城者 不明(八木氏か)
●城主 不明
●高さ 標高120m(比高30m)
●遺構 郭・堀切
●形態 丘城
●備考 武内男坂神社
●登城日 2012年10月13日

◆解説
 今稿も前稿に引き続き養父市大屋町にある丘城・男坂城を取り上げる。

【写真左】男坂城本丸跡
 本丸跡には現在男坂神社の本殿が祀られている。

















 所在地は、大屋・城山城(兵庫県養父市大屋町夏梅・加保)よりさらに大屋川を下った宮垣という地区にあり、北方の山陰道(R9)より琴引峠を越えて大屋川に至る宮垣八木線(272号線)が交わる個所にある。

 現在、この宮垣八木線は、琴引トンネルが開通したことにより、数分で往来することができる。

 ところで、この宮垣八木線が北方の山陰道(R9)と合流する剣大橋の真北に聳える山には、国指定の八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)及び八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)がある。
【写真左】当社の石碑
 参道は西側にあり、「式内男坂神社」と刻銘されている。
 なお、ここまで車で上ってきたが、とても狭い道と駐車スペースのため、Uターンが出来なくなり、地元の青年にお手伝いしていただいた。名前を聞くのを忘れたが、改めてお礼申し上げる。

 駐車場は後でわかったが、南東の団地側からしっかりした道と場所が確保されていた。


 さて、当城の男坂城についてだが、名前からしてなかなか勇壮なネーミングであるが、読みは「おとこさか」ではなく、「おさか」という。

現地の説明板より

“兵庫県指定文化財 男坂神社のシラカシ林
    指定年月日 昭和61年3月25日
    所在地 養父市大屋町宮垣天満山196番地

 男坂神社は、宮垣の約80戸が守る大きな神社です。
 平安時代には神社名が知られる式内社で、天満山と呼ばれる小高い丘陵の頂上に本殿があります。 

 神社の境内には、高木層ではシラカシ、カゴノキが優勢で、それにホウノキ、ムクノキ、エゾエノキ、エゴノキなどの落葉樹が混成しています。蛇紋岩地帯に多いヤマカシウも生育して植物相も豊富です。
 境内には幹廻りが150cmをこえるシラカシ、カゴノキが約20本も生えています。本殿を含めた6625㎡の範囲が、県指定の天然記念物です。杉の植林などで失われた但馬の里山の原形が残る貴重な森です。
【写真左】一番下の郭跡
 参道の右(南)側にあるもので、縦横20m前後と広い。
【写真左】次の郭に向かう。
 先ほどの郭段から上に向かう階段は傾斜もあり、しかも高低差がかなりある。

 丘城であるが、当時はこの箇所はかなりの切崖であったと思われる。












 また、男坂城跡と呼ばれる山城もあります。本殿のある場所が本丸にあたる主郭です。そこから、下の広場まで続く2段の平坦地が城跡の曲輪です。そして城の西側は堀切で守られています。宮垣区には男坂城と三方城の2城があり、大屋の入口を防御しています。

 県指定文化財のシラカシ林、天正5年の但馬攻めに備えた男坂城跡、菅原道真公もお祀りする男坂神社がある天満山の森は、様々な自然と歴史を伝えています。

    平成17年3月15日
      大屋町宮垣区・養父市教育委員会”
【写真左】帯郭
 上記の階段途中から見たもので、改変されているため詳細は不明だが、主郭を中心にほぼ全周囲にわたって2,3段の細い郭が取り巻いていたと思われる。
【写真左】主郭(本丸)跡
 現在祀られている本殿の位置が主郭跡で、20m四方規模のものとなっている。








八木城と三方城

 ところで、この男坂城から大屋川を挟んで南岸に聳える山には三方城がある。この城と、上述した八木城について中世の悲話が残っている。
【写真左】三方城遠望
 男坂城(神社)から見たもので、左下の橋は大屋川が流れる。

 なお、三方城の麓にも神社があり、その後ろから直登で登城できる道があるということだが、当日は時間の関係で登城していない。
 郭・竪堀など明瞭に残っているという。




 宮垣の三方城の城主であった三方正秀の妻は、元々八木城(八木氏)から嫁いでいた。三方城が落城した後、八木の実家に帰った。そして三方城が見えるところで、家臣の冥福を祈って琴を弾いていた。在りし日が忍ばれ、この姫は悲観し池に身を投じたという。そして、この池から着物の袖が見つかったので、袖ヶ池と呼ぶようになったという。

 この池は、上述したトンネルができる前の街道である琴引峠のある個所にあり、琴引の名も、この姫が琴を弾いていたことからの由来であるという。
【写真左】男坂城西麓付近
 中段に見える場所が郭で、その下は畑地となっている。








 説明板にもあるように、男坂城は上記した三方城の南麓を流れる大屋川の対岸にあり、配置から考えて、三方城の支城的役割を担っていたと考えられる。そして、大屋の入口を防御していたと記されている。

 現在は神社が祀られて、周辺の遺構についてはかなり改変された跡が多いが、主郭(本殿)付近の規模などは当時のままと思われる。