2012年9月25日火曜日

鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)

鵯尾城(ひよどりおじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市玉津
●築城期 天文年間(1532~55)頃
●築城者 武田高信
●形態 山城
●高さ 268m(比高180m)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2012年5月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系14巻』等)
 鵯尾城は鳥取市を流れる千代川の西方1キロの山に築かれた武田氏の山城である。
【写真左】鵯尾城遠望
 登城口のある北東麓から見たもの。
 
 標高があまり高くないことから、周りの山に遮られ、当城を遠望できる箇所は意外と少なく、この箇所から辛うじて見える。


現地の説明板より

“鵯尾城の歴史

 玉津南西に位置する268mの峰を中心として、周辺の尾根や尾根続きの峰に郭群が認められ、空堀跡等も認められる。因幡南部と北部を結ぶ交通の要衝にあり、北東方の鳥取城と鳥取平野を一望できる。築城年代は不明、当城と鳥取城は武田高信の拠点であり、特に南因幡方面からの侵攻に備える戦略拠点であったと考えられる。
【写真左】現地案内図・鳥瞰図
 主だった遺構は、この図にもあるように、馬場・三の丸・二の丸・本丸・出丸があり、このほか尾根伝いや東斜面には大小の郭など19を数える。
 大手は現在の登城口と同じ北東側である。


 武田氏は天正元年(1573)8月、因幡へ侵入してきた尼子氏の家臣、山中鹿助のこもる甑山城(国府町)を攻撃するが敗れ、尼子氏と連携する山名豊国に鳥取城を明渡し、当城へ移ったという。

 天正2年の毛利輝元書状に「鵯尾」と書かれ、鹿野城在藩中の野村士悦は、尼子勢再侵入後の因幡の状況を報告し、鳥取城・鵯尾城が『堅固之由』と伝えている。この段階で高信の鵯尾城在城の有無は不明だが、翌3年3月には、豊国が当城を掌握し、5月には毛利氏から徳吉に検使として派遣され在藩していた山田重信の支配下に置かれ、この頃高信は当城を追われていたと推定される。
【写真左】登城口に設置されている鳥居
 この鳥居は登城途中の中腹部に設置されている鵯尾神社のもの。当社の縁起は不明だが、おそらく武田高信が亡くなった後祀られたものだろう。

 高信謀殺を企てた山名豊国は、天正6年8月、智頭の草刈伊豆守追討ちを理由に出陣し、大義寺(河原町)に本陣を置いた。当時高信は鵯尾城に居たが、豊国に合力を依頼されて当寺に赴き、豊国の家臣によって討たれたと伝えられている。
   「因幡民談記」より”
【写真左】登城口付近にある溜池
 この付近は似たような谷が多くあり、登城口の場所を突き止めるまで時間がかかった。いずれも写真にあるような溜池が点在している。

 鵯尾城に拠った武田氏の屋敷跡もこの辺りにあったものだろう。なお、この位置(登城口)から中腹にある鵯尾神社までは400mで、本丸までは1,050mの距離となる。


武田高信

 鵯尾城の城主は、武田又五郎高信である。高信の父は国信で、元は因幡守護山名氏の家臣で、若狭武田氏の傍流とされる。ちなみに、この父・武田国信と同姓同名の武田国信がいる。二人とも若狭武田氏で、非常に紛らわしいが、この武将は若狭武田氏本流で第3代当主である。こちらが活躍していたのは、永享10年(1438)から延徳2年(1490)であるか、ら室町期から戦国初期までである。
【写真左】鵯尾神社
 小規模な社(祠といったほうがいいかもしれない)が祀られている。
 登城道は北東から南西方向にほぼまっすぐのびる尾根を九十九折しながら向かうコースとなっている。
 この位置からすでに鳥取市街地が俯瞰できるが、眺望の写真はさらに上った位置で紹介する。
 ここから本丸までは650mになる。

 さて、高信の父・国信が若狭から因幡に来た時期ははっきりしないが、但馬山名氏と対立を深めた山名誠通(のぶみち)のとき家臣となった。誠通は、但馬山名氏(但馬守護)である祐豊側からの侵入を防ぐべく、因幡の所々に砦を造った。そのうちの一つが後に鳥取城となる久松山の砦である。これと相前後して、誠通は天正13年(1544)頃に、出雲の尼子晴久より偏諱を受け、「久通」と改名している。

 但馬山名氏の攻撃を単独で防ぎきる戦力がなかったこともあるが、この頃の尼子氏は、美作の高田城を攻め、また伯耆国汗入郡などにも進出していることもあって、因幡へかなりの圧力をかけていたことが知られる(天文12年(1544)、尼子晴久が鳥取山下(城下)を攻めた、とする記録が見える)。
【写真左】最初に見えた郭
 馬場跡まで4,50m手前にあった郭で、尾根を削り取り、幅10m×奥行6,7mの規模のもの。
 
 
 誠通は天文14年(1545)ごろ鳥取城を築城したといわれている。前記したように但馬山名氏(祐豊)の備えとして、特にこの砦には意を用いた。当初、当城の城番は交代制で行うこととしたが、次第に他の長臣たちはこの城の城番に退屈し、武田高信が定番するようになったという。

 高信と父国信が主君であった因幡守護山名誠通に対し、叛意(はんい)をいつの時点から持ち始めたかはっきりしないが、具体的にはこの鳥取城の定番となったことがきっかけと思われる。父国信が亡くなった後、高信はさらに露骨な動きを見せた。
【写真左】北東に鳥取城等を見る。
 先ほどの郭を過ぎると、再び同規模の郭が出てくるが、この位置から鳥取市街地がよく見える。

 左側に鳥取城があり、その奥には秀吉が陣した「太閤ヶ平」が控える。麓は鳥取の町並み。


 天文17年(1548)、但馬の山名祐豊は因幡へ奇襲作戦をかけた。この戦いで誠通は討死した(天文15年という異説もある)といわれ、その後豊定が天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)を継いだが、まもなく亡くなった。

 この後、因幡・但馬の両山名氏の抗争がさらに拍車をかけていくが、山名氏そのものの勢威は次第に低下、その流れを高信は見ていたのだろう、鳥取久松山の砦をさらに要害堅固にし、地元国人領主に対し、布施天神山城を攻め落とすことを要請した。
【写真左】甑山城を見る。
 先ほどの位置から右に目を転ずると、小さいながら特徴のある形をした山が見える。
 甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)である。

 天平時代はこの付近に因幡国の国庁が置かれ、政治経済の中心地であった。


 当時の周囲における主だった国人領主は次の通りである。

  • 徳吉・秋里   徳吉将監・秋里玄蕃充
  • 若桜鬼ヶ城   矢部山城守
  • 日下高平の城  波多野
  • 小畑の城    小畑・久世兵庫
  • 私都城・白磯城  毛利豊元(因幡毛利氏)
  • 丹比の城   丹比孫之丞
  • 大江      伊田兄弟
  • 用瀬の諸城  佐治の余類
  • 気高の諸城  海老名七郎・田公次郎左衛門・矢田七郎左衛門・吉岡将監
  • 法美谷   毛利・梶原・岩井(山田安芸守)
  • その他
ところで、高信が鳥取城(久松山)の整備を急いでいるとき、鵯尾城には弟の武田又三郎を置いていたという。
【写真左】馬場跡
 上記の俯瞰した位置にある小郭を過ぎるとすぐに馬場跡が出てくる。

 長さ150m前後のもので、平坦部が続く。





武田氏の没落

 さて、その後因幡山名氏を布施天神山城から追い落とした武田氏ではあったが、永禄12年(1569)但馬の芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)の戦いにおいて、この弟又三郎は討死した。

 天正元年(1573)高信は、甑山城において山中鹿助と戦い(「たのも崩れ」)破れ、鵯尾城に奔った。3年後の天正4年になると、山名豊国によって攻められ、最期は説明板にもあるように、同年豊国の陣所であった河原の大義寺において謀殺された。
【写真左】三の丸へ向かう
 馬場跡を過ぎると、3段の小郭があり、そのあと三の丸が控える。
 3段目の郭は南側にも回り込み帯郭の形状があり、その南斜面には7,8段の連続郭が残っているが、当日はそこまで降りていない。
【写真左】三の丸
 ご覧の通り周囲は雑木があって、遺構は判然としないが、馬場跡より少し幅の広い郭である。
【写真左】二の丸・その1
 三の丸を過ぎると2m程度下り、二の丸が控える。
 幅は三の丸に比べやや狭くなる。
【写真左】二の丸・その2
 登城途中には写真にあるように、倒木や根こそぎ倒れた大木などがあり、このルートは季節によって強い風があたるのかもしれない。
【写真左】本丸へ向かう。
 二の丸から本丸までは少し距離がある。尾根の南側に直線の階段が設置してある。
 この位置から100m弱か。
【写真左】本丸・その1
 幅20m×奥行40m前後で、予想以上の広さがある。
【写真左】本丸・その2
 なお、本丸のさらに奥(南西部)にはいったん下がって出丸があるが、踏み跡が確認できなかったので向かっていない。
【写真左】本丸から日本海方面を見る。
 本丸下の樹木のため眺望が限られているが、北側は視界が確保できる。

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