2012年8月10日金曜日

霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)

霧山城・その2(きりやまじょう・その2)

●所在地 三重県津市美杉町下多気字上村
●築城期 興国3年(1342)ごろ
●築城者 北畠顕能
●城主 北畠政成(城代)他
●高さ 標高560m(比高240m)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2012年4月17日

◆解説
前稿「詰城」の脇を通りさらに1キロ余り向かった北畠氏の本拠城といわれる「霧山城」を取り上げる。
【写真左】霧山城遠望
 南側の道の駅美杉付近から見たもので、この位置からは本丸側の尾根は見えず、後述する「鐘突堂跡」のある稜線しか見えない。




現地の説明板より

“史跡 霧山城跡
   (昭和11年9月3日指定)

 霧山城は、南北朝時代の北畠氏の居城である。南朝方のもっとも有名な公卿であった北畠親房の子、伊勢国司顕能(あきよし)が、延元元年(1336)父とともに入国すると、伊勢地方に南朝方の城砦が設けられた。

 本城は、興国3年(1342)頃築城されたらしい。この城は標高600mの霧山の天険を利用して、本郭をはじめ、道場、米倉、鐘撞堂などが配置され、堀切と土塁で防備されていた。
 また、麓には多気館(現在北畠神社)が築かれた。
【写真左】長い平坦地
 前稿「詰城」から先の紹介となるが、詰城を過ぎて約150mほど進むと、ご覧のような広い平坦地が登城道左に現れる。

 特に説明板のようなものはないが、明らかに人工的な造成遺構と思われる。

 詰城の郭群は小規模なものしかなかったため、この場所は詰城を補完するもので、陣所もしくは馬場等まとまった兵の駐屯場所とも考えられる。

顕能がこの地を選んだのは、地形が防御に適していたことのほかに、伊勢、吉野間の交通連絡と兵糧輸送の便を考えたものと思われる。
 伊勢地方の南朝方の拠点が相次いで北朝方に攻め落とされたときも、本城に足利軍が侵攻したという記録はない。

 両朝統一の後、北畠氏はこの地方の大豪族として勢威をふるったが、天正4年(1576)織田信長に攻撃され、本城もついに落城した。
 伊勢地方の城跡の中で、歴史的に最も著名な城として、昭和11年に国の史跡に指定されたものである。
   昭和18年2月建立 文部省
     美杉村教育委員会”
【写真左】「城跡へ610m」と書かれた位置
 詰城から霧山城本丸までのルートの中で最も傾斜のある位置で、南側が険峻となり細尾根をまっすぐ進む。





伊勢北畠氏系譜

当地伊勢の北畠氏初代は、霧山城築城者で親房の三男・顕能といわれている。
  • 初代  顕能(あきよし)  生年不詳~1383
  • 2代  顕泰(あきやす) 1338~1412? 兄弟に木造顕俊
  • 3代  満雅(みつまさ) 生年不詳~1429 顕泰次男(長男・満泰戦死のため)
  • 4代  教具(のりとも) 1423~71 6歳で家督を継ぐが、叔父大河内顕雅が暫く代行。
  • 5代  政郷(まささと) 生年不詳~1508 北伊勢長野氏らと抗争再燃。四男・顕晴は田丸氏始祖。 
  • 6代  材親(ちきか)  1468~1517 永正8年(1511)出家、晴具に譲る。儒学・仏教に帰依する。
  • 7代 晴具(はるとも) 1503~63 正室細川高国の娘。文武両道の能書家・歌人。晴具の代に細川高国作庭による北畠庭園が完成。伊勢南部(志摩)を支配下に収める。伊勢国の戦国大名となる。
  • 8代  具教(とものり) 1528~76 正室六角定頼の娘。信長の侵攻を受け降服の条件として信長次男・茶筅丸(具豊⇒信雄)を養嗣子とし、具教の娘を信雄に嫁がせる。のちに信雄(信長)によって北畠氏一門誅滅される。
  • 9代  具房(ともふさ) 1547~80 父・具教殺害後、幽閉され滝川一益に預けられ天正8年(1580)死去、享年34歳。

【写真左】鐘突堂跡の登り口付近
 このあたりから霧山城の遺構が残る区域となる。
 写真の左側を登っていくと鐘突堂跡に向かうが、これとは別に右側の尾根下を進んで行くと、直接本丸側に向かう。
【写真左】配置図
 上記の場所に設置されているもので、鐘突堂跡からは一旦下に降り、再び、本丸・米倉・矢倉跡に向かって登るコースとなる。


北畠氏が伸長著しかったころは、4代教具から6代材親(具方:ともかた)で、7代晴具に至って絶頂期を迎える。それまでは東方に伊勢神宮があったため、度会郡・多気郡・飯野郡の三つの神郡については支配が弱かった。

4代から6代にかけて北畠氏は北勢(伊勢の北部)を攻め、安濃郡の国人領主長野氏と抗争した。特に応仁・文明の乱のころ北畠氏は、伊勢神宮外宮の門前町山田の衆と合戦を行い、神宮領への侵入も企てた。
この他、伊勢国東隣の大和にも出兵し、守護大名として幕府の重責を担った。
【写真左】鐘突堂跡・その1
 本丸側頂部とほぼ同じ高さでH566mとある。鐘突堂という名称から想像すると、この場所に実際に鐘を突く堂があったということだろう。

 おそらく下の写真に示すように、この位置からは本丸側よりも南東麓の伊勢街道が俯瞰できるので、狼煙と同じような目的で堂が設置されたのかもしれない。
【写真左】鐘突堂跡・その2
 鐘突堂跡から南東部を見たもので、道の駅など伊勢本街道(R368)が見える。








北畠氏の凋落

北畠氏が急激に弱体化するのは8代・具教のころからである。
永禄12年(1569)8月、織田信長の南伊勢侵攻が開始された。上掲の北畠氏系譜第2代・顕泰の兄弟・木造(こづくり)顕俊を祖とする、木造具政が信長に内応、同月信長は10万ともいわれる大軍を率いて南下した。
【写真左】鐘突堂跡・その3 堀切
 鐘突堂跡の壇を降りそのまま南西の尾根に向かう途中にあったもので、小規模ながら堀切とみられる段差があった。

 なお、この尾根伝いをさらに進むと、しばらく細い尾根が続き、再び長大な平坦部があるようだが、当日はそこまでいっていない。おそらく南西を守備する郭だったものと思われる。


 当時具教は、大河内城(現松坂市)に拠って籠城、50日余善戦したが、遂に衆寡敵せず降服。降服の条件とされたのが、信長の二男であった茶筅丸(後の信雄)を養嗣子として北畠氏に向かい入れ、具教の娘雪姫を妻とさせることとなった。

 7年後の天正4年(1576)、すでに隠居し、三瀬谷の館(多気郡大台町)にあった具教は、信長・信雄の命を受けた旧臣の(長野氏の一部)らによって殺害された(三瀬の変)。これと相前後して、信雄の居城であった田丸城においても、具教の二男・長野具藤、三男・北畠親成、大河内教通なども殺害された。
【写真左】鐘突堂跡から北西方向に本丸を見る。
 鐘突堂跡から本丸までは約250m前後あり、一旦鐘突堂の頂部から斜面を下り、再び本丸側の尾根をトラバースするようなコースをとる。
 


 このころ霧山城では、城代として一門の北畠政成が当城に拠っていた。田丸城などから逃げ延びた北畠氏の一部も当城に籠り、織田方と交戦したが破れ自害した。

 具教の長男で第9代具房は、身柄を滝川一益に預けられ、3年間幽閉されたが、天正8年(1580)京都で亡くなった。享年34歳。
 ここに伊勢北畠氏は事実上滅亡したことになるが、同氏庶流である木造・田丸・神戸の諸氏は信雄の家臣などとなって生き永らえた。
【写真左】本丸方面に向かう。
 この当たりの斜面は管理が行き届き、桜などが植樹されている。
 この日登城した際も桜の花がすこしづつ咲き始めていた。
【写真左】本丸跡・その1
 霧山城の頂部は前記したように、南側に米倉を置き、中央部に本丸、北側に矢倉跡が配置されている。

 この写真は本丸側で、中央部はなだらかな窪みとなっている。
【写真左】本丸跡・その2 土塁
 本丸は東西に土塁が配置されている。
この写真は、西側に設置されいるもので、最大幅2~3m、高さ2m前後の規模を持つ。
【写真左】本丸跡・その3
 西側には石碑が建つ。



【写真左】米倉跡
 本丸の南側から少し下がったところにあり、奥行20m前後のもの。名称から考えると、米、すなわち食糧を保管する場所である。おそらくそのための建物が数棟建っていたものと思われる。
【写真左】米倉跡から本丸を見上げる。
【写真左】西に延びる郭
 本丸と米倉の中間部に当たるが、西に伸びる小規模な尾根に一条の郭が見える。


【写真左】矢倉跡・その1
 本丸の北側に配置されているが、本丸とは明確に区分され、4,5m低い位置にある。
【写真左】矢倉跡・その2
 矢倉跡から南に本丸を見たもので、矢倉跡の土塁も西側(右側)が高い。
【写真左】竪堀
 矢倉跡の北端部に設置され、東側の斜面に見える。
【写真左】本丸側から鐘突堂跡を見る。
 麓の方の桜は満開になっているが、霧山城のほうはもう少し後になるようだ。
【写真左】本丸から西方を眺望する。
 写真奥の山はおそらく大洞山(H:1013m)だろう。
 写真の左側奥に向かうと吉野に繋がる。
【写真左】本丸から北東方面を眺望する。
 山城探訪としては、久しぶりに体力と時間をかけたものとなった。

 本丸跡に立ち、西方の吉野方面を眺めたとき、この伊勢の山深い山城が、南北朝期、南朝(吉野朝廷)を支えていたことを改めて思うと、感慨深いものがあった。

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