2012年7月2日月曜日

温湯城・その1(島根県邑智郡川本町河本谷)

温湯城(ぬくゆじょう)・その1

●所在地 島根県邑智郡川本町河本谷
●築城期 南北朝時代
●築城者 小笠原長氏
●高さ 219m(比高160m)
●形態 山城
●遺構 郭・腰郭・堀切・竪堀・石垣等
●登城日 2012年4月25日

◆解説(『日本城郭体系第14巻』、『サイト:島根県川本町』等)
 温湯城は、島根県の中央部石見を流れる中国地方最大の河川である江の川の中流域にあって、南北朝時代小笠原氏によって築かれた山城である。
【写真左】温湯城遠望
 北側から見たもので、右側の会下川を下ると江の川本流に出るが、温湯城の西麓から江の川本流までは、約1キロ弱あり、南北朝後期から室町期にかけて、この間の河原に貿易用の船が停泊していたと考えられる。
【写真左】川本町観光案内図
 JR三江線川本駅前に設置されているもので、同図には温湯城をはじめ、青岩城、丸山城、赤城、空城などが図示されている。

【写真左】温湯城鳥瞰図
 北側から見たもので、裏側(南側)の尾根にも細長い郭があるが、この図では描けない。






石見・小笠原氏

 同氏については山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)でも記したように、阿波・小笠原氏の長経の孫・長親が弘安の役(1281)の功によって、石見国邑智郡村之郷を賜ったのが初期とされ、下向したのはそれから14年後の永仁3年(1295)とされている。
【写真左】東麓側から見える「倉屋敷跡」
 北側に延びる細い舌丘陵付近が「倉屋敷跡」といわれ、現在その箇所だけ伐採されている。
 倉屋敷から尾根伝いに少し上ると削平地があり、この箇所は「寺屋敷跡」とされている。



 南北朝期に至ると、小笠原長胤(長氏の祖父)は、武家方に与し温湯城に近い川本谷に赤城山城(赤城)(石見・赤城(島根県邑智郡川本町大字川本(城山)参照)を築いた。
 当時この赤城山城は石見武家方の中心拠点となった城で、守護荒川詮頼とともに宮方の足利直冬(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)と交戦を繰り広げる。正平9年(1354)のころである。
ちなみに、小笠原氏も武家方に属した長胤とは別に、宮方に与したのは長光とされている。
【写真左】登城口付近
 先ほどの場所から100mほど進んだところに、登り口が見える。
 ただ、現地には一切城跡を示す案内板などはない。
 この道も、途中までは九十九折の踏み跡が残るが、途中からは険峻な地形のため、道が崩れ、不明確になっていく。


 その後、南隣に支配を広げていた高橋氏(藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)参照)が、出羽郷(邑南町瑞穂)に本城を築き、さらに安芸・備後に進出する気構えを見せると、小笠原氏は本拠城を江の川により近い会下川と矢谷川の合流地点に温湯城を築いた。

 『日本城郭体系第14巻』では、温湯城の築城期は赤城に拠って足利直冬と戦っていた正平9年にはすでにあったとしているが、『石見町誌』によれば、当城の築城期については、応永元年(1394)守護大内義弘(益富城(福岡県嘉麻市中益)参照)の許可を得てから築いたものとしている。

 当地に築いた動機は、戦略的な意味もあったが、むしろ大内氏との関わりから江の川により近く移城することによって、対外貿易の足掛かりとしたのではないかとしている。現在当地に足を踏み入れると、とてもこの場所から船を使って、江の川から日本海へ出るような雰囲気は感じられないが、当時、温湯城の先端部である木路原・谷は、船着場としてはもっとも適した地勢で、多くの船が停泊していたと想像される。
【写真左】「バセンバ」といわれる郭
 北側の尾根上に配置された郭で、当城の中ではもっとも規模が大きい。
 ただ、ご覧のように杉の植林によって、写真では形状がつかみにくい。
 北側から東側に回り込むように造られている。



 ここで、小笠原氏の系図について触れておきたい。

小笠原氏系図(サイト・川本町〈川本町誌「歴史編」丸山伝記より〉)
  1. 初代 長親  永仁3年(1295)ごろ、村之郷に山南城築城 妻益田兼時娘美夜
  2. 2代 家長  (長家)四郎次郎 石見小笠原本流 元弘3年(1333)3月20日討死
  3. 3代 長胤  又太郎 川本赤城築城 邇摩郡にて宮方と戦う。 貞和2年(1363)8月朔日(1日)死没
  4. 4代 長氏  太郎次郎 上野頼兼に応ず 温湯城築城 永徳3年(1383)3月3日没
  5. 5代 長義  彦太郎 尾張守 川本移居す 応永10年(1403)10月25日没
  6. 6代 長教  右馬助 応永21(1414)年7月6日没  長教の実弟3人は、それぞれ都賀西殿(養老城)、長谷殿、上村殿となる。
  7. 7代 長性  下総守 家督前は都賀行 水玉山城在城 嘉吉3年(1443)2月4日没  弟・長勝は別名石見二郎、高見氏を称し、嘉吉の変において赤瀬満祐と改称。
  8. 8代 長直  民部大輔 家督前都賀 妻三好氏女阿波 寛正2年(1461)11月13日没  弟・長信は但馬守となり、君谷地頭所城主となる。
  9. 9代 長弘  上総助 延徳元年(1489)2月11日没  長弘の姉妹の一人は高橋大九郎久光の室、もう一人は吉見氏の室。
  10. 10代 長正   下総守 妻宍戸隆家娘大宝 永正3年(1506)11月28日没
  11. 11代 長定   伊予守大蔵少輔 妻三陽女 大永4年(1524)3月3日没  長定の姉妹、一人は羽根氏の室、もう一人は福光氏の室。
  12. 12代 長隆   與次郎兵部大輔上総介 妻佐波休々の息女 天文11年(1542)4月4日没   長隆兄弟 ①都賀殿(長継) ②長谷殿(長為) ③高見殿(長逸) ④長種 ⑤女5人(高橋、福屋川上、大家、川合へ嫁ぐ) ⑥亀若事(松原善大夫長善)真言宗法光寺僧となる。
  13. 13代 長徳   與治郎兵部大輔被任弾正少弼 妻福屋の息女 天文16年(1547)8月21日没
  14. 14代 長雄   彌治郎被任弾正少弼 妻吉川氏の息女 永禄12年(1569)12月9日没
  15. 15代 長旌   大蔵大輔 妻小早川の息女 文禄4年(1595)6月6日没
【写真左】バセンバの上の郭付近
 前記した郭の上にも2,3か所の小郭段が残るが、大分崩れた箇所が多い。
 この写真にみえる郭から左側を登っていくと本丸にたどり着くが、急峻であるため、一旦東側の斜面まで移動する。




小笠原氏庶流

 上掲した系図は、川本町誌「歴史編」丸山伝記より掲載したものだが、これとは別に鎌倉後期から南北朝期にかけて、別の小笠原氏が活躍している。
  • 正安3年(1301)10月3日、小笠原時景、石見荘廟寺地蔵尊に祈願領として三原村より5段を寄進する(荘厳寺文書)。
  • 乾元元年(1302)10月3日、小笠原時景、石見武明八幡宮の社領・三原村の地を安堵する(武明八幡宮文書)。
  • 延元4年・暦応2年(1339)8月20日、小笠原貞宗代・武田弥三郎、7月5日市山城に新田義氏らが攻め寄せた際の軍忠、12日木村山の城郭での軍忠を書き上げ、上野頼兼の証判を求める(庵原文書)。
【写真左】東斜面の急崖
 東側に出ると、さらに急崖が待っている。写真ではわかりにくいが、この箇所には幅20~30cm程度の踏み跡道が残る。この道を進む。








 ここで、同氏系図のうち、2代・家長のところで、「石見小笠原本流」と記されているが、おそらくこの家長の代(長親の子達)に庶家がさらに生まれ、その傍流がいたものと思われ、その一人が時景らではなかったかと思われる。

 そして時景の領地については、江の川の北西岸にある三原という地で、現在でも「荘厳寺」があることから、家長の代すなわち正安年間には、小笠原氏が江の川をはさみ南北に大きな領地を支配下におさめていたことがうかがわれる。
【写真左】東方にある郭
 先ほどの道を辿っていくと、ごらんのような三角形の郭が出てくる。

 なお、この下にも奥行の長い郭が東に向かって残っており、その末端部には堀切が設置されているようだ。



 次稿では、戦国期の様子と併せ、本丸・二の丸周囲の紹介をしたいと思う。


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