2012年6月9日土曜日

雄鹿原の殿塚・郎塚(広島県山県郡北広島町宮地)

雄鹿原の殿塚・郎塚(おがはらのとのづか・ろうづか)

●所在地 広島県山県郡北広島町宮地
●建立期 永享年間
●形態 宝篋印塔・五輪塔形式
●探訪日 2012年5月23日

◆解説(参考文献『石見町誌・上巻』等)
前稿「大利城」のある雲月小学校から南西方向に向かう114号線(今福芸備線)を進むと、島根県浜田市から加計に向かう国道186号線と交差する地区に出る。この場所に雄鹿原小学校があるが、この付近には中世から近世にかけて少なくない史跡が点在している。
【写真左】説明板と郎塚
 所在地は、雄鹿原小学校の南方にある丘の上にあり、公園(グランドゴルフ場か)の一角に建立されている。


 なお、写真は郎塚で、殿塚はこの場所から数10メートル林の中に入った所にある(後段参照)。

今稿で取り上げる「殿塚」「郎塚」は、前稿「大利城」で紹介した「雄鹿原合戦」の時、敗退した栗栖氏のものといわれている。

現在当地雄鹿原には国道186号線沿いに、「雄鹿原 歴史の散歩道」と題した案内図が数か所設置され、今稿の「殿塚」「郎塚」のある場所にも設置されている。
【写真上】「雄鹿原 歴史の散歩道」案内板
 合併前に設置されたため、右下には「芸北町」となっている。


参考までに案内図に記されている史跡箇所は9か所で、以下の通りとなっている。
  1. 馬頭観音  牛馬の守り本尊として、今も人々に信仰されている。
  2. 地久院のしだれ桜  目通周囲3.2m、高さ10m、春の遅いこの地方にあって、田ごしらえのめやすとして人々に大切にされてきた。
  3. 亀山八幡神社  室町時代の創建で厳島神社より分詞勧進された。秋の大祭では五穀豊穣を祈願し、神幸渡御の神事が今に伝えられている。
  4. 金剛庵  江戸時代中期のお堂が今に残る。ホタルの群生地でもあり、独特の風情がある。
  5. 義農安左衛門の碑  江戸時代中期に起きた百姓一揆で、首謀者として捕えられ処刑された農民の徳を偲び建立された。
  6. 城岩  城岩山の頂上にある御影石。別名八畳岩という。ここから雄鹿原集落のほぼ全域を眺望できる。
  7. 固完杉  戦国時代、戦に破れ伊予の国を追われた河野固完が毛利輝元をたより、ここに知行を与えられた。屋敷跡に残る杉の大木。

【写真左】郎塚
 複数の墓石があったようだが、大分欠損したものが多い。
 中央には宝篋印塔形式のものがあり、その周囲には五輪塔形式のものが配されている。

そして、今稿の「殿塚」「郎塚」については、以下の説明がある。

“殿塚・郎塚

 殿塚は栗栖権頭の墳墓で、郎塚は従者7人の合葬塚である。この丘の麓の金剛庵で主従8人が自刃し、この地に埋葬されたのは永享年間(1429~1440)の中ごろといわれる。

 また、権頭を埋葬して幾年か後のある朝、狼峠の東の空を白馬に乗った権頭が城岩に向かったのを見たという噂が広まった。この頃凶作が続き、正しく権頭の祟りだと信じられ、亀山八幡神社境内に殿宮神社を建立したともいわれている。”
【写真左】殿塚
 郎塚から歩いてすぐ近くにあるが、木立の中に祀られている。
 墓石としてはこちらの方が欠損・劣化が進んでいる。




栗栖氏のその後 

 ところで、前稿「大利城」でも述べたように、栗栖権頭とは発坂城主・栗栖喜太郎親忠のことで、永享元年の雄鹿原合戦で自害し、同氏のほとんどが後を追ったとされる。

 しかし、親忠には朝丸という一児があり、合戦敗退の最中、末弟の栗栖芳親及び、家老の羽川豊前守の二人が彼を守り、福屋氏からの追手を逃れた。
 それから140年余の安土・桃山時代に至り、栗栖氏の後裔は吉川氏の配下に属し、再び戸河内を回復したといわれる。
【写真左】亀山八幡神社・その1
 説明板の№3で取り上げた神社で、厳島神社から分詞勧進された。

 もともと当地方の開拓者七郎右衛門が、西八幡原の山麓で神鏡を得て、この地に奉祀したことに始まるとされている。

 また、慶長12年(1597)、新庄日野山城主・吉川広家が社殿を再建し、その後今日まで幾度か再建整備され今日に至る。毎年9月29日に行われる「乙九日祭り」は名高い。
【写真左】亀山八幡神社・その2
 上記した「殿塚」「郎塚」の説明板にあった「権頭の祟り」だとされ、後に建立された「殿宮神社」。
 同社境内の右側に祀られている。

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