2012年5月14日月曜日

亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)

亀寿山城(かめじゅやまじょう)

●所在地 広島県福山市新市町大字新市
●高さ 139m(比高120m)
●築城期 鎌倉期
●築城者 宮氏
●城主 宮下野守直信など
●形態 山城(直線状連郭式)
●郭・空堀
●備考 宮内桜山城支城
●登城日 2011年9月9日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
前稿「桜山城」の南方に築かれた山城で、芦田川により接近し、「相方(さかた)城」(2010年6月8日投稿)とは指呼の間にある。
【写真左】亀寿山城遠望
 南東麓にある寺院・安養寺から見たもの。
 登城したこの日、当院の若いご住職に縁起等を訪ねたところ、古い記録ははっきりしないが、この寺も昔は山頂のほうにあったということらしい。


 このためか、登城ルートとほぼ同一線上に霊場が設けられている。
 亀寿山城が使用されていたころ、城館と兼ねた本堂があったのかもしれない。




現地の説明板より

“亀寿山城
  (鎌倉時代末期~天文3年(1534))


 亀寿はもともと亀地であり、近世に入って亀寿と記した。
 古山陽道は御領より戸手を経てこの山麓を通り、市・三原に通じた。また、神谷川沿いに北上する街道もあり、中世までこの地は備後東部の交通の要所であった。


 街道に近く急峻な地は城を築くに適し、幾世代にもわって興亡と盛衰の歴史を残した。
 「元弘の変」(1331)では、宮内桜山城の支城として南方を防ぐ任務を果たしたほか、その後も備後東部の有力な城として攻防の中心にあった。


 天文3年(1534)9月、尼子勢の一翼を担って毛利方と対し、城をあとに広谷方面で戦い(陰徳太平記・広谷合戦)落城する。


 山頂一帯に砦が築かれ、その規模は近隣の山城を圧倒していたものと推測される。山頂部近くの現石鎚社は二の丸跡に位置し、南に本丸、西に三の丸と連なっていた。


 新市町教育委員会
 〈協力〉新市商工会青年部”
【写真左】登城道
 前記したように、霊場コースを辿っていく。
 東端部の尾根伝いから向かうが、低山の割にこの付近は傾斜があり、こまかく九十九折にされている。


南北朝期

説明板にもあるように、前稿「桜山城」の支城として使われたという。桜山茲俊が挙兵した際、当城周辺においても戦火があったものと思われる。また、築城期もこれよりさかのぼった鎌倉期ともいわれている。
【写真左】白衣観音
 登城途中に祀られている観音像で、つぎのような由来がある。


現地の説明板より


“白衣観音の由来


 明治39年3月14日、中戸手の十四の山の桑畑で農作業中に出土。それが家形石棺であった。その石棺を中戸手艮神社のそばの中戸手青年集会所に移転された。


 その後、中戸手青年集会所が取り壊され、大正のはじめごろに戸手小学校の裏庭に移転され、それ以降戸手小学校に保管された。
 石棺の主は、「咲矢子姫」で、6~7世紀頃、この地方の豪族「吉備品治国造」の妻で、若くして没せられこの石棺に埋葬された。
 この石棺の主の霊を慰めるため安住の場をこの地に選定して埋葬した。
 「咲矢子姫」の霊を弔うため、昭和56年1月10日に、その石棺の上に白衣観音像を据え、毎年10月、観音様の御命日の近い日に供養の法要を営み霊を慰めている。
 御真言
 おんしへいてい しへいてい はんたら はしに そわか
     奉賛会一同”
【写真左】登城道
 全体に岩肌の箇所が多い。


戦国期

天文3年(1534)、時の城主宮下野神直信は、毛利元就に攻められ落城、新市宮氏惣領家は滅んだ。その後は毛利氏又は有地氏などがそのまま使用したといわれる。
【写真左】分岐点
 写真中央には霊場札所としてご覧のような仏像が要所ごとに設置されている。


 左側に向かうと、二の丸跡といわれる現在の石鎚神社があり、右側尾根伝いにいくと本丸に向かう。
 最初に石鎚神社へ向かう。
【写真左】石鎚神社
 二の丸跡といわれた箇所で、幅5m前後、長さ10m前後の郭段が残る。


 なお、この神社の直ぐ脇に鳥居があり、その下を下っていくと、もう一つの登城道(参道)があるようだ。
【写真左】相方城を遠望する。
 石鎚神社側から南方に正対して見えるのが「相方城」で、その手前を芦田川が流れる。
【写真左】柱穴か
 石鎚神社から再びさきほどの尾根元に戻り、本丸に向かう途中に見えたもので、構造物のための穴と思われる。
【写真左】本丸か・その1
 尾根伝いに行くとすぐに長い郭段が現れる。
霊場コースの最終地点とあったので、本丸と思ったが、どうやら本丸はさらにこの向こうの峰側にあるようだ。


 なお、この郭は幅10~20m、長さ50m前後と大きなもので、もう一つの郭(本丸)と思われるものより規模は大きいとおもわれる。
【写真左】本丸か・その2
 この写真には見えないが、左側の下には帯郭が残っていたので、その先を行けば本丸にたどり着いたかもしれない。


 ただ、その途中は踏み跡がほとんど残っていなかったため、残念ながらそこまで踏査しなかった。
【写真左】新市の町並み
 眼下に芦田川・JR福塩線・国道486号線などが見える。

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