2012年5月25日金曜日

鳴滝山城(広島県尾道市吉和町鳴滝)

鳴滝山城(なるたきやまじょう)

●所在地 広島県尾道市吉和町鳴滝
●築城期 鎌倉末期
●築城者 宮地次政
●高さ 標高322m(比高200m)
●遺構 郭・土塁
●指定 尾道市指定史跡
●登城日 2012年3月31日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 広島県の尾道市西端部にあって、西隣の三原市と接する鳴滝山(H402m)と東の谷を隔てた南東部に聳える同名の鳴滝山(H322m)に築城された山城である。
【写真左】鳴滝山城遠望・その1
 北西にある鳴滝山展望台から見たもの。









 二つの山とも眺望はよく、南方には瀬戸内のしまなみ海道の島々を一望のもとに俯瞰できる場所である。

 鳴滝山城についての記録は不明な点が多く、伝承などによると、鎌倉末期に宮地次政が築城したとされ、その後、広義・広俊と続いたが、応永30年(1423)、恒躬(つねみ)の時代に、当時から争っていた大平山城(尾道市美郷町)の城主・木頃(きごろ)経兼の奇襲にあって落城、恒躬は久山田(尾道市)の守武谷まで逃れたが敗死し、その妻・鈴御前も栗原町門田辺りで捕らわれ殺害されたという。
 なお、この鈴御前は木梨杉原氏から嫁いだとされている。
【写真左】鳴滝山城遠望・その2
 北側の林道部から見たもの。










 その後、恒躬の子明光は姻戚関係の合った因島村上氏を頼り、鳴滝山城奪回を図るが失敗に終わったという。

 また、話は遡るが、南北朝時代には備後・備中守護で九州探題に任じられた渋川義行が当城に拠っていたともいわれている。

 しかし、当時九州は後醍醐天皇の皇子の一人である懐良親王が菊池氏の強力な支援を受けて、肥後国を中心に南朝方として支配を広げ、九州探題の前任者斯波氏経の平定を許さなかったため、結局義行は九州へ赴くことなく、三原市にとどまった。このため、義行は探題職を解任され、出家後わずか28歳で夭逝することになる。
【写真左】登城口付近
 麓には「鳴滝山登山道 駐車場」という5台程度駐車できる場所が確保されている。

 もっとも標高の高い鳴滝山(H402m)まで直接向かう道も伸びているので、登山に不得手な人は、狭いながらも車で近くまで行ける。


 鳴滝山城に登城する人は、この駐車場に止めていくことになる。駐車場から登山口までは200m程度しかないので非常に便利である。


駐車場からしばらく歩くと、右に大きく旋回するが、その先の左側にご覧の案内板が見える。ここから本丸まで300mとある。
【写真左】鳴滝山城遠望
 歩き出すとすぐに本丸が見えだす。


 ただ、最近は道が大分崩落し、また以前だんだん畑だったところが荒れ原野状態になっているので、足元は注意しながら登る。
【写真左】石積み
 このあたりから遺構が確認できる。


石積みはここに来るまでも見られるが、段々畑用のものが多く、城砦遺構としての石積みはこの箇所辺りからと思われる。
【写真左】本丸・その1
 山全体が岩塊のような地質のため、こうした岩が散見される。
【写真左】本丸・その2
 本丸は南北に約20m、幅5~10m程度の規模を持つ。


 現地には標識などはなく、石祠跡のようなものが見えたが、朽ち果てた状態だった。
【写真左】腰郭
 本丸の東側には細長い帯郭状のものが残る。

当時はもう少し平坦な状態だったのだろうが、全体に崩れやすい地質のようだ。
【写真左】北側に延びる郭群
 おそらく二の丸・三の丸的機能をもった郭群と思われるが、本丸から7,8mの高低差をもった郭が北に延びている。


 階段状の道などないため、滑りながら降りていく。
【写真左】堀切
 本丸直下の位置にも窪んだ堀切らしき箇所が見えたが、この写真はさらに北に向かい、次の段に行く途中に見えたもので、堀切の遺構を残している。
【写真左】北端部
 北に延びた郭群の北端部で、この先は断崖絶壁となっている。


その先を見ると、細くなっていく尾根上にも小郭らしきものも見える。
【写真左】鳴滝山公園側の展望台
 鳴滝山の頂部はこの写真には入っていないが、南側に延びる尾根一帯は公園となっている。


 写真左の高台には展望台及びパラグライダーフライト広場がある。
【写真左】上記の展望台
【写真左】展望台から尾道・瀬戸内を見る。
 この位置からは、尾道市街をはじめ、向島・岩子島・因島・加島・百島・田島など風光明媚な景観が広がる。

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