2012年4月10日火曜日

有漢常山城(岡山県高梁市有漢町有漢土居)

有漢常山城(うかんつねやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市有漢町有漢土居
●築城期 鎌倉期
●築城者 秋庭三郎重信
●形態 山城
●高さ 標高265m
●遺構 土塁・空堀・竪堀・郭
●登城日 2012年4月9日、その他

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 投稿の順番が前後してしまったが、今稿では再び秋庭氏関係の山城である「有漢常山城」及び居館跡といわれる「正尺屋敷」を取り上げる。

 現在当城の周囲は「うかん常山公園」という施設に改修され、「石の風ぐるま」や「風と化石の館」といった模擬天守風の展望台が設置されている。おそらく岡山自動車道開通に合わせて設置されたものだろう。
【写真左】有漢常山城のある「うかん公園」
 写真中央に見えるのが模擬天守風の展望台で、この展望台の奥に向かったところから常山城の遺構が残っている。




 山城として遺構が残る常山城は、この施設の北端部にあり、公園内の展望台を過ぎ北側に延びる散歩道を進むと、下記の説明板のある辺りから階段を上っていくとたどり着ける。

なお、常山城へは公園内とは別に、北麓を走る県道49号線から直接登る道も設置されているが、駐車スペースはないので、公園内に入ってから向かうのがいいだろう。
【写真左】公園内案内図
 常山城はこの図の右側に記されている。
 展望台から一旦降り、吾妻屋を過ぎてから再び登っていく。





現地の説明板より

“有漢常山城址
 ○位置 上房郡有漢町大字有漢土居


 有漢常山城は、秋庭居館の南、有漢川を隔てた山頂(標高265m)にあった山城である。
 周囲の比高からすれば小山と表現した方が適切な山塊頂部には、二段の帯郭を付設した単郭の構えが見られる。主郭は長方形で、南辺には幅狭く一直線に走る一文字土居を残している。西辺にも微高の土塁基部があるが、郭の四周を土塁が取り囲んでいたかどうか、現状からでは明らかでない。当城の北面と西面は険峻な地形で、南の後背部も急傾斜で下降し、狭い鞍部へとつながっている。
【写真左】常山城要図
 登り口付近に設置されているもので、主郭は西端部に置き、周囲を二ノ壇・三ノ壇が取り巻くように記されているが、主郭の西側の切崖を降りた空堀や竪堀などの図示がされていないのが残念だ。



 鞍部の西側には深い谷が入り込み、鞍部は幅約5mの二重掘で切断され、後背部もなかなか堅固な構えをとっている。


この城には天正年間(1573~92)に、新山玄藩允家住が在城していたと松山城の『籠城記』に記されている。



 有漢常山城は説明板にもあるように、山城としての規模はさほど大きなものではない。しかし、後段に示すように、北麓を流れる有漢川対岸には秋庭氏館跡とされる場所や、弓馬場など当時の面影を残す地名が少なくないので、常山城を取り巻く付帯施設はかなりの広さを誇っていたものと思われる。
【写真左】北側から振り返る。
三の段あたりまで階段が設置され、右側に主郭が配置されている。
中央奥に模擬天守の展望台が見える。
【写真左】常山城と書かれた標柱
二の段と主郭の境に設置されている。二の段まではきれいに伐採・清掃されているが、どういうわけか、この上の段となる主郭から西側は、まったく手付かず状態になっている。


直接この場所から踏み込んでもよかったが、ご覧の藪コギなので、南側の土塁始点から入っていく。
【写真左】土塁
西側は南北にわたって土塁状の高まりが残る。ただ、経年劣化しているせいか、高さはさほどなく50cm前後か。


この写真では右側が主郭となり、左側は7,8m前後の高さをもった切崖が南北面に続く。
【写真左】主郭西面の切崖
 主郭の北端部から下に降りる犬走り跡らしき狭い道が残っていたので、これを頼りに降りていく。


 写真右下は南北に空堀が残っているが、その延長線上の南側には二重堀切が残る。
【写真左】空堀
 ほぼ囲繞するような配置で空堀が残る。また要所には直角に竪堀らしき遺構も見える(下段参照)。
【写真左】竪堀
 公園化されたため、こうした遺構は西側にしか残っていないが、当時は東西の谷筋にあったものと思われる。


 なお、北端部には現在県道が走っているが、当時は有漢川が城下麓まで流れていたものと思われ、事実上の水濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】下から主郭側を見上げる。
 降りたときは感じなかったが、改めて上を見上げると比高がある。
【写真左】祠
 二の段の北端部に見えたもので、手前の主郭側はほとんど藪コギ状態のため、中には入っていない。








正尺屋敷跡(秋庭氏居館跡)

常山城の北麓を東西に流れる有漢川を越え、少し北に向かった棚田の場所にある史跡で、秋庭氏の館跡とされている。
【写真左】正尺屋敷跡・その1
 写真右が南側で、この道は当時屋敷に向かう道として使われ、奥に向かうと東端部に門があり、その下には馬場があったという。


 当時、屋敷はこの石垣の上に建っていた。


現在は民有地として畑地となっている。
規模は幅10m前後だが、長さは80m近くあるかもしれない。
探訪を終えた後で知ったのだが、この屋敷跡の東側には南北に堀切があったという。

当地は律令制時代の有漢郷とされ、鎌倉初期に秋庭三郎重信が入部したとされている。当時の領地がどの程度あったものかわからないが、耕地面積は現在669haもあることから、地頭として入部した際もかなりの所領をもっていたと思われる。
【写真左】正尺屋敷・その2
 石垣の上になる屋敷跡だが、現在ご覧のように畑地となっている。なお、この写真左側に秋庭氏の井戸が残っているが、管理人は見過ごしてしまった。


なお、この屋敷の正尺というのは「正作」の当て字で、正作屋敷とも言われてきている。また、周辺部には、この他、「正尺ため池」「馬場」「正尺田」「正尺畑」「惣人田」などという地名も残る。

【写真左】正尺屋敷から南方に有漢常山城を遠望する。
 この位置からほぼ正対する位置にあり、その手前を有漢川が流れている。







秋庭氏供養碑

上記屋敷跡の西側の道を下り、有漢川に突き当たった三叉路の一角に祀られているもので、江戸時代に建立されている。
【写真左】秋庭氏供養碑
 この右隣りには遣迎二尊板碑が祀られている。










現地の説明板より


“高梁市指定史跡 秋庭氏供養碑


 遣迎二尊板碑の左隣にあります。秋庭重種、重政親子が先祖の供養と、子孫繁栄のために建てた供養碑です。高さ148cm、幅は上部50cm、下部56cmの板碑型で台の上に建っています。刻文から元禄16年(1703)2月に製作されたことが分かります。
 昭和50年5月1日指定 岡山県教育委員会・高梁市教育委員会”

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