2012年3月13日火曜日

上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その1

上月城(こうづきじょう)・その1

●所在地 兵庫県佐用郡佐用町上月
●築城期 建武3年・延元元年(1336)
●築城者 上月景盛
●高さ 140m
●城主 上月氏、赤松氏、尼子勝久等
●遺構 土塁・石垣・空堀・郭等
●登城日 2006年11月29日、及び2011年12月13日

◆解説(参考文献『山中鹿助幸盛」妹尾豊三郎編著等)
 出雲街道(国道179号線)と赤穂市から鳥取市まで北進する国道373号線の合流点で、旧上月町(現佐用町)に築かれた山城である。上月城の東麓を流れる佐用川は、そこから大きな蛇行を繰り返し、千種川と合流し赤穂の港から播磨灘へと注ぎ込む。
上月城は出雲尼子氏の再興を計った山中鹿助らの最期の戦いとなった場所である。
【写真左】上月城遠望
 北側から見たもの。
上月城の標高は140m前後であるから、山城としては低い方の部類に入る。
 しかし、山そのものは両側が険峻な構成をなしている。



現地の説明板より

“上月城の沿革と攻防
  上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、大平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
 上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいずれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月城跡で、中世山城の様態をよく残している。

 赤松氏は、播磨・備前・美作三か国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441)で、惣領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配するところとなる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し、播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返すこととなる。

 天正5年(1577)織田信長は毛利氏攻めのため、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き、1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉くはねた上、見せしめのため、城中の女子子供200人を串刺しと、磔にして備前美作播磨の国境付近にさらした。

 秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿助に守らしめた。上月城に入った尼子氏は、一時宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多はこれを上月十郎景貞に守らしたが、再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。

 再び尼子勝久、山中鹿助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6年(1578)4月18日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援のため、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略のため、6月26日、高倉山より兵を引いた。このため、上月城は孤立し遂に7月5日、勝久は毛利氏に降伏し、開城自刃した。山中鹿助は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。

 この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政8年(1825)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が、250回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。
    佐用町観光協会
    上月歴史研究会”


「アマコさん」と鹿助の話

手元に次のような古い小冊子がある。
  • 「山陰の麒麟児 山中鹿介幸盛公小傳」 出雲・廣瀬・三日月少年団編輯 東京・島根タイムス社発行
【写真左】「山中鹿介幸盛公小傳」
 幸盛叢書第二輯のもので、第一輯は「尼子氏と富田城」(並河栄四郎著)であるが、これについては手にしていない。











 この冊子は、昭和15年9月1日発行で、発売所は、島根県能義郡廣瀬町小学校内 廣瀬町教育会、と記されている。
本著には、前大蔵大臣 桜内幸雄氏が次のような「序」を寄せている(前段省略)。

“今や世界動乱の裡に東亜の大共栄圏確立を目指して聖戦を続けつつある際、大切な一事はお互い国民が〝幸盛精神″に透徹することであると思う。
 自分は富田城下に生を享け夙に幸盛公を偲び修養に努め来ったのであるが、此度廣瀬校の三日月少年團が紀元二千六百年記念事業の一として「山中鹿介小傳」頒布を企画し、専ら山野邊良一君編輯に當られたりと聞く、洵に時宜に適した計畫であると思う。
 時局下青少年訓育の上に裨益する處蓋し大なるべきを信じ、敢て序を寄せて江湖に推薦する次第である。
 昭和15年8月
    櫻内 幸雄”
【写真左】末尾にある「山中鹿介の歌」
1番から6番まで歌詞が作られているが、どうしたわけか譜面が添付されていないので、メロディーは分からない。



 大正生まれで10数年前に亡くなった父親が、若いころ酒のほろ酔い気分で出雲の戦国時代を断片的に話してくれたことがある。

 地元出雲ではよく昔の話を引き合いに出すとき、「そんな、アマコさんのころは分からんわー…」と、記憶がないことをこのセリフでごまかすことがある。

 子供の頃、この「アマコさん」なる人物が誰なのか、しばらくは知ることがなかった。「アマコ」という響きから、「アマ子」という名前の女性がいたのだろう、と勝手に想像していた。

 その後、「アマコさん」が「尼子(さん)」であることが分かりかけた頃だろう、父に「尼子」のことを聞くようになった。しかし、父から「尼子」そのものの話はあまり聞いた覚えがない。ただ、決まって最後は、「山中鹿助」の話になっていたことは覚えている。
【写真左】山中鹿助の石碑
 上月城の北麓には当城にかかわった武将の慰霊碑など、かなりの数が建立されている。






 「七難八苦を我に授けたまえ」と三日月に向かって崇拝した、というくだりになると、本人も興に乗って、さしずめ浪曲師か講談師調の口調となった。テレビも未だ定着していない時代である。鹿助の史実に基づく戦歴など父は知る由もない。

 こうして父の「鹿助物語」は、「七難八苦」以外その都度脚色され、大言壮語な改訂版を息子は拝聴することになる。ほとんど「創作童話」の世界であるが、おもしろかった。今思えば、物心ついたころから祖母に「昔話」をせがんでいた癖は、しばらく父の「鹿助物語」まで続いていたようだ。

 大正から昭和初期ごろに生まれた男性は、大なり小なりいわゆる戦前教育としてのステータスである忠君愛国的精神を受けている。父もその例外ではない。上掲した昭和15年発行の「山陰の麒麟児 山中鹿介幸盛公小傳」などは、その典型的なテキストとして活用され、出雲では「鹿助」がもっとも少年たちのシンボルとなっていった。

「上月城」の稿でありながら、大分脱線してしまった。次稿で改めて紹介したい。

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