2012年2月27日月曜日

防己尾城(鳥取県鳥取市金沢)

防己尾城(つづらおじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市金沢
●築城期 天正年間(1573~92)
●築城者 吉岡将監定勝
●高さ 38m(比高15m)
●形態 平山城(水城)
●別名 亀山城・吉岡城
●遺構 空堀・郭・切崖・船着場等
●登城日 2007年5月16日及び2010年6月26日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 鳥取県鳥取市の西方に浮かぶ湖山池の西岸に築かれた平山城(水城)で、東側の対岸には以前紹介した天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)がある。
【写真左】防己尾城遠望
湖山池の北側から見たもので、この場所からは本丸側のみが望める。







現地の説明板より。

説明板①

“防己尾城址と吉岡将監
 鳥取市の福井から金沢に至る間の湖山池に突出したこの山を防己尾という。
 天正9年(1581)鳥取城を完全包囲した羽柴秀吉が、毛利氏との後方連絡を断つため、水軍に防己尾城攻略を命じた。


 これを迎え撃った吉岡将監は、弟の右近と共に逆襲し、秀吉近習の黄母衣武者を討ち取り、秀吉が戦功を誇る千成瓢箪の馬印を奪い取った所。また、情け深い将監は、黄母衣武者の死を悼み、六地蔵を安置してねんごろに葬ったと伝えられる。
 今なお古戦場の面影を残しており、頂上付近から湖山池を眼下に望む風景は絶景である。”
【写真上】防己尾城案内図
現地は城跡公園として整備されているが、左側の三の丸跡については公園化は図られていないようだ。


この図でいえば、鳥取城は右側(東)の方向になる。


説明板②

“ふるさと文化探訪
 防己尾城跡


 吉岡将監定勝が築城したといわれる。
 城郭は本丸・二の丸・三の丸とそれに取り囲まれた町屋とから構成されており、北側には船着場が設けられていた。
 天正9年(1581)羽柴(豊臣)秀吉鳥取城攻略の時、将監は奇襲によって、たびたび秀吉勢を悩ませた。
 また、将監の弟右近は秀吉の千生瓢箪の馬印を奪い取ったという。しかし、この城はその後亀井茲矩(これのり)により落城した。
(日本城郭体系、新修鳥取市史第一巻より)
  平成4年3月
   鳥取市教育委員会”
【写真左】防己尾城遠望
 西側の湖山池公園駐車場から見たもので、中央から左側が本丸に当たる。


 なお、右側の道路は県道190号線で、この道路は、左側の本丸と、右側の三の丸の間にあった堀切跡を走っている。
 登城口は何か所かあるが、この道路側から登って行った。


吉岡将監定勝

 吉岡氏は地元の国人領主で、当初防己尾城の南方にあった「丸山城」(鳥取市六反田:未投稿)を居城としていたが、この城は小規模でかつ要害性も高くなかったことから、さらに南方へ「蓑山城」(鳥取市吉岡温泉町:未投稿)を築いた。
【写真左】蓑山城遠望
 吉岡温泉から南に1.5キロほどにある蓑上山(H:297m)に築かれた山城である。






 その後、天正9年に説明板にもあるように、豊臣秀吉の鳥取城攻めが始まると、湖山池西岸にこの防己尾城を築城し、毛利方として属し戦った。
【写真左】本丸・その1
 本丸は南西から北東に向かって伸びる稜線状に二つの峰を持ち、さらに湖山湖に突出す出丸状のものから構成されている。


 この写真は南西部の峰途中に見えた小規模な空堀と土塁遺構。
【写真左】本丸・その2 堀切
 手前の峰と奥の峰(主郭)との中間部の鞍部で、堀切状のもの。


 写真の階段を進んでいくと主郭に向かう。
【写真左】本丸・その3 主郭
 麓から想像していた規模より大きく、広い削平地となっている。


 公園化されているので当時の遺構がどの程度のものであったかわからないが、吉岡氏らが秀吉を度々悩まさせたという兵力を考えると、かなりの人数が当城に拠っていたのだろう。
【写真左】本丸・その4 石碑
 主郭の一角には「防己尾城址」と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】本丸・その5
 本丸の東端部で「岬の展望台」といわれた箇所
から湖山湖を見る。
 さきほどの主郭からさらに湖側に進むと、一旦低地まで降り、そこから再び登る形となっている。


 当城の最東端部で、おそらく物見櫓のようなものが設置されていたのだろう。


 この写真の中央やや右側の方向に鳥取城が控える。
【写真左】二の丸・その1
 上記先端部から南に二の丸を見ることができる。
【写真左】二の丸・その2
 本丸から南に下がると広場があり、そこから再び二の丸に向かって登る道がある。頂部も公園化されているため、この箇所の写真は撮っていない。


 この写真は二の丸の東麓部から撮ったもので、先ほどの本丸先端部を見たもの。
遊覧船が停泊しているが、観光客用のものだろうか。
【写真左】湖山池
 湖山池には青島、津生島という二つの島が浮かんでいる。
 この写真の左の島は、津生島で、右奥には鳥取市と岩美町にまたがる駟馳山が見える。
 
 余談だが、湖山池には水の中に石を積み、後日、石の上から棒で突きながら魚をおびき出すという珍しい漁法が伝承されている。
 戦国期も兵糧の一つとして活用されていたのかもしれない。

2012年2月25日土曜日

法勝寺城(鳥取県西伯郡南部町法勝寺)

法勝寺城(ほっしょうじじょう)

●所在地 鳥取県西伯郡南部町法勝寺
●別名 尾崎城
●形態 平山城
●築城期 文明年間か
●築城者 山名氏
●城主 毛利氏・三村家親
●高さ 60m(比高40m)
●遺構 郭・土塁・空堀・堀切・竪堀
●指定 南部町指定文化財(平成16年10月1日)
●登城日 2007年3月18日及び2012年2月24日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』)
 法勝寺城は、以前紹介した小松城(鳥取県南部町)手間要害山(鳥取県西伯郡南部町寺内)及び鎌倉山城(鳥取県西伯郡南部町笹畑)と同じ、鳥取県西伯郡南部町に所在する城砦である。
【写真左】法勝寺城遠望・その1
 北西方向から見たもので、右側は法勝寺中学校の校舎。


 なお、この写真の右側一帯は「馬場」地区と呼ばれている。


 初めて法勝寺城を探訪したのは2007年で、遺構部分の雑草・雑木が多く、良好な状態とは言えなかった。

 このため撮影した写真も今一つのものばかりで、これまで投稿を保留してきた。今回、5年振りに当城を目指したところ、タイミングよく整備・伐採作業の真っ最中で、主だった箇所はほとんど終了し、全容が明瞭に確認できた。
【写真左】登城口付近
 登城口は北東麓側の法勝寺側にあり、当城が桜の公園も兼ねているせいか、駐車場は広い。
 この写真は後述する当城の城主といわれた毛利本昭の墓で、左側の灯篭の後ろに古い五輪塔が残っているので、当時はこの墓石が本昭のものだったのだろう。


手前の道を左を進んでいくと、登り坂となった登城道が見える。
 ただ、この日はこれとは別に、写真の後ろにある道幅の狭いもう一つのコースから登って行った。


現地の説明板より

“南部町指定文化財
 法勝寺城址
   平成16年10月1日指定

 毛利氏によって永禄7年(1564)築城され、吉川元春の家臣三村家親が城主となった。家親は、尼子方の八橋城を攻略し、城将吉田源四郎らを敗走させた。

 一説によると、法勝寺城には毛利遠江守本昭が城主になったが、尼子遺臣の山中鹿助により攻められ落城し、本昭は自刃して果てた、という悲話が伝えられている。

 中世特有の典型的な山城で、本丸・二の丸で構成され、土塁や空堀が残っている。
 今では、城山公園として整備され、桜の名所である。
    平成17年3月 
       南部町教育委員会”
【写真左】空堀
 法勝寺城は東西幅150m、南北200~300mの規模を持ち、北から南に向かって北側郭群・主郭群と並んでいるが、主郭群の南堀を隔ててさらに南にも出城形式のものも確認できることから、南北の総延長は400mを超えるかもしれない。

 この空堀は左(南)の主郭群と右(北)の北郭群の間に設けられたものである。
 駐車場側からすぐに見える場所にある。


築城期

 法勝寺城の築城期については諸説あり、確定はしていない。
 現地の説明板では、永禄7年(1564)と記されているが、別説では文明年間またはそれ以前とも言われている。後記の頃とすれば、やはり応仁の乱が絡んだ時期と考えられ、その頃の伯耆国を支配していた山名氏一族の者が築城者となるだろう。
【写真左】東側一段目の郭
 主郭群は東側から西に向かっておよそ3段の郭構成となっている。

 主郭は3段目の南西隅の郭に置かれ、南北中央部を九十九折状の連絡路が走る。

 この写真は一段目の北側の郭で、左側の切崖の上には2段目の郭がある。


戦国期

 説明板にもあるように、この時期の城主は三村家親といわれている。
 三村家親は、備中備中・国吉城(岡山県高梁市川上町七地)でも紹介したように、出自は同国の鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の城主で、嫡男元親とともに最も早く毛利方に属している。

 家親が法勝寺城を手中に収める前、立て籠もったといわれるのが、南部町の南隣・日野町中菅にあった不動ヶ嶽城といわれている。不動ヶ嶽城の場所は比定されておらず不明だが、現在の日野町黒坂の地区にあたるため、江戸期に築城された黒坂城跡(鳥取県日野郡日野町黒坂)と近い場所にあったものと思われる。
【写真左】東側二段目の郭
 一段目を登ると、次に二段目の郭が控える。

 南側から見たもので、幅は5~8m前後、奥行は手前の延長部まで含めると100m近くはあるだろう。



 さて、その家親は最終的に永禄9年(1566)2月、宇喜多直家によって暗殺されることになる。したがって、法勝寺城に在城していたのは、その2年前になるが、八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)での戦いはおそらく彼にとって伯耆国での最後の戦いと思われる。

 というのも、その頃家親は、毛利方備中国の先鋒としての任務が主で、同国を押さえながら、西美作の三浦氏の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)を落とし、東美作の浦上氏と対峙する状況にあった。しかし、浦上氏の家臣であった宇喜多直家の急激な台頭により、浦上氏に代わって宇喜多氏が備前美作を扶植していった。

 この結果、家親は宇喜多氏に暗殺された(「興禅寺」)ため、嫡男元親が父の仇を討たんとして、備前の明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)において激戦に及んだが、あえなく元親は敗退してしまった。
【写真左】西端部の郭
 三段目の郭となるが、この郭は主郭のものではなく、主郭の真北に独立して突き出しているもので、規模は小さいものの、北方への監視を目的とした物見台だったのだろう。
 写真奥にみえるのは米子市方面。



毛利遠江守本昭

 ところで、法勝寺城の説明板に記されているもう一人の城主とされる「毛利遠江守本昭」なる武将だが、毛利元就の系図からもこの名前では見いだされない。

 ただ、文字は違うものの、読みとして同じものは、今月取り上げた神魂神社(島根県松江市大庭町)の稿で、出雲・真山城の落城を祝し、同社に神馬を奉納した富田城城番役・毛利元秋がいる。
【写真左】主郭の切崖
 上記の郭から南へ振り返ってみると主郭が見える。
 高低差は約4m前後。







 彼は、元就の五男で、母親は三吉氏から嫁いだ側室である。

 元秋は後に、実子がいなかった周防国の国人領主・杉森(椙杜)隆康の元へ養子に入るが、しばらくして杉森氏との養子縁組を解消し、再び毛利元秋と名乗った(毛利元秋墓所・宗松寺跡(島根県安来市広瀬町広瀬富田)参照)。

 元秋は尼子再興軍が蜂起した際は、ほとんど月山富田城を守備し、鹿助らの攻撃を防ぎ、天正13年(1585)当城で病没しているので、このことから法勝寺城の「本昭」とは同一人物ではないと思われる。
【写真左】主郭から北方を見る。
 上記の郭が三角状に見える。


 麓は法勝寺の町並み。このまま北に降ると、手間要害山城につながる。




 どちらにしても、法勝寺城は尼子晴久の時代ごろまでは同氏の支配下にあったが、永禄7年に毛利方三村家親によって落とされ、家親が当城を去ったあと、毛利方の別の武将が拠ったはずなので、その城主として、この毛利本昭なる人物が想定されるだろう。

 そこで、本昭が在城した時期だが、鹿助によって攻撃され、自刃したとされるから、永禄8年(1565)4月28日に毛利元就が一旦富田城攻撃を止め、兵を引いたころか、または永禄12年(1569)隠岐国から忠山に入った尼子再興軍が蜂起し、元亀2年(1571)8月鹿助が伯耆末石城で捕らわれるまでの間かもしれない。
【写真左】主郭・その1
 主郭群の南西端に設置されていることから、三角状の形状を持ち、北東面に長く、東西40m、南北30mの規模となっている。



 後者の説を想定すると、以前取り上げた備中の幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)で検証した「元亀2年2月の尼子勝久(現地には晴久と誤記されているが)らの備北諸城の制圧」を史実とすれば、この時期と重なる。

 つまり、この年(元亀2年)鹿助らは、尼子再興軍の一部を出雲に残し、自らは備北へ攻め入るため、この法勝寺往来(国道180号線)を南下する際、当城を落とし、さらに南下していったと考えることもできるからである。
【写真左】主郭・その2
 主郭の南側には約15m前後にわたって土塁状の遺構が残る。高さは50cm程度とやや低いが、当時は1m程度はあったものと思われる。
【写真左】主郭・その3
 南端部から北を見たもの。
【写真左】東側二段目の南郭
 形態としては帯郭というべき構成だが、左の主郭を防備する郭段で、不定型な形ながら総延長は150m前後はあるだろう。
【写真左】主郭群南端部の鞍部
 主郭群の南端部はご覧のような鞍部に道が設置されている。


 この道はこの後右に折れ、北の方へ空堀へとつながっているが、おそらくこの写真の左側にある出丸との接点になるため、この箇所も堀切のような遺構があったのかもしれない。
 次にはその出丸と思われる南側の箇所を掲載しておく。
【写真左】出丸・その1
 主郭群ほどの明確な遺構はないが、頂部にたどり着く手前に一か所郭段が構成されている。
【写真左】出丸・その2
 頂部には現在簡易水道のタンクが設置されているため、当時の遺構は確認できないが、物見台のようなものがあったと思われる。


 というのも、この出丸のある小丘から南方には、次に示す「戸構城」というおそらく法勝寺城の支城があったため、両城間の連絡としては当然こうした城砦施設があったと考えられるからである。
【写真左】戸構城
 小規模な丘城というべきもので、踏査はしていないが、遺構として土塁・郭があるという。


 なお、この写真の右(北)側に出丸・法勝寺城がある。
【写真左】法勝寺城主郭群と空堀
 再び本城・法勝寺城に戻って、先ほどの主郭南端部から右に回ると、北にほぼ真っ直ぐと空堀が伸びる。


 右側が主郭群で、左側は長大な土塁(防塁)群。


 この土塁の左側は現在法勝寺中学校の敷地(グランド)などになっているが、おそらく当時は屋敷跡ではなかったかと思われる。
【写真左】主郭群と北郭群の分岐点
 空堀形状となって、両群を分離している。
写真右側が主郭群、左側が北郭群。


 なお、この空堀をそのまま降ると、冒頭で示した東側駐車場の空堀につながる。
【写真左】北郭群・その1
 この位置からは比高は高く見えないが、頂部から北東部の麓を見ると、思った以上の比高がある。
【写真左】北郭群・その2 空堀
 おそらく先ほどから歩いてきた空堀の延長線上のものだったと思われるが、幅は大分狭くなっている。


 この先で城域の最北端となっている。
【写真左】西の出丸か
北郭群から西に見えるもので、学校の敷地内になっていたため、踏査していないが、おそらく法勝寺城もしくは、屋敷跡の一部だったかもしれない。
【写真左】祠跡か
 主郭と北郭群の間にあった空堀の東端部で、この箇所では空堀が二つに分かれ、南側には屹立した土塁状の高まりが残る。


 この写真はその高まりの先端部にあった石積みだが、おそらく当城を祀った祠などが建立されていたのかもしれない。
【写真左】法勝寺城遠望・その2
 東側から見たもので、手前の川は法勝寺川。
戦国期はおそらくこの法勝寺川が麓まで広がり、事実上水堀の役目をしていたと思われる。


 春になると、この川土手に一斉に満開の桜が並び見事な景色となる。
【写真左】経久寺
 法勝寺城から法勝寺川を挟んで東方の新宮谷に経久寺がある。
 この寺は、文字通り尼子経久を菩提するため、永禄年間(1558~69)に創建されたといわれている。


 経久は、天文10年(1541)11月3日(陰徳記)に亡くなるが、その後30年忌日の元亀元年(1570)11月13日の日付で納めたといわれる経久の位牌が安置してあるという。
【写真左】経久寺本堂の鬼瓦
 本堂の鬼瓦には尼子氏(佐々木氏)の家紋である「平四つ目結」が見える。
【写真左】経久寺から法勝寺城を遠望する。
 法勝寺城の東面とほぼ正対する位置にあり、当城の全景を確認できる。





◎関連投稿
瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

2012年2月22日水曜日

飯山城(鳥取県米子市久米町)

飯山城(いいやまじょう)

●所在地 鳥取県米子市久米町
●築城期 室町時代又は戦国時代
●高さ 52m
●築城者 山名氏か
●城主 野一色采女
●遺構 郭
●別名 采女丸
●備考 米子城(湊山城)の三の丸
●登城日 2010年2月5日

◆解説
 前稿「米子城」で触れたように、米子城の三の丸として本丸から南東部にあった飯山に築かれた平山城である。
【写真左】飯山城遠望
 南麓にある中村氏の菩提寺「感応寺」から見たもの。









現地の説明板より

“柳生奮戦の地と飯山城跡


 約500年前に築かれた伯耆・出雲国境の重要な砦で、中世には山名・尼子・毛利など戦国の攻防戦が繰り返された。
 山頂には、南北約85m、東西約35mの曲輪が古い二段の石垣で築き上げられている。湊山と山続きであったので、江戸時代には湊山本城の東の砦となった。
【写真左】飯山城に登る階段
 米子本城(本丸側)と飯山城の間には、現在国道9号線が走っており、同線の南側に鋭角に枝線として道が設置されている。
 西側の松江市方面からは車で入ることは困難で、一旦米子の町へ入り、Uターンして東から向かうと入りやすい。


 簡易舗装の片道車線を登っていくと、写真の階段下に車3,4台程度駐車できるスペースがある。ここから歩いてこの階段を上っていく。
 直線の階段で、段数はかなりあるため、何度か休憩しながら登る。



 慶長8年(1603)11月、家老横田内膳村詮が、主君中村一忠に暗殺されると、横田方が反旗を翻し、飯山に立て籠もって激しい戦いが起こった。
 これが、世にいう「米子城騒動」「中村騒動」である。このとき、横田方の剣豪柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が、中村方の武将矢野助之進らとわたりあい、十文字槍をしごいて、中村方を多数討ち取ったという武勇伝は有名である。
№19 米子市”
【写真左】登城途中、北方に米子本城を見る。
 飯山城側の階段周囲も、米子城側の石垣麓も樹木が生い茂っているため、春から夏にかけてはおそらく視界は遮られるだろう。


 この日は2月だったこともあり、何とか石垣群も確認できた。


横田内膳村詮と米子城騒動(中村騒動)

前稿でも述べたように、初代米子城主として入封した一忠は、わずか12歳であった。一忠の父・一氏は、豊臣政権時代の三中老の一人(他の二人は、後に隣国出雲に入封する堀尾吉晴、及び生駒親正)で、関ヶ原の合戦が始まる直前に亡くなっている。
【写真左】英霊塔
 本丸跡付近には現在英霊塔が建立されている。おそらく第2次世界大戦か、日清日露戦争の時のものだろう。



 病床にあった一氏が幼い嫡男に後見人として宛てたのが、横田内膳村詮である。

横田内膳村詮の出自ついては、はっきりしない点が多いが、阿波三好氏の一族といわれ、以前にも紹介した阿波国の岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)の城主・三好康長の甥といわれている。
【写真左】阿波(徳島)の岩倉城



 三好氏が滅んだあと、経緯はわからないが、当時岸和田城主にあった一氏が彼を召し抱えたとされている。
【写真左】郭
 現地は公園化されているため、遺構としては良好ではないが、郭跡らしき箇所は散見できる。






 一氏が彼に全幅の信頼を置いていたことは、そのころから彼の手腕に秀でたものがあり、一氏が実妹を嫁がせたこと、また関ヶ原の戦いが直前に迫った際、東軍方徳川家康につくよう内膳が勧めたことでも分かる。

 また、家康自身も横田内膳の能力を高く評価しており、米子城へ入封する際、一忠とは別に、彼には6000石を与えている。
【写真左】岩塊
 英霊塔の脇に残っているもので、周囲は削平されている。


 なお、討死した内膳の嫡子や柳生宗章などの墓などはこの場所にはないようだ。



 仮住まいを伯耆尾高城としながら、湊山に築城工事を開始し、五重の天守を竣工させ、さらには中村氏の菩提寺・感応寺も建立、湊山城下には近世城郭の城下町として、米子の町づくりを着々と進めていった。

 米子城がほぼ出来上がったのは慶長7年ごろと思われるが、翌8年(1603)11月14日、卓越した手腕を発揮した執政家老・横田内膳に対し、それを妬んでいた一忠近臣の安井清一郎・天野宗杷などが陰謀を企て、内膳を暗殺した。
【写真左】感応寺














 現地の説明板より


“米子市指定史跡
 米子城初代城主の菩提寺感応寺
 
 米子城初代城主中村一忠のとき、旧城下の静岡から菩提寺として移された。一忠は、慶長14年(1609)21歳で病死し、世継ぎがなく所領没収になったが、一忠の遺体は、殉死した小姓の垂井勘解由、服部若狭と共に寺の後山に葬られた。
 その後、三人の木像がつくられ、墓地の御影堂に安置されたが、今は本堂に移し、祀られている。墓地には「故伯耆守中村一忠公の碑」が建てられている。
 山門のすぐ前には、第21代横綱若島の碑や芭蕉100年忌念句碑があり、すぐ後ろには米子組の医師西村大六の碑もある。
 中村一忠墓地と三人の木像は、昭和52年4月に市指定史跡となった。
  №20 米子市”


 内膳の嫡男・主馬助はこれに激怒し、この飯山城に拠って反旗を翻した。飯山城に拠った武将の中には、内膳の客分として柳生宗矩の兄・五郎右衛門宗章がいた。宗章自身は直接中村氏に対する恨みはないものの、内膳への恩義を重んじ、嫡男主馬助に与同したわけである。

 結局、城主一忠は、一族で鎮圧することができないと判断し、隣国出雲の領主・堀尾吉晴に加勢を頼んだ。この結果、横田主馬助はじめ、柳生宗章らは悲運の討死を遂げた。
【写真左】中村一忠の御影堂
 高さは3m近くあるだろう。見事な形の墓である。









 この事件は、後に米子騒動(中村騒動)といわれたが、徳川幕府の知るところとなり、首謀者二人をはじめ、側近の道上長衛門・同長兵衛もその責任を負わされ、江戸において切腹することとなった。

 その後、一忠は慶長14年に日野川へ狩りに出かけた際、「梅」を食べたことが災いして、急逝した。この死については、不可解な点があったとされ、毒殺説もあるという。
【写真左】殉死者の墓と思われる。
 若い城主・一忠の小姓(垂井・服部)両名はおそらく、さらに一忠よりも若く、元服前後の年だったのだろう。
 美徳とはいえ、殉死とは洋の東西問わず、はかなくも哀れである。合掌


 伯耆国に入った中村氏や、隣国出雲の堀尾氏などは基本的に「外様大名」である。関ヶ原の合戦後、新たに西国に領地を与えられた大名のほとんどが外様である。

 同合戦が終わったものの、依然として大阪城には豊臣秀頼が在城していたことから、徳川幕府にとって、これら外様大名が再び豊臣に帰順することも想定しなければならない。

 このため、東軍方についた旧豊臣恩顧の大名は「外様」扱いとし、領地はあたえるものの、基本的に幕府にとって、勢力を削ぎ落とし、様々な理由をつけて、転封や改易の処置をとっていった。

 この中村氏の米子城騒動などは、もっとも幕府にとって改易の理由となるものである。一忠の急逝がなかったとしても、この一連のお家騒動後、おそらく改易されていたかもしれない。

妙興寺

 さて、横田内膳村詮の墓については、同市内の妙興寺という寺院に祀られている。
【写真左】日蓮宗普平山 妙興寺本堂
 米子市の寺町にあり、開山は、永禄7年(1564)瑞応院日逞上人が創建した。
【写真左】横田内膳村詮公墓廟
 本堂の右側に建立されているが、最近のもののようだ。