2012年1月9日月曜日

日倉山城(島根県雲南市掛合町掛合)・その1

日倉山城(ひぐらやまじょう)その1

●所在地 島根県雲南市掛合町掛合
●築城期 15世紀後半~16世紀前半
●築城者 多賀山通憲
●城主 多賀山氏
●高さ 標高376m
●遺構 郭・帯郭・土塁・竪堀・虎口・櫓台
●指定 雲南市指定文化財
●登城日 2008年11月4日

◆解説(参考文献『掛合町誌』『頓原町誌』、『日本城郭体系第14巻』等)
 日倉山城は、前稿「蔀山城」の出張所・出城として出雲国飯石郡掛合(現雲南市)に築かれたものである。
【写真左】日倉城
 東麓を走る国道54号線から見上げたもの。
東麓には54号線との間に三刀屋川が流れ、天然の堀となっている。




現地の説明板より

“掛合町指定文化財
 日倉城跡
   所有者 掛合町
   指定理由
 日倉城は掛合町内にある中世山城跡の中でも代表的な城跡で、備後高野山蔀山城の出張り所として、15世紀後半か16世紀初頭に築城され、飯石郡へ進出した多賀山氏の拠点となったところである。

高野山より王貫峠を経て、阿井・吉田に至る道と、草峠(くさんだわ)を越え頓原・入間・掛合に至る道の接点として戦略上重要な地点であった。


城の規模は小さいが、出雲・石見・備後を繋ぐ戦略的な意味は大変大きく、また掛合という地名の起こりを考える上からも見過ごすことのできない意味を持っている。


多賀山氏が大内氏に従って山口へ赴いた後、城はさびれたが、毛利氏侵攻の際、再びよみがえり、毛利隆元も一時期滞在したと伝えられる。”
【写真左】掛合町観光案内図
 国道54号線沿いの入間地区に設置されているもので、日倉城の位置は№6に記されている。






 日倉山城が所在する掛合地区は、町村合併によってできた雲南市の南方に位置している。

 この場所からさらに国道54号線を南下した、飯南町の「瀬戸山城」(2010年2月24日投稿)の稿でも紹介したように、当地は石清水文書によれば、平安後期から鎌倉初期にかけて、石清水八幡宮の別宮(「八所八幡」として、赤穴・日蔵(倉)とされた場所である。
【写真左】日倉八幡宮
 日倉城から国道54号線を北進し、三刀屋町乙加宮地区に祀られている。

 国道54号線から三刀屋川を挟んだ西岸に建立されているが、おそらく当時は現在の54号線ではなく、その脇を通る道が中世の街道だったと思われる。


 日倉城の所在地から約15キロも離れた場所で、近くには南北朝期、名和長年に従って畿内で活躍した南朝方武将・宇佐輔景の拠った「御城山城」(2009年4月28日投稿)がある。



 このうち、日蔵の別宮は、現在三刀屋町乙加宮にある日倉八幡宮とされ、日倉山城の掛合から北へ向かった場所になる。

 地元に残る『出雲風土記』に、不在神祇官社としてすでに「日倉社」が記されており、その場所を比定する史料としては、江戸期に記された『出雲神社巡拝記』によると、

掛合宮内村にある日倉社は、もと当所の三里南の掛合日倉山にあったが、多賀与四郎道定が城を築くといって、当社をこの地へ移して祈願所とした。

と記されている。

 ただ、この『出雲神社巡拝記』の中にある、多賀与四郎道定については、後に述べるように、日倉山城の築城者ではなかったことが推察される。
【写真左】登城口付近・その1
 掛合の町を流れる三刀屋川西岸部にあり、この場所に向かうまでの道は狭く、曲がりくねった道であるが、麓には墓地などがあり、駐車スペースは確保できる。
【写真左】登城口付近・その2
 この写真は現在墓地となっているところだが、記録によれば、日倉山城の城域がこの墓地からさらに下った公園の位置まであったとされているので、当時はこのあたりにも複数の郭群があったものと思われる。


 ちなみに、この場所には元総理大臣だった竹下登氏の墓地があり、山号「日倉山」と書かれた古寺や、麓には「宗円寺」という多賀山氏と縁の深い寺院もある。


多禰(たね)

 ところで、鎌倉期における当地(旧飯石郡)を治めていた地頭については、下記の者とされている(「文永8年関東教書」:千家文書」)。
  • 赤穴荘   赤穴太郎          50町余
  • 来島荘   来島杢助入道       20町
  • 多禰郷   多禰氏           25町余
  • 日蔵別宮 多禰氏            3町
  • 須佐郷   相模殿           30町
  • 大田別宮 出雲房            5町
  • 飯石郡   目黒左衛門入道      14町余
  • 熊谷郷   逸見太郎          17町余 
  • 三刀屋郷  諏訪部三郎入道子    21町
このうち、日倉山城のある旧掛合町に該当する地域は、多禰郷と須佐郷になる。そして多禰郷のエリアは、現在の多祢・松笠・掛合及び北の乙加宮・殿河内・根波別所・里坊・坂本・須所、並びに東方の吉田村の一部にあたる。
【写真左】郭段
 登城道の前半は割と整備され歩きやすい。ただ、全体に周囲の雑木が多いため、途中の眺望はあまり期待できないが、東側(左)は切崖状が続き、直下に三刀屋川の渓流が除く。


 写真は途中に見えた小規模な郭で、標識などは設置されていない。



 上掲したように、多禰郷と日蔵別宮併せて30町弱の領地をもった多禰氏は、もとは当地の郡司か、郷司のような在庁官人の系譜を持った一族と思われ、宝治2年(1248)の出雲大社遷宮において、各地の地頭職が流鏑馬の勤仕を行っており、そのうち多禰氏は第15番の勤仕を行ったと記録されている。

 その後南北朝時代になると、北隣の三刀屋郷を治めていた諏訪部扶重(「三刀屋じゃ山城・その2」2009年4月3日投稿)が武家方として畿内を転戦している間に、大雲寺雑掌が三刀屋惣領地頭職を横妨する事件が起き、これを鎮圧させるため、暦応元年(1338)幕府は、多禰清頼らに御教書を下し、清頼は隣接の熊谷郷地頭・目黒太郎左衛門尉とともに、これら雑掌の横妨を退けたという(「三刀屋文書」)。
【写真左】削平地と切崖
 本丸までの遺構としては、小規模な郭が3,4か所確認できるが、ご覧の通り竹林が多く、写真を撮っても城砦遺構らしく残らない。




 ちなみに、この年(暦応元年・延元3年)は、新田義貞が7月に越前国藤島に敗死し、南朝方の勢威が一気に低下したときである。そして8月には足利尊氏が征夷大将軍に任じられている。

 三刀屋惣領職の横妨事件は、出雲国の主だった武家方が畿内に転戦している間の出来事で、御教書を下したのは、尊氏の執事・高兄弟の弟・師泰である。

 その後の多禰氏に動きについては、康永4年(興国6年:貞和元年:1345)2月28日、諏訪部貞扶が佐々木貞家(南朝方と思われる)の立て籠もる「尾根山城(掛合町多根)」を攻め、3月3日に降伏させるという記録があり、このことから、当時「尾根山城」が多禰氏の居城の一つとされていたと思われ、奪還したものの、同氏(多禰氏)の記録がそれ以後見られなくなる。
【写真左】本丸の麓より見上げる。
 本丸手前までは多少のアップダウンがあるものの、歩きやすいが、この位置からは急勾配の道となる。




室町・戦国期

 さて、室町期から戦国に至る当城の記録についてはあまり詳細なものは残っていない。説明板にもあるように、備後蔀山城(しとみやまじょう)の出張所として、多賀山氏の拠点となったとされている。

 ところで、『掛合町誌』によれば、以前この日倉山城主を多賀山氏ではなく、多賀氏と記した文献が出たため、「平田城」(2011年1月31日投稿)で紹介した多賀氏、すなわち京極氏の家臣であった中原姓多賀氏と混同が生じ、日倉山城の城主がこの「出雲の多賀氏」であるかのような伝聞が広まったという。
【写真左】本丸周りの切崖
 不鮮明な写真のため、分かりにくいが、この崖を落ちていくとそのまま三刀屋川につながる。






 その理由の一つとされているのが、文明5年(1473)8月16日付の法王寺文書「幕府奉行人奉書」において、多賀与四郎・多賀穴見という武士が、坂本村(三刀屋町)の横妨を停止させ云々、という記録が見え、このことから飯石郡内においても多賀氏が本拠を持ち、三刀屋の南方、すなわち掛合区域まで領有していたのではないか、というものである。

 もちろん、この多賀氏は中原姓多賀氏で、出雲多賀氏のことである。
【写真左】天台宗牛蔵山 法王寺
 上掲した日倉神社から北西にむかった出雲市稗原町にある古刹で、寺伝によれば、天武天皇の御宇、行基菩薩の草創にして、聖武天皇の勅願所という。


 戦国期には山中鹿助が毛利軍を打ち破った時、この寺も戦場となった。


 ちなみに、法王寺というのは、現在の出雲市野尻にある古刹法王寺のことで、当時は牛蔵寺(ごぞうじ)といわれ、当院から山を一つ越えるとすぐに三刀屋(旧飯石郡)に出る場所である。
【写真左】本丸・その1
 本丸は7.8m四方と小規模なもので、全周囲が天然の要害となっており、南隅には巨岩と併せ祠が祀ってある。








首藤山内・多賀山氏の出雲国進出

 さて、多賀山氏の惣領家であった首藤山内氏は、最終的に備後山内を本拠(甲山城)としていくが、庶家の多賀山氏とは深い関係を持ったまま戦国期を迎える。

 蔀山城の多賀山氏が具体的に出雲国南部(現・雲南市及び奥出雲町)へ進出し始めるのは、同氏第14代の駿河守通憲あたりとされている(「蔀山城」の稿参照)。つまり、新兵衛尉通続の曽祖父にあたる人物である。

 惣領家の山内氏は、室町中期から奥出雲の仁多郡のほうへ進出し、横田荘代官職や、馬木郷(横田)内の所職を取得している。それに伴って、庶家である多賀山氏も進出してきた。多賀山氏が目標としたのが、惣領家山内氏が手を付けない飯石郡方面、すなわち現在の掛合町区域である。

 この場所は、赤穴氏が支配する南方と、三刀屋氏が支配する北方の中間地点に当たり、当時両氏の支配権が弱かった場所である(ただし、来島荘を除く)。
【写真左】本丸・その2
 標識が倒れたままになっていた。本丸全体が岩塊であるので、築城する際は相当な時間を要したことだろう。





 通憲は、掛合の日倉山山頂に祀ってあった神社を、三刀屋町乙加宮の宮内に移し、さらには本拠地蔀山城の麓にあった高山八幡宮を勧請して合祀、日倉山に城を築いて以後当城を多賀山氏代々の出張所としたという。

 従って、『日本城郭体系第13巻』では築城者を通定、すなわち多賀左京亮通定としているが、築城者は曽祖父・通続であって、そのことから築城期も15世紀から16世紀初頭(明応から文亀年間)と考えられる。

 では、多賀山氏が日倉山城を本拠として具体的にどの地域まで所領支配をしていたのか、詳細な史料は残っていないが、唯一江戸期に記録されてとされている『近郷古事漫筆』によると、おおむね次のようなことが推察される。
【写真左】本丸・その3
 登城したこの日(2008年11月)、眺望は北東から南にかけて可能だったが、今はあまり期待できないかもしれない。







多賀山氏の領有支配地

南限

『多賀山通続同家系図案』によると、永正11年(1514)通続の叔父とされる花栗弥兵衛が反乱を起こし、父・通広、兄・又四郎を殺害した、という記録が残っている。このことから支配地の南限は現在の飯南町頓原付近までとなる。

北限

下って戦国期になると、通定の時代になるが、『田部文書「永禄6年(1563)付、多賀山通定宛行状』によれば、通定は
  • 堀江左近丞・井上八郎右衛門尉に対し、掛合郷殿河内の内で、それぞれ3貫前の地
  • 田部宗左衛門に掛合郷坂本村の内で、1貫前の地
をそれぞれ新給として宛て行っている。このことから、北限については、前記したように現在の雲南市三刀屋町南西部までと考えられる。
【写真左】本丸から北麓に三刀屋川を見る。
 日倉山城の東麓を流れる三刀屋川は、この位置で、東側から流下してくる支流・吉田川と合流する。


 この吉田川を遡り、峠を越え阿井(奥出雲町)に出、そこから王貫峠を越えると、多賀山氏の本城・蔀山城につながる。


多禰郷から掛合郷への改称

 次に、地名ついてだが、前記した当地の地名である多禰郷という名称が、戦国期にはあまり出てこず、掛合郷という名称に変わってきている。

 おそらくこの変化も多賀山氏が当地に進出してきた経緯と関係するものと思われる。もちろん、すべて多禰郷の地域全体を指すものではないだろうが、主要なエリアが掛合郷に占有されている節がある。
【写真左】本丸付近から北方の掛合の町を見る。
 掛合の街並みは、当城麓より少し北にむかったところが多い。
 
 多賀山城の本丸に立つと、南方よりも北方、すなわち尼子氏の動きを最も警戒していたことがわかる。




次稿では、永正年間に当城を受け継いだ通続のころを中心に紹介したいと思う。

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