2012年1月27日金曜日

白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2

白鹿城(しらがじょう)・その2

◆解説(参考文献『新雲陽軍実記』等)
 今稿では永禄年間に白鹿城が落城した顛末、及び周辺の遺構について補足しておきたい。
【写真左】高坪山城
 白鹿城から西南に延びる小白鹿城側の尾根の西麓にある鶯谷を挟んで西側に屹立した出城で、白鹿城の外郭としては最も西方に配置された。


 城砦遺構は確認されていないが、北麓を走る真山林道淵には、「元高坪土橋」というものがあったらしく、当時鶯谷を跨いで小白鹿城側の尾根に導いていたのだろう。このため、戦略上重要な城砦となったと思われる。
 写真は西側からみたもの。

先ず、前稿の説明板と重複する箇所もあるが、本稿では西の谷登山口にある説明板も追記転載しておく。

“白鹿城跡
 この城は、松江市の中心から北方4キロの島根半島の山脈にある白鹿山(標高149.8m)に築かれた山城で、軍記物では白髪城とも書きます。すぐ北側の真山には、この白鹿城に対する毛利の向城として築かれた真山城があります。

 城のはじまりはよくわかりませんが、戦国時代に尼子氏の本拠地であった広瀬の冨田城を防衛する上で、この島根半島一帯は、水運や軍事上重要であったため、白鹿城を築いて戦略拠点としました。
【写真左】小白鹿城遠望
 北側からみたもの。












 一方、尼子打倒と出雲制覇をもくろむ毛利勢は、元就をはじめ吉川元春、小早川隆景が自ら出雲に乗り込み、永禄5年(1562)宍道湖北岸の荒隅山に荒隅城を築き、冨田城攻略の向城としました。しかし、先ず半島の拠点である白鹿城を落とす必要がありました。


幾たびかの攻防戦の末、ついに翌6年(1563)10月落城しました。そしてこの3年後にとうとう冨田城も毛利勢の手に落ちました。

 今、城跡には本丸、月見御殿、水ノ手、井戸跡、一ノ床、二ノ床、三ノ床、大黒丸、小白鹿、高坪山、大高丸、小高丸と呼ばれる郭などの遺構が残り、当時使われた陶磁器や、かわらけの破片などが発見されています。

平成9年3月”
【写真左】鶯谷から南方に松江城を見る。
 松江城は山城でなく、近世城郭であるが、慶長16年(1611)堀尾吉晴が築城した。





白鹿城落城

説明板にもあるように、尼子氏居城月山富田城を支える「尼子十旗」の筆頭城砦であった白鹿城が落城したのは、永禄6年(1563)10月末である。

この前年の10月、毛利勢は元就をはじめとし、吉川元春・小早川隆景らは赤穴の「瀬戸山城」(2010年2月24日投稿)を発向し、北方の尼子の支配地へと向かった。
瀬戸山城を発向する段階で、同氏に与していた主だった武将は次の通りである。
  1. 宍戸隆家
  2. 平賀太郎左衛門隆直
  3. 天野民部大輔元定
  4. 熊谷伊豆守信直・同兵庫介・同左近・同佐馬介
  5. 三善修理亮
  6. 山内新左衛門
  7. 高野山久意・同五郎兵衛
  8. 古志清左衛門
  9. 有地美作守
  10. 益田越中守
  11. 出羽中務介
  12. 佐波常陸介
  13. 小笠原弾正小弼
  14. 三沢三郎左衛門
  15. 三刀屋弾正左衛門
  16. 香川左衛門
  17. その他、木梨・池上・祖式・都野・久利・三須等
これらの勢力で約2万騎を数えた。
そして、出雲国尼子氏をこの戦いで破るべく、元就は他国の諸将にも広く催促した。このころの毛利氏の勢威はひときわ高くなり、中国における対抗者は尼子氏を除いてほとんどいなくなっていた。
【写真左】白鹿城と小白鹿城
 写真左側(北側)が白鹿城、右の尾根を進むと小白鹿城がある。


 この尾根の奥(東)には長谷という谷があり、その向こうの尾根筋には一ノ床・二ノ床・三ノ床が配置されている。


 このため、毛利氏の武威に恐れをなし、その後各地から馳せ参じた面々は以下の通りである。
  1. 但馬国 山名祐豊・太田垣・柿谷
  2. 因幡国 山名源十郎豊定・武田高信
  3. 美作国 三浦一族・佐用・新見・江見・斉藤・葦田・玉串
  4. 備前国 浦上・宇喜多・一色・波多野・赤井・荻野
  5. 播磨国 神吉・別所・上月・矢島・小寺
【写真左】白鹿城本丸・月見御殿付近を見る。
 西側から見たもの。










白鹿城の攻囲

永禄5年(1562)12月10日、元就は、先ず白鹿城の南方にある宍道湖岸荒隅山(あらわいやま)に陣を置き向城とした。そして湖岸には東西にわたって乱杭・逆茂木を立て、船掛りを造り、東方の中原・末次の泥地に堀と柵を巡らせ、北方の比津原・生馬・法吉に馬の掛け場を残し、白鹿城から3,4キロ四方隔てて取り囲んだ。
【写真左】荒隅城跡
 宍道湖岸にあったといわれ、現在天倫寺という寺院が建つが、城跡としての遺構はほとんど消滅している。


 当時毛利元就は、ここを大規模な陣所とし、京都から公卿なども招いて、詩歌会や蹴鞠の遊びや遊興を度々していたという。



 また、元就は荒隅城に陣を置きながら、翌年(永禄6年)1月には、豊前大友氏との戦いを一旦終結させるべく、幕府に対し和解調停を要請し、3月には益田藤兼に対し改めて盟約を結び、杵築大社国造職となった千家虎千代丸の相続を祝い太刀を送るなど、着々と出雲国での基盤を固めていった。
【写真左】白鹿城西の谷登山口
 以前にも紹介したが、2か所ある登山口の一つで、この場所には車が2台程度駐車できるスペースが確保されている。






 この戦いはもちろん白鹿城を攻め落とすことが目的の一つだが、当城を落とすことは、尼子氏居城の月山富田城との連携を断つことになり、富田城の攻略が最終目標だった。すなわち、白鹿城を落とせば、月山富田城が孤立し、毛利氏とっては戦略的にも明らかに優位に立てる。そのため、元就は焦らずじっくりと戦況を注視しながら持久戦を布いた。

 前稿でも紹介したように、籠城戦で長戦(ながいくさ)となった場合、もっとも必要なものは兵糧と水の確保である。白鹿城に残る巨大な大井戸は、籠城する松田氏らの飲料水として活用され、彼らの命の担保でもあった。

 これに目を付けた毛利氏は、わざわざ石見銀山から抗夫を呼び寄せ、井戸の水脈を断ち切るべく、麓から坑道を掘っていった。その作戦を知った松田氏らも穴を掘っていったため、珍しい地中内での戦が行われたという。
【写真左】白鹿城西の谷登山口から真山城を見る。
 この場所からは北東方向になるが、真山城の城域南部(三ノ床)が俯瞰できる。







月山富田城からの援軍

ところで、白鹿城が毛利の大軍に取り囲まれているとき、尼子氏本城の冨田城ではどのような動きがあったのだろうか。

晴久亡き後継承した嫡男義久は、城内で一族郎党を集め、白鹿城に向けて援軍を送るべく軍議を重ねたが、意見がまとまらなかった。

以前にも紹介したように、継承して間もない義久に対する家臣からの信頼は確立しておらず、ある者は毛利方へ与し、さらには、尼子氏一族内における老臣派と立原源太兵衛・山中鹿助ら若手の近習たちとの確執が生じていた。
【写真左】白鹿谷から真山城を遠望する。
 この谷が白鹿谷といわれるところで、写真左側には、白鹿城登山口がある。
 ただ、この箇所にはご覧のように道路が狭いため駐車は困難。




 果たせるかな、毛利方の2万とも3万ともいわれる大軍の前に、統制が乱れ始めていた尼子氏が抗戦しても良い結果は生まれなかった。

 永禄6年(1563)8月13日、毛利軍は白鹿城の外郭を攻撃し焼き払った。おそらく、南方の小白鹿城・高坪山当たりが狙われたのだろう。
9月23日、やっと富田城から援軍として、亀井能登守以下7千余騎が先陣として、以下倫久はじめ2陣・3陣を率いて白鹿城に向かった。

 白鹿城の手前で、毛利軍と対峙し交戦を期していた尼子軍は、毛利軍が出てこないと見るや、陣を解いて一旦引き下がろうとした。そのとき、小早川隆景らの軍勢が突如現れ、瞬く間に倫久らの軍を打ち砕き、倫久は辛うじて富田城に逃げ帰った。
【写真左】白鹿城周辺配置図
 紹介が前後するが、改めて当城周辺の配置図を添付する。












白鹿城の終焉

 それから6日後の29日、白鹿城内では富田城からの援軍の大敗をうけ、兵糧の欠如、戦意の喪失が色濃くなり、毛利方に降参する方策が図られることになった。

 ところで、前稿(「白鹿城・その1」)で、説明板にもあるように、白鹿城の城主であった松田誠保の妻を、尼子晴久の姉としているが、史料によっては、誠保の妻ではなく、誠保の父・松田左近将監吉久の妻としているものもある。

 そして、吉久の弟は常福寺普門西堂という豪勇武士で、白鹿城の二の城戸を固めていた。
常福寺というのは、白鹿城の三ノ床から南東部にさがったところにある寺院で、現在も所在している(写真参照)。同寺の名が彼の名に冠されているところをみると、おそらく出家し、当院の住僧でもあったかもしれない。
【写真左】常福寺
 白鹿谷の南端に所在する。
 なお、この境内に白鹿城にかかわる武士(松田左近将監吉久や常福寺普門西堂など)の墓などがあるか探してみたが、残念ながら見当たらなかった。




 10月29日、ついに毛利元就は白鹿城を攻略した。誠保の父・吉久とその弟普門西堂は本丸で自害、吉久の妻も「…女ながら敵に降って辱めをうけるより、いさぎよく死んで父祖の恩に報いたい」といって、自害した。

なお、誠保は落城の隙をついて脱出し、隠岐国に奔った。こののち、彼は鹿助らと尼子再興を期し、行動を共にすることになる。
【写真左】常福寺から白鹿山城及び真山城を遠望する。
 白鹿山城は左側(西)手前になり、真山城は右側(東)の奥に見える。

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