2011年9月30日金曜日

益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)

益田藤兼(ますだふじかねのはか)

●所在地 島根県益田市七尾町桜谷
●探訪日 2011年2月1日


◆解説(参考文献『益田市誌上巻』等)
【写真左】妙義寺(妙義禅寺)
 創建は弘安5年(1282:又は文永年間)といわれている。文字通り禅宗曹洞宗の古刹である。一時廃れていたが、天文・弘治年間に藤兼が七尾城の大修理に併せ再建したといわれている。




 戦前の昭和18年1月、藤兼の勤王実績が知られるようになり、地元の益田仏教奉仕団・石見文化会という団体によって、同年2月「藤兼勤皇実績顕彰法会」が開催され、矢富熊一郎氏の講演を行い、その後藤兼の碑に墓参したという。
 藤兼は晩年仏教に熱心に信仰したことが知られている。

 なお、矢富熊一郎氏は当ブログ投稿において、もっとも参考史料として活用している『益田市誌(上巻)』(昭和50年発行)の執筆者の一人で、既に他界された方だが、石見における中世史学の碩学で、管理人が山城を含む中世史に興味を持ったのも、同氏の膨大な著作史料によるところが大きい。
【写真左】本堂屋根の益田氏の家紋
 益田惣領家の家紋は、下り藤に久文字が入ったもので、庶流となった三隅氏・福屋氏・周布氏などの家紋にも必ず「久」の文字が入った。




 益田市の七尾城の西麓にある妙義禅寺境内奥に益田藤兼の墓が安置されている。

現地の説明板より

“益田市指定文化財

 益田藤兼の墓
    指定 昭和46年6月21日

 益田氏19代当主の藤兼(1529~96)は、11歳で将軍足利義藤(後に義輝)から、藤の字を授けられて藤兼と称し、15歳で家督を継承しました。
 天文20年(1551)に姻戚関係のあった陶隆房(後に晴賢)が挙兵して、大内義隆を討つと、石見の国人を統率してこの挙兵に協力した藤兼は、毛利元就と対立することとなり、三宅御土居を離れ、改修した七尾城に居住しました。
【写真左】三宅御土居
【写真左】七尾城

 厳島合戦で陶氏を破った毛利氏は、石見へ侵攻を始めましたが、吉川元春の仲介によって、藤兼は元就と和睦し、子の元祥(もとよし)とともに下城して、再び三宅御土居を本拠としました。

 藤兼は三隅大寺において68歳で没し、妙義寺に葬られました。藤兼の墓と伝えられるこの石塔は、高さ2.11mの市内で最大の五輪塔です。近年の研究では、鎌倉時代後期に遡るもので、石材は六甲山御影石製であるとの見解が有力になっています。

 平成20年3月
  益田市教育委員会”
【写真左】益田藤兼の墓・その1
 妙義禅寺と七尾城の間にある桜谷という所にある。


謚(おくりな)は、大蘊全鼎(たいうんぜんてい)という。
【写真左】益田藤兼の墓・その2
 藤兼の墓と並んでもう一つの墓があったが、御覧の通り今はない。


 これは、妙義禅寺の保護者であった13代・秀兼のものといわれているが、この墓の破却については様々な風説があるというが、管理人は耳目に触れていないため分からない。



益田藤兼

 石見益田氏第19代(別説では18代)藤兼については、これまで下記の投稿
で、断片的な動きを紹介してきたが、ここで改めて彼の略歴を整理しておきたい。

 藤兼は、享禄2年(1529)に生まれ、又次郎と称し、天文13年(1544)の15歳のとき家督を継いだ。これより先立つ天文8年正月、時の将軍足利義輝(義藤)より偏諱を受け、藤兼を名乗った。彼が偏諱を受けた理由は、永正8年(1511)、京都船岡山の役で父・尹兼及び祖父・宗兼が活躍したことによるものである。

 なお、この船岡山の役では、益田氏を初め、周布興兼・久利清兵衛・小笠原長隆・高橋治部少輔、そして尼子経久らが大内義興に従って戦っている。この戦いでは、義興が細川高国と連合し、細川政賢の軍を破った。

 藤兼の妻は、杉宗長(興重)の女である。杉宗長は大内義興・義隆の奉行人を務めていた。そして次室(側室)を石津経頼の女としている。ただこの側室は元亀元年に逝去したため、その後内藤隆春の女を側室とした。

益田氏と陶氏

 説明板にあるように、益田藤兼が陶晴賢に協力した理由は次のようなことからである。
藤兼の曽々祖父である兼堯の女は、晴賢の祖父・弘護に嫁ぎ、曽祖父・貞兼の母は陶氏の女であり、また祖父・宗兼の室即ち彼の母梅林智惷は、陶氏の出である。

 天文15年(1546)11月、陶晴賢は居城・若山城(2010年3月19日投稿)に留まり、密かに豊後の大友宗麟へ密書を送った。こうした動きは大内義隆の耳に入ったが、義隆はすぐに行動を起こさなかった。その後、晴賢は自らの計画を益田藤兼に伝えた。晴賢にとって、石見国では藤兼がもっとも信頼のおける強力な味方だったからである。
【写真左】若山城(山口県周防市福川)
 陶氏は正平5年(1350)から弘治3年(1557)までこの地方を治め、晴賢が元就との厳島合戦で敗れ事実上滅亡する。若山城は、1470年に築城された。





 この動きと対峙するのが、津和野の吉見氏であった。吉見正頼は大内義隆に好意を寄せていた。正頼の妻は義興の女・大宮姫を娶っていた。

益田藤兼の吉見氏攻撃

 陶晴賢が大内義隆を討つのは、天文20年9月だが、これに先立つ3月16日、益田藤兼はいち早く晴賢の支援を得て、吉見討伐を開始した。その前哨戦となったのが、脇本加賀守の拠る鹿足郡日原町の下瀬山城(未登城)攻撃である。

 脇本氏は一名下瀬氏と称し、吉見三河守頼行の嫡子・大蔵大輔頼直が初めて石州へ下向した際、吉賀に来住し、同族の下瀬頼石が横山に住み、下瀬姓を名乗ったのが始まりとされている。

 藤兼は攻撃する前に下瀬城の脇本加賀守に打渡し(降参)の意志があれば、攻め入らないとの書状を送っている(「萩閥下瀬七兵衛文書」)。脇本加賀守の本名は、脇本弥六左衛門頼郷といった。

 彼は「勇力諸人に越え、常に太刀を帯ぶ」(「萩閥下瀬文書」)という武将であったから、藤兼の書状に対し、これを拒否した。このため、藤兼は下瀬山城の攻略にかかったが、逆に撃退されてしまった。これと相前後して、藤兼は吉見氏本城の三本松城をも攻撃したが、要害堅固な山城であったこともあり、ここでも撃退されてしまった。

 しかし、同年(天文20年)10月、再び陶晴賢が藤兼に檄を飛ばし、藤兼は吉見領である吉賀郡津和野村下領の野戸呂山に陣を構え、吉見氏と戦端を交えることになる。藤兼による二度目の攻撃も下瀬氏などの働きにより失敗に終わった。

 ところで、こうした益田氏と吉見氏との戦いは、藤兼の代に限らず永い間の両氏の争いの一端であるが、陶晴賢の謀叛(大内義隆誅殺)に絡んで特に顕著なものとなった。

 天文22年11月13日、それまで益田氏(藤兼)が主体となっていた吉見氏攻撃は、陶晴賢・大内義長の軍が主体となった。藤兼らは吉見氏の支城を主に担当することとなり、陶氏・益田氏の陣構えが整ったわけである。
【写真左】三本松城(津和野城)












 吉見氏側の本城・三本松城とは別に同氏の支城としては、長州の嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)、津和野の中入茶磨山、坪尾城などがあったが、次々と益田氏らの攻撃によって陥落、大内義長らは同じく吉見氏の支城である吉賀城・隅城・下風呂谷砦などを攻略、陶晴賢は三本松城を眼下に見下ろすことができる当城西南の栃ヶ嶽(別名陶ヶ嶽:H420m)に陣を敷いた。

 当初三本松城にいた吉見正頼は、孤立した三本松城から密かに脱出し下瀬山城へ逃げ込んだ。しかし、戦況は吉見氏側にとってますます不利となり、8月、正頼は13歳になる嫡男亀王丸(後の広頼)を人質として差出し、和睦を願い出た。

 こうして津和野三本松城の吉見氏攻略は終わったが、すでに吉見氏は陶・益田氏に降る前に、毛利氏に対して援軍を求めていたので、これが後に同氏の陶氏攻略のきっかけともなった。

その後の経緯については説明板の通りである。
【写真左】番外編:50歳の豚さん
 藤兼の墓に向かう途中の畜舎に養豚場のようなものがある。


 この日墓に向かっていたところ、二人の年配の方がこの豚の前でしきりに感心しておられる。

 聞くと「この豚は年齢が50歳だ」という。よく見ると左右から牙がのぞいている。われわれの存在を全く無視して、もくもくと餌を食べている。


 管理人も今まで見た豚の中では最大級のもので、純粋な豚というより、いわゆる「イノブタ」系のものではないかと思われるが、この日の印象は益田藤兼の墓とセットで、この豚さんも管理人の脳裏に焼きついた次第である。

2011年9月26日月曜日

稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)

稲岡城(いなおかじょう)

●所在地 島根県益田市下本郷稲岡
●築城期 鎌倉期(弘安年間:1278~87年か)
●別名 上の山城・城の辻
●高さ 標高30m
●遺構 郭
●遺跡の現状 消滅
●築城者 多根兼政
●登城日 2011年2月1日

◆解説(参考文献『益田市誌上巻』)

弘安の役

弘安4年(1281)5月、高麗の東路軍が、対馬・壱岐に襲来した。そして6月6日、東路軍が博多湾に現れた。閏7月暴風雨により敵船の多くが標没し、残った船は逃げ帰った。鎌倉中期、蒙古襲来ともいわれる弘安の役(1回目は1274年で、文永の役)である。
【写真左】稲岡城跡付近
 稲岡城跡は残念ながら遺構は殆ど消滅しており、跡地には「雪舟の郷記念館」「雪舟の墓」「大喜庵」及び、「小丸山古墳」などがある。
 この写真は「雪舟の郷記念館」側の駐車場付近。

多根兼政

これに対し、中国探題は、石見国においては同国最大の豪族・益田氏に対し、石見海岸全域にわたって防備に当たるよう指示を出した。時の益田氏の当主は兼時である。

兼時の弟である末元兵衛兼直は、浜田市の松原(当時の岩崎)を岡本常房と協力して当たった。常房の後室は兼直の女である。

そして兼直の弟は、東北両仙道地頭の多根兼政である。兼政は高津の鍋島(現在の長者原付近)を中心に防備に専念した。
この時築かれた砦は、後に「石見18砦」といわれ、益田氏が担当したのはこのうち6砦である。
【写真左】多根兼政公顕彰碑
 この場所は基本的に雪舟関係の施設と、小丸山古墳を主だった観光施設として打ち出
しているため、多根兼政に関するものはこの顕彰碑と、下の写真にある宝篋印塔のみである。
【写真左】移設された兼政の墓
 この脇には次のような説明板が掲示されている。


“公は益田兼季(益田城第5代当主)の五男で、北・東仙道、種(多根)の地頭職を努め後年、乙吉に上の山城を築いて、益田城外城としての大役を果たし、この地を拓いた功労者である。
 公墓は上の山、一升野にあったが、この地に移して復元した。”

さて、今稿で紹介する「稲岡城」は、この多根兼政の居城といわれている。上記したように彼は益田兼時の弟になるが、仙道地頭に封ぜられ、本拠を種(多根)村としたので、このときより益田姓を廃し、地名である多根をもって姓とした。

彼はその後、兄兼時の命によって大規模な益田川の開墾・土木工事に着手した。現在の益田市街を流れる益田川・高津川などは、兼時による新田・川違い工事などる箇所が多い。さらに、彼は大規模なため池も手がけている。

稲岡城

稲岡城が所在した当時の下本郷の稲干山(稲岡山)は、それまで益田本郷の屯倉(みやけ)に関係した稲の収蔵地であったが、大化の改新後荒廃していたという。兼政はこの地に稲岡城を築いた。
【写真左】稲岡城略図(『益田市誌上巻』より転載)
 城砦としての構成は極めて単純なもので、本丸・出丸ともほぼ同程度の規模という。周囲400mと記されているので、全体に小規模なものだったようだ。

築城期は従って、弘安年間(1278~87)ごろと思われる。当時の記録では東西にそれぞれ丘があり、東に本丸、西に出丸を設け、全周には幅4mの馬場を設け調練場とした。

兼政は晩年、当城の東南麓にある椎ヶ森に菩提寺・東光寺を建立し、信仰生活に入ったといわれるので出家したと思われる。稲岡城を築いて間もない弘安7年(1284)、この寺で逝去した。
法名 涼徳院殿前猷厳大居士
【写真左】旧東光寺(現大喜庵)
 兼政の菩提寺・東光寺があったところで、現在大喜庵となっている。
 室町期の画聖・雪舟が特にこの地域を気に入ったようで、この上に向かうと彼の墓地がある。

現地に設置された縁起は次の通り。


“大喜庵(東光寺)の由来
 大喜庵は元禄3年(1690)、都茂の僧・大喜松悦が建立した庵です。
 その前身は白水山東光寺(一名山寺)・後に妙喜山と呼ばれたこの地方きっての大伽藍でした。
 鎌倉の中期・益田氏の一族・多根兼政が菩提寺として建立、室町期には南宗士綱が再興し、以来石窓禅師・勝剛長柔・竹心周鼎が入山しました。


 文明年間に山口の雲谷庵より来住した雪舟等揚禅師は、付近の風景が中国の名勝瀟湘や洞庭の雰囲気によく似ていることからこの地を殊に愛し、「山寺図」をスケッチし、また「益田兼尭寿像図」「四季花鳥図屏風」を描く傍ら、医光寺・万福寺に心の庭を築きました。


 禅師が東光寺に生活の場を求めたのは、文亀2年(1502)、2度目の益田訪問の時です。まさにあこがれの舞台でしたので、日夜禅の道に精進しながら画業にも専念していましたが、永正3年(1506)87歳、終にこの地で永眠しました。


 東光寺は、その後天正年間に全焼し、仁保成隆が再建した小庵も、益田氏の須佐転封で廃頽するばかりでした。前述した大喜松祝の力によって、雪舟禅師の香りを現今にとどめることができました。


 裏山には雪舟禅師や、大喜松上座の墓があり、堂内にはただ一つ焼失をまぬがれた東光寺のご本尊観世音菩薩像があります。


正和56年9月
 雪舟顕彰会”
【写真左】雪舟の墓・その1
益田市指定文化財となっており、「石州山地雪舟廟」と銘記されている。
現地の説明板より


“益田市指定文化財
雪舟の墓
  昭和46年6月21日


 雪舟は応永27年(1420)に備中(岡山県)に生まれ、幼くして相国寺に入り、周文から画法を学び、応仁元年(1467)、明に渡り中国の画法も学んだ。


 また、益田氏の招聘によって、石見を二度も訪れ益田で死没したといわれる。
 雪舟の没年は、永正3年(1506)であるといわれており、終焉地については東光寺(現大喜庵)の他、山口雲谷庵、備中重源寺、同真福寺など諸説があるが、墓が存在するのは益田市のみである。
【写真左】雪舟の墓・その2
 上部に相輪が納めてあるようだ。


 雪舟の墓は東光寺の荒廃とともに寂れたが、江戸時代中ごろの宝暦年間に乙吉村の庄屋金山太右衛門が施主となり願主である佐州(佐渡島)の浄念とともに改築したものが現在の墓で、内部には旧墓の相輪が納められている。”
【写真左】小丸山古墳・その1
 雪舟の墓・多根兼政の墓を過ぎ、そのまま登っていくと、小丸山古墳がある。
 稲岡城と隣接した場所であるため、鎌倉期にこの古墳も城域の一部とした可能性もある。


 型式は前方後円墳で、古墳時代後期6世紀の初めごろ造られたと考えられ、当時この地方を治めていた首長の墓と考えられている。
 墳丘の全長は52mで、石見地方としては4番目の規模を持つものといわれている。
【写真左】小丸山古墳・その2
【写真左】小丸山古墳・その3
【写真左】小丸山古墳・その4
 後円部北端部最高所から北方を見たもので、稲岡城が使用されていた時は、この場所も物見櫓的な利用があったかもしれない。



2011年9月24日土曜日

高尻城と石水寺(島根県鹿足郡吉賀町上高尻)

高尻城石水寺(たかじりじょうとせきみずじ)

●所在地 島根県鹿足郡吉賀町上高尻
●探訪日 2011年6月8日 

◆解説(参考文献『益田市誌上巻』等)
  小松尾城(島根県益田市匹見町紙祖石組)の稿でも述べたように、文安3年(1446)、吉賀郷高尻の河野氏、広石の上領氏が、小松尾城の大谷佐膳を攻めたと記したが、今稿ではその河野氏及び「高尻城」、並びに同氏の菩提寺とされている「石水寺」を取り上げたい。
写真左】石水寺・その1
 吉賀匹見線(42号線)沿いに建立されている。










高尻城

 河野氏は石見国吉賀高尻に来住し高尻城を築いたとされているが、以前にも記したように、この高尻城の所在地については、島根県遺跡データベースにも記載されおらず不明である。

 ただ、冒頭に掲げた菩提寺・石水寺からさらに数百メートル遡ったところに、河野氏を祀る「三島大明神」という社が建立されているので、この周辺に築かれていると思われる。


石水寺

 前稿三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)で、現地に向かう際、南方の吉賀町の高尻川沿いに車を走らせたが、その途中にある上高尻に建立された寺院で、吉賀河野氏の菩提寺とされている。

 竜洞山・石水寺といい、曹洞宗の寺院となっている。
 呼称を「せきみずじ」としているが、あるいは「せきすいじ」かもしれない。
【写真左】石水寺・その2
 本堂












吉賀河野氏

 吉賀郷高尻の河野氏については、『益田市誌上巻』によれば、嘉吉3年、すなわち三葛の合戦3年前(1443年)に、伊予河野氏の子孫・孫十郎入道が、吉見成頼を頼って高尻村に住み、高尻城主となり、その嫡男久米丸に至った、としている。

 これに対し、『六日市町史(吉賀記)』では、これより遡る100年余り前の鎌倉末期、すなわち、正和4年(1315)、伊予国河野弥十郎通弘が、吉見氏の命によって安蔵寺山中に寺を建立し、阿弥陀仏を安置し安蔵寺と名付け(安蔵寺山はこのとこから由来する)、安蔵寺はその後焼失して本尊は、麓の上高尻石水寺に移した、とある。
 さらに、この後河野氏は第9代・河野次郎四郎通信まで高尻城主であったとしている。

 前記『益田市誌上巻』の内容と照合すると、来住時期や高尻城主になった時期などに差異が認められ合致しない点が多いが、少なくとも来住時期については、正和4年(1315)と推察される。
【写真左】石水寺の裏から本堂を見る
 写真左を更に遡って行くと、前稿の「三葛の屋敷跡」がある匹見町につながる。






石見吉見氏

 そこで、伊予河野氏を招いたのは吉見氏とある。このころの吉見氏とは、頼行もしくは、頼直の時代である。

 吉見頼行が、石見国津和野に三本松城津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原))を築いたのは永仁3年(1295)とされている(『吉見由来記』)。頼行の死没年は史料によって諸説があるが、南北朝初期である元弘3年(1333)、頼行は長門探題・北条直元の城を攻めている。ただ、嫡男頼直は父と早くから諸所で転戦を行い、父頼行の後半期の実績は頼直によるところが多い。

伊予河野氏

 さて、石見に来住したとされる河野弥十郎通弘については、詳細は不明である。
 伊予河野氏は、通信のとき、源平合戦の壇ノ浦の戦いで強力な水軍を率いて源氏方の勝利を導き、伊予国において絶大な勢力を得た。

 しかし、承久の乱(1221年)で一族のほとんどが後鳥羽上皇側についたため、河野通信は幕府側に追われ、伊予の高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)で籠城し防戦するが衆寡敵せず落城、通信は奥州へ配流、一族は離散、所領はほとんど没収された。
【写真左】高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)
 伊予河野氏が最初の本拠とした山城で、標高986m。ただ、実際にはこの山は河野氏の本拠城ではなく、麓の諸城とする説が多い。
 いずれ当城についても紹介する予定である。




 しかし、幕府の重鎮・北条時政の娘を母とする河野通久だけが生き残り、孫の通有(みちあり)の代になって元寇の乱の際、伊予水軍の将として活躍する。ここから再び伊予河野氏が復活することになる。

 このことから、河野通有は伊予河野氏の中興の祖と呼ばれた。通有は、建長2年(1250)に生まれ、応長元年(1311)に没しているが、かれには多くの子がいたといわれる。
おそらく、石見吉賀郷に来住した通弘は、それら多くの子たちの中の一人だろう。

来住の理由

 では、なぜ伊予の河野氏である通弘が、遠国である石見の吉賀郷へ来たのだろうか。今のところこれを明らかにする史料がないため詳細は不明である。

 ただ、この時期(正和年間・1312~16)から鎌倉北条執権体制の瓦解が始まりだしたころで、正和4年(1315)7月に北条基時が執権となるも、翌年には北条高時に執権を譲り、諸国では悪党の反乱や、朝廷における文保の和談(大覚寺・持明院両統の迭立)不調などがあり、数年後には正中の変が勃発する頃である。

 そして、その後起こる南北朝動乱は、他国がそうであったように両派に分かれた戦いが繰り広げられている。
 河野通弘が石見国吉賀に来住した理由は、そうした中央政権の混迷と何らかの関係があったものかもしれない。
【写真左】本堂裏の墓地にあった墓石
 石水寺本堂裏は少し高くなった段があり、もとは墓地だったと思われる箇所に写真に見えるように、宝篋印塔もしくは五輪塔の一部と思われるものが見えた。



河野氏の墓 

 初代通弘の墓については、近くの畑の畦際に宝篋印塔があるとされているが、確認できなかった。

 『益田市誌上巻』によると、河野氏一族の墓地は「石水寺の上にある」とされているが、当寺の裏山はあまり整備されておらず、上の方へは登っていない。

2011年9月21日水曜日

三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)

三葛の殿屋敷(みかずらのとのやしき)

●所在地 島根県益田市匹見町紙祖三葛
●築城期 中世(縄文期より住居跡か)
●形態 居館跡
●築城者 大谷氏
●出土物 陶磁器・鉄器・銭貨・縄文土器・石器
●遺跡の現状 水田
●指定 益田市指定史跡
●登城日 2011年6月8日

◆解説(参考文献『益田市誌上巻』その他)
 しばらく安芸・備後の山城が続いてきたので、今稿は久しぶりに石見国の城館を取り上げたい。

 今稿の「三葛の殿屋敷」は、以前取り上げた未登城の小松尾城(島根県益田市匹見町紙祖石組)を更に遡った山奥にあり、当稿でも記したように、いずれ探訪したいと思っていた。
【写真左】殿屋敷跡・その1
 三葛集落のほぼ中央部にあって、現在は田圃となっている。







 ところで、管理人も度々参考にさせていただいているサイト『城郭放浪記』氏が、今年(2011年)7月に「小松尾城」の登城に成功し報告されているのに驚いた。というのも、当城は麓に辿り着くための橋がない上に、見上げるような険峻な山城であり、管理人にはとても無理と思えたからである。

 さて、三葛に向かうルートは、「小松尾城」探訪のときと同じように、匹見川と並行して走る国道488号線を通り、匹見中学校付近から枝分かれする「吉賀匹見線」へ入って南下し、吉賀町方面に向かうのが一般的だ。
【写真左】紙祖川渓流
 この写真は帰途中に撮ったもので、三葛から小松尾城に向かう途中に並行して流れる紙祖川で、匹見川に注ぐ。
 山深い渓流ならではの澄んだ清流で、文字通り癒されるミナモの流れである。




 しかし、この日(2011年6月8日)訪れた際は、南方の吉賀町(七日市)側から向かった。高津川の支流高尻川に沿って走る「吉賀匹見線」は、現在上高尻辺りまでは整備された道路が続き運転も楽だが、途中から片道一車線となり、深い谷間を縫うように次第に起伏の激しい急坂急カーブの連続となる。さらに深い木立に遮られ、昼なお暗しという状況になってくる。当然ライトを点灯した。

 「こんなに深い山の中、この先に、人が住んでいるんだろうか。人よりもクマさんとの出会いの確率が高いかもしれない。」
と、冗談とも本音ともつかない話を、連れ合いと交わした。

 吉賀町と匹見町(益田市)の町境である上畑トンネルという峠を越えると下り坂になる。急峻な谷間をしばらく走っていると、忽然と開けた集落が目の前に現れた。三葛の集落である。
【写真左】殿屋敷跡・その2
 上の方から見たもので、御覧の通り土地改良された圃場のため、遺構は改変されているが、おそらく手前の田圃辺り全体が屋敷跡と思われる。

平家落人

寿永4年(文治元年:1185)3月24日、源義経は壇ノ浦に平氏を滅ぼし、安徳天皇は入水、平教盛・知盛は敗死、宗盛は捕らわれ、ここに平家は滅亡した。残党となった平家落人は全国に四散逃亡した。

 平家の根拠地であった安芸国から逃れた一部は、岩国から錦川をさかのぼり中国山地国境を超え石見国に入った。同国へ入った平家の落人先の大半が、現在の匹見(益田市匹見町)だという。
安直な山城登山しかできない管理人からみれば、今でも匹見はやはり秘境と思える。人煙を絶ったこの地へ、さしもの源氏も追手が届かなかった。
【写真左】現地の説明板前にある石造
 「大谷氏館跡の石造物」と刻印された石碑と、五輪塔・宝篋印塔が各一基祀られている。






 石見の山奥に逃げ込んだ平家落人たちにとって、三葛は匹見に入る時のいわば入口となり、そのまま三葛を本拠とするものや、匹見中心部及び北東部の表匹見といわれる道川などへと分散した。

そして、彼等は当地で新たに「澄川」「斎藤」「寺戸」「大谷」の諸姓を名乗り、平家の末裔として後に、美濃・那賀郡の領地を扶植し、特に、澄川・斎藤・寺戸の三氏は当地に名を留め「匹見侍」と称され、それぞれの本拠地の名門となっていく。

大谷氏の始祖は、大谷盛胤といわれ、父は平貞経といわれているが定かでない。その盛胤は匹見東村という地に大谷城を築城した(「益田市誌上巻」)とされているが、島根県遺跡データベースには登録記載がない。
【写真左】居館の想像復元図
 説明板に図示されているもので、当時の様子がうかがえる。








殿屋敷跡

 今稿の「殿屋敷跡」とされている大谷氏館跡というのは、戦国期の大谷氏の居館跡といわれている。現地の説明板には次のように記されている。

“市指定史跡 殿屋敷遺跡(右造物・中世遺物を含む)

 本域の地名は殿屋敷といわれ、室町後期(戦国時代)に大谷氏が居館を設けていた場所である。
 圃場整備事業に伴い平成9年(1997)度に発掘調査が行われ、多くの陶磁器類・鉄器類・銭貨などの中世遺物とともに、そのほか少量の縄文土器・石器などが出土した。

 また土杭や柱穴などの中世遺構も発見されており、該地にあった五輪塔(右)や宝篋印塔(左)とともに、これらは同時期における1地域の支配階級者の様子を理解するうえで貴重なものであった。

 そうした大谷氏の在住も、大谷弾正、大谷平内と続いたといわれるが、天正3年(1575)には奥郷の山道(美都町仙道)の竹城主であった寺戸惣右衛門に攻められている。その後、平内の四男勝兵衛は、藩制期の江戸時代になって、匹見下代官初代に命ぜられ、西村の野田に移って終焉を迎えたのであった。
 益田市教育委員会”
【写真左】検出された遺構群
 柱穴・土杭跡が見える。











 平貞経の子・大谷盛胤を祖とする流れは、途中の系譜がはっきりしないが、以下のようである。
  1. 平貞経 
  2. 大谷盛胤 
  3. (10代略) 
  4. 大谷盛治 
  5. 大谷吉継 若狭守・刑部少輔吉隆
大谷吉継の代は戦国期になるが、彼には4人の子があり、それぞれ次の領地を治めていく。
  • 長男・源吾    斎藤伯耆守の女婿として道谷村へ
  • 二男・主水頭  龍山城(上ノ山城)主として匹見半田へ
  • 三男・蔵之丞  花ノ木城主として石谷内谷へ
  • 四男・平内   三葛の殿屋敷へ 
吉継は後年刑部少輔吉隆と名を改め、隠居して広瀬村古土居に住んだ。
【写真左】出土した中世遺物
 陶磁器・鉄器類・銭貨などが見える。











大谷氏一族の滅亡

 弘治元年(1555)、下流の小松尾城益田治部大輔上野介兼治が入城し、益田氏が匹見郷全土を支配していく。この時傘下にあった大谷・斎藤・澄川の三氏が事実上の当地支配者になるが、中でも大谷一族の所領は、三葛・野入・内谷・広瀬・千原など匹見の大半を領し、他の二氏に比べぬきんでていた。

 おそらくこうしたこともあってだろう、大谷氏の「不遜な態度」に対し、次第に他の一族らから反感の眼が向けられ、天正3年(1575)に至ると、特に二男である龍山城主・大谷主水頭に対する憎悪の念が一段と高まった。

 津田村の「城が浦城」(所在地不明)の城主・渡辺左内は、益田氏の内命を受け、巧みに主水頭を誘い出し、那賀郡江川の渡船場で殺害した。
 また三男の大谷内蔵之丞は、小松尾城に召し出され、兼治に欺かれて手討ちにされた。
【写真左】三葛集落の奥に鎮座する神社
 河内神社とあり、大谷氏に関わるものだろうか。

 ちなみに、石見といえば「神楽」が大変に盛んである。当地に残る「三葛神楽」は島根県指定無形文化財で、明治27,8年ごろ下流にある匹見八幡宮神主・斎藤真墨・幸太郎父子から伝授されたとされている。

 最近では8調子が主流となっているが、管理人も何度か鑑賞した桜江町の「大元神楽」と同じく6調子のものである。「貴船」という舞は当神楽団のオハコで稀曲となっている。
【写真左】殿屋敷付近から河内神社を見る。












 このあと、説明板にもあるように、残った大谷一族は寺戸惣右衛門に攻められることになる。この辺りの顛末は、すでに「小松尾城」の稿で記しているが、三葛へ攻め立てたのは、最後の戦いとなっている。

 大谷一族の皆殺しの報は、三葛の館にあった大谷平内の許に既に届いており、寺戸氏らが攻め入る前に、妻とそれぞれ落ちのび、峠を越え吉賀に逃れ、更に備中へ向かい多年流浪したという。そして、関ヶ原の合戦後、益田元祥らは長州へ移封されたので、平内は再び三葛に戻り帰農し、名を「五郎兵衛」と改め当地で一生を終えたという。

2011年9月19日月曜日

安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)

安芸・宍戸氏の墓(あき・ししどしのはか)

◆解説
今稿では、五龍城主であった宍戸氏の墓2か所を紹介したい。

(1)宍戸元源の墓
●所在地 広島県安芸高田市甲田町上甲立
●探訪日 2011年7月15日

 宍戸元源の墓は、前稿「五龍城」でも紹介した宍戸氏の初期の居城・柳ヶ城のあった菊山の東麓に建立されている。この場所には理窓院という寺院があり、当該境内隅に祀られている。

 理窓院の縁起は分からないが、柳ヶ城麓であることを考えると、何らかの関係があったものと思われる。
【写真左】理窓院
 国道54号線から北に枝分かれする狭い道を登っていくと周辺に墓地があり、その先に当院が建立されている。




現地の説明板より

宍戸元源の墓

 宍戸元家の長男、1504(永正元)年、五龍城主であった父元家が深瀬祝屋城に隠居した後、五龍城主となった。
 1507(永正4)年、大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛するに際して、これに随い、日置峠の戦いに戦功を立てた。
 西隣りの毛利氏と数度にわたって戦いを交えたが、最後の雌雄を決するには至らなかった。
【写真左】宍戸元源の墓
 当院の若い御住職がたまたまおられ、尋ねたところ、当該墓地まで御案内を戴き、さらには宍戸に関する話を聞かせていただいた。
 墓石は五輪塔形式のもので大きなものではないが、当院で今日まで管理されている。


 御住職によると、俳優の宍戸錠氏は、この安芸宍戸氏の本家、すなわち常陸(茨城県)宍戸氏の末裔とのことらしい。


 1533(天文2)年、毛利氏は宍戸氏と和睦し、翌1534(天文3)年正月18日、毛利元就自ら五龍城を訪れ、元就の長女五龍姫と孫の隆家との婚約を決めた。

 こうして、毛利氏は宍戸氏という強力な味方を得、宍戸氏は毛利氏一門としての待遇を受けることになる。
 1542(天文11)年没。
 甲田町教育委員会”
【写真左】元源の妻の墓
 元源の墓石の隣りにある小ぶりな五輪塔で、彼の妻の墓といわれている。






(2)宍戸隆家夫妻の墓

●所在地 広島県安芸高田市甲田町上甲立
●探訪日 2008年6月24日

隆家は五龍城主第8代で、妻は毛利元就の長女・五龍姫である。
【写真左】墓地入口
 本村川の支流余谷川を少し登った丘陵地に設置されている。








現地の説明板より

“ 宍戸隆家夫妻の墓

 宍戸隆家は、五龍城第8代城主。妻は毛利元就の長女五龍姫である。第1次尼子吉田郡山城攻めにおいては、深瀬犬飼平、江の川石見堂の渡しの合戦で、尼子勢を深瀬○○とともに敗退させた。その後大内、尼子、○○氏等その戦績は枚挙にいとまがない。1592(文禄元)年没(壽76歳)。


 向かって右は、隆家の墓で天叟覚隆(てんそうかくりゅう)大居士、左は後妻、小河内の石見繁継の姉、椿窓寿久禅定尼(ちんそうじゅきゅうぜんじょうに)である。
【写真左】石垣
 この墓地は元々天叟寺という寺院のあった場所であることから、周囲にはこうした寺坊跡らしき段が残っている。





 五龍姫は、1574(天正2)年に没した。法名は法光院殿栄室妙寿禅定尼、墓は天叟寺旧地にありと記録されているが、所在は明らかでない。

 また、この墓所向かい山の中腹に隆家火葬場跡と伝えられる灰塚と呼ぶ地がある。
甲田町教育委員会”
【写真左】隆家墓地手前付近
 廃寺となってから大分荒廃した場所となっていたのだろう、周囲には他の墓石の破片と思われるようなものが少し残っていたと記憶している。
【写真左】隆家の墓
 少しピンボケ気味に撮れてしまった。
【写真左】隆家妻の墓
 おそらくこの墓が妻のものだろう。
【写真左】墓地から下を見る
 左側には池が残っている。


2011年9月18日日曜日

五龍城(広島県安芸高田市甲田町上甲立)

五龍城(ごりゅうじょう)

●所在地 広島県安芸高田市甲田町上甲立)
●築城期 南北朝期
●築城者 宍戸朝家
●高さ 標高270m(比高90m)
●遺構 郭・空堀・土塁・石垣等
●指定 広島県指定史跡
●登城日 2007年7月16日及び2010年12月8日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 五龍城は、前稿まで取り上げた面山城・牛首城と同じく、現在の安芸高田市に所在しているが、牛首城から直線距離で南方10キロ離れた甲田町に築かれた山城である。
【写真左】五龍城遠望
 現地説明板に添付してあった写真の一部で、左に江の川、右に本村川という天然の濠を配し、細長く突き出した舌陵丘陵上に築城されている。
 なお、江の川をさらに遡って行くと、毛利氏の吉田郡山城につながる。


 現地には以前からあるものとは別に、最近(平成22年)に新しく設置された説明板がある。今稿ではその説明板より転載する。

県史跡 五龍城跡
   昭和46(1971)年4月30日指定


 本城跡は宍戸氏の本拠城である。宍戸氏は南北朝期にこの地に移り、当初本村川の対岸にある菊山の中腹に「柳ヶ城」を築き、これに拠ったが、やがて対岸の元木山に城を築き本拠とした。
 五龍城の名は「この山に城を移したが用水が足りず、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに水が湧き出した」という伝承に由来したものという。
【写真上】縄張図
 
 尾根筋上及びその山腹部分約700m×150mの範囲に広がる遺構は、尾根を遮断する堀切と土塁によって三つの郭群に分けることができる。


 両側を堀切によって区切られる中央部郭群は、本城跡の中核をなす部分で、「本丸」「二の丸」「三の丸」などの郭名が残る。西側の堀切に面した本丸西端には、削り残した高さ5mの土塁があり、堀底からの高さは16mにも及ぶものである。


 西端の郭群には、「御笠丸」の名をもつ郭をはじめとして、長大な郭が多い。中央部郭群と同様「御笠丸」西端にも、高さ3mの土塁を置き、その外側は土橋を持つ堀切と竪堀を設けている。


 郭群東端にある司箭(しせん)神社は、幼少期より兵法剣術を好み、司箭流薙刀(なぎなた)・貫心流剣術を編み出した宍戸家俊(6代城主元家の三男)を祀ってある。家俊は広島県では唯一の武術の元祖として知られている。
  平成22年3月 安芸高田市教育委員会”
【写真左】尾崎丸・司箭神社
 登り口はこの尾崎丸から向かうが、北側及び南側の両方から登る道が設置されている。
 なお、すでにこの先端部から険峻な切崖となっている。


宍戸氏

 宍戸氏については、前稿「牛首城」や前々稿「面山城」でも取り上げてきているが、あらためて整理しておきたい。

 宍戸氏の本拠は、常陸国(現在の茨城県)宍戸にあって、南北朝期足利尊氏に従った宍戸朝家が六波羅を攻め、その功によって安芸守を任じられ、甲立荘(現在の甲立盆地)を領したことが始まりとされている。

 従って、入部したのは建武元年(1334)ごろとされているので、同じく尊氏に属し、同年(1334)5月、備後へ出兵を命じられ、翌2年備後国守護職となった神辺城主・朝山景連(「神辺城」2011年7月11日投稿参照)とほぼ同様の流れだったと思われる。

 宍戸氏が最初に築いたのが、本村川を挟んだ北方の菊山中腹の柳ヶ城である。現在菊山東麓には、宍戸氏の菩提寺といわれている「法源山 理窓院」があり、宍戸元源の墓が安置されている。
 菊山の柳ヶ城からすぐに南方の元木山へ移ったのは、恐らく北岸に本村川を、南岸に江の川(広島県では可愛川と呼称されている)という天然の濠を有する地の利を考えてのことだろう。
【写真左】一位の段
 上掲の「尾崎丸」「司箭神社」から登った所にある郭で、この間には連続する遺構が認められないことから、独立した城砦遺構として設計されてた痕跡がうかがえる。




 安芸宍戸氏は、初代朝家から始まり、以後下記のように続いた。

  • 2代 基家
  • 3代 家秀
  • 4代 持家
  • 5代 興家(常陸穴戸氏から分立、安芸宍戸氏とする)
  • 6代 元家(常陸穴戸氏から、迎えられる)
  • 7代 元源(もとよし)
  • 8代 隆家
  • 9代 元続
この中で4代・持家のあと、持朝という武将が実際には継承しているが、彼を5代とはせず、持朝の子・興家としている。このことは、以下に示す継嗣問題と絡んでくるのかもしれない。
【写真左】土塁
 一位の段から釣井の段の間に設けられた土塁。
 五龍城は写真にみえるような土塁が数多く見られる。何れも登城道に対して直角に遮るように直角に設けられたもので、良好に残っている。



 そしてこの5代・興家から、6代・元家に続く継嗣については、諸説があり確実なことは分からないが、次のような伝承が残っている。

 5代・興家は暗愚の人物で、領民は彼の悪政に苦しみ、そうしたころ、宍戸氏の本拠常陸の国から四郎元家が諸国修行のおり甲立に立ち寄り、元家の武将としての資質が優れていることを知った家臣たちは、興家を主君から降ろし、元家を6代安芸宍戸氏当主とした、という。

 宍戸氏の本国常陸の将が、この時期諸国修行ということで、たまたま訪れた安芸国でこのような運命に出くわすということ自体、いささか出来すぎた話ではある。

 現在では元家自身は安芸宍戸氏の庶流であって、むしろ安芸宍戸氏の惣領家から、庶流であった元家が半ば強引な形で継承したのではないかともいわれているが、定かでない。
【写真左】釣井の段
 この辺りから高低差が高くなっていく。











 元家はその後、近隣の諸豪族(深瀬の中村氏、秋町の辺見氏など)を配下として従え、江の川下流の三吉氏とも抗争を続けて行く。そして、永正元年(1504)に、長男・元源(もとよし)に家督を譲り、自らは二男・隆兼と深瀬の祝屋城に移った。

 安芸宍戸氏が隆盛を誇るのは元家から、7代元源にかけてからである。特に元源は永正4年(1507)から同13年の間、南方の吉田郡山城毛利興元と度重なる交戦を繰り広げ、「面山城」(2011年9月7日投稿)でも記したように、大永年中(1521~27)にかけては、北の高橋氏とも戦火を交えた。
 大永5年(1525)、原田猿掛城落城後、佐々部氏が宍戸氏に属していったのは既述の通りである。

 その後も元源は毛利氏との抗争を続けていたが、天文2年(1533)元源の孫・8代隆家と、元就の女との婚儀によって和睦を結び、元源亡きあとは次第に毛利氏の配下となっていく。
【写真左】矢倉の段
本丸まで204mと書かれている。
【写真左】三の丸
このあたりから左右の幅が広くなり、特に右側(北側)の郭が奥まで伸び、帯郭も兼ねた郭段の構成となっている。
【写真左】二の丸
【写真左】桜の段
【写真左】姫の丸
【写真左】姫の丸付近の土塁
【写真左】本丸・その1
 姫の丸を過ぎると本丸が控える。郭そのものの規模は大きくはないが、その後方には写真にみえる土塁が構築されている。
【写真左】本丸・その2
 南側から見たもので、土塁の基礎には石積みが施され、崩落を防いでいる。


【写真左】本丸・その3
 土塁の頂部に当たる箇所で、幅1m前後、長さは14,5m程度か。この写真の左側には険峻な切崖と堀切がある(下の写真参照)。
【写真左】本丸土塁下の切崖
 当城の中では最も規模の大きな切崖で、下段の堀切底面から15mもあるという。
 残念ながら、この箇所から奥には向かっていない。


 この位置までの規模と同程度の遺構がさらに先に構築され、「御風呂の段」「御釜ノ段」「御倉ノ段」「厠ノ段」「御笠丸」と続き、その後南北に長大な堀切があって、更に「足軽ノ段」「井戸」などの遺構があるという。
 この箇所については、『城郭放浪記』さんが詳細な写真を紹介しているので、是非ご覧いただきたい。 
【写真左】石垣跡