2011年8月30日火曜日

三子山城・その2

三子山城・その2

●所在地 広島県庄原市比和町三河内

◆解説
 今稿では三子山城主であった三河内氏の菩提寺といわれている慶雲寺、および麓にみえた城砦遺構などについて紹介したい。

慶雲寺

三子山城本丸から南西麓をみた写真を前稿でも紹介したが、その地域に建立されている。
【写真左】祥光山・慶雲寺
 当院は南側に広がる三河内の田園地帯を眺めるように建っている。


 現地には縁起・由緒等記したものはないが、創建は三河内氏の菩提寺であることを考えると、恐らく戦国期だろう。
【写真左】境内から南東方向に三子山城を遠望する。
 訪れたのが、2010年12月10日であるが、御覧の通りの積雪で、如何にも備北の山間部という印象を持った。
【写真左】墓石群
 当院に三河内氏の墓所があるということだったが、同氏の墓はこの写真にある五輪塔ではなく、別のものらしい。


 自然石で造られた墓石ということだが、標識らしくものがなく確認できなかった。
【写真左】栂家累代之塔
 境内には三河内氏とは別に、この塔が建立されている。


 栂(とが)家累代、とあるので三河内氏の家臣あたりだろうか。



(とが)

 ところで、「栂」という珍しい名字を持つ一族は、実は管理人の同級生でも一人いたが、同氏の祖がこの地であったのではないかと最近考えるようになった。
 さらに全く確証はないが、この栂氏は元は京都栂尾の出身ではないかとも考えている。

 元亨3年(1323)すなわち鎌倉末期、この地の南方河北村に記録された「備後国恵蘇郡河北村替銭宿記文并」等の史料によれば、当時この地方では多くの鉄が産出され、それを領家であった京都栂尾高山寺などへ年貢として、現物ではなく、「為替」による送金が行われていた。

 おそらく、このときこの為替(替銭)を、河北村(地毘荘)から京都へと往来する役目を担った取次人が京都栂尾の出身で、その後地頭の進出によって消滅し、そのまま河北村へ永住し、出身地の栂尾から一字をとり、栂氏を名乗り、戦国期に至り北隣りの三河内に進出していった、と推測されるのだが、どうだろう。
【写真左】慶雲寺シラカシ林
 境内奥にあるもので、庄原市天然記念物(1990年指定)となっている。
 現地の説明板より


“シラカシ林は、モミ-シキミ群集においてモミやツガと混生し、標高400m以下の温暖帯域ではモミを伴わないシラカシの純林が見られるようであるが、慶雲寺の場合、標高580mの高所にあってシラカシの純林が形成されているという点で植生的に珍しい例であり、県北地の北限である。”

【写真左】境内に設置された「新比和音頭」の歌碑
 恐らく地元の方が作詞作曲されたものと思われるが、「尼子」のことも綴られている。
歌詞の内容


“新比和音頭


 平成13年 詩・曲 新田得三郎


 月の尼子を迎えて破る
  武士は大膳三つ河内
 茂るシラカシ葉越しの雨が
  泣いて降るよな 慶雲寺
    ヤートコセーで 手をたたき
    ヨーイヤナーで 比和音頭”


三子山城北麓の遺構

 ところで、西側の三河内から当城へ向かう道、すなわち西城比和線という大変に狭い古道を登っていくと、途中でつづら折りの箇所がある。

 最初の頃はあまり気にも留めていなかったが、2度目に通ったとき、その箇所だけが異質な景観になっており、車を停めて(といっても対向車が来た段階ですぐに移動しなければならないが)撮った写真が下掲のものである。
【写真左】道路北側にみえた高まり
 三子山北麓部の傾斜面にこうした人工的に造成されたものがある。
【写真左】道路付近
 道路が横断しているため、分かりづらいが、左側は土塁のような形状を残し、その奥は全体に切崖状が多い。
 【写真左】道路南側のくぼ地と後背の高まり
 写真手前が平坦地で、その奥は山の斜面を利用した壁状の囲繞遺構
【写真左】竪堀か
 規模は大きくはないものの、南側斜面には竪堀状のものが見える。









考察


 現地は曲がりくねった細い道の位置であることや、杉林で全体に暗く、明瞭な確認はしていないが、結論からいって「城館跡」の遺構に近似している。

 三子山城の大手は西側となっているので、この北麓に城館を設置していることは整合性がないが、これだけ人工的な造成遺構があることを考えると、三河内氏のもう一つの屋敷跡地ということも考えられる。
あるいは、現在と同じく当時の西城方面に抜ける場所であったから、「陣所」的施設であったかもしれない。

 なお、前稿で紹介した同氏の初期の居城「二本松城」は、小丘に築城されたとあるので、この場所ではないだろう。

2011年8月29日月曜日

三子山城(広島県庄原市比和町三河内)・その1

三子山城(みつごやまじょう)・その1

●所在地 広島県庄原市比和町三河内字小和田
●別名 三ツ子山城
●築城期 天正年間(1573~92)か
●城主 三河内通忠
●遺構 郭・井戸・土塁・石垣等
●高さ 標高861m(比高215m)
●登城日 2010年12月1日、及び2011年4月13日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 三子山城は、比和町の東方・三河内(みつかいち)の三子山に築かれた山城で、北麓を走る西城比和線(58号線)を東に下ると、今月投稿した「大富山城」「蟻腰城」のある西城町につながる。
【写真上】三子山城遠望
 北西麓にある菩提寺・慶雲寺側から見たもの。



三河内氏

 当城及び三河内氏についての詳細な史料は残っておらず、断片的なものしかない。

 城主であった三河内氏については、天文年間(1532~55)の初期には当地比和の武士団として活躍していることが知られる。そして、城主は三河内通忠と、その息子通高が在城したといわれている。

 また、『久代記』によると、三河内氏は東方の大富山城の宮氏に属し数々の合戦に参加していると記録されているが、別の史料では、山内氏の家人でもあったとするものもある。
【写真左】登城口付近
 左に見える道は「西城比和線(58号線)」で、奥に向かうと西城につながる。


 この看板には「無敗の戦国武将 三河内大膳守通忠公居城…」と書かれている。


 彼は大変に用心深い人物だったようで、城下に客人が来ると、絶対に当城の本丸には登城させず、自ら城下まで下りてきて対応したという。それほど当城の様子を他人には知られぬように徹底していたから、「無敗の武将」とまでいわれたのだろう。


 恐らくこのことは、三子山城が一時的には山内氏の東方(地毘荘)侵略の結果、支配下にあったことをしめすものと思われ、備北国人領主として、宮氏と山内氏の狭間で同氏が一族延命のためにとった策と推定される。

 ところで、三河内氏が最初に拠った城砦は二本松城という小丘だが、具体的にどのあたりになるのか、比定された史料を持ち合せていないので、分からない。
【写真左】登城道
 登城口から暫くは緩やかな登り坂が続くが、鞍部を過ぎたあたりから、この写真のような急坂が待っている。

 なお、周辺の山々は最近大々的に伐採作業が行われたため、非常に視界が広がっている。

【写真左】北側の郭
 三子山城は南北に長く郭群が構成されている。

 北側付近は不揃いな段差を設けた郭が3,4箇所あり、その東側には帯郭(犬走り状)が取巻く。
【写真左】犬走り(帯郭)
 北側から東側にかけて伸びる郭で、長さ30m、幅5.6m程度の規模。
【写真左】北端部の郭
 長さ50m程度で、途中で2,3箇所の段を設けている。
【写真左】土塁と井戸跡
 現地には遺構の標識などはないが、おそらくこの最高所となるところが本丸と思われる。

 周囲には南北に渡って高さ1m前後の土塁が続いている。
 なお、この写真の左下隅に白いものが映っているが、これが井戸跡と思われる。
【写真左】本丸付近
 当城の最も大きな遺構・郭で、本丸だったと思われる箇所。

 写真にあるように、かなり規模の大きな土塁が残っている。


【写真左】土塁
 三子山城の郭群規模は、およそ南北250m×幅60mで、細長い構成となっている。

 土塁は殆ど西側に設置されており、大手はこの西側にあったものと思われる。東側は天然の切崖となっている。


【写真左】南側最初の段
 北側に比べ、南側の郭群は高低差がかなりあり、この郭は本丸側より5,6m程度ある。
【写真左】南側2段目の郭
 1段目とほぼ同程度の規模のものである。
【写真左】南2段目の郭から1段目の郭を見上げる。
 前記の段よりさらに高さがあり、切崖も険しくなっている。
【写真左】石垣跡か
 南側の郭段の高低差や切崖状態を見ると、こうした大きな石を要所ごとに設置し、崩落を防いでいたのかもしれない。
【写真左】本丸付近から北西麓を見る
 三子山城は標高もかなりある(861m)ことや、独立峰でもあるため、非常に眺望がよい。

 特に写真に見えるように、北西方面に視界が効くことは、戦国期、出雲尼子氏の侵入を監視する上で重要な要衝であったことが分かる。


 写真にみえる集落は三河内地区。
【写真左】本丸から南方を見る
 写真中央の山は勝光山(H:947m)

2011年8月28日日曜日

青掛山城(広島県庄原市峰田町)

青掛山城(あおがけやまじょう)

●所在地 広島県庄原市峰田町
●別名 青影城・青嶽山城・青樹山城・赤川城・片山城・三根の城
●築城期 応永15年(1408)
●築城者 赤川氏
●高さ 標高560m(比高250m)
●遺構 郭
●登城日 2007年12月26日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 中国自動車道と並行して走る庄原東城線(23号線)が、国道432号線と交わる庄原市峰田町の青嶽山(H:550.6m)に築かれた山城である。
【写真左】登城口
 写真は登り口付近のもの。頂上にアンテナなどがあるため、登城道は車が通れるものとなっている。ただ、かなり幅員が狭いところや、急カーブ、急坂が多いので、慎重な運転が必要。


 登城したのが2007年ということで、記憶がだいぶ薄らいでいるが、車で頂上まで行けたことと、眺望の素晴らしさに満足したという記憶が残っている。

現地の説明板より

青影城の由来
 其の昔、赤川氏は応永15年(室町時代の初期、1408年)、将軍足利義満公の命により、下野国那須郡佐々山城より転国し、この青嶽山に築城した。


 その何代目かに毛利氏の家臣となり、偶々戦国時代に入り、左京亮、十郎左衛門之秀等の豪傑が出て、毛利の為に各地で転戦し、戦功を立て慶長5年(関ヶ原合戦1600年)の頃まで在城し、毛利氏が山口県萩に移り(1601年)廃城となった。
 青嶽山は別名片山城とも言う。
 (備後の国 古城記、其の他による)


昭和56年3月
  庄原市観光協会”
【写真左】祠
 頂上はかなり広く整備されている。この写真はその一角にある祠で、中には小さな仏像が祀られている。





 青掛山城の周囲には、茶臼山城と青芳山城という二つの山城がある。これらも赤川氏の持城であろうとしている(『日本城郭大系第13巻』)。

赤川氏

 青掛山城主赤川氏は、現地の説明板によると、応永15年足利義満の命によって、下野国から下向してきたという。応永15年(1408)は足利義満が、この年5月6日に亡くなった年でもある。
 下野国、すなわち現在の栃木県から、この時期に西国・備後の山の中に移って来た経緯を考えると、何らかの論功行賞によるものだろう。
【写真左】テレビ中継所脇付近
 こうした施設が建っているためか、相当造成され遺構は殆ど不明だ。

 史料では、三角点付近の15m×10mを詰の丸とし、その下に詰の丸の約2倍の郭があり、更にその下に60m×60mの三の丸がある、と記されているが、詳細に確認していない。
 

 義満自身は、これより先の応永2年(1395)に出家し、将軍を義持に委ねたことになっているが、実際は院政のような形で、依然として室町幕府の最高権力者であった。時期としては、赤川氏が西国に下向した応永15年以前に、義満より備後国へ移るよう命が下りていたと思われる。

 さて、備後国は義満の時代、強大な守護大名であった山名氏の領地でもあった。このため、幕府を脅かすほどの守護大名の力をそぎ落とすべく、あらゆる手段を用いた。特に、明徳の乱(1391年)や、応永の乱(1399)などを通して、次第に幕府権力の強化を進めて行った。

 元中6年(1389)、備後国を領していた山名時義が死去し、義満は跡を継いだ時煕と義弟氏之を、同じ山名一族の氏清と満幸によって討伐させることを命じた。これは山名氏一族の内紛が発端であるが、それを義満が巧みに利用したものである。
【写真左】眺望・その1
 この日は特に視界がよく、ほぼ360度見渡す事が出来る。








 その後、討伐した氏清と満清を陥れていく。この結果、元中8年(1391)12月、大内義弘や細川頼之を使って、氏清を敗死させ、満幸・氏家らは敗走した。これが明徳の乱の顛末である。

 その後、今度は戦功のあった大内義弘が義満と対立、応永6年(1399)10月、大内義弘は鎌倉公方の足利満兼と呼応し、討幕を企て兵を募った(応永の乱)。同年12月21日、堺城陥落し、大内義弘は戦死した。

 大内義弘が挙兵する前の彼の領国は、地元山口(周防・長門)及び、石見国、そして分国として紀州などがあった。

 以上のようなことから、赤川氏は大内氏に対する前線基地的の(石見・周防の位置)役目として、幕府(義満)から、当地(庄原市峰田町)を宛がわれたものだろう。

 なお、上掲した赤川氏の出自とは別に、「高田郡史」では、建武3年(1336)に、安芸吉田に来住し代々毛利氏に仕えたという説もある。
【写真左】眺望・その2
 専用の展望台が設置されている。











戦国期

 戦国期になると、説明板にもあるように、赤川左京亮元助・赤川十郎左衛門尉就秀など、毛利氏の家臣として活躍していく。

【写真左】眺望・その3
 北東方面と思われるので、前稿「大富山城」・「蟻腰城」方面になる。

2011年8月25日木曜日

蟻腰城(広島県庄原市西城町八鳥字八日市)

蟻腰城(ありこしじょう)

●所在地 広島県庄原市西城町八鳥字八日市●別名 蟻越城・蟻脇城
●築城者 大永3年(1523)
●築城者 東左衛門尉政幸
●遺構 郭・空堀
●高さ 標高365m(比高20m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2010年12月1日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 前稿「大富山城」でも少し触れているが、大富山城の北方3キロの位置に出城として築城された小規模な山城である。
【写真左】蟻腰城遠望
 西側を走る国道314号線からみたもの。城域は手前の小山及びその後方の山となっているが、当日は手前付近しか登城していない。
 後方の状況については『城郭放浪記』氏が詳細な写真を紹介しているので、ご覧いただきたい。


現地の説明板より

“市史跡 蟻越城跡
  指定 昭和51年3月25日
  所在地 庄原市西城町八鳥


 西城川と八鳥川の合流点に突き出た小山で、後方陣ヶ丸に続く地形から名付けて蟻の腰という。大永3年(久代記)宮氏の重臣・東兵部政幸の居館。政幸はざんげんにより大富山城主景盛に滅ぼされた。


 東麓に菩提所極楽寺がある。城の規模は小さいが、東に八鳥川をはさんで、広峰山城、西に西城川をへだてて有田山の館と相対し、南方はひらけて遥かに大富山の本城を望む地の利を得た城構えである。
 庄原市教育委員会”
【写真左】極楽寺
 東麓に建立されている寺院で、東氏の菩提寺とされている。








東左衛門尉政幸

 蟻越城の城主といわれる東左衛門尉政幸は、西城宮氏に属する毛利氏の付家老といわれている。
 大永3年(1523)3月29日、毛利元就の命によって大富山城城主であった宮高盛の息女を妻に迎え、この城に入った。

 「久代記」によると、知行高2,500石で、大佐・八鳥・高尾・小鳥原(しととばら)・森・川鳥の6ヶ村を領した。有能な武将であったらしく、宮氏の勢威は同氏の力によるところが大きかったという。
【写真左】東政幸の墓
 蟻腰城の先端部は当時二の丸があったところだが、現在は写真にあるように墓地となっている。


 この一角に城主・東左衛門政幸の墓・五輪塔が鎮座している。



 しかし、宮興盛が急死した(天文9年:1540)あとを継いだ弟・景盛になると、家臣や近隣の諸氏と軋轢が生じ始め、説明板にもあるように、東政幸も景盛に滅ぼされたとなっている。

 ただ、史料によっては、攻撃されたものの、家臣団の協力によって、政幸の無実が証明された、とするものもあり、確実な記録は不明である。

 「大富山城」の稿でも記したように、景盛の代から以降毛利氏との関係は芳しくない。本人の資質もあっただろうが、宮氏累代の名誉を重んじるあまり、毛利氏の麾下となったことへの慙愧や、敵対していた山内氏との処遇などに対する不満が鬱積していたのかもしれない。まして、毛利氏付家老であった東政幸が、大富山城に隣接するこの蟻越城に入っていたことが、景盛からすれば毛利氏による「監視」と思われ、そうした混乱を生じさせていたのかもしれない。
【写真左】二の丸跡付近
 写真下段に道路が見えるが、さらに下にある田圃も二の丸の一部だったという。
 写真に見える看板は蟻腰城の説明板。





概要

蟻越城の西側には西城川が流れ、東側には八鳥川が流れている。両川が天然の濠であったことがうかがえる。北側から伸びた丘陵状の先端部に築城され、途中で東西に大きく尾根を切り取った大堀切がある。

以下写真を交えて概説する。
【写真左】二の丸跡から本丸方面を見る
 南側斜面は御覧の通り、現在は墓地となっている。恐らく当時は下段の二の丸から上段の本丸までの間に数段の小郭が連続していたものと思われ、その跡地がこのような墓地となって残っているのだろう。
【写真左】本丸・その1
 22.4m×6mという細い尾根状に構築されている。
 この写真の右側には帯郭状の段が伸び、その麓に極楽寺が設置されている。
 左側は現在狭い道が走っているが、当時は切崖状となって、西城川が接近していたものと思われる。
【写真左】本丸・その2
本丸跡に祀られている祠
 秋葉・愛宕の両社が立つ。
【写真左】本丸跡から南方に大富山城を遠望する。
 写真中央奥の山で、少しかすんでいるが、蟻腰山城からは常に大富山城がこのように見えていたようだ。
【写真左】大堀切
 左側の小山が蟻腰城で、写真中央にみえるように、最大深さ10mという大きな堀切で、現在この位置には小道が走っている。

 なお、前述したように、堀切の右側の山も城跡の一部と思われ、『城郭放浪記』氏が遺構写真を紹介している。
 また、手前の田圃の法面は八鳥川の堰堤部。

2011年8月23日火曜日

大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場)

大富山城(おおとみやまじょう)

●所在地 広島県庄原市西城町入江字的場
●築城期 天文2年(1533)
●築城者 宮上総守高盛
●遺構 郭・空堀等
●高さ 標高511m(比高180m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2008年9月24日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 広島県備後地方を東西に流れる西城川上流部の西城市街地にある山城で、ここから更に北に進むと、備後落合で奥出雲につながる東城街道と、伯耆日南に向かう日野街道に分かれる要衝である。
【写真左】大富山城遠望
 北側から見たもの。









現地の説明板より

“庄原市史跡


 大富山城跡
 西城市街地の南端にそびえる大富山は、久代宮氏(西城宮氏)の本拠として戦国時代屈指の山城である。山容は壷を伏せたようで、頂上に本丸、山麓に30余段の郭がめぐらされ、西城川を臨む東麓に城主の居館があった。

 500m北方の萩野台地は馬場として利用、“桜の馬場”と呼ばれ、侍屋敷も置かれていた。その先端明神山は、当時“亀の尾山”と称して、“二の丸”が構築され、尼子合戦のおりには守りの拠点となったところである。更に北方、西条盆地の彼方には兜山、蟻腰、その他の支城や塁を配して正面の守りを固めていた。
【写真左】現地に設置されている絵図
 この日の登城道は、この絵図で示されている北側のコースではなく、南側から向かった。

 なお、この絵図にもあるように、東麓部には城主居館跡や、7人河原、林頓慶屋敷跡などが記されているが、当該地は探訪していない。


 本丸南方、搦手は急崖を介して大空堀を開削、さらに尾根伝い約500mのなかには、たくみに数段の郭や空堀が連ねられ、その突端に“物見が丸”が構築されていた。

 物見が丸は、数段の郭や空堀で守られ、南方はるか高、庄原一帯を展望していた。また外周を曲流する西城川と大屋川は、東と北を画す天然の外堀をなし、入江川を内堀として、その城構えはまさに広壮堅固なものであった。


 大富山城は、室町時代後期天文2年(1533)、宮氏が奴可郡久代村(現在庄原市東城町久代)から、この地へ本拠を移すに際し、7代上総守高盛が築城したもので、以後桃山時代天正19年(1591)11代広尚に至って、出雲の国塩冶に領替えになるまで、5代60年間在城、次いで着任した天野新兵衛尉元嘉は慶長5年(1600)、関ヶ原の後まで9年間在城した。

 天野氏は毛利氏に随従して長州に移り、広島に福島正則が入封。その家老長尾隼人正一勝が、東城の地へ赴任するに及んで、大富山城は廃城となった。
 
 宮氏は築城以来、毛利、尼子両勢力の中に介在しながらも、よく勢力を伸ばし、大いに郷土発展の基を築いて大富文化の花を咲かせた。
  庄原市教育委員会”
【写真左】大堀切の説明板
 南側から向かうと途中でこの「大堀切」が出てくる。残念ながら管理人はこの遺構写真を撮っていなかった。

 大富林道建設工事を行った昭和58年、当該堀や郭を発掘調査した際、土師質土器、備前焼かめ片、すり鉢片、磁器片、鉄釘、銅銭などが出てきたという。



西城宮氏(久代宮氏)

 宮氏は備後国生え抜きの領主で、在庁官人として同国の国衙から成長していった。当初新市に亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)を本拠としていたが、南北朝時代に入ると、備後一宮(吉備津神社)に拠って宮方として活躍した。このときの武将桜山四郎入道も宮氏の一族とされている。

 そして、後述するように、大富山城の宮氏をはじめ、北方の小奴可(おぬか)の亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)小奴可宮氏、また東方の岩成荘(いわなりのしょう:福山市岩成)や、神辺地域にも同氏の勢力が扶植していく。
【写真左】あやめの段
 登城途中の中腹部にある郭で、この近くには「菊の段」という郭もある。








 宮氏は久代宮氏を惣領とし、応永6年(1399)、「比田山飛田山城(広島県庄原市東城町久代)を居城とし、宮弾正左衛門尉利吉を初代に、以後、景英・利成・息成(いきなり)・景行・景友そして、7代高盛まで約140年に渡って続いた(別説では6代景友までとするものもある)。

 そして、五品嶽城(広島県庄原市東城町川西)でも紹介したように、宮氏の最盛期となる高盛(又は景友)の代に、北方に「五品嶽城」を築き、天文2年(1533)には、西進し西城町入江に大富山城を築き、当地に本拠を移したといわれる。

 なお、五品嶽城はその後、家臣であった渡辺七郎左衛門尉に守城させた。そして、宮氏は東方にあった五品嶽城を「東城」、西方にあった「大富山城」を「西城」と呼称することになる。
【写真左】本丸近くの郭
 本丸を中心に北側から東側にかけて3,4段の郭が構築されている。







大富山城・歴代城主

大富山城の城主は、初代城主高盛から始まって以下の5代が継承した。
  1. 初代 高盛
  2. 2代 興盛
  3. 3代 景盛
  4. 4代 智盛
  5. 5代 広尚
  ところで、宮氏のうち小奴可宮氏は、永正年間(1504~21)大内氏の配下にあって、大永年間(1521~28)は尼子氏に従った。このため、天文年間の初期(1530年代前半)、大内方だった毛利氏に攻められ、時の小奴可亀山城主・宮定実は籠城中、天文3年(1534)病死した。
【写真左】本丸・その1
 約2,000㎡の規模を持つもので、非常に広大なものである。








 これに対し、久代宮氏は毛利氏に接近していたため、大富山城築城後間もない天文5年(1536)秋、尼子氏に攻められている。
 高盛の嫡男蔵人は、この翌年(天文6年)、名を上総介興盛と名乗るが、これを元就が承認し、大富山城主二代目・興盛となって家督を相続する。

 その後、小奴可宮氏も毛利氏に従うことになるが、毛利氏自身もその頃はまだ大内氏に属し、自らも長男隆元を人質として差し出している。このとき、従者だったのが小奴可宮氏の病死した定実の実弟である。この実弟はのちに高僧となって、毛利氏の事実上の菩提寺であった興禅寺二世となる。
【写真左】本丸・その2
 「大富山城築城450年記念」と刻まれた石碑。
昭和58年に建立されたもので、脇に下記の内容が記された石碑がある。






“大富山城築城四百五十年記念事業

 大富山一大史蹟の振栄と文化遺産の保持大富文化の発展 悠久宮氏の功徳をお偲び郷土発展の願望を後世に託す。
一、百年基金 百三十万円 町条例設置
一、社祠修復記念碑 記念植樹 記念祭典


昭和28年山頂収得 昭和41年町有地登記


昭和58年9月25日
代宮舎19代 佐々木克治
大富山城跡史蹟保存会長
元町長 比婆郡町村会長 智木田 穣”


 説明板にもあるように、大富山城主として5代目となる宮左衛門広尚のあと、2代で断絶するが、この原因は、天正18年(1590)の秀吉による朝鮮出兵の際、広尚が軍役負担の軽減を図ろうと所領の過少申告をしたことが判明し、これに激怒した輝元が処置したことによるといわれている。

 直接のきっかけは上述した件がもとになっているが、それ以前から久代宮氏は毛利氏に対して積極的な支援行動が見られず、特に景盛の代に山陰尼子氏攻略の際、大幅な出兵の遅れがあり、毛利氏からは不興を買っていた。また、このころから戦功の評価として、西隣りで敵対し続けていた山内氏に比べ、冷遇され続けていたことも宮氏のそうした態度の現れだったかもしれない。

 しかし、広尚の弟景幸はその後毛利氏の支援を受けて、伯耆国生山城(別名「亀井山城」鳥取県日野郡日南町生山:『城郭放浪記』参照)の城主であった伯耆・山名氏の跡を継ぎ、江戸期に至って毛利氏に随従、萩に移っている。
【写真左】浄久寺
 久代宮氏の菩提寺とされる寺院で、大富山城の南麓に建立されている。







 現地の説明板より


浄久寺

 曹洞宗 三峰山青原林浄久寺
 本尊 聖観音菩薩
 勧請開山 鼎庵宗梅和尚(徳雲寺2世)
 二世中興 覚海道智禅師(徳雲寺5世)


 久代宮氏7代高盛が、東城から西城大富山へ移城の翌年『天文3年(1534)』城南のこの地を選んで、一宇を建立し、菩提寺とした(久代記)。
 以来、460年余り法灯を守り宮氏11代の位牌を祀る。


寺宝の掛け軸に9代上総介景盛寿像、山城守藤原盛勝容像、覚海禅師寿像の三幅(いずれも広島県重要文化財)、宮氏の末裔日野氏寄進の永代祠堂手形などを所蔵する。
 また、備後33カ所観音霊場の第21番、奴可郡札33カ所の第9番、大富荘18カ所の第13番の札所でもある。
 広島県天然記念物に指定されている「カヤ」の大樹のそびえる一面の苔庭は伽藍に映えて古禅寺の風趣をそえている。”
【写真左】久代宮氏一門の墓所
 浄久寺山門の左側高台に設置され、宮氏代々の墓といわれ、町(市)史跡となっている。

 説明板より

“ここは大富山城主久代宮氏一門の墓所で、宝篋印塔、五輪塔など合わせて32基の墓がコの字形に並んでいる。


 そのうち11基は城主などの刻銘がみえるが、すべて当郡産の結晶質石灰岩(ココメ石)製で相当風化が見られる。
 久代記によれば、宮氏初代利吉は、室町時代初め応永6年(1399)大和国宇陀郡から備後国奴可郡久代(現 東城町久代)に遠流されて土着したというが、異説もあって定かでない。


久代宮氏歴代城主名
 初代・利吉―2代・景英―3代・利成―4代・息成―5代・景行―6代・景友―7代(大富初代)・高盛―8代(2代)・興盛―9代(3代)・景盛―10代(4代)・智盛―11代(5代)・広尚

2011年8月16日火曜日

甲山城(広島県庄原市山内町本郷)

甲山城(こうやまじょう)

●所在地 広島県庄原市山内町本郷
●別名 冑(兜)山城・嶋山城
●築城期 元亨年間(1321~24)
●築城者 山内通資
●遺構 郭・堀切・土塁等
●高さ 標高384m(比高120m)
●指定 広島県指定史跡
●登城日 2007年10月10日、及び2011年8月9日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 甲山城については先月の備後・茶臼城(広島県世羅郡世羅町大字下津田字中陰地)でも少しふれたように、同族の山内氏が築城したとされている。

 甲山城の所在地は、現在の庄原市山内町であるが、この地は今月の稿で紹介したように、西方には三次市の三吉氏が、南方には吉舎を本拠とした和智氏がいる場所にあたる。
【写真左】甲山城遠望
 南側から見たもので、南麓部には広々とした田園が広がる。







現地の説明板より

“広島県史跡
 甲山城跡(こうやまじょうあと)
   指定年月日 昭和46年12月23日
   所在地 庄原市本郷町字古城山91番10外

現状
 立地:独立丘陵  標高:384m 比高:120m
 甲山全山が城郭化されているが、広島県史跡の範囲は第1郭から第3郭までである。

 第1郭の中央部には櫓台状の高まりがある。第2郭の北東隅にも櫓台状の高まりがあり、現在甲山南麓にある艮(うしとら)神社(別名「詰ノ丸八幡」がかってここにあったという。

 第3郭は第2郭の2m南下にあり、北西に土塁がある。その下には、二重の堀切と土塁を配す。これら郭群の外側にも尾根上に郭群があり、北側に広がるものは各郭の規模が大きい。

 東と南に拡がる郭群は山裾まで伸びるが、南側のものは加工度が低い。
西側の郭群には菩提寺の円通寺があり、本堂は重要文化財に指定されている。
【写真左】甲山城略測図
 左図上が北を示す。本丸はほぼ中央にあり、南方及び北東部に連続する郭群が残る。
 円通寺は左側にある。













内容
 甲山城は、西城川の南側、庄原市本郷町の円通寺裏山山頂に山内首藤通資によって築かれた山城である。

 山内首藤氏は源氏譜代の家人であったが、正和5(1316)年関東から入部して蔀山(しとみやま)城(庄原市高野町)を築いて本城とした。

 文和4年(1355)には、通資が地毘庄(じびのしょう)南部の本郷に甲山城を築いて、高野の蔀山城を弟に譲り本城とした。延徳4(1492)年には、山内氏8代豊通備後国守護代に任じられ、備後国人衆中の座上を認められ、安芸毛利氏と並ぶ戦国大名となった。



【写真左】円通寺本堂
 臨済宗妙心寺派慈高山円通寺は、甲山城中腹に建立されており、山内首藤氏の菩提寺。
 山内通資が正中元年(1324)、京都嵯峨天竜寺の玉洲和尚を招いて開山し、氏寺としたといわれている。


 一時荒廃したが、山内直通が天文年間(1532~55)に中興、現在の本堂もこのとき建てたといわれている。
 この本堂 附厨子は国重要文化財となっている。


  天文年間(1532~55)に入ると、毛利元就が頭角を現して、中国地方を支配下に治め、天文22(1553)年には山内11代隆通も毛利氏の配下となった。この地は山内氏が天正19(1591)年広島城下に移るまで、備後屈指の国人領主の根拠地として栄えた。この後、慶長5(1600)年「関ヶ原の戦い」ののち、山内氏は毛利輝元に従い萩に移住した。
  平成22年3月 庄原市教育委員会”
【写真左】墓石群
 円通寺境内西側高台に設置されているもので、山内首藤氏累代のものと思われるが、これらの中にはおそらく、下段に紹介した尼子経久の三男・塩冶興久のものも含まれているかもしれない。



山内氏

 元々相模国(神奈川県)鎌倉郡山内を本拠とした藤原氏の一族で、山内首藤氏ともいわれている。

 山内通資が高野町の蔀山城から本郷の甲山城に移った理由は、備後最北部の高野町という交通の便も不自由で、しかも冬季には豪雪地帯になること、また所領の拡大に限界があることから、現在の農業生産に適した山内町本郷(地毘庄南部)移ったといわれている。


 甲山城主初代道資から始まった山内氏はその後、下記のような代を重ねた。(史料によっては別説もある)
  1. 初代 通資
  2. 2代 通時
  3. 3代 通継
  4. 4代 通忠
  5. 5代 凞通
  6. 6代 時通
  7. 7代 泰通
  8. 8代 豊成
  9. 9代 直通
  10. 10代 豊通
  11. 11代 隆通
  12. 12代 元通
  13. 13代 広通
この間、室町期には備後守護山名氏に従い、各地を転戦していった。当然ながら、上掲した比叡尾山城を本拠とする三吉氏や、南隣りの南天山城の和智氏などと所領の争奪を繰り返した。
【写真左】三の丸
 城域の主だった所は最近除草作業が行われていたようで、遺構の確認が容易に行われた。

 甲山城の郭には写真に見えるように、先端部に土塁遺構が良好な状態で残っているか所が多い。
 三の丸は、本丸南に設けられ、二の丸より1.5~2.0m程度の段差を持たせている。


塩冶(尼子)興久の謀叛

 出雲国の尼子経久には3人の嫡男がいた。長男政久は永正10年(1513)9月、阿用城(雲南市)の桜井宗的を攻めていた時、矢が刺さって戦死し、二男国久は新宮党の頭首となった。そして三男興久は西方の塩冶氏(塩冶高貞の末孫)に養子として入り、塩冶興久を名乗った。

 興久はその後、所領の多寡に不満を持ち、父経久に対して刃を向けた。このことがきっかけとなって、佐陀(宍道湖北岸)において経久の軍と、興久の軍が激突した(平田城・その2(島根県出雲市平田町)参照)。天文元年(1532)8月のことである。
写真左】井戸跡
 現地はほとんど埋まっているが、数か所残る井戸跡の一つで、本丸下東方のもの。







 興久の軍は大敗を来し、米原小平内などの助力によってからくも逃れ、興久自身は、彼の妻の実家である備後国甲山城へ奔走した。

 甲山城には、舅である山内大和守直通がいたが、直通に対する尼子経久からの再三の興久引渡しの催促に抗しきれず、2年後の天文3年(1534)、当城にて興久は38歳の生涯を自ら絶った。

 その後、彼の首が経久の下に届けられたが、刃を向けた息子の亡骸に思わず経久は、力なく腰を落とし、しばらくは傷嘆が癒なかったという。
【写真左】二の丸
 本丸の西側から北側に廻り込んだ大きな郭となっており、外側には三の丸と同じく土塁が残る。





蔀山城の攻略

 ところで、佐陀城における経久父子の激突に至る前の享禄元年(1528)9月9日、尼子経久は山内首藤氏の初期の居城・蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を攻略している。
【写真左】蔀山城遠望
 江の川の支流神野瀬川上流の庄原市高野町にあって、ここから6,7キロ余り北方に進むと、大貫峠を越え出雲国(島根県仁多につながる。この写真は、西麓側から見たもの。



 これは、上掲した説明板にもあるように、蔀山城は後に初代通資の弟通俊に譲り、通俊は姓を山内首藤から多賀山氏と変えた。

 尼子経久の攻略の理由は、このころすでに興久の謀叛が顕在化し、興久に与することを鮮明にしていた山内首藤氏の庶家多賀山氏が、備後最北の位置にあったことからと思われる。

 蔀山城のこのときの防戦は約1年弱続いたが、7月に落城した。その後、多賀山氏は毛利氏の麾下となったが、天正19年(1591)、輝元より改易を申し渡され、当城は廃城となった。
【写真左】本丸・その1
 30m×12mの大きさを持ち、中央部には写真にみえる高さ2mの櫓跡が設置されている。





天文11年の月山富田城攻め

 以前にも紹介したように、天文11年(1542)、大内義隆毛利元就が尼子氏の居城月山富田城攻めを行い、結果大内・毛利方の総崩れがあったが、そのとき甲山城主山内氏は当初大内・毛利方に属していたが、途中から他の国人衆ともども尼子方に転じている。

 ただ、主家である甲山城主山内首藤氏と庶家である蔀山城主・多賀山氏とは、必ずしも同一歩調をとっていない。特に天文20年、陶晴賢による大内義隆殺害後、山内首藤氏は毛利氏と盟約を結ぶものの、庶家の多賀山氏は尼子方に走ったので、毛利氏は蔀山城を攻め、陥落させた。
【写真左】本丸・その2
 北側から見たもの











 この結果、山内氏が完全に毛利方に属したため、同22年(1553)尼子晴久は甲山城を攻めた。しかし、黒岩城(広島県庄原市口和町大月)・その1でも紹介したように、この年の尼子氏の備後国攻めは敗戦が続き、甲山城攻めも失敗に終わり、次第に尼子氏に陰りが見え始める。
【写真左】二の丸から本丸を見る
 写真左の切崖側が本丸で、右側平坦部が二の丸
【写真左】艮神社跡
 二の丸の末端部にあったもので、現在は甲山城の南麓に移設されている。
【写真左】甲山城から南東方向をみる
 写真左が東方の庄原市街地となるが、当山南麓部は広大な田園地帯である。