2011年7月31日日曜日

南天山城(広島県三次市吉舎町大字吉舎)・その1

南天山城(なんてんざんじょう)・その1

●所在地 広島県三次市吉舎町大字吉舎●別名 矢の城・清綱城
●築城期 応安年間(1368~75)
●築城者 和智師実
●遺構 郭・空堀・井戸・竪堀・土塁
●高さ 標高350m/比高120m
●指定 三次市指定史跡
●登城日 2008年5月28日、2011年7月27日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』『和智氏と吉舎町の山城:吉舎町教育委員会編』等)
  前々稿「三良坂・横山城」で少し触れた和智氏の居城・南天山城を取り上げる。
三良坂・横山城」や「萩原山城」は、江の川の支流馬洗川から枝分かれした上下川流域にあるが、南天山城は馬洗川をさかのぼった吉舎の市街地にある山城である。
【写真左】南天山城遠望
 北西麓からみたもの











現地の説明板より

“和智氏ゆかりの史跡・三次市史跡・南天山城跡

南天山城と和智氏

 南天山城は中世、約200年の間、9代にわたってこの地方を支配した和智氏の本拠で、戦国時代のこの地方を代表する本格的な山城です。
 築城年代は文献がないために明確ではありませんが、初代の和智資実が14世紀中ごろに本拠地を和知(現三次市)から吉舎に移したことから、このころに築城されたものと思われます。以後、和智氏の本拠として戦国時代を迎えました。
【写真左】登城口付近の社
 この裏に登城口がある。












 戦国時代、和智氏は大内氏・尼子氏の二大勢力の間にあって、大永年間(1521~27)には尼子氏に攻められ、8代城主の和智豊郷は、尼子方に降っています。

 9代城主の和智誠春は、大内氏を滅亡させた毛利元就の三方として転戦していましたが、永禄12年(1569)、元就によって厳島において誅殺されました。
 誠春の子の和智元郷は毛利氏に従い、和智氏は吉舎の地を離れています。そのため、このころに南天山城は廃城となったものと思われます。
【写真左】登城口
 雨上がり後であったため、湿度が高くすでにこの位置で相当藪蚊にかまれ、今回は登城をあきらめた。









南天山城について

 標高340mの南天山山頂を本丸とし、南北にのびる尾根にそって郭(削平地)が何段もあります。ここから200m上がったところに、大手門(城の入口)がありました。

 城内には、井戸跡が4カ所あります。また、戦国時代特有の竪堀の跡が数カ所あります。これは敵が攻めてきたときに、敵の左右の移動を防ぐためのものです。
 かつては、礎石(建物の土台)や、石積みがありましたが、第2次世界大戦中に畑として開墾されたため、現在では確認することができません。

 城内からは、一部の建物に用いられた軒丸瓦や軒平瓦の破片が見つかっており、それらは吉舎町歴史民俗資料館に展示されています。

 南天山城は、城域が非常に広く、敵が攻めてきたときには、城下に住んでいた住民も一緒に立てこもったと考えられます。
 南天山城の城下町である吉舎には「古市」「七日市」「四日市」といった古い地名が残っています。また、城下を流れる馬洗川は、もともと現在の国道184号線辺りを流れていたのを濠として利用するために流路を変えたという言い伝えもあります。
【写真左】「尾崎山の堀切」
 下段の説明にもあるように、戦国期のものではなく、江戸時代後期のもの。

 約3年の歳月をかけ独力で切り開いたと伝えられる。この道沿い500m先に日正上人の墓があると書かれていたが、この日はそこまで行っていない。



 なお、南天山城と北側の尾崎山を区切る「尾崎山の堀切(町史跡)は、戦国時代のものではなく、江戸時代後期に清正公の初代庵主日正上人が里道のために開削したものです。

 平成9年(1997)11月、市史跡に指定
 平成10年3月
  三次市教育委員会”
【写真左】北西麓からみる 
 右側を登ると南天山城、左に向かうと尾崎山










【写真左】北方に伸びる尾崎山
 尾崎山は南天山城から堀切を超えて更に北に伸びる小丘で、史料では城域として明記はされていないが、北端部であったことから出丸のような役割があったものと思われる。


【写真左】尾崎山
 この場所には現在社が祀られ、尾崎山公園という施設になっている。
 先端部に行くと、吉舎の町並みが眼下に広がる。
 なお、この場所が出丸であった可能性も高いとしているが、地元教育委員会の資料では、「和智氏の館跡」の可能性もある、としている。


【写真左】南天山城縄張図
 城域は南天山全域に及ぶ。大きく分けると、Ⅰ郭群・Ⅱ郭群・Ⅲ郭群・Ⅳ郭群になる。本丸とされるⅠ郭群では、戦時中(1936~45)開墾された際、郭内から礎石が多数発掘されたという。


【写真左】善逝寺(ぜんせいじ)
 和智資実が建立した寺で、南天山城の北西麓にある。




2011年7月29日金曜日

萩原山城(広島県三次市三良坂町湯谷)

萩原山城(はぎわらやまじょう)

●所在地 広島県三次市三良坂町湯谷
●築城期 戦国時代
●築城者 湯谷又八郎久豊(柚谷新三郎元家)
●遺構(当時) 郭・空堀・竪堀・土塁・井戸等
●高さ 標高380m/比高150m
●登城日 2011年7月27日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
萩原山城は、前稿「三良坂・横山城」でも述べたように、和智誠春の弟・湯谷又八郎久豊が築いた城である。
【写真左】萩原山城遠望
 灰塚ダムによってできたダム湖「ハイヅカ湖」中流部に残っている。
 写真の左にみえる橋の後背の山が萩原山城。

記録によれば、当時萩原山城は、横山城よりも規模が大きく、城域は450m×100mの規模を持ち、本丸は3個所の郭から構成され、その一つは70m×40mで北側に土塁を設けていたという。

また、その外側には井戸のある郭をおき、西に少し下がって40m×40mの郭を付設していた。

二の丸は、本丸との間に空堀を設け、上下2段の小郭からなり、三の丸は40m×25mの規模で、東側に土塁を設けて、二の丸との間には空堀によって隔てていた。また、さらに下方には三の丸が小規模の郭を構成していたという。

以上が当時の萩原山城の状況だったと記されているが、添付写真でも理解できるように、横山城以上にダム建設によって、大幅に遺構が消失している。

以下、写真によって概説しておきたい。
【写真左】萩原山城遠望
 ダムができる前の写真を見ると、橋の下に数軒の集落があり、橋と平行する道路が走っていた。
 写真に見える橋(道路)の位置は、おそらく下段の三の丸があったところと思われ、さらにその上に二の丸があったと思われるが、現状では登城(登山)できそうな緩斜面が見つからない。



【写真左】萩原山城南端部
 橋を渡した位置はおそらく三の丸付近あたりだったと思われるが、その付近は写真のように道路を敷設するため大きく開削され、消失したと思われる。
【写真左】橋の方から見る
 写真左の高くなったところが最高所で、おそらくここに本丸があったものと思われる。
 また、それより右に下がり少し窪んだ辺りが二の丸だったと思われる。
 三の丸は上掲したように、この道路面と思われる。
【写真左】本丸付近を遠望する
 御覧のようにこの西側斜面も険しい部分が大半で、登れそうな場所はない。
【写真左】西麓部
 橋の真下に見える谷で、ダムができる前はおそらく数軒の家があったものと思われる。
 現在湿地帯になっており、植物園のようなものがある。

 右の山が萩原山城。



2011年7月24日日曜日

三良坂・福山城(広島県三次市三良坂町灰塚)

三良坂・福山城(みらさか・ふくやまじょう)

●所在地 広島県三次市三良坂町灰塚
●築城期 戦国期
●築城者 湯谷又八郎久豊(元家)
●城主 湯谷又衛門実義
●高さ 標高300m/比高80m
●遺構 郭・土塁・井戸・堀切
●登城日 2010年11月26日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 三良坂・福山城(以下「福山城」とする)は、合併して現在三次市となった三良坂町の「ハイヅカ湖」というダム湖の下流部灰塚地区に築城された小規模な山城である。
【写真左】三良坂・福山城遠望
 ハイヅカ湖の北岸から見たもの。
 このダム湖は最近できたもので、ダム湖ができる前は、横山城をぐるっと回るように上下川が大きく蛇行し、麓の周囲には10数軒の民家が建っていたようである。

 ダム湖になったことから、写真にも見えるように周囲に道路ができ、この位置から登る比高となる。おそらく30m前後だろう。


湯谷(広沢田利)又八郎久豊


築城者は湯谷又八郎久豊といわれ、彼は吉舎町の南天山城主・和智誠春の弟である。

湯谷氏は広沢田利氏ともいわれ、鎌倉時代に広沢実村が所領であった三谷郡を、二人の息子(江田実綱と和智実成)に分割相続させたが、そのうち一部の所領を残して、広沢田利を継承したものとされている。

 田利という地区は、現在の灰塚ダムの下流域になるが、広沢田利氏が当時支配していた地区は、さらに上流部を含めた三良坂の北東部であった。

 戦国期に至って、田利氏は吉舎の和智氏と同盟を結ぶべく、誠春の弟・和智久豊を養子として迎え、湯谷(田利)又八郎久豊と称した。
【写真上】ハイヅカ湖案内図
 現地に設置されているものだが、横山城や萩原山城など史跡関係の表示はない。
 上方が南、下方が北を示す。

 左図に管理人によって、二城の位置を追記している。
 横山城は、この図でいえば、「モミジ山」とされている個所で、萩原山城は、朱色で塗った個所になる。

なお、萩原山城の位置については最近分かったため、未登城であるが、おそらく標識などもないだろう。(次稿「萩原山城」参照)

南天山城・萩原山城・横山城

ところで、南天山城については未投稿だが、和智氏は室町前期は備後守護職であった山名氏に属し、応仁の乱後、山口の大内氏(麾下・毛利氏)と山陰の尼子氏の間にあって、一時尼子氏に降ったが、その後毛利氏の台頭に合わせるように、同氏に属していった。
【写真左】横山城近景
 ダム建設後、横山城跡には写真にあるようなモミジがたくさん植えられ、「モミジ山」と命名されたようだ。

 登城路は、その植林の際造られたような個所が西麓側に見える。ただ、最近はほとんど管理されていないようで、じっくりと見ないと登城路が消えかけている。




 和智氏は北方の固めとして、最初に湯谷又八郎久豊に築かせたのが、横山城より上流2キロ余りにあった萩原山城(H380m)である。この場所は南東側から流れてくる上下川と、北東側から流れてくる総領川が合流する地点で、天然の水濠が配置された交通・軍事上の要地であった。

 さらに、久豊は下流に萩原山城を補完する出城として築城したのが、今稿の横山城である。築城させた久豊は、当城を嫡男の又衛門実義に守らせた。

【写真左】北端部の郭
 幅はさほどないが、帯郭状の痕跡を残す。











 なお、弘治3年(1557)の記録として残る起請文の中に、柚谷新三郎元家とあるのは、湯谷又八郎久豊のことで、このころは毛利氏の配下として活躍している。

誠春・久豊誅殺和智氏諸城落城

 永禄6年(1563)9月1日、毛利元就の長男・隆元が尼子氏攻めの途中、和智誠春の饗応を受けたあくる日、安芸佐々部で謎の死を遂げた。享年41歳。

 嫡男隆元の死は、饗応した和智誠春・湯谷久豊兄弟による陰謀・毒殺によるものとの嫌疑がかけられ、同年12年(別説もある)厳島において幽閉され、殺害された。
【写真左】下の郭から本丸を見上げる












誠春・久豊兄弟が殺害されたことにより、吉田郡山城から、南天山城及び、久豊の本城であった萩原山城に対し、追討の兵が発せられた。

 南天山城では、城代家老加板原佐渡守をはじめ重臣29名が、防戦することもなく自害。
 萩原山城は城主を失ったこともあり、籠城する者もなく、出城であったこの福山城では、城主で久豊の嫡男であった実義らは、寄せ手が来る前に家臣28名とともに自害した。

【写真左】本丸
 規模は66m×22mと南北に長い。
 間伐された跡のようで、整理されているが、現地には標識などなにも設置されていない。
【写真左】二の丸に繋がる犬走り
 写真には撮っていないが、二の丸は北側を中心に設置され、東側のこの犬走り状のルートと連絡している。

【写真左】本丸南端部の堀切跡
 横山城の南方には、大小3カ所の堀切があったようだが、現在その場所は道路が付設され、主だった部分が消滅している。

 この写真はそのうち北端部に残った小規模な堀切跡と思われる。
【写真左】西麓からハイヅカ湖を見る
 湖には写真にみえるような噴水設備が設置されている。

【写真左】田戸岬・その1
 ダム湖ができたことによって新しくできた岬。
【写真左】田戸岬・その2
 このシンボリックな構造物を含む広場には、「灰塚ダム建設対策同盟会解散総会」として、次のような宣言文が建立されている。

 近世のダム開発事業によって、地元住民の苦悩の歴史が記されている。

 
総会宣言

 国土交通省による灰塚ダム定礎式が挙行される今日、われわれは組織解散を議決した。
 思えば37年の長い歩みであった。
 苦渋 苦闘の日々であった。
 墳墓の地が消える悲憤の日々であった。
 新たな住処(すみか)を求める不安と希望の日々でもあった。

 このダム建設を容認した決断は、正しかったのか…
 私達は、それぞれが自分にむかってずっと問い続ける。
 
 新しい故郷(ふるさと)創りの厳しい営みの中に答えを探している。
 下流の受益住民の表情と、行政の熱意に答えを求めている。
 私達の子供たちと未来の孫たちの笑顔に答えがほしい。

 私達は、37年間一度も組織分裂にみまわれることはなかった。
 同盟会員一人ひとりの知性が、輝く栄光の歴史であった。
 ここに万感の思いをこめて、栄光の歴史の閉幕を宣言する。

 平成15年(2003)3月8日

 灰塚ダム建設対策同盟会解散総会”



 戦国の永禄年間、城主が毛利方に攻められ前に、家臣ともども自害したこの場所において、「無血開城」の現代版のような歴史があったわけである。

 ダム建設によって失われるものと、得るものがある。失われるものは長い間営々と続いてきた歴史と文化だ。得るものは新たな歴史の創造である。そして、子や孫たちの笑顔にその答えを求めるという。
 昨今、この国の施政者にこうした理念を持った哲学が本当にあるのだろうか。

 37年もの間、苦闘・苦悩の日々をたどりながらも、分裂することもなく対応してきた地元民の方々に敬意を表したい。

2011年7月21日木曜日

尾首城(広島県世羅郡世羅町伊尾字宮の沖)

尾首城(おくびじょう)

●所在地 広島県世羅郡世羅町伊尾字宮の沖
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 湯浅越中守将宗・元勝
●高さ 標高280m/比高20m
●遺構 郭
●登城日 2010年11月26日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 尾首城は、広島県の旧甲山町にあった山城(丘城)で、国道432号線沿いのJR福塩線・備後三川駅から西方500m余りの位置に所在する。

【写真左】尾首城近景
 南西側からみたもので、『日本城郭大系第13巻』では、この小山を城郭としているが、余りにも規模が小さく、下段に示すこの山の右に繋がる丘陵部にむしろ城郭があったのではないかと思える。

 写真手前の広場は近接する「井原八幡宮」用の駐車場のようだ。


 築城期・築城者など詳細な記録はないが、城主が湯浅越中守将宗(一説に元勝)とあり、毛利氏の部将として文禄年間(1592~95)まで在城し、のちに長門に移ったとあるので、湯浅越中守は戦国末期の城主だったと思われる。

 なお、文禄年間後、長門に移ったという記録と、広島城築城に伴って広島に出た、という記録の二つがあり、どちらが事実か分からない。

 また、尾首城からさらに国道432号線を2キロほど南下したところに、鳳林寺という寺院があり、そこには、尾首城の城主であったとされる石塔群がある(下段参照)。
【写真左】井原八幡宮前広場と後背の山
 写真右に見える建物は、井原八幡宮の社務所(神楽殿か)で、尾首城はこの写真の左側になる。



備後・湯浅氏

出典は不明ならが、この湯浅氏の系譜が次のように記録されている。
  • 雅楽助
  • 元宗(美濃守)
  • 将宗(越中守)
  • 九右衛門
  • 就宗(権兵衛)
 また、湯浅氏は元々備後の国人領主で守護山名氏の下知に従っていたが、その後大内氏へ、そして毛利氏へと臣従していったという。
【写真左】井原八幡宮本殿
 尾首城から右(東)に伸びる丘陵の南面に建立されている。
 社伝では、康保元年(964)の創建で、暦応2年(1339)の再建。
 木造狛犬(県重文・室町時代)、太鼓(町重文・文和3年(1354)のほか、室町時代の棟札等を伝えている、とある。
【写真左】尾首城の反対側丘陵の末端部
 写真では独立した小丘陵にみえるが、実際には南東部から伸びた長い丘陵の末端部である。
 下段の写真はその左側部
【写真左】丘陵部の中央部
 この写真には見えないが、すぐ左に井原八幡宮の本殿が設置されている。
【写真左】堀切か
 左側が尾首城主郭側とされている小山で、右が上段で紹介した丘陵部

 この写真はその両側を分断するような間道で、堀切跡にも見える。
【写真左】間道(堀切)側から先端部の尾首城本丸を見る。
 写真では分かりにくいが、下段に郭のような壇跡を見ることができる。
【写真左】丘陵側中央部
 近年人工的に改変された跡があり、城郭としての明確な遺構は認めがたいが、この辺りも当時城砦施設があったものと思われる。


追記
 湯浅氏の墓・鳳林寺


●所在地 広島県世羅郡世羅町大字伊尾597
●探訪日 2011年10月2日
【写真左】鳳林寺
 墓はこの写真の左側にある。











 尾首城主であった湯浅氏の墓が祀られている鳳林寺を訪ねた。

 鳳林寺は、尾首城から国道432号線を2キロ程南下したところにある。
 墓は、境内下の駐車場の左(南)側の少し高い所にある。

現地の説明板より

“湯浅氏の墓
 尾首城主湯浅氏歴代の墓として、芸藩通志に記されており、室町期から末期にかけてのものである。
 湯浅氏は、室町時代のころ尾首城を築き、毛利氏の武将として活躍した。なお、付近にとびが丸城主下見氏の墓がある。
 世羅町”
【写真左】湯浅氏の墓・その1
 宝篋印塔のものと、五輪塔型式のものが混在しているが、整然と並んでいる。

【写真左】湯浅氏の墓・その2
 五輪塔形式のもの





2011年7月20日水曜日

鎮海山城(広島県竹原市竹原町貞光)

鎮海山城(ちんかいさんじょう)

●所在地 広島県竹原市竹原町貞光
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 能島村上武吉
●形態 水軍城
●遺構 郭
●高さ 標高・比高93m
●指定 竹原市指定史跡
●登城日 2010年6月20日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 広島県竹原市の山城としては、以前取り上げた「木村城」(2010年5月12日投稿)があるが、鎮海山城は比較的新しく安土桃山時代に築かれた海城(水軍城)である。
【写真左】鎮海山城遠望
 南西麓からみたもの。











 竹原市は南に瀬戸内海を望み、大崎上島を中心に、東には大三島を、西には以前取り上げた丸屋城(広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬)のある芸予諸島とも近い。このため、瀬戸内の各地区を支配してた海賊衆・水軍などとも交流があった。

 竹原市の市街地のうち、南西部は「ひょうたん開」といわれた江戸時代の干拓地(干陸地)であったことから、東方に築城された鎮海山城は当然海城・水軍城であった。
【写真左】登城口付近
 麓の街並み路地はせまいため、近くに「郷賢祠(きょうけんし)」という地元の賢人を祀った広場があり、そこに駐車スペースがある。


  現地の説明板より

“竹原市史跡「能島村上氏の遺跡」 指定 平成4年12月24日
 鎮海山城跡 1カ所 村上元吉宝篋印塔1基 及び戦死者五輪塔9基

市史跡『鎮海山城跡』

 鎮海山城跡=三島村上水軍の総大将・村上武吉・元吉父子が天正13年9月(1585)、豊臣秀吉に能島を追われ、小早川隆景領の竹原へ移り、鎮海山城を築き、拠点とする。

 天正15年(1585)筑前名島へ移動し、その後豊前蓑島へ移る。
 文禄元年(1592)長州大津郡へ移動。慶長2年(1597)竹原鎮海山城に帰る。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いには、水軍を率いて伊予三津ヶ浜に出陣し、元吉は戦死、村上水軍は敗退して竹原へ逃れ帰る。
【写真左】ピークを過ぎた登城路
 登山コースは西側から北の方に向かって登り、一旦鞍部があり、北に向かうと「里山ハイキングコース:バンブー公園」方面に向かう。

 鎮海山城本丸へ向かうには、上記と反対の尾根を南に向かう。
 写真は、その分岐点近くの位置。

 慶長6年(1601)毛利氏の防長への移動に従って竹原を退去し、周防屋代島に移動するまでの約6年間の能島村上氏の拠点であった山城。

 城郭は、市街地に突き出た小丘上にあり、かつては深い湾に突き出た岬にあったと考えられる。郭は標高88.1mの本丸を中心に約10段ほど北西に一列に並び、南西に海に突き出るような形で郭が張り出している。
 郭はいずれも削平した痕跡程度で明確ではない。

 本丸には、石組が約3m×4.5mあり、以前そこに城山神社が祀られていたと伝えられている。墓=城跡の北西に城主村上元吉の宝篋印塔が1基と、その西側に戦死者の墓と伝えられる五輪塔9基が並ぶ。
  竹原市教育委員会”
【写真左】本丸下から見た切崖
 全体に竹林が続くコースで、標高が高くないものの、天険の要害個所が多い。
 竹が繁茂しているため、崩落を防いでいるのかもしれない。


村上武吉

 築城者である村上武吉は、毛利元就から始まって、隆元・小早川隆景・毛利輝元と歴代毛利氏に仕えた能島村上水軍能島城・その1(愛媛県今治市宮窪町・能島)参照)の領主である。

 元々村上氏の出自は、清和源氏または村上源氏の流れといわれ、平安末期から伊予の河野氏と瀬戸内の制海権を競った。

 南北朝期、南朝方であった北畠顕家の子が村上家に養子として入り、村上師清と名乗ったのが、のちの三島(能島・来島・因島)村上氏の祖といわれているが定かではない。村上武吉の父・村上義忠は、このうち能島村上水軍の当主である。

 以前にも紹介した石山本願寺籠城戦における「第1次木津川河口の戦い」で、村上水軍の活躍を述べたが、まさにこのときの中心人物が、村上武吉である。
【写真左】本丸
 史料によれば、本丸を中心に南北一列に9段の郭があったというが、踏査したときはすでに相当崩壊しているようで、この本丸付近の遺構(石垣の一部)が、かろうじて残っている。


 豊臣秀吉が四国の長宗我部を落とした時、能島村上氏は当地から強制的に離れる(領地替え)ことになった。移住してきた地がこの竹原である。

 結局、村上氏は竹原鎮海山城に天正13年(1585)入城してから、その間一時離れたとはいえ、慶長6年(1601)まで、約16年竹原を本拠とした。その後向かった周防屋代島というのは、現在の周防大島の中央部にある地区である。
【写真左】本丸から西麓に竹原の街並みを見る
【写真左】本丸から竹原港を見る。
 港の向うに見える島は、生野島・大崎上島など。
【写真左】能島村上元吉の墓
 本丸から降りは反対側のコースをとり、北側に向かった。このコースは急傾斜で、文字通り切崖である。
 しばらくすると、村上元吉、すなわち武吉の息子の墓所に出てくる。

 現地の説明板より

能島村上元吉の墓(市史跡)

 天正13年(1585)秀吉の四国平定後の領地替えで、三島村上氏(能島・来島・因島)の中で最強の能島村上水軍の武吉、元吉父子は、隆景領に移り、鎮海山城を本拠とした。

 慶長5年の関ヶ原の戦に西軍として主家の河野氏の旧領地奪回をめざして、東軍の加藤嘉明の松前城を攻め、伊予三津ヶ浜で戦死した。
 竹原市教育委員会”

2011年7月19日火曜日

備後・茶臼城(広島県世羅郡世羅町大字下津田字中陰地)

備後・茶臼城(びんご・ちゃうすじょう)

●所在地 広島県世羅郡世羅町大字下津田字中陰地
●築城期 鎌倉末期か
●築城者 備後山内氏
●城主 山内通氏・山内首藤三郎通継
●高さ 標高400m/比高60m
●指定 世羅町指定史跡
●遺構 郭・土塁
●登城日 2010年6月16日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 備後・茶臼城は、前稿「黒川明神山城」から約3キロ弱北に向かった茶臼山に築かれた山城(丘城)である。

 付近の山城としては、南の黒川明神山城よりも、北方に聳える「津田明神山城」の方が近い。
【写真左】茶臼城
 現地には「茶臼神社」という社が祀られている。









山内首藤家一族

 築城期・築城者は不明ながら、地比荘(じびのしょう)甲山城山内首藤家一族である津田地頭山内通氏や、山内首藤三郎通継が城主として伝えられる。

 甲山城はまだ投稿していないが、山内氏が備後の地に入部したのが、正和5年(1316)といわれているので、鎌倉末期である。

 築城期・築城者を不明としているが、おそらくこの備後山内氏一族の地頭山内通氏らがそのころ築城したと思われる。
【写真左】道路脇に立つ石碑
 登城道手前を走る道路は、地元の生活用道路で大変に狭い。

 写真は茶臼城東麓に設置された石碑で、車で走っていると、見過ごすかもしれない。

 「史跡 茶臼城跡
 昭和61年10月20日 町指定史跡
 世羅西町教育委員会」と刻銘されている。

【写真左】登城路
 生活道路と三叉路のような位置になっているが、写真にみえる道路は軽トラックなら可能かもしれないが、乗用車では無理でここに停めて歩いて行く。
【写真左】茶臼神社と本丸
 しばらく道なりに西に向かっていくと、茶臼神社(といっても祠程度だが)と、その後背に本丸が見える。

 手前の平坦地はおそらく郭、もしくは馬場跡だったかもしれない。

 神社となってからは、境内として使われていたような痕跡が残る。
【写真左】本丸・その1
 北側の個所であるが、御覧の通り雑草が繁茂している。

【写真左】本丸・その2
 土塁跡(1)
 本丸の南から西にかけては土塁跡が点在している。
 長さはかなりあるようだが、雑草などではっきりとは確認できない。


【写真左】本丸・その3
 土塁跡(2)
 土塁が西から南にかけて残り、北側が天然の要害となっているので、大手は東側となり、搦手が西側だったのだろう。
【写真左】切崖
 本丸の北側に見えたところで、おそらく竪堀のようなものもあると思われる。

 茶臼城は比高はさほどないものの、この場所からの高低差はかなりある。

【写真左】本丸跡に祀られている祠
 本丸の規模は草丈が伸びているためはっきりしないが、凡そ15m四方と思われる。

 ところで、覚悟はしていたが、茶臼城で相当藪蚊にかまれた。山城探訪は梅雨時には最悪のコンディションとなる。

 しかし、目の前に山城が見えると、本能(いや、病気かもしれない?)がうずき、ついつい足を踏み入れてしまう。
 本格的な登山をしている方からみれば、常軌を逸した行動に見えるかもしれない。