2011年6月28日火曜日

備中・福山城(岡山県総社市清音三因)

備中・福山城(びっちゅう・ふくやまじょう)

●所在地 岡山県総社市清音三因
●指定 国指定史跡
●築城期 鎌倉末期
●築城者 真壁小六是久
●遺構 本丸跡・門跡・井戸・土塁等
●高さ 標高302m
●登城日 2011年5月24日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 幸山城(岡山県総社市清音三因)から南に登っていくと、福山城がある。南北朝期足利尊氏派と後醍醐天皇方による「福山合戦」が行われた場所である。
【写真左】福山城及び幸山城遠望
 西麓から見たもの。(撮影2013年5月)
【写真左】福山城頂上部
 定期的にこうした伐採作業が行われているよで、材木が積んである。








現地の説明板より

湊川決戦1週間前 備中福山合戦

 海抜302mのこの福山は往古神奈備山・加佐米山・百射(ひもい)山とか言われたが、山岳仏教が栄えた奈良平安期、報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て、伽藍が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。

 後醍醐天皇念願の親政が復活したが、建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に憤懣を抱き、天皇支持勢力の新田義貞・楠木正成等と対立した。
 この結果、尊氏勢が九州へ敗走し、軍勢を立て直して再び京都を目指し、東上を開始した。
【写真左】福山城位置図
 幸山城(6月22日・24日投稿)から南に向かうルートを使うが、このコースは「上の横道北コース」というもので、700m:30分程度かかる。









 福山合戦はその途上の延元元年5月に起こった。足利直義16日、朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す。17日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落とし、弓矢にて2万余の死傷者を出したが、新手入り変わり立ち変わり、遂に乱入され火をかけられ落城となった。

 大井田氏経1,000騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は100騎程になり、山上は火の海、氏経はこれ迄と、部下を集め三石の本陣に加わらんと、一方切り破り逃れた福山落城後、直義は敗走する氏経を追い、板倉より辛川まで十余度交戦を続け、三石城へ逃れ去った。

 直義は、足利勢をここで休養させ、首実検をして戦功を賞した。討ち首1,353を数えたという。”
【写真左】「上の横道コース」途中にあった巨石
 急峻な坂道途中にこのようなバランスで鎮座している。






南北朝期の備中・備前

 福山合戦の始まる前、尊氏派に属した主な一族としては、備前国では児島の豪族である飽浦信胤星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)参照)・田井信高らが最初に与し、この福山城において蜂起した。それにともない、備中国からは、小坂・河村・荘・真壁・陶山・成合・那須・市川の諸氏が加わった。

 これに対し、以前にも述べたように宮方(後醍醐派)として離れなかった児島高徳児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)参照)の一族は、福山城に拠った足利方を攻めたが敗退した。

 この結果、このときまで与同を決めかねていた備前守護・松田盛朝金川城(岡山県岡山市北区御津金川)参照)、及び備中の新見氏楪城(岡山県新見市上市)参照)・美作の菅家一党大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)参照)・江見・広戸らが、足利方に与していくことになる。
【写真左】「上の横道北コース」と「南コース」及び、福山城直登コースの合流点
 写真左側が北コースで、右に行くと南コースとなるが、この写真はほぼ直線で登っていく階段で、麓から山頂(本丸)まで、1,234の階段になっている。

 今回は、北コースから来ていたので、すでに約2/3は登っていることになる。


延元元年・建武3年(1336)

 このような足利方の拡大に伴い、播磨の赤松、四国の細川らも合流し、建武3年(1336)正月に至って、鎌倉から西上した足利尊氏の軍勢とともに、京都に攻め登った。そして一時京都を攻略したが、宮方の反撃にあい、尊氏らは一旦九州鎮西に奔ることになる。

 京都で足利方を撃ち破った宮方軍は、さらに西国へと西下してきた。このときの中心人物は新田義貞である。義貞は先ず播磨赤松氏の拠る白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を攻囲し、備前においては義貞の弟・脇屋義助が(三石城(岡山県備前市三石)に拠る石橋和義を囲み、それに呼応した備前の児島高徳は、今木・大富・和田・射越・原・松崎らと共に、熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)に挙兵した。

 新田勢の中で特に西方に向かったのは、大井田氏である。氏経は長躯備中に進出し、福山城に陣を構えた。この時の様子を『太平記』は次のように記している。

“新田左中将の勢、すでに備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を攻むる…”
【写真左】登城途中から北西に高梁川を見る
 2/3の階段を過ぎたといっても、かなりの段数が残っているため、結構きつい。
 休憩するたびに眼下にこうした眺望が楽しめる山城は久しぶりである。




 こうした中、九州に奔った足利尊氏は、菊池武敏・阿蘇惟直と筑前多々良浜で戦い、勝利した。その後当地で陣を立て直し、自らは海路をとり、弟・直義には陸路と二手に分け、再挙東上すべく筑前博多を出発した。4月3日のことである。

 5月15日、児島の下津井古城下津井城(岡山県倉敷市下津井)参照)吹上に着し、加治筑前守顕信に迎えられた。
 直義は東上途中、長門・周防・安芸・備後・備中の諸勢を味方につけ、さらに美作から三浦高継(高田城主と思われる)も駆け付けた。
【写真左】福山城頂上部
 下の写真にもあるように、福山城の構造は南北に長さ約300m、幅50m前後の規模を持ち、北から「一ノ壇」「二ノ壇」…「五ノ壇」となっている。





 こうして、5月17日、大井田氏経の拠る福山城に、足利直義を中心とした尊氏軍が攻め入った。

 戦いは説明板の通り、直義軍(尊氏軍)の大勝となり、その後の戦況を大きく左右することになる。すなわち、三石城を攻囲していた脇屋義助は囲みを解いて、播磨へ奔り、旭川河口付近に陣立てしていた児島高徳は、尊氏軍の進軍に浮足立ち同じく播磨へ。

 また、美作の菩提寺城大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)参照)や、播磨の白旗城を攻囲していた新田義貞らも、この敗戦の報を聞き、兵を返した。

 それから1週間後の5月25日、遂に兵庫湊川で、宮方軍と尊氏軍による最大の決戦が行われ、楠木正成は討死し、新田義貞は帰洛していくことになる。
【写真左】福山城略図
 現地の図では、一の壇・二の壇・三の壇と図示されているが、下方(南)にさらに四の壇・五の壇が続く。

 遺構としては、空堀・土塁・門跡・石列・井戸跡などがある。
【写真左】門跡
 北側に設置されたもので、一の壇と二の壇の間にある。
 石垣が残ることから、かなり規模の大きなものだったと思われる。
【写真左】土塁跡
 土塁は西側に構築され、その脇には空堀が付設されている。
 現状は大分崩れているが、当時は石垣による堅固なものと思われる。
【写真左】井戸跡
 当城で唯一残る井戸跡であるが、山の形状から考えて、おそらく当時相当深く掘られていたのではないだろうか。
【写真左】四の壇から五の壇
 三の壇から少し下がって南に続く所で、特に四の壇の長さは70m前後と長い。
 
 激戦を重ねた福山合戦の戦場としての山城なのだが、他の南北朝期の山城に比べてあまりにも平坦な郭の遺構である。

 「日本城郭大系第13巻」でも書かれているように、福山城が山城となる前、平安期に栄えた「福山寺」と重複しているとする説があり、若しそうだとすれば、この辺りは境内・庭園であったかもしれない。 

【写真左】福山城から東に岡山市街を見る
 登城したこの日も、次から次と登山者が来ていた。
 岡山や倉敷など市街から近いところにある福山城は、その眺望が魅力だろう。


 南北朝期、この福山城から南方を眺めれば、早島(ふれあいの森公園など)が浮かび、さらに南の児島なども瀬戸内に点在する島嶼となっていたと思われる。

2011年6月26日日曜日

高越山城(岡山県井原市東江原)

高越山城(たかこしやまじょう)

●所在地 岡山県井原市東江原
●築城期 弘安4年(1281)か
●築城者 宇都宮貞綱
●形態 回字形縄張
●城主 伊勢氏など
●標高 160m
●遺構 郭・古墳等
●登城日 2011年6月15日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 今月紹介した「亀迫城」(6月19日投稿)のある西江原町から小田川沿いに東へ3キロほど下って東江原町に入ると、北方に高越山(h172m)がみえる。
 この山に北条早雲生誕の地としてされる「高越山城」がある。
【写真左】高越山城遠望
 西側からみたもの











 現地の説明板より

高越城と北条早雲

 高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて造らせたと伝えています。

 戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越城を居城にしていました。

 伊勢新九郎盛時(後の北条早雲は、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。

 新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
【写真上】案内図
 当地には写真にあるような案内図が数カ所配置されている。

 高越山城はこの図の中央右に書かれているが、この図では他の史跡として、白美城・泉山城・米持城・法泉寺・太刀洗・小丸・弓場などが紹介されている。

 このうち、米持城は、「城格放浪記」さんが紹介しているので、御覧頂きたい(管理人も現地を訪れたが藪こぎで断念した)。

 新九郎は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、86歳で亡くなるまで、北条5代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁(さきがけ)となりました。

 現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸も含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。
  平成12年3月 井原市・井原市教育委員会”
【写真上】高越城址公園総合案内図
 高越山城を含む周辺は、写真にあるように、公園となって整備されている。

 左側の駐車場に車を停め、そこから数百メートル歩いて行くと、右側にあるような城域にたどり着く。


備中・伊勢氏

 説明板にもあるように、戦国期小田原を本拠とした北条氏の始祖とされる北条早雲が、当地荏原の出身であることが記されているが、高越山城に在城した期間は短いもののようである。

 備中伊勢氏となったのは、室町時代の享徳2年(1453)、伊勢新左衛門尉行長が当地東荏原を含む6庄300貫を領知して、伊勢国よりこの地に入ったことから始まる。
【写真左】登城口付近
 駐車場から南に歩いて行くと、写真にあるように分岐点があり、左側の上り道を行く。
 奥に見える門は、「冠門」。

 その後、豊後守・新左衛門貞春・兵庫助貞勝と続き、後裔の貞信の代に至った天文9~10年(1540~41)、尼子氏の南下政策を阻止し、又五郎は永禄9年(1566)に毛利氏に従って、出雲富田城攻めに参加し、当地で戦死を遂げたといわれる。

 備中伊勢氏が没落したのは、その後と思われるが、天正9年(1581)に鬼身城主宍戸安芸守(毛利氏)の持城となり、木原平内・神田六兵衛らが在城したという。

 廃城は、慶長5年(1600)で、徳川家康の命によって当地を治めた小堀新助・左衛門の治所となった。
【写真左】「四の郭」から「一の郭」を見る
 写真下の郭(四の郭)の更に南下には、「五の郭」がある。

 また「四の郭」とほぼ同程度の高さで東側に「二の郭」があるが、この日は草丈が高く踏査していない。

 「四の郭」から本丸となる「一の郭」までの高さは6,7m程度ある。
【写真左】「一の郭」
 「一の郭」はほぼ長方形の形をなし、縦15m×横10m程度の規模。

 写真に見える赤い幟は「北条早雲生誕の地」と書かれたもので、現地の要所に数本建っていた。
【写真左】「北条早雲生誕之地」と刻銘された石碑
 一の郭中央部(主郭か)はさらに高くなったところがあるが、ここに写真にある石碑や、「忠魂碑」などが建立されている。
【写真左】主郭から「一の郭」を見る
 さきほどの石碑のあるところからみたもの。
 なお、この高越山の公園には桜の木などが多く植樹されているようで、春になるとおそらく見事な花を咲かせるだろう。
【写真左】東麓を見る
 おそらくこの写真の中に「米持城」が入っていると思われるが、どのあたりかわからない。
【写真左】南西方向を見る
 写真上の左側の山地を越えると笠岡市に入る。

2011年6月24日金曜日

幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)

幸山城・その

●所在地 岡山県総社市清音三因

◆解説
 今稿は、前稿で少し触れたように、元亀年間に尼子氏による南下政策によって、幸山城へ攻め込んだとする記録について検証してみたい。
【写真左】西の丸














元亀年間の尼子氏による幸山城攻め

 前稿で紹介した幸山城の現地にある説明板には、もうひとつのものがある。ここでは、前稿と重複する部分は省略して転記する。

幸山城
 ………(前文省略)……
 石川は吉備津神社の社務代の要職を務め守護代となり、総社宮の造営にも関係した。元亀2年、幸山城は城主久式が不在のとき、尼子晴久に攻められ、石川勢は尼子勢に屈服した。

 しかし、九州から帰った久式は、毛利の援助で幸山城を奪還した。その後、毛利と三村の間が断絶となり、毛利勢は松山城を包囲、久式は松山城主の三村元親が義兄のため、300余騎を連れて援護した。

 しかし、元親は切腹、久式は逃れ帰ったが幸山城は落城、家老の家へ立ち寄ったが毛利勢に囲まれ、切腹して19歳の最期を遂げた。天正3年6月23日”
【写真左】西の丸に設置された説明板(その1)











尼子晴久の生存期間

 さて、最初に上掲の下線個所である、「元亀2年尼子晴久に攻められ…」とあるが、そもそも晴久は永禄3年(1560)12月に急逝ししているので、元亀2年(1571)にはこの世にいない。

 同じく、度々参考にしている『日本城郭大系第13巻』(新人物往来社)でも、幸山城の項で、
「…元亀2年2月、尼子晴久は備北の諸城を制圧した。そして降伏軍を加えた連合軍が備中国主細川下野守を片島に攻め、ついで酒津城主高橋氏を降し、勢いに任せて幸山城へ攻めかかった。…」

 と記されているが、同様に錯誤であり、このころ活躍するのは、還俗した勝久(新宮党の遺児)と、西国の麒麟児・山中鹿助幸盛である。
【写真左】西の丸に設置された説明板(その2)











 元亀年間の尼子氏の動向

 次に、幸山城に攻め入ったとされる元亀年間のころの尼子氏の動向を検証してみたい。
 
 結論からいって、手持ちの史料が少ないため、元亀2年に尼子氏が備中国の当城に攻め入ったという記録は、管理人の知る限り、これまで確認できていない。

 一般的に当時の尼子氏(再興軍)は、専ら毛利氏によって奪われた出雲国の領地奪回のため、当地及び伯耆国での戦いが間断なく行われていたという諸説が主流を占めているので、再興軍の行動範囲は、当然山陰に限定されてくる。

 しかしそうした通説を覆すような、このような記録が事実とすれば、管理人に限らず、聊かの驚きを禁じ得ないだろう。

 そこで、尼子再興軍が備中・幸山城に攻め入った理由はともかく、先ずは物理的に可能だったのか、という視点で考察してみたい。

 先ず、『日本城郭大系第13巻』に示されている尼子氏による幸山城の攻略時期は、元亀2年2月としている。

 ここで、出雲国に残る同時期の記録を時系列で列記しておく。なお、この年はいずれも元亀2年(1571)のものである。
  1. 1月19日  吉川元春、多賀元竜・長屋元定に対して、新山城(真山城:松江市)の尼子方が引き移した2艘の船の一つを奪い取り、一つを破却したこと、そしてこれに気付いた尼子方をカラカラ橋で撃破したことを、安芸国吉田へ注進すると伝える(「萩閥144」)。
  2. 3月19日  吉川元春、出雲国高瀬城(斐川町)を攻略し、米原綱寛が新山城へ逃走する(「萩閥55」)。
  3. 4月27日  毛利元就、小川元政・多根元房に対し、尼子方の船の難破と、高瀬城開城により新山城もほどなく落城するだろうと伝える(「萩閥101」)。
  4. 5月4日  毛利元就・輝元、多賀元竜・長屋元定に対し、4月29日に新山城からの敵勢を撃退したことを賞し、番衆を増援すると伝える(「萩閥144」)。
  5. 6月4日  湯原春綱、隠岐国に渡り、尼子方・隠岐弾正らを降伏させる(「萩閥115」)。
  6. 8月18日  吉川元春、伯耆国末石城山中鹿助を捕らえ、寺内城を攻略する。その後鹿助は、京都へ逃走を図る。
  7. 8月21日  尼子方・新山城が落城、尼子勝久は隠岐国へ逃走する。
 以上がこの時期の尼子方の動きの記録である。

 この中で示したように、元亀2年2月の動きについての記録が出雲国においては皆無である。しかも、尼子再興軍の中心人物であった鹿助や尼子勝久などが具体的に記録に残るのは、8月以降である。

【写真左】満願寺城
 満願寺城については、未投稿だが、島根県松江市の宍道湖北岸にあって、現在も同名の寺院が建っている。




 更に、上掲した元亀2年以前の動きとして残るのは、前年(元亀元年:1570)11月29日に、尼子勝久が出雲・隠岐の兵船で、満願寺城(松江市)を攻めるが、湯原春綱に撃退される(「萩閥115」)、というものがある。

 こうしたことから、大胆な想像をすれば、尼子勝久や山中鹿助らは、元亀元年の12月ごろから、翌2年の6月頃までは、出雲国や伯耆国といった山陰地方には常駐しておらず、出雲国における尼子再興軍の面々は、その他の旧臣で構成されていたのではないかと考えられる。

なぜ備中国・幸山城攻めとなったか

 ではここで、なぜ勝久・鹿助らが備中国へ進攻してきたのか、という疑問が当然沸いていくる。このころ、毛利氏は九州で大友方と戦う一方、備後から備中へと東上政策を図っていた。

 説明板にもあるように、毛利氏に属していた幸山城主・石川氏は、このころその九州に赴き、大友方と交戦していた。当然、幸山城は手薄となっており、南方の児島氏や、北方の多治部氏などが、すきあらばと当城をうかがっていた。

 おそらく、尼子方としては、そうした幸山城主石川氏以外の未だ毛利氏に与しない一族とも連合し、併せて毛利氏の東上政策を阻止しようと計画していたのかもしれない。

 また、幸山城の情報については、おそらく石川氏と同じく、途中まで九州立花山城で戦っていた出雲高瀬城主・米原綱寛が再び尼子方に与し、出雲に戻った際、その情報を再興軍に伝えていたと推察される。

2011年6月22日水曜日

幸山城(岡山県総社市清音三因)・その1

幸山城(こうざんじょう)・その1

●所在地 岡山県総社市清音三因
●築城期 延慶年間(1308~11)
●築城者 荘(庄)左衛門四郎資房
●城主 石川氏・清水氏
●形態 一城別郭
●遺構 2郭・堀切・櫓台・土塁
●高さ 標高165m
●別名 高山城・甲山城
●登城日 2011年5月24日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 旧都窪郡山手村西郡・清音村にあった山城で、高梁川を西麓に望み、東方には備中国分寺跡が俯瞰できる。
【写真左】幸山城遠望
 北西麓にある「ふれあい広場」という場所からみたもの。









 築城期が延慶年間(1308~11)といわれているので、元寇による「文永の役」及び「弘安の役」によって、鎌倉幕府が莫大な財政支出を被り、御家人の恩賞を与えることができず、「永仁の徳政令」などを発布するも、却って信用を失っていくころである。

 朝廷では、持明院統と大覚寺統が分裂し、その後、醍醐天皇が即位(1318)し、倒幕を図ることになる。
【写真上】配置図
 現地の要所ごとに置かれている地図で、左側が北を示す。
 幸山城は、同図の左上にあり、ここから南に縦走して福山城に向かうコースも図示されている。


現地の説明板より

“幸山城跡(山手村指定史跡)

 幸山城は、別名を甲山城または高山城ともいう。福山の北登山道の中腹から分かれた山塊(標高162m)に立地している。頂上からの展望は、東西ともに旧山陽道を一望におさめる要害である。

 鎌倉期の後半頃荘資房によって築城されたといわれる。その後、応永年間に石川氏の居城となった。細川氏の被官であり、また、吉備津神社の社務代である石川氏は、備中南部での有力な武将であった。

 永禄10年(1567)の明禅寺合戦で、石川久智は戦死した。その子の久式のとき、毛利氏と松山城主三村元親との戦乱に当たり、久式は義兄の元親を救援するため、松山に出陣したが、利あらず逃れて幸山城下に帰り自刃した。時に天正3年(1575)であった。

 かくして、毛利氏の領国支配のもとで、清水宗治等が一時居城し、廃城となった。
【写真左】登城路
 ふれあい広場からしばらく歩くと、御覧のような登城路となる。この付近には、天神古墳群73基、山地古墳群9基などの遺跡などもある。

 この城の縄張は、東の曲輪と西の曲輪とに分かれている。福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて、急峻な斜面を登ると巨石がある。その巨石のところから東の曲輪の平坦部が開けている。

 三日月形の地形で、南側が約40m、東側が約50m、北側は次第に傾斜して、西曲輪との間の大きな堀切に続いている。南側と東側には土塁状の高まりがあり、場所によっては高さ2mもあるところがある。

 西の曲輪との間の堀切は、幅30m、深さ4mの大きなものである。西の曲輪は東西40m×南北30mの不整形な楕円状である。巨石が数個露呈している。南の端に低い土塁遺構が残っている。
平成6年3月
 山手村教育委員会
 山手村文化財保護委員会”
【写真左】幸山城と福山城方面との分岐点
 登城路は全体に整備されているが、この日は前日降った雨のため、ところどころがぬかるんでいたため、滑りやすい場所もある。
 写真の左方面に行くと、幸山城に向い、右に行くと福山城方面へのルートになる。



荘左衛門四郎資房と陶山藤三義高

 さて、幸山城の築城者とされる荘左衛門四郎資房は、正慶2年(元弘3年:1333)六波羅が攻められ、北条仲時が近江番場で自刃したとき、432人とともに、あとを追ったという。

 これは、今月取り上げた笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)の築城者・陶山藤三義高と全く同じで、おそらく同国(備中国)出身者であったから、二人は知友の中であったかもしれない。

 荘四郎資房が亡くなった後、おそらく嫡男であろう荘七郎資氏が、翌年から文和元年(正平7年:1352)まで当城に在城したとある。それから約40年の間、城主が不明だが、応永年間(1394~1428)のころは、石川氏が当主となった。

 このころの備中守護は細川氏で、管領細川氏の庶流であるが、応永年から室町中期の応仁・文明の乱までの間、同氏が満之・頼重・氏久・勝久と代々世襲している。この間、幸山城も含め、守護代にあったのは、この荘氏と石川氏である。城主の交代は守護細川氏の命によるものだろう。
【写真左】東の丸
 登城ルートは南側から登っていくが、最初に出てくるのは「東の丸」である。
 写真は東の丸中央部付近で、御覧の通り郭部の樹木はほとんど伐採されている。

 写真左方向に向かうと、一旦5,6m程度下がり平坦地がある。その先に堀切跡と思われる窪みがあるが、あり「西の丸」に向かう。


城主・石川氏

 石川氏は清和源氏の系譜を持ち、吉備津神社の社務代をつとめ、細川氏の信任を厚く受け、幸山城主として、応永年間から天正2年(1574)まで約150年間の長きにわたって、備中南域を治めて行く。以下、幸山城主としての石川氏代々の名を記す。
  1. 豊後守沙弥道寿
  2. 源左衛門尉
  3. 掃部助久経
  4. 源三
  5. 通経
  6. 家久
  7. 久智
  8. 久式  (天正2年:1574)
石川氏の没落の経緯は説明板の通りだが、最後の久式が備中松山城へ支援に行く前の元亀年間(1570~73)にかけて、出雲の尼子氏が南下政策を開始し、当城にも押し寄せたとある。これについては、次稿で述べたい。
【写真左】切崖
 東の丸の西側に連続する切崖。
 東の丸西端部から西の丸の接続箇所にかけて一段と険しい切崖となっている。




幸山城の構造

 規模はさほど大きなものではないが、いずれ取り上げる予定の福山城と地続きの位置にあって、冒頭でも示したように標高の割に比高が確保され、特に北端部の西側は嶮しい切崖を構成し、文字通り天険の要害である。

 遺構部分には、松や杉などが植えられていたが、昨今ほとんどの樹木が伐採されたようで、二つの郭(東の郭・西の郭)の見通しがよくなった。
【写真左】東の丸の土塁
 南側に構築されているもので、写真にあるように途中で土塁が分断されている。
 東側のものは長さ25m前後、西側のものは10m程度。何れも高さは2m弱。
【写真左】東の丸から西の丸を見る
 東の丸の西北端からみたもので、文字通り一城別郭であることが分かる。

 二つの丸の規模もほぼ同程度のもので、戦略的には、手前になる東の丸が主郭の機能を持っていたように思える。
【写真左】西の丸・その1
 東の丸に比べて伐採された樹木の片づけが行き届いているせいか、見通しがよい。
【写真左】西の丸・その2
 北端部から南方をみたもので、写真の奥(南)には福山城が控えている。

 西の丸には写真にあるような巨石が点在している。戦の際こうした巨石も使われたかもしれない。
【写真左】西の丸から東麓に備中国分寺を見る。
 写真中央の上部に国分寺跡の五重塔が見える。

【写真左】北に鬼ノ城を見る
 写真中央の山に古代朝鮮式山城といわれている「鬼ノ城(h400m)」が見える。
 当城については未投稿だが、いずれ取り上げたい。

2011年6月20日月曜日

小笹丸城(岡山県井原市美星町大字黒忠字笠丸)

小笹丸城(おざさまるじょう)

●所在地 岡山県井原市美星町大字黒忠字笠丸
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 竹野井市朗衛門尉、竹野井常陸守氏高、竹野井又太朗春高
●遺構 主郭・郭・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸
●高さ 標高390m/比高90m
●指定 井原市指定重要文化財
●登城日 2009年8月30日

◆解説
 旧小田郡美星町にあった山城で、小規模ながら遺構保存が良好な山城である。
 所在地は、合併した井原市の北東部にあり、北西1キロを進むと、高梁市(川上町)に入る場所にある。
【写真上】小笹丸城の位置図
 文字が小さいため分かりづらいが、中央右側の位置に示してある。

 現地の説明板より

小笹丸城の由来

 小笹丸城は、標高390m・比高90mの丘陵に位置し、美星町大字黒忠字笠丸に所在する。

 戦国期の村落領主クラスの詰めの城であると考えられ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランによって築城されたと考えられる。
【写真左】案内図
 城の中心部は左上に当たるが、この図でも記されているように、赤線で示した登城路の途中には、「トノヤシキ」「トノヤブ」「トノノウラ」などといった地名が残る。

 城域は、東西に150m、南北に120mを測り、主郭・曲輪・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸などが創出されている。

 創築年代は不詳であるが、大永年間には竹野井市朗衛門尉が、天正3年(1575)には、竹野井常陸守氏高・竹野井又太郎春高が居城したと伝えられる。

 主郭からの眺望は、八日市、星田の金黒山城址、川上町の国吉城址、弥高山などまで及び、各城砦や見張り所との連絡は、たとえば狼煙、鏡、釣鐘によって容易であったと推定される。

 南側の曲輪には、小説「反逆」のなかで、この小笹丸城を舞台としてとりあげた小説家・遠藤周作氏直筆の石碑が設けられている。”
【写真左】「トノヤシキ」付近
 城下南東部に当たる位置で、おそらくこの辺りが城主や家臣が住んでいた場所と思われ、大手筋にあたると考えられる。
 写真の左前方の小山が小笹丸城になる。
【写真左】南麓部の道
 現在の登城ルートは南側から時計方向に回り込み、途中から右折して向かうコースが設定されている。
 この写真の下あたりはかなりの傾斜があり、天険の要害となっているが、「トノヤブ」といわれた個所でもある。
【写真左】本丸に向かう入口付近
 右側に見える道からここで鋭角にターンして向かう。

【写真上】小笹丸城縄張図
 ほぼ円形の形をなしたもので、中央部に主郭を配置し、北に虎口を持ち、以下反時計回りに帯曲輪が5カ所連続して取り巻く。
 北東部には曲輪6の先に土塁を設け、さらに下段に長い堀切が南北に切られている。
 真北には一本の竪堀が長さ50mにわたって伸びているので、全体に北から東方面を重視している構成となっている。
 なお、北西側の曲輪2からさらに伸びた腰郭が一カ所設置されている。

 現地の説明板によると、

“戦国期の村落領主の詰めの城の典型的な事例といえ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランを創出している。
 その整った構成から、現在地表面から確認できる遺構が完成したのは、天正期(1573~91)に下ると考えられる”

と記されている。
【写真左】曲輪4の位置から主郭を見る
 写真の左側の石碑が、遠藤周作氏自筆のもので、右の案内板に上記の縄張図が設置されている。
 下段の曲輪から主郭までの比高は約6,7m程度だが全周囲が切崖をなしている。
 この日探訪したのが夏だったため、このように草丈が伸びていたが、それでも管理が行き届いていた。

【写真左】主郭・その1
 主郭は下段の曲輪から想像していたものよりかなり広く、長径30m×20m程度と思われる。
丁寧な施工となっている。
 写真奥にみえる高まりは土塁。

【写真左】社
 主郭に設置されているもので、「城山神社」とある。


【写真左】土塁
 先ほど紹介した土塁で、高さは約1.5m程度。


 配置は、北側中央部の虎口ルートから登る道で一旦切られているが、北側から東側にかけてぐるりと囲んでいる。
【写真左】北西側の土塁下にある曲輪1、2付近
 曲輪の外端側は雑草があり、確認はできなかったが、多少小規模な土塁を残していたように思えた。

 写真左側が本丸側切崖になる。

【写真左】虎口
 同じく北側に認められるものだが、虎口まで誘導するルートは東側から回り込むような構成となっている。


【写真左】竪堀
 当城で最も規模の大きいもので、傾斜もかなりあるため、相当効果があったものと思われる。

【写真左】曲輪5から一周して曲輪1,2付近の合流点
 上段の縄張図でもわかるように、ほぼ同心円状に曲輪群が取り巻き、幾何学的な造形美さえ感じさせる。
【写真左】城下の南麓
 手前が「トノヤシキ」付近で、さらに下方に棚田が広がる。