2011年5月31日火曜日

三星城(岡山県美作市明見)

三星城(みつぼしじょう)

●所在地 岡山県美作市明見
●高さ 標高233m/比高150m
●築城期 応保年間(1161~63)
●築城者 渡辺長寛
●城主 渡辺氏・後藤氏
●遺構 郭・竪堀・土塁・屋敷跡
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年2月22日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 三星城は、当ブログで取り上げてきた古代山城を除いて、築城期が最も古い部類に入るもので、渡辺長寛が応保年間(1161~63)に築いたといわれるから、時期は平安後期で平治の乱(1159)後から、平清盛が太政大臣になる(1167)あいだに当たる。
【写真左】三星山城遠望
 左下に見える道路は国道179号線(出雲街道)








 その後、長寛の子長信が正治2年(1200)、小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)でも述べたように、美作守護職であった梶原景時が幕府から誅罰を受け、自刃したとき、長信も景時に殉じ、ここに渡辺氏の三星城主としての終わりを告げることになる。

 その後の経緯については、下段の案内板で紹介しておきたい。

現地の案内板より

三星城史(概要)
 今を去る約850年の昔、1160年 応保年間、土豪渡辺氏の居館としてこの地に妙見城が誕生したと伝えられている。
 のち天下は足利幕府の下、1336年地頭職として後藤氏が塩湯郷に入封、1339年・延元4年、妙見城は、後藤一族の居城となる。以後200余年幾多の近郷豪族に依る攻防盛衰の乱世が続く。三星城主後藤一族も、風雲雷鳴の中に身をゆだねつつ、勢力を徐々に拡大、やがて後藤左衛門尉勝基の時代を迎える。
【写真左】登城口付近
 右に見える看板に本文(説明板)が書かれている。
 この上を上がるとすぐに明見三星稲荷神社や、屋敷跡が見えてくる。



 当時、天下は朝廷・幕府共に力なく、まさに武士の社会、戦に勝った者のみが生き延びる戦国下剋上の時代であった。山陰に尼子、西国より毛利、但馬に山名、播磨の赤松、織田も又京に上がらんと機をうかがう、備前は浦上から宇喜多へと大きく勢力図がとってかわる。

 1561年・永禄3年、勝基21歳のとき、備前宇喜多直家の息女千代を妻に迎え、これより10数年波乱の朝夜を戦い抜いた青年城主勝基が隆盛の一時代といえよう。

 居城三星城は、三星山全山天然の要塞を駆使した三つの峰をもつ山城として、度々の外敵を駆逐し、遂に全作東を制覇し、京に上った信長とも交わりつつ、領国を固めてゆく。

 しかし、運命の皮肉はやがて東作の役へと嵐を呼ぶこととなる。真木山長福寺一帯の寺領争いに端を発し、西方吉井川流域にも飛火する。天正5年頃から頻発する盟友備前国との領界争いは、遂に姻戚関係にありながら、不和を生み、備前宇喜多と美作後藤の対決が避けられぬ日を招く。
【写真左】屋敷跡
 東西に四角い平坦地が3段連続し、その上に更に大きな平坦地1カ所が残る。














 1579年・天正7年の年明けとともに、両雄決戦の火蓋は切られ、東作全土は戦火にまかれる。宇喜多軍は、4月初頭、茶臼山城、美作南部の鷲山、井の内、鷹の巣の諸城を陥して北上。

 勝間・位田・湯郷を経て、吉野川、梶並川の合流点長大寺山から入田一帯に布陣。4月末、対岸の倉敷城を破り、三星山南面に肉迫、更に本陣を三海田原に押し進め、梶並川と滝川の中州中嶋口を渡河して、三星城の足下明見原に進攻。
 
 旬日に及ぶ攻防激戦の末、5月2日数に勝る宇喜多軍萬余に及ぶ人馬の総攻撃に立ち向かう後藤が、策を駆使した奇襲白兵戦、山岳戦を展開。

 三星軍精鋭の死守の甲斐むなしく敵間者の米倉放火も重なり、さしもの堅城要塞を誇った三星城も落城の悲運が迫りくる。
【写真左】土塁跡
 この写真では分かりにくいが、登城路の西側に本丸側の稜線が北に延びた位置から連続して下まで伸びている。土塁としては、この個所のものが一番長大なものである。


 勝基の妻子は、毛利方の岩尾山城に夜道を利して落去するも、後日、勝基自害の報せを聞き命を絶つ。

 宵闇の刻、東の山に月が昇る頃、城内に側臣を呼んだ城主勝基は、長年苦楽を共にした星霜の日々をかえりみつつ礼を述べ、各々の居郷へ引き揚げるよう申渡し、惜別の盃を交わす。忠臣共は最後の一戦を交え、城を枕に討死を覚悟の勇将多くあり。
【写真左】井戸跡
 登城路の途中にあるもので、現在でも水がたまっている。











 さらばじゃー、やがて城に火を放ち、勝基は深夜城を退去、長内村大庵寺にて武運つたなく42歳の命を絶つ。

 当地には、村人によって後藤神社が建立され、今も供養の日が続く。時あたかも天下統一が目前の織田勢、秀吉による中国毛利攻めが迫りくる。

 また、この年より3年後、信長は本能寺に憤死する。今や伝説と化した三星城史は、ふるさと戦国史「三星城合戦伝」(高田編記)に収録されて後世に伝承されることとなる。

附記
  三星城関係山城縄張図
  遺跡案内、登山道案内
  稲荷神社記、等別資料あり

  ふるさと戦国史
  「三星城合戦伝」解説史談会随時開催

2007、平成19年秋
  三星城跡保存会
  明見自治会   建立
  お問い合わせ先
   美作市明見  高田紀康 ℡ 0868-72-2743”
【写真左】西の丸
 西の丸は、本丸からみてやや南東方向に曲がった峰に構築されている。頂部は広くなく、むしろ尖った形状をもつ。





 説明板にもあるように、三星城は三星山の東西に連なる三つの峰を取り囲んでいる。本丸を中央の峰に、東西の峰をそれぞれ「東の丸」「西の丸」として出丸の役割を担っている。

 いわゆる連郭式の山城で、規模はさほど大きくはないが、北麓から東麓を走る出雲街道をほぼ俯瞰できることから、縄張としては理想的な配置となっている。

後藤良貞の置文

 三星城主後藤氏の中で、室町期の城主だった後藤豊前入道沙弥良貞(しゃみりょうてい)は、領地支配における「掟書」と同氏惣領に宛てた「置文」を残しているが、この史料は当時の在地領主が具体的にどのような規定の下に治めて行ったかを知る上で貴重なものである。

 掟書について特異なのは、当地がすでに温泉地として繁栄し、多くの旅人が湯治に来ており、これらを役銭という形で入湯料として徴収していることである。このほか、同書では塩湯郷(湯郷)地頭職の職務遂行に関わり、諸社造営・湯大明神・上御宮などに対して、9カ条を定めている。

 置文の大要は後藤氏一族の「イエ規範」を中心としたもので、掟書と併せ公私の弁別が明確に定められた在地領主法として特筆される。
【写真左】本丸付近
 このあたりから眺望がきく。












後藤勝基の最期

 説明板にもあるように、三星城の最期の城主となった後藤勝基は、落ち伸びる途中で自刃を遂げるが、その模様をのちに書かれた「三星軍伝記」は次のように伝えている。

“ 首に掛させ給う系図の巻物を河内守久元へ渡し給い、足下長く助命して、基景や基政が後見して、後藤の名字を起させ給えと、厚く頼み給えば(中略)諸士へ御遺言あって、御心静かに自害遂げさせ給う。”

 右の「系図の巻物」とは、後藤氏が南北朝時代から続いた祖先の系譜が記され、また後藤氏の家訓が代々受け継がれてきた理念がそこに映し出されていたといわれている。
【写真左】本丸から西の丸
 この辺りから全体に郭の形状が明確に残っているところが少ない。

 築城期が平安後期といわれているので、場所によっては戦国期に至っても全く手が加えられていない遺構もあるかもしれない。
【写真左】本丸付近より美作の街並みを見る
 写真右側に見える道路は179号線(出雲街道)で、左側(西)に向かうと津山市に至る。

 奥に見える山並みを越えると、勝央町に繋がる。

院庄館(岡山県津山市院庄)

院庄館(いんのしょうやかた)

●所在地 岡山県津山市院庄
●築城期 鎌倉初期
●種別 館跡
●遺構 土塁・井戸・濠
●規模 150m×200m
●指定 国指定史跡
●登城日 2008年2月22日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」「図説岡山県の歴史」等)
 津山市の西方にあって、鏡野町から下ってきた吉井川が東に迂回する位置に所在する。院庄館が歴史上登場するのは、『太平記』にみえる後醍醐天皇の忠臣・児島高徳との出会いでとくに有名である。
【写真左】院庄館
 濠が残る。













現地の説明板より

史跡 院庄館跡
   国市指定史跡
    (大正11年3月8日指定)


 院庄館跡は、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館跡と推定される遺跡です。
 ここはまた『太平記』に登場する後醍醐天皇児島高徳の伝承の地としても有名であり、明治2年には館跡の中央部に作楽(さくら)神社が創建されました。

 大正時代の館跡周辺の切絵図には「御館」「御館掘り」「掘り」等の地名が見られ、当初の館の区域は現在の史跡指定地よりさらに大規模なものであったと推定されます。

 また、「方八十間(ほうはちじゅっけん)」といわれた広大な館跡からは、昭和48年から49年と55年から56年に行われた発掘調査によって、井戸跡、建物の柱穴等が検出されました。

 現在、館跡の東・西・北の三方には、幸いにも延長約500mにわたる土塁が残っており、往時をしのばさせています。
   津山市教育委員会”
【写真左】院庄館跡切絵図
 現地に設置されているもので、国指定を受けた大正11年頃に作成されている。

 現在中央には作楽神社が祀られ、遺構としては周囲をめぐる濠や土塁が残る(他の写真参照)。









児島高徳(こじまたかのり)

 児島高徳の出生地についてははっきりしないが、その姓から考えて、南方の児島地方の出と考えられる。父は和田備後守範長で、このことから、高徳の名も、別名、備後三郎・三郎・備後守・三郎入道志純ともいわれている。

 「太平記」で高徳が活躍する期間は、後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、当地(院庄)に立ち寄ったときから、観応3年・正平7年(1352)までの約20年間とされている。
 
 高徳はまた、一時その名を三宅三郎高徳とも名乗っており、このことは児島の熊野五流山伏や伊予国の河野氏などとも接点を持ち、水軍領主としての一面も見える。

 隠岐を脱出し、船上山に登った後醍醐天皇の許に駆け付けた一族については、以前紹介した「名和長年(5)船上山周辺の動き」(2009年1月12日投稿)でも述べたように、備前からは、今木・大富幸範・知間親経・藤井・射越範貞・小嶋・中吉・美濃権介・和気季経・石生彦三郎がおり、さらに記録上児島高徳は載っていないが、彼の父・和田備後守範長の名が見える。
【写真左】土塁
 外周部に残っているもので、高さは1.5m程度か。









 この備前から駆け付けた一族は、ほとんど豊原荘(現在の瀬戸内市邑久町)を根拠とするもので、当時当地における「悪党」であったという。東大寺領備前国豊原荘雑掌宗朝の訴えによれば、彼ら悪党によるたびたびの違勅・狼藉があり、隣国の御家人らにその制圧を指示している。

 児島高徳は、名和長年らと同じく一貫して後醍醐天皇(南朝)に随従した。足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かち、北朝方を率いた時、備作地方(岡山県)の国人たちも多くは、その後尊氏派に属し、その末孫は室町・戦国時代へと続いていく。庄(荘)・三村・松田の一族らがその例である。

 これに対し、最期は播磨国坂越(現、赤穂市坂越)で病死したといわれる児島高徳の血をひく者は、200年後登場した宇喜多直家まで待たねばならない。詳細は不明だが、直家の父能家(よしいえ)は、高徳の後胤といわれている。
【写真左】館井戸跡
 昭和49年の調査で発見されたもので、地表下50cmのところにあって、上部は口径60cmの円形、河原石によって枠を組んでいた。

 この井戸の中から須恵器片、土師質・瓦片などが出土し、鎌倉時代のものとされている。

【写真左】作楽(さくら)神社
 明治2年11月27日創建されたもので、祭神は、後醍醐天皇と児島高徳。

当地の由緒より

“元弘2年(1332)北条幕府のために隠岐に流される途中の後醍醐天皇が、この地にお宿りになり、児島備後三郎高徳が桜の幹を削って「天匂践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」と記して天皇をお慰めした故事により、貞享5年(1688)津山藩森家の執政長尾勝明が顕彰碑を建て、のち、松平家の家臣道家大門らの努力によって神社が鎮祭された。

 境内地は約1万坪、鎌倉時代の守護職の館であった。大正11年、「院庄館跡、児島高徳伝説地」として国指定の史蹟となった。社宝の太刀(銘、来国行)は、国指定の重要文化財である。
境内神社  護桜神社
        水神祠
(平成11年11月 鎮座130周年記念)”



 前文の由緒にある津山藩森家の執政長尾勝明は、以前取り上げた備後の五品嶽城の城主であった長尾隼人(「千手寺と長尾隼人五輪塔」2009年10月17日投稿)の末孫と思われる。
【写真左】神楽殿
 児島高徳にまつわる芝居を全国的に広めたのは、オッペケペー節で有名な川上音二郎である。

 彼は、晩年児島高徳が祀られているこの作楽神社(院庄館)を訪れた際、あまりの荒廃を嘆いて、自費で拝殿と石橋を寄進した。

 この写真にある神楽殿は、音二郎が当時拝殿として寄進したもので、その後神楽殿として使用されているという。

2011年5月30日月曜日

小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)

小田草城(おだぐさじょう)

●所在地 岡山県苫田郡鏡野町馬場
●築城期 貞治7年(1364)以前
●築城者 不明(斎藤氏か)
●城主 斎藤氏
●遺構 郭・堀切・土塁等
●高さ 標高390m/比高150m
●指定 町指定史跡
●登城日 2009年5月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 岡山県の津山方面から北方の鳥取県三朝町方面に向かう国道179号線沿いにある山城で、伯耆国と美作国をつなぐ要衝にあった。
【写真左】小田草城遠望











 現地の説明板より

小田草城址
 小田草城は、標高390mの小田草山に築かれた山城である。築城の時期は、明らかでないが、山麓の小田草神社の梵鐘銘に「貞治7年(1364)3月24日、小田草城主斎藤二郎」とあり、それ以前に築城され、斎藤氏の居城であったことがうかがわれる。

 天文13年(1544)出雲の富田城主尼子晴久が、美作を侵攻した際、小田草城主斎藤玄蕃は、高田城・岩屋城・井の内城とともに尼子の属将となる。

 永禄8年(1565)、富田城が毛利氏に包囲されたときには、尼子義久の援軍の求めに応じなかった。(このときの使者・平野又右衛門の自害の話が伝わっている)
 その後、永禄12年(1569)には、また尼子氏に従って参戦したが、尼子氏が敗れ[天正6年(1578)]たことにより、斎藤氏は、当時美作における毛利氏の対抗勢力であった宇喜多氏に属することとなった。 
【写真左】小田草城附近の図
 現地に設置された地図で、登城口は南東麓にある小田草神社の麓にある。














 この城は、南北に延びる尾根上に築かれており、今も空堀や土塁が残り、曲輪もはっきりしている。井戸跡もあり、麓を中心にして城址にちなんだ地名も多く残っている。
(鏡野町の文化財 鏡野町の遺跡調査)”


尼子氏の美作侵入

 説明板にある天文13年の尼子晴久による美作侵攻については、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも触れたように、晴久自身が美作に直接入ったかどうかは記録上はっきりしない。確実に美作侵攻を行使した部将としては、重臣宇山久信の名が残る。

 晴久のこの年の動きを見ると、3月には備後国田総で戦い(鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)参照)、7月には地元横田の岩屋寺領の安堵、9月には伯耆国汗入郡の土地を出雲大社へ寄進などを行い、年末の12月になって、田口志右衛門に美作国北高田荘を安堵するという記録が初めて見える。
【写真左】小田草神社
 当社は約800年前に創建されたといわれているので、鎌倉初期に祀られたものと思われる。
 
 鎌倉初期となれば、美作国守護として所管したのが、梶原景時三星城(岡山県美作市明見)参照)で文治元年から正治2年(1200)の15年間続いた。しかし、最後の年に梶原景時・景季父子は突然鎌倉幕府から誅罰され、守護職および所領もすべて没収される。

 そのあとに入ったのが、和田義盛土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)参照)だが彼は知られているように、建保元年(1213)、幕府に対してクーデターをはかり、討死を遂げ、当然ながら和田氏も守護職・所領を没収されている。

 その後の所管についてははっきりしていないが、おそらく鎌倉幕府の執権北条氏の得宗政治が続くので、美作国は北条氏の一門が執政していたのかもしれない。

 ところで、当社の宮司は「斎藤氏」となっているので、小田草城主の末裔と思われる。


平野又右衛門久利の自害

 平野又右衛門久利(ひさとし)は、尼子分限帳によれば、御手廻衆の18,000石として、「出雲之内」を領したと記録されている。初陣は永正17年(1510)9月、安芸の国境山麓で一番槍の功名を立てている。
 こうしたことから、小田草城における「自害」のとき、おそらく彼は70歳前後になっていたと思われる。

【写真左】本丸下付近
 登城路は整備され、要所には手すりなどが設置され登り易くなっている。




 永禄8年(1565)秋、出雲の月山富田城は毛利氏によって完全に攻囲され、尼子氏譜代の郎党までも落ちて行った。時の富田城主・尼子義久尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)は、平野又右衛門久利を呼び、美作小田草城の斎藤玄蕃に頼み、国中の兵を率いて富田城の支援に向かわせるよう頼んだ。

 これに対し、平野又右衛門は
 「こと、ここに至って、頼りにしていた譜代までもが毛利氏につき、形勢は明らかに毛利方に優位に立っております。作州(美作)の斎藤氏が尼子に与し、支援する可能性はほとんどありますまい。しかも、仮に頼みに行く私自身も作州から再びこの出雲の地に戻れる保証もありませぬ。しかし、一命を捨てるのはどこでも同じでありまするから、仰せに従い向かうこととします。」

 といって、美作小田草城に向かった。小田草城下に着いた又右衛門はさっそく、斎藤氏側にその旨を伝えると、同氏の家来が城下の宿に泊まっていた又右衛門の所にやってきて、

 「今夜はすでに夜も更けたので、明朝おいでいただきたい」との返事。
 これをきいた又右衛門は、 
 「予想通り、斎藤氏が味方するなら、今夜にでも対面するはずだ。明朝と約束したということは、それまでに兵を集め、我らを討たんとするだろう。」と悟った。

 明くる朝、斎藤氏の遣いがやってきて、小田草城へ案内した。二ノ丸を過ぎ、本丸の門前まで来てみると、兜をかぶり長刀をさげた二百余人が待ち構えていた。果たして、彼らは又右衛門主従4人を討ち取ろうとしていたのである。

 又右衛門は言った。
 「これは仰々しいお迎えでござる。ご貴殿方と一戦を交え、死出の山路の道連れとしてもよいが、富田城の者らがそれでは不審に思うであろう。しばらくの時をいただき、国許へ事情を書き認め、潔く相果てましょう。」といい、それを聞いた斎藤玄蕃も認めた。

 又右衛門は書き認めたものを一人に託し、玄蕃の前で自害した。のこった二人の従臣については、玄蕃は命を助けるといったが、二人とも
 「今更、主人の辞世をみて、どうして出雲へ帰ることができましょう」といい、刺し違えて又右衛門の跡を追ったという。
【写真左】南端部の最初の郭段
 小田草城は南北に細く伸びる尾根を利用した
山城で、写真にあるように東西幅は最大でも30m弱で、長さは約150m程度の規模となっている。


 この南北150mの間に、3カ所の堀切があり、中央部にやや大きめの土塁を設け、北と南に分けていた構成となっている。

【写真左】南から2段目の郭
 登城したのが5月という山城探訪には時宜を逸した時だったので、このように草などが繁茂し、写真に撮っても分かりづらい。
【写真左】3段目の郭
 当城最大の郭だが、それでも長径30m、短径20mしかない。
 なお、この郭の東側を少し下った位置に小規模な郭が突き出すように造られているが、現在は雑木が生い茂り、踏み込めなかった。
【写真左】堀切
 3段目から4段目の郭に向かう途中に設置されたもので、当時はもう少し深いものだったものと思われる。
【写真左】小田草城より南東方面を遠望
 南端部の郭は展望台などが設置され、眺望がよく効く。
【写真左】「馬場」地区
 南麓部には写真にみえる「馬場」という地区がある。
 小田草城は、この写真でいえば右側になる。

2011年5月27日金曜日

岩屋城・その2(岡山県津山市中北上)

岩屋城・その2

はじめに
 今稿では岩屋城附近に残る史跡関係を抜粋しておきたい。

西尾興九郎屋敷跡
 岩屋城に向かうには、南麓を走る国道181号線から入るが、この国道は旧出雲街道とよばれた。
 この国道から北に平行して走る地元の生活道路(これが出雲街道)があり、そこに写真にある案内標柱が建っている。
【写真左】西尾興九郎屋敷跡の案内板
 写真の民家の裏に当たるようだが、民有地であるため、当日はそこまで行っていない。

 その1でも少し紹介している「落とし雪隠(せっちん)」という切崖を使って、毛利方32名が、天正9年(1581)6月、ここからよじ登り攻略した。

 この時のリーダーは、中村頼宗だが、西尾興九郎は、その中の一人で、攻略後頼宗はそれまでの居城だった葛下城(岡山県鏡野町中谷)から岩屋城の城主となり、西尾興九郎はこの南麓に屋敷を構えたという。

 なお、葛下城には、同じく軍功のあった桜井直豊が入った。この葛下城は登城していないが、かなり見ごたえのある山城のようだ。

原田屋敷跡
 この屋敷についての由来は案内板に書かれていなかったようで、はっきりしないが、下山途中に見える位置で、現在は御覧の通り田圃となっている。
【写真左】原田屋敷跡













荒神の上砦跡
 その1の概要図には掲載されていないが、原田屋敷跡と同じく、登城口より手前の道から見える砦跡で、岩屋城の前線基地としての役目を担ったものだろう。
【写真左】荒神の上砦
 南北に長い尾根伝いに設置されたもので、現在は大半が植林された杉山となっている。





出雲街道
 写真の右に見える道で、国道181号線はさらに右を走っている。写真奥が津山市方面。
【写真左】出雲街道

2011年5月10日火曜日

岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1

岩屋城(いわやじょう)その1

●所在地 岡山県津山市中北上
●築城期 嘉吉元年(1441)
●築城者 山名教清
●標高/比高 483m/310m
●指定 岡山県指定史跡
●城主 山名氏、赤松氏、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏等
●遺構 郭・堀切・井戸・池・水門・石垣等多数
●登城日 2008年5月20日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 山陰から山陽側に向かっていく際、管理人はよく米子自動車道を利用するが、本道が中国自動車道と合流する直前の久世ICから落合JCTの区間で、左手に瞬間この岩屋城が顔を覗かせている時がある。
【写真左】岩屋城遠望
 南麓部からみたもの












 もっとも運転中だから、時間的には1秒も見ていないので、助手席の連れ合いにその都度、よく見えたかどうか確認している。今では、この個所を通る時のお決まりのパターンとなっている。

 登城したのは、3年前の2008年だが、実はこの岩屋城の登り口を探し出すまではずいぶんと時間がかかった。およその位置は分かり、しかも南麓の標識も確認できたのにも拘わらず、肝心の道を突き止めるのに1年もの時間が過ぎていた。

 岩屋城については、今月取り上げた美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも少し紹介しているが、天文17年(1548)、高田城主・三浦貞勝が尼子氏に攻められた際、この城に逃れている。
【写真左】岩屋城概要図
 岩屋城は全体に整備が行き届いており、登城口付近には数台の駐車ができる駐車場も完備されている。

 また、この場所には左の写真にある全体図が設置されている。この日登城したコースは、同図にある南側の登り口から入り、帰りは北側の「下り口」コースを選んだ。









現地の説明板より

“岡山県指定史跡
  岩屋城跡

 岩屋城は、嘉吉元年(1441)、山名敬清が赤松満祐討伐の論功行賞により、美作国の守護に任ぜられた際に築城されたという。

 その後、応仁の乱の勃発(応仁元年‐1467)に伴い、山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、さらに文明5年(1473)政則が美作国の守護となったことから、岩屋城には部将の大河原治久が在城した。

 永正17年(1520)春、赤松氏の部将であった備前の浦上村宗が謀叛し岩屋城を奪取、部将の中村則久を岩屋城においた。これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年4月、部将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなった。
【写真左】慈悲門寺跡
  登城口から登っていくと、慈悲門寺下の砦跡という個所に出くわす。慈悲門寺という寺院は、円珍(814~91)の開基による天台宗のもので、岩屋城の築城より大分古い。戦国期になると、当院も含め、城砦施設のひとつとしても利用された。

 この写真は寺院跡地で、今でも礎石が残り、瓦片や備前焼の破片が多数残っているという。
 なお、砦としては、「慈悲門寺 下の砦」と「同 上の砦」の2カ所が確認される。





 このことから24年後の天文13年(1544)、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行われ、城主中村則治(則久の子)は、尼子氏に従属した。しかしながら、永禄11年(1568)頃、中村則治は、芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力をのばしていた宇喜多氏の傘下に投じたが、5年後の天正元年(1573)には、宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至った。

 その後、しばらくは比較的平穏であったが、天正7年(1579)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから、再び美作の諸城は風雲急を告げるところとなり、天正9年(1581)、毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や、大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより、岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり、再び毛利氏の勢力下となった。
【写真左】山王宮跡
 登りコースの途中から少し外れた場所にあるもので、当時はこの写真にある小詞までは嶮しい道だったため、一般の参拝者は手前にあった拝殿を参拝していたという。

 祭神は山王(山王大権現)で近江の日吉神社である。明治になって鶴坂神社に合祀された。

 ちなみに、この小詞が祀られている岩山に向かう道が設置されているが、今でも道幅が狭く、足を踏み外すと崖に落ちてしまう。



 織田氏と毛利氏の攻防は、天正10年(1582)、備中高松城の開城により終了したが、領土境を備中の高梁川とすることについて、美作の毛利方の諸勢力はこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が部将花房職秀を将として行われた。

 この接収戦は、長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備後の鞆にいた足利義昭の調停により戦闘は収束した。

 これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守が入城した。しかしながら、6年後の天正18年(1590)8月、野火により焼失し廃城となったと伝えられている。
(岡山県指定史跡 昭和62年4月3日指定)
  久米町教育委員会”
【写真左】水門跡付近
  山王宮から再び登城ルートに戻り、谷筋を登って行くと、写真にある水門跡に出てくる。水門跡はこの写真の左下にあったらしく、休憩小屋(写真)の位置には、水神が祀られ、小屋の奥には龍神池という小さなため池が残る。
 築城期である嘉吉元年(1441)、山名教清が本拠地伯耆国赤松池に倣ってこの池を造ったという。

 この位置にくると、左側には馬場跡を皮切りに本丸が続き、正面には二ノ丸、更に右に三の丸などが取り囲んでいる。



 説明板にもあるように、岩屋城も波乱にとんだ歴史を持つ。

 永正17年の赤松氏による岩屋城攻めが失敗に終わったことは、守護大名であった赤松氏の衰退を意味し、逆に守護代であった浦上氏三石城(岡山県備前市三石)参照)の備前・美作支配を強めた。
【写真左】馬場跡
 南北108m、東西約20mと本丸付近の中では最も規模が大きい。








 天正10年の備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)開城によって、織田氏と毛利氏の攻防が一応おさまったことになっているが、説明板にもあるように、宇喜多氏が毛利から織田氏に属したことが美作国衆にとっては承服できず、高山城(津山市油木)の草刈重継、竹山城(岡山県美作市下町)の新免弥太郎、および当城・岩屋城の中村則宗らが、特に領界確定について最期まで抵抗したという。

【写真左】馬場跡付近から西方に本丸及び本丸東砦群を遠望する
 馬場跡の西端からは南方に別の郭群(小分場跡・石橋上砦・椿ヶ峪砦)が伸びているが、この写真は、西から北に延びる本丸・本丸東砦群のものである。



 このため、秀吉によって天正11~12年にかけて、黒田官兵衛篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)参照)と蜂須賀正勝が当地に赴き、最終的には、高梁川を境に、備中西半分は毛利氏、備中東半及び備前・美作両国は宇喜多秀家に与えられた。

 天正18年に当城は、野火により焼失し廃城となっているが、おそらくこの野火もそうした宇喜多氏に抗していた者による仕業かもしれない。
【写真左】本丸付近
 岩屋山頂部を削平し、東西60m×南北20mの規模を持つ。
 本丸北側には「落とし雪隠(せっちん)」という切崖があり、天正9年(1581)の毛利氏による攻撃の際、同氏の将・中村大炊助頼宗が32人と共にこの切崖をよじ登り、城内に侵入し火を放った。この作戦が成功し落城したといわれている。
【写真左】本丸から二ノ丸方面の間にある本丸東砦跡
 本丸から二ノ丸へ向かう途中にはこうした規模の大きい郭が連続している。
 
【写真左】二ノ丸
 二ノ丸は岩屋城の北端部に位置し、搦手側の防御を主な役目としていたのだろう。東隣りの三の丸と連携した城砦区域である。
【写真左】大堀切
 当城最大の堀切で、二ノ丸から東南に向かう三の丸付近までの途中に設けられている。
【写真左】三の丸へ向かう
 この日訪れたとき、三の丸はあまり整備されておらずまともな写真が撮れなかった。現地の説明板によると、三カ所の段状をなした郭群で、この場所からも備前焼の破片が採取されたという。
【写真左】てのくぼり跡
 三の丸の東麓に残るもので、幅5m、深さ2m、長さ100m以上の竪堀が12本掘られている。