2011年1月31日月曜日

平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)その1

平田城(ひらたじょう)・その1

●所在地 島根県出雲市平田町極楽寺山
●築城期 応永年間(1394~1427)ごろ
●築城者 多賀氏か
●標高 53m
●別名 山崎城・薬師城・手崎城
●遺構 郭・帯郭・腰郭・堀切等
●登城日 2011年1月10日、及び数回

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「島根県の歴史 県史32:山川出版」その他)
  前稿「旅伏山城」の旅伏山東麓にある通称愛宕山に築かれた山城である。地元では、普段「平田のアタゴさん」と呼んでいる山である。
【写真左】平田城遠望
 南麓からみたもの。平田城の標高はわずか53mであるため、山城というよりは、平城に近い。





 現地の説明板より

平田城跡
 平田城は別名を手崎城・薬師城と呼ばれる中世の山城です。
 応永から大永年間(1394~1528)まで、京極氏の家臣多賀氏が根拠としていましたが、その後尼子氏が再興をはかって根拠としていた高瀬城(簸川郡斐川町荘原)に対して、毛利方が入城したことにより、このあたりで両者による合戦が行われたといわれています。

 この場所が主郭のあったところであり、周囲にも付属する郭が築かれ、西1の郭・西2の郭などに当時の面影を残しています。また、郭の附近には堀切があり、当時の城郭構造を知ることができます。
 平田市”
【写真左】中腹の駐車場付近
 平田城跡は、愛宕山公園という市民の憩いの場や、鹿や鳥などを飼育した施設が設置されている。

 本丸跡はこの写真の右側にあるが、当時はこの山全体が城域だったと考えられる。





出雲国守護職・京極氏

 出雲国の南北朝・室町期に守護職としてあったのは、塩冶高貞を皮切りに、前半では京極氏と山名氏の両氏が、対立しながらもほぼ交互に務めていった。しかし、明徳2年(1391)に山名氏が幕府に反旗を翻した「明徳の乱」が起こると、翌3年から京極氏が、同国守護職として任を負うことになる。

 最初に任じられたのが、京極高詮である。同年(明徳3年)3月2日付の「佐々木文書」に次のように記されている。

“足利義満、佐々木(京極)高詮に、出雲・隠岐の本領・新恩地を領地させる”

 新守護となった高詮は、さっそく守護職としての対応を取っていった。
 先ず、その年の6月8日には、千家・北島を杵築大社に寄進(出雲大社文書)し、10月7日、杵築大社内佐木(鷺)浦を、国造に安堵する(千家文書)。
 そして、次に鰐淵寺に対しては、寺領高浜郷・遙堪郷の土地を安堵する(10月16日・千家文書)。
もっともこれについては、杵築大社及び鰐淵寺といった伝統的な在地勢力に対する「気配り」的なもので、守護職として強力な出雲国支配を貫徹するというところまでは至っていない。

 その上、高詮自身は、幕府の命によって、「在京」を義務付けられ、飛騨の国も兼ねた守護職であったため、直接出雲国に赴任せず、専ら京都にいた。

朝山氏

 ところで、高詮は翌4年(1393)3月20日、出雲国朝山郷の土地を神西三川六郎に与え、同年6月6日には、高詮の父・高秀の名によって、神西三川六郎に朝山郷内の稗原左京亮跡(地)を給与している(春日文書)。
【写真左】本丸遠望
 全体が公園になっているため、要所には写真に見える階段が設置され、標高も低いこともあって、登城には散歩気分で登れる。






 この記録と関係すると思われるのが、前稿「旅伏山城」でも述べた「朝山氏」の動きである。同氏は、応永元年頃(1394)ごろまで、当地を本領としていたが、その後室町幕府奉公衆として京都に上っている。

 朝山氏は、京極高詮が出雲国守護となる前、旧国衙在庁官人のリーダーであったわけで、京極氏が出雲守護職となれば、それまでの社家奉行としてあった朝山氏の存在は必要なくなる。朝山氏自らの選択かもしれないが、京に上って、室町幕府の奉公衆となったのは、多分に幕府の意向が働いているとも考えられる。

 というのも、任命権者である幕府自身、守護職が強大な領国支配することを恐れていたことも、事実で、いわば朝山氏は、幕府内に置いて守護職・京極氏をけん制する役目を担ったものと思われる。

【写真左】平田城縄張図
 現地本丸跡に設置されているもので、遺構の数としては少ない表示だが、実際にはこの北方から繋がる峰の辺りも城郭だったと思われ、現在の平田高校付近まで何らかの城砦施設があったものと思われる。



三刀屋(諏訪部)氏への安堵など

 さて、出雲国守護職としての京極氏の事績をもう少し追ってみる。
 明徳4年(1393)2月5日、明徳の乱で敗れた山名方の山名満幸が、三刀屋城を攻め、城主諏訪部菊松丸は一旦退却するも、3月には諏訪部一族が奪還した。
 それに対し、応永3年(1396)9月29日、諏訪部菊松丸に三刀屋郷地頭職・庶子分・下熊谷の土地を安堵し、2年後の応永5年9月9日、幕命によって諏訪部三郎に同国三刀屋郷総領方地頭職を安堵する(三刀屋文書)。

 ところで、出雲の領地を受けてから、7年後の応永6年(1399)に次の文書が見える。

“足利義満、佐々木(京極)高詮を出雲国守護職に任命する(佐々木文書:応永6年11月15日)”

【写真左】西1郭付近
 幅は4,5m、奥行きは15m程度ある。










 この時期に、こうした文書が見えるのは、不自然だが、これは、おそらく、途中から守護代として隠岐国守護代であった隠岐氏が、絶大な支配力を持ち、その結果、京極氏の介入を許さなかったためと思われ、右の文書は事実上「隠岐国守護職の解任」とも受け止められる。

 高詮は、その後応永8年(1401)8月に、出雲・(隠岐)・飛騨三国の守護職と、所領、総領分をすべて嫡子高光に譲り、翌月(9月)の7日、死去する。享年49歳。

【写真左】堀切
 西1郭から西2郭に降りる位置にあるもので、現在は公園を散策する散歩道になっている。







多賀氏

 さて、平田城の築城期ははっきりしないが、おそらく上述したように、京極高詮が出雲守護職となった明徳3年から応永年間の初期(1394)頃と思われる。
 このころの出雲国守護代についてはあまり記録が残っていない。その中でも、14世紀後半から15世紀前半では、多賀氏宇賀野氏の名が残る。

 ただ、それより前の健治2年(1276)2月、杵築大社の領家・藤原顕嗣が杵築大社総検校・中原実高を罷免し、国造・義孝を同職に補任し、造営を急がせる(北島家文書)、というのがあり、この中の中原実高は、多賀氏の祖である中原とも推察されることから、すでにこのころ多賀氏系譜の一族が出雲国に在住していた可能性もある。
【写真左】西2郭
 西端部のもので、4,5m四方の大きさがある。










 多賀氏は、もともと鎌倉幕府の北条氏に寄進して鎌倉御家人となり、多賀社(滋賀県)の神官となり、その後京極氏(佐々木氏)の被官となって、元弘・建武の頃は京極高氏(佐々木導誉)の下で活躍している。
【写真左】多賀大社
所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地

伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美命(いざなみ)の二柱を祀る。

参拝日:2007年10月17日



 このことから、守護職・京極氏としては、守護代は多賀氏に指名し、出雲国に下向させたのであろう。

 「平岡文書」という史料に次の記録が見える。

“明徳3年(1392)10月8日、隠岐守某、多賀弾正右衛門に対し、杵築大社権検校職・大庭田尻保内田畠・揖屋庄内崎田村平岡分田畠を平岡氏に打ち渡すよう命ずる”

 この記録から推察すると、この年(明徳3年)、「隠岐守某」(守護職と同等の権限を持った者か)の命によって、多賀弾正右衛門なるものが、すでに守護代として活躍していると思われる。なお、文中の「平岡氏」というのは、おそらく千家・北島といった国造一族の一人と思われる。

【写真左】旅伏山城遠望
 本丸跡から西方に見たもの。










 現地の説明板によると、この平田城を居城とした多賀氏は、応永から大永年間(1394~1528)までの130年余り当地にあったことになる。この間の記録として主なものをあげると次のものがある。
 
 最初に挙げるものは、文明4年(1472)3月20日付の「日御碕文書」にある「幕府奉行人奉書」である。

 これは、杵築大社が日御碕神社の社領を横領していることに対する停止を命令したもので、布達先には、当時すでに出雲国守護代となっていた尼子清定をはじめ、牛尾、熊野、佐世、湯、馬来、広田、佐々木塩冶五郎左衛門尉、松田三河守、村井信濃守らと並んで、多賀次郎左衛門尉の名が見える。
【写真左】南方に高瀬城遠望
 写真中央のやや右に見える山が斐川町にある高瀬城である。

 戦国期の元亀年間、平田城と鳶ヶ巣城に陣した毛利方と、米原綱寛(尼子再興軍)が拠った高瀬城との間で激しい戦が行われた。
 主に毛利方が高瀬城に攻め入った記録が多いが、米原方も数回、船を使ってこの平田城に攻め入ったとの記録がある。



 さらに10年後の文明14年(1482)、鰐淵寺に西西郷(平田市西郷町)の経田を寄進(「鰐淵寺文書」8月18日付)した、とある多賀次郎左衛門尉秀長は、おそらく、同上の人物と同一と思われる。

 さらに下った永正18年(1521)には、多賀次郎左衛門尉が、寿峰院(のちの平田市大林寺)に寺領を寄進(代林寺文書)している。

 多賀氏が当地・平田城に拠っていた記録は以上のようなものだが、その期間に守護職であった京極氏の状況が変わって行く。
 高詮から数えて5代目となる持高が、嗣子を残さず39歳で亡くなる(永享11年・1439、1月13日、又は14日)と、叔父であった高数が引き継いだが、彼も「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年、6月24日)で誅殺された。
 このため、半年間は出雲国守護職が定まらず、その年の12月20日になって、幕府は京極持清を補任している。
【写真左】本丸より南東方向に丸倉山城及び大平山城を見る。
 丸倉山城については、2009年11月1日投稿、大平山城は、同年11月6,7日投稿しているので参照していただきたいが、最終的には毛利方の支城として使われた山城である。





 京都の室町幕府自体がそうした不安定な状況下でもあったことから、次第にそのころから出雲国守護代として頭角を現してきたのが尼子氏である。

 史料によっては、尼子氏が出雲国に入ったのは、多賀氏と同じころとされ、初代尼子持久とされるが、具体的な史料はほとんど見られない。

 出雲国における尼子氏の活躍が初見されるのは、持久の子・清定の代になってからで、特に応仁の乱が始まった応仁元年(1467)の11月7日に次の記録が見える。

“細川勝元、尼子清定の出雲での戦功を賞する(佐々木文書)。”

 また、翌年5月になると、守護職・持清は、尼子清定に論功行賞を与え、出雲国を掌握させる(佐々木文書)、とある。
 こうなると、ほとんど尼子氏が事実上の出雲国支配者と思えるが、実態は同国の在地国人領主であった松田氏や三沢氏などの反京極・尼子勢との抗争の始まりで、このころがもっとも激しくなったころである(「十神山城」2010年2月13日投稿参照)。
【写真左】東方に和久羅山城を遠望する。
 平田城の東方には宍道湖があり、この湖とさらに東方にある中海との中間地点に聳える和久羅山城も、以前紹介(2009年10月28日投稿)したように戦国期に山城として使用された。






 ところで、このころ多賀氏の行動については、尼子氏がより京極氏を後ろ盾としたこともあり、反尼子・京極の色を鮮明にし始めている。もっともその兆候が出たのが、尼子経久の子で、塩冶氏に養子に行った興久との抗争である。

 このとき、反尼子(興久側)として連合したのは、杵築大社、鰐淵寺、三沢氏、真木氏、備後山内氏、但馬山名氏などがあり、この中には多賀氏も入っていた。 ただ、多賀氏については、すでにこの段階(天文元年:1532)では、平田城を追われた形で、その時期は享禄元年(1528)といわれている。
 さて、多賀氏は飯石郡掛合へ移され、平田城にはそのあと飯野氏が入った、と記されている。

2011年1月9日日曜日

旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)

旅伏山城(たぶしやまじょう)

●所在地 島根県出雲市美談町旅伏山
●築城期 南北朝
●築城者 不明
●標高 458m
●遺構 郭
●備考 多夫志熢
●登城日 2010年10月19日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
 このところ石見国の山城が続いてきたので、久しぶりに出雲国の山城をとりあげたい。
 
【写真左】旅伏山城遠望
 南東部麓からみたもの。










 旅伏山は古代の「出雲風土記」にも書かれた多夫志熢(たぶしのとぶひ)という狼煙の台が置かれたという古い歴史を持つ山である。

 出雲平野から北に目を移すと、東西に長く伸びた連山が見える。この連山は、通称北山とも呼ばれ、地元市民の手軽な登山コースとしても親しまれている。昭和55年(1980)には、中国自然歩道の一部として登山道も整備された。
 主だった山としては、今稿の旅伏山を東端に、西に向かって、鼻高山・万ヶ丸山・弥山と続く。

 旅伏山城が記録に出てくるのは、南北朝期である。旅伏山の北麓にある古刹・鰐淵寺の文書によれば、興国2年・暦応4年(1341)4月22日付で、以下のものが記されている。

“朝山景連、鰐淵寺南北衆徒に対し、塩冶高貞誅伐のため、急ぎ旅臥城(旅伏城)に陣を構えるよう命ずる。”

 とある。
【写真左】案内図
 旅伏山に登るコースはいろいろあるが、今回は当山東麓の康国寺付近のスタート地点から登った。


 朝山景連は、元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、伯耆船上山において倒幕の声を挙げた時、出雲守護の塩冶高貞はじめ、金持一族・大山衆徒・三隅一族らと参画している人物である。

 その後、建武元年(1334)5月になると、足利尊氏が景連に対し、備後への出兵を命じ、翌建武2年(1335)に、備後国守護職に任じられ、現在の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)を築いている。
【写真左】鰐淵寺
 旅伏山の北麓に建立されている古刹。

天台宗 浮浪山 一乗院
 鰐淵寺

開山 知春上人推古2年(594)
本尊 千手観音菩薩 薬師如来


 鰐淵寺は、伯耆国(鳥取県)の大山寺と並んで、山陰有数の天台宗の古刹である。創建時期ははっきりしないが、少なくとも平安後期には修験の道場として中央にも広く知られていた。
 
【写真左】登城口
 写真手前の場所には、駐車場があり、およそ10台程度のスペースが設けられている。






 元弘3年の5月の段階で、この鰐淵寺の頼源が六波羅攻めに加わり、初期の段階から他の諸族と同様、後醍醐天皇に加担していることが記録に見える。
 このころから、大山寺のように、多数の僧兵がいたわけである。余談ながら、武蔵坊弁慶はこの鰐淵寺の出身だという伝承も残る。

 その後、知られているように、後醍醐天皇が、鎌倉北条幕府を倒した後、建武新政を執行するも、破たんによって再び世は乱れていった。

 ところで、上掲の塩冶高貞についてはこれまで、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)でも触れてきた。

 塩冶高貞が京都から逃走を図り、出雲国宍道の佐々布で自刃したのは、「太平記」によれば、興国2年3月と記されている。しかし、その期日は、上掲の「鰐淵寺文書」にも見られるように、どうも符合しない。
【写真左】鹿除け用ゲート
 登城口からしばらく登ると、網状のゲートが設置してある。

 以前、宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)の際も経験したが、北山には野生の鹿が住んでおり、最近では麓まで降りてきて被害をもたらすことから、この写真のようなゲートが設置されている。
 このゲートをきっと閉めてから、再び進む。



 「佐草家・鰐淵寺文書」という史料でも、
“足利直義、佐草五郎左衛門尉と鰐淵寺北谷衆徒に対し、塩冶高貞が陰謀を企て、逃走したとして誅伐を命ずる”
 と同あり、この日付も(興国2年・1341)3月24日付となっている。

 さらに補完する別の史料として、「小野家文書」の中に、
“大野庄祢宇村地頭・北垣光昌、塩冶高貞誅伐に下向した幕府方に着到状を提出する”
というのがあり、この日付は4月となっている。

 最初に紹介した鰐淵寺文書のものはさらに遅く、4月22日付である。このことから、「太平記」に記されている3月には無理があり、早くても4月の後半であることが予想できる。

 朝山氏については、姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)でも述べたように、建久3年(1192)、征夷大将軍となった源頼朝が、出雲八幡宮八社を新造したとき、朝山郷一社の祠官兼帯を命じられている。
 また、文永8年(1271)の頃の同氏の所領は、神門郡から楯縫郡の西側、東郷、御津荘まで及び、規模は167町5反を占め、隣接する守護職・佐々木塩冶氏に次ぐ領地を所有していた。
【写真左】中腹にある鳥居
 登城口から40分程度登って行くと、鳥居が見える。この鳥居はおそらく頂上付近にある都武自神社のものだろうが、このあたりで南方に眺望が望める。


 なお、朝山氏はその後出雲国においては、応永元年(1394)ごろまで、当地を相伝本領としていたが、仔細は不明なものの、召し放たれて幕府御料所になり、同氏はそれ以後、室町幕府将軍直属の奉公衆として京都に拠点を移したとある(朝山肥前守清綱申状)。
【写真左】2番目の鳥居
 先ほどの位置からさらに傾斜がきつくなり、500m程度進むと、2番目の鳥居が見える。
 この写真の右側の斜面の上は、東端の郭跡になる。
 また、南面は切崖状が連続し、要害性は十分に認められる。
【写真左】郭その1
 東の尾根に沿って段を構成しているが、帯郭を持たせているのは南面が多い。

【写真左】都武自神社とその下の削平地
 先に登城路を進み、写真に見える都武自神社の下にある広い削平地に着く。
 この場所から再び東方の尾根伝いに下がって郭段を確認していく。
【写真左】郭その2
 神社から東に伸びる郭の最東端までは約200m程度に見え、その間には3,4段の郭が構成されている。
 ただ、遺構である郭そのものの管理は、ほとんどなされていない。竹や倒木が全体を占め、歩くのにも苦労する。
【写真左】堀切か
 大分埋まっているように見えるが、南北に溝のような痕跡が認められることから、堀切だったと思われる。
【写真左】都武自(つむじ)神社
 祭神は、速都武自命で出雲風土記に出てくる社である。
 南北朝期は、おそらく当社も戦の施設として兼ねていたかもしれない。
【写真左】境内南端部の切崖
 下に見える道が東方から登ってきた道であるが、全体に南側の谷が深くなり、要害性が高い。
【写真左】展望台
 都武自神社を過ぎてさらに脇の道を登ると、御覧のような整備された展望台がある。
 この位置からは、南麓(右側)及び北方(左)も眺望を楽しめる。

【写真左】南方に出雲・斐川平野を望む
 この日は少し靄がかかっており、今一つだったが、条件がよいと、西に三瓶山、東に宍道湖・中海・大山を望むことができる。

【写真左】西下に「鳶ヶ巣城」を遠望する。
 鳶ヶ巣城側に向かう道もあるが、この日は断念した。 
 以前には、旅伏山城も戦国期に使用されたとあったが、現在は南北朝期のみという説が主流だ。
【写真左】斐伊川を見る
 川を挟んで右側が出雲市、左が斐川町になる。
【写真左】北方に十六島(うっぷるい)湾・日本海を見る。
 最近ではこの山並みに風力発電の風車が10数基設置された。

2011年1月8日土曜日

嶽城(島根県益田市匹見町澄川長尾原)

嶽城(たけじょう)

●所在地 島根県益田市匹見町澄川長尾原
●築城期 不明
●築城者 不明
●標高 177m
●遺構 郭、堀切、竪堀、横堀、土杭、柱穴、石列、その他
●備考 叶松城支城
●登城日 2010年4月2日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」その他)
 嶽城は、前稿「広瀬城」のある位置よりさらに匹見川を5キロほど降った澄川長尾原という位置にある。
 当城は、この位置より2キロさらに下り、匹見川の南岸に築城された叶松城の支城として使用されたという。
【写真上】案内図
 嶽城近くに同図が設置されている。
 この図では、「現在地」と書かれた場所から太い道路(488号線)沿いに向かって左に「嶽城」と書かれているが、当城に行くには、旧道(細い道)から回らないとたどり着けない。


 元々この叶松城は、寿永年間(1182~85)ごろ、平教盛(のりもり)の一族盛広の築城とされ、その後、澄川秀行、その子俊長の二代が続いたが、敗れて都茂村金谷の地に堕ちていったという伝承が残る。

 戦国期になると、寺戸和泉守資清が益田藤兼に従って数々の戦功を立て、500貫文の知行を与えられて、この叶松城の城主になったという。


寺戸氏

 ところで、この寺戸氏については、前稿「広瀬城」で登場してきた寺戸惣右衛門もこの一族にあたると思われるが、同氏の出自については次のような記録が残る。

 河野通紀(入道一徹:おそらく伊予の河野氏と思われる)が、安芸国山県郡寺領村・戸田に移住し(時期不明)、その後石見国に来住、三隅兼春に仕えて采地200貫文を受けた。三隅氏に仕えた時、彼は先住先だった領村・田の頭文字をとって、「寺戸」氏の祖となった。
【写真左】嶽城遠望その1
 旧道に少し入った位置からみたもので、右側の道路が国道488号線。手前が旧道になる。右側の道路ができる前は東に稜線が伸びていたと思われ、遺構も残っていたかもしれない。


  三隅兼春は、田屋城跡(島根県浜田市弥栄町木都賀)で紹介したように、現在の浜田市弥栄町木都賀にある別名木束城の城主である。また名将・三隅兼連がその父である。
 従って、当然河野通紀(寺戸)は、南北朝期に石見宮方の一員として活躍したことになる。

 前記した寺戸和泉守資清は、寺戸氏始祖から5代目に当たる。
 永禄12年(1569)、資清が亡くなると、三隅氏と益田氏の抗争はさらに激しくなる。資清の嫡男・新右衛門は、益田尹兼の女と結ばれ、益田氏から仙道の三谷・井羅尾その他の土地を安堵されている(美都町史)。
【写真左】遠望その2
 旧道を通って反対側の北側見たもの。
 おそらく、右に見える道を造成する際も、右の斜面が繋がっていたものと思われる。



 さて、嶽城については、写真にもあるように山城としては小規模なもので、これまでの遺構調査などからまとめられたものを見ると、当時の山城としての遺構は半壊状態という。

 また、遺構の年代も縄文から近世に至る多くのものが残り、複合的な遺跡と考えられる。

 城砦としての遺構は上掲の通りだが、発掘された遺物として、中世のものでいえば、短刀、青磁(15世紀)、白磁(16世紀)、施釉陶器(16世紀)、染付磁器(16世紀)等々、非常に生活感のある遺物が夥しく発掘されている。
【写真左】嶽城の上り道
 登城路は南側に設置されている。最初の登り口付近には、小規模な堀切が残る。
【写真左】郭
 遺構としてはっきり残るのは、右側に20m四方の削平地があり、左に2m程度高くなった郭(主郭か)があり、その上に祠が鎮座している。
【写真左】主郭
 定期的に管理されているようで、歩きやすい。
【写真左】横から見たもの
 左側が登城路の一部だが、犬走りの役目だったかもしれない。
 高くなった壇が主郭と思われるが、限りなく館跡の痕跡が濃厚だ。

【写真左】主郭から東麓を見る
 右に見える道が国道488号線で、澄川トンネルに向かう。下を流れるのが匹見川で、左が上流になる。また、この付近で大きく蛇行し、その先の河原跡に集落ができている。

 麓は田圃などがあるが、当時は匹見川の河原だったと思われる。
 主郭から川下を眺めると、予想以上に高さを感じる。 

2011年1月7日金曜日

広瀬城(島根県益田市匹見町広瀬茶屋)

広瀬城(ひろせじょう)

●所在地 島根県益田市匹見町広瀬茶屋)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 大谷若狭守盛英
●標高 320m
●指定 益田市指定史跡
●遺構 郭、横堀、竪堀
●探訪日 2010年4月2日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」等)
 匹見川が極端に蛇行する広瀬・茶屋というところに突き出した山に築かれている。
 訪れたのは、「小松尾城」を見た帰り、たまたま道路わきに当城の看板を目にしたことから立ち寄った。ただ、そのころすでに夕方でもあり、登城までは至っていない。
【写真左】説明板
 南麓の国道488線脇に設置されている。










 現地の説明板より

市指定史跡 広瀬城跡
 本城跡は、山の尾根が南西部に向かって舌状に突き出し、その山下を匹見川が周流するといった天然の要害に立地している。

 標高322mを測る山頂には、楕円をなした主郭の削平地が見られ、その南西部には2段からなる壇床を設けている。また、北東部に続く尾根筋の鞍部側には、3段の堀切で守備するなど、山城としての形態をよく残している。

 本城には、大谷若狭守盛英が拠ったと伝えられるが、天正3年(1575)に、七尾城主益田元祥の内命を受けた小原郷(美都)の竹城主寺戸惣右衛門によって滅ぼされたと伝えられている。
  益田市教育委員会”
【写真左】縄張図
 国道側から直接上るコースは見当たらなかったので、この図でいえば右側の脇道があったので、そのあたりまで上り、尾根伝いに西に向かう道がおそらくあると思われる。











匹見・大谷氏

 前々稿「小松尾城」でも記したように、大谷一族が益田氏によって誅殺されたのが、天正3年(1575)である。同稿にもあるように、広瀬城主だった大谷若狭守(頭)盛英は、瀧山城主・大谷主水頭の父である。

 瀧山城は別名「上ノ山城」とも呼ばれ、同町匹見半田にある標高398mにある城砦である。

 ここで、匹見・大谷氏について簡単に触れておきたい。
 同氏は、鎌倉初期、平家の落人として匹見に逃れてきた大谷盛胤の末孫で、室町時代末期になると、盛治を経て、嗣子・若狭守吉継に至った。この吉継が後年隠居し住んだ場所が、本稿「広瀬城」のある広瀬村土居である。
【写真左】道路下から当城を見上げる。
 匹見川に突き出した当城は、周囲がほとんど切崖状で、小規模ながら要害堅固な城砦だったと思われる。



 吉継には下記の4人の子がおり、それぞれ次のような経歴を持つ。

(1)源吾
 吉継の長子で、道谷村の斎藤伯耆守の女婿となり、道谷城(おそらく笹山城)に居城した。

(2)主水頭
 同二男で、瀧山城(上ノ山城)主となる。

(3)内蔵丞(蔵之丞)
 同三男で、内谷村の花ノ木城(前稿「匹見村地頭籾田氏」参照)主となる。

(4)平内
 同四男で、「小松尾城」の稿でも紹介した三葛の殿屋敷に住んだ。

【写真左】瀧山城(上ノ山城)遠望
 匹見の街部にある「匹見峡温泉やすらぎの湯」という施設からみたもので、この位置から1キロ程度北に向かったところに聳える。

 当城も益田市の指定史跡となっているので、機会があったら登城してみたい山城である。



 ところで、お気づきのように、大谷若狭守盛英と、大谷若狭守吉継が混在している。
 「益田市誌・上巻」では、その差異について触れていないので、なんとも判断しかねるが、現存する記録から考えて、おそらく同一人物と思われる。

 大谷若狭守盛英(吉継)を滅ぼしたのが、竹城主・寺戸惣右衛門とある。竹城は北方の美都町小原にあり、「四ツ山城」の北東2キロの地点にある。

 「小松尾城」の稿でも記したが、大谷一族の主要人物を謀殺した後の、残りの一族を誅滅する任を負ったのがこの寺戸惣右衛門である。
 彼は手兵数百人を引き連れ、最初に落としたのがこの広瀬城だった。ただ当城にいた大谷若狭守盛英夫妻は、落城寸前にこの城を脱出、すでに謀殺された息子の居城・瀧山城へ、内蔵丞の末弟平内親子の二人を従え、当城へ入った。そこには、主水頭の妻子3人がおり、皆はこの瀧山城で死守する覚悟を決めた。
 寺戸勢の勢いに抗すことはできず、ついに瀧山城は堕ち、彼らはそろって討死したという。 

匹見村地頭・籾田氏(島根県益田市匹見町内石)

匹見村地頭・籾田氏(ひきみむらじとう・もみたし)

●所在地 島根県益田市匹見町内石
●探訪日 2010年4月2日

◆解説
 今稿は源平合戦で敗れ、当地匹見町の山奥に逃れた籾田(もみた)氏という一族を紹介したい。

【写真左】道路脇に設置された説明板
 説明板の後には、祠のようなものがあったが、おそらく籾田氏などと関係のあるものなのだろう。

 前稿「小松尾城」探訪の折、たまたま匹見支所付近を通ったところ、道路(42号線)脇に説明板を見つけた。興味深い内容であるので下段に転載しておく。

匹見村 内石地頭 籾田氏

 小原の開拓者籾田氏は、藤原氏の末裔という。源平合戦の時屋島の戦いでは、平家に属して敗退し、匹見に逃れ、ハビの僻地に土着して難を逃れた。

 そしてハビ屋敷の祖となったが、数代の後多忠次という人が、小原を開拓して移り住んだ。これが、現在の原屋敷の祖といわれ、子孫は分家して塚と木屋の両家を起こした。

 また匹見東村の半田に、転住したものを半田屋敷という。また籾田氏のある同族は、内石に石屋敷、籾山氏を起こしており、匹見西村に転住したものは、姓を変えて岡本氏と称し、それぞれ繁栄した。
 また、小原の原屋敷十代治良右衛門は、長男亀蔵に家を譲り、次郎作次郎(当時12歳)を連れて、奥小山に分家し、平溜り(又平田丸)の初代となった。

 内石に住んだ石屋敷籾山氏は、内石上に居を占め、地頭として居宅(現今俵家が住む)を営み、向ノ原付近に、城を築いて城山と称した。
 この城址は今草刈山となっているが、城山の高さは100m、長さ100mに達し、麓を石谷川が流れている。頂上に本丸があり、馬場があった西側の大下原付近に大手があった。城の東麓には、水穴があって、城中の飲料に供した。

 籾田家に伝わる家宝としては、農具があったと言い伝えられている。又平黙りの下手向う側には、大元・愛宕の両社を合祀しており、その伝記には、

 籾田血伝の者、広瀬岡本血伝の者、内石籾山血伝の者、宜しく神意に酬ゆべし。

と記されている。岡本籾山氏は、籾田氏の分流といわれ、内石の牛首岡本氏は、匹見西村岡本氏の、古い分流と言い伝えられている。”

さらに、同板の下段には
籾田氏系図 紋抱茗荷
  • 籾田市蔵
  • 源左衛門
  • 佐左衛門
  • 与治右衛門
  • 六二郎
  • 孫左衛門
  • 安右衛門
  • 孫兵衛
  • 三蔵
  • 治良右衛門(平溜り)一代
  • 亀蔵
  • 作次郎
  • 滝三
  • 力治
  • 義次
  • 正行
  • 章(第17代)
とある。
【写真左】説明板

 説明板の最初に出てくる「小原」は、前稿「小松尾城」の西麓を流れる七村川の支流・小原川を上ったところである。

 東村の半田は、当該説明板の設置してある個所より少し下がった匹見峡に向かう位置(八祖神社付近)にある。

 内石は、小松尾城のある位置から西方へ直線距離で約4キロのところにあるが、谷を2,3カ所越えていく場所なので、一旦匹見本流へ下がり、国道488号線を下って、谷口下の所から入るようだ。
 なお、内石に住んだ籾山氏が城を築いたと記されているが、島根県遺跡データベースでは登録されていない。

 この近くにある城砦としては、内石からさらにさかのぼった内谷地区に、南北朝期、猪俣治郎九郎が築いたとされる「花ノ木城」(H380m)がある。当城は、戦国初期には大谷一族の一人・大谷内蔵が拠った。
 このあたりになると、吉見氏領にかなり近いため、重要な城砦だったと思われる。

2011年1月6日木曜日

小松尾城(島根県益田市匹見町紙祖石組)

小松尾城(こまつおじょう)

●所在地 島根県益田市匹見町紙祖石組
●築城期 室町時代
●築城者 斎藤氏・大谷氏
●指定 市指定
●標高 440m
●比高 120m
●遺構 郭、石垣、堀切、竪堀、馬出、櫓台
●探訪日 2010年4月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」等)
  石見益田地域で最大の河川である高津川をさかのぼって行くと、横田というところで、匹見川という支流と合流する。この匹見川と平行して走るのが国道488号線であるが、この国道を進んでいくと、益田市匹見支所付近で、南西方向に枝線として、紙祖川と平行して走る42号線(吉賀匹見線)が見えてくる。途中から幅員が車1台分の狭さになるところに見えるのが、小松尾城である。
【写真左】小松尾城遠望その1
 北側(匹見の町部)からみたもので、写真中央のとがった山である。手前の田圃の脇に説明板が設置されている。



 以前にも紹介したように、匹見地域は源平合戦の際、敗れた平家が落ち延びたところともいわれ、当時陸の孤島とも評された場所である。
 南東側の中国山脈を越えると、広島の安芸の国になるが、当時は簡単に峠越えはできないまさに秘境の場所であった。

現地の説明板より

市指定史跡 小松尾城跡
 前方の紙祖川と七村川とが相会し、その間に屹立した比高約120m測る山地が小松尾(要害)城跡である。

 山頂には、約140m×9mを測る細長い削平地があり、そのほか一段高い見張り台や、数段からなる削平などがあって、尾根筋の両端部には数条の堀切がみられ、守備を固めている。一部には竪堀もあり、西側の斜面には厩床という地名の壇床もみられる。
【写真左】遠望その2
 吉賀町に向かう東側の42号線側から見たもの。

 本城は、もと斎藤氏が拠ったともいわれているが、室町中期には益田の大谷郷地頭であった大谷兼秋の三男章実が居城した。
 そして文安3年(1446)には、吉賀郷高尻の河野氏広石の上領氏に攻められたが、時の大谷佐膳は、益田七尾城主の兼堯の援軍でことなきを得、宝徳3年(1451)には、逆に吉賀の両氏を攻めている。

 益田領境地としての重要性を知った益田氏は、その後18代七尾城主の尹兼は、弘治元年(1555)に弟の兼任を小松尾城主に命じた。そして、その子兼治と続いたが、関ヶ原の戦後は益田氏とともに須佐に移って廃城となった。
益田市教育委員会”
【写真左】縄張図
 図でもわかるように、極端に幅は狭く、南北に長く伸びた郭を構成している。















 説明板にある文安3年・宝徳3年の戦いは、いずれも当時の益田氏と吉見氏との領有争いが元となっている。
 益田・吉見両氏の主だった境目は、高津川を中心としたものだが、匹見地区は両者の領有区域の東部に当たり、このことから、匹見川沿いには、当地の覇権をめぐって20カ所前後の山城が残っている。

 小松尾城は、叶松城(H290m 匹見町澄川土井原:寿永年間(1182~85)平盛広築城)と並んでその中の重要な城砦のひとつである。

 説明板にある「高尻の河野氏」は、元々越智氏の後裔で、祖は伊予国(愛媛県)の高直城を構えていた。高直城は、別名高縄山城ともいい、現在の松山市猪木高縄山(986m)にあった城である。
 嘉吉3年(1443)10月、この河野氏の子孫孫十郎入道は、吉見成頼を頼って高尻村に住み、高尻城主となった。そして、その嫡男久米丸に至った。
【写真左】西側から見たもの
 最初に東麓から登城口を探したが、紙祖川に橋がなく、断念し、次に西側に回ったものの、七村川にも橋が見つからず、結局登城はあきらめた。


 なお、この高尻という地区は、小松尾城の脇を通る42号線を南下し、吉賀町に入った高津川の支流・高尻川中流の谷間にある。

 高尻城は、今のところ、島根県遺跡データベースには登録されていないが、石水寺という寺院にに河野氏の墓地があることから、この付近にあるものと思われる。

 もう一人の広石の上領(かみりょう)とは、河野氏の一族と思われるが、「益田市誌・上巻」では、文安3年の段階で、上領玄蕃頭という武将が高尻城主としている。

 ちなみに、広石という場所は、以前取り上げた「五郎丸城」(吉賀町広石立戸:2009年12月21日投稿)とほぼ同じ場所になる。もっともこの「五郎丸城」と同じ稜線上に「広石城(別名:次郎丸城)」というのもあるので、城主がどちらにせよ、河野氏一族が拠ったのは、この「広石城」だったかもしれない。
【写真左】西側から先端部を見る
 縄張図でもわかるように、当城に登城できそうな緩斜面は周囲に全くなく、東西の川が掘の役目を当時のまま残していることから、まさに天険の要害の山城である。

匹見三葛の合戦

 ところで、この戦いは、益田兼堯の援軍でことなきを得、としているが、実際は前半の戦いで小松尾城主・大谷左膳は大きな痛手を受けている。
 後にこの戦いは「匹見三葛(みかずら)の合戦」と呼ばれている。

 津和野三本松城主・吉見成頼に命じられた河野氏一族は、手兵800余騎を率い、高尻川を上り、郡境を越え、匹見三葛へ入った。それに先立ち、小松尾城主・大谷左膳側らは、事前に300余騎を従い、三葛の祇園谷において待ち伏せていた。
 戦いは、数に勝る河野氏側の勝利となり、一気に小松尾城下へ侵入してきた。これに驚いた大谷左膳は、すぐに益田兼堯に援軍を求めたため、その報を知った河野氏らは退却した。

 6年後の宝徳3年(1451)、今度は小松尾城主だった大谷則家は、益田兼堯の援護を受け、吉賀の上領を破る、とある(石見誌・石見六郡年表)。
 
 また、その後の弘治元年(1555)に、益田兼任が小松尾城主となる、と説明板にあるが、吉賀の高尻城については、天文20年(1551)10月5日、吉見正頼・上領頼規が益田藤兼を破っている(萩閥56)ので、高尻城は配下であった河野次四郎が城主として住んだようだ。
【写真左】石ヶ坪遺跡
 小松尾城北端部の田園は、縄文時代の遺跡が大量に出土している。
 説明板より

市指定史跡 石ヶ坪遺跡
 本遺跡は、縄文時代中期中ごろから縄文時代後期前半にかけての遺跡で、1万数点の多量の土器・石器類が出土しています。
 また、遺構においては貯蔵穴などの土杭をはじめとして、8棟の竪穴住居跡や配石も発見され、該当期における山間部の縄文時代の様子を理解する上で、極めて貴重なものであり、ことに阿高・並木式といわれる土器などから、九州との繋がりをもつものとして注目されています。
 益田市教育委員会”



 余談ながら、その後益田氏の支援を受けていた大谷氏は、天正3年を機に、「大谷一族の不遜な態度」を理由として、益田氏によって一族大半が誅殺されていった。その主な面々は以下の通り。
  • 大谷主水頭 瀧山城主
  • 大谷内蔵之丞 内谷村
  • 大谷若狭頭盛英(主水頭の父)夫妻
  • その他
このうち、大谷平内と彼の妻は、益田氏の追手を逃れ、益田氏が関ヶ原の戦いのあと、長州須佐に移ってから、再び当地に戻り、名を五郎兵衛と改めて一生を終えた(後段参照)。

さて、戦いの主戦場となった三葛の祇園谷には、地名として「陣ヶ原」「見張楼」が残り、「三葛土居跡」は、大谷氏一族であった大谷平内の住居跡といわれている。また、匹見・吉賀の郡境峠付近には中小の墓が数十基が見られるという。
 
 管理人は、この三葛という地区は探訪していないが、いずれ機会があったら訪ねてみたい。なお、河野一族が吉賀町(六日市)から高尻川沿いに上って、匹見に進んだルートは、壇ノ浦で敗れた平家が当地(匹見)に入った道とも言われている。

◎関連投稿
三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)