2011年11月30日水曜日

豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)

豊前・松山城(ぶぜん・まつやまじょう)

●所在地 福岡県京都郡苅田町
●築城期 天平12年(740)
●高さ 標高128m(比高110m)
●築城者 藤原広嗣
●城主 藤原氏、神田氏、平氏、城井氏、大内氏、大友氏、毛利氏、黒田氏
●廃城年 慶長11年(1606)
●遺構 郭・土塁・石垣・竪堀等
●指定 苅田町指定史跡
●登城日 2011年3月11日

◆解説
 豊前・松山城は豊前国(福岡県)の周防灘に面した山城で、前稿「城山城」のような朝鮮式山城ではないが、それでも築城期が天平時代(奈良時代)に築かれた古い歴史を持つ山城(海城)である。
 また、城歴としても、廃城の慶長年間まで800年余りも続いた大変に長い記録を持つ山城である。
【写真左】豊前・松山城遠望・その1
 南方にある馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)本丸から見たもの
(撮影2014年4月7日)
【写真左】豊前・松山城遠望・その2
 2015年10月11日、豊前の山城を探訪した折、近くまできたので、西麓側から撮ったもの。
 なお、手前の陸地は近年埋め立てられているので、当時は海だったと思われる。
【写真左】豊前・松山城遠望・その3
 南側から見たもの。
 なお、駐車場はごく最近(2011年3月)南麓部の登城口付近に3,4台駐車できるスペースが確保されたが、この日はその場所が分からず、数百メートル南の戸取神社の脇に停め、そこから歩いて向かった。



現地の説明板より

“松山城跡
(平成5年12月21日 町指定史跡)
 松山城は、かつて豊前国第一級の要塞の山城といわれた。古記によれば、740年(天平12)に藤原氏によって築城されたといわれ、その後数回の戦乱に見舞われ、何度も城主が変わり、1606年(慶長11)に廃城になったと伝えられている。
【写真左】松山城を上から見た写真
 登城口付近に設置された説明板に添付されていたもので、発掘調査のときのものと思われる。
主要部が伐採され全容がつかめる。



 山頂には主郭が、主郭の北側には石垣と石段に続く腰曲輪、二ノ郭との間には石段と石垣が、南には虎口と推測される門の跡がある。


三ノ郭からさらに東側には、かつて小城と呼ばれた遺跡があったが、今は土取りのために消滅した。
主郭には発掘調査の結果、基壇と礎石をそなえた建物が屋根瓦を葺いて建っていたと推測される。山頂の側面には、横堀や竪堀が複雑に確認でき、山頂の遺構から続く土塁が広範囲に広がっている。


松山城跡の全体の構図は、主に山頂部の屋根瓦を持つ各郭と門を石段・石垣・横堀が複雑に取り囲んで、さらにその外側には、土塁と竪堀が巡らしており、まるで、松山の半島全体を難攻不落の要塞として造り上げた様子がうかがえる貴重な山城である。


 苅田町教育委員会”
【写真左】登城道
 登城口から本丸までは約30分余りで着く。
多少の勾配はあるものの、写真にあるような階段が設置され、歩きやすい。





藤原広嗣の乱

説明板にある豊前・松山城の築城者・藤原氏とは藤原広嗣のことと思われる。

藤原広嗣の父・宇合(うまかい)は、聖武天皇の時代、朝廷につかえ、絶大な権力を握った藤原四兄弟の三男である。天平9年(737)、この四兄弟が相次いで亡くなると、朝廷内では反藤原氏の勢力が台頭、四兄弟の子たちはそれにともなって朝廷権力の中から排除されるようになった。
【写真左】土塁
 本丸の西方直下には良好な土塁が残る。
高さは1.5m前後で奥行は100m近くある。





 宇合の子・広嗣は、翌10年、九州の太宰少弐として左遷された。これを不服とした広嗣は天平12年(740)9月3日、弟(※)らと地元大宰府の随臣や隼人など約1万人の兵を率いて蜂起した。

これに対し、朝廷側はすぐさま、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の軍17,000の兵を徴兵、戦いは約1か月半におよび、10月23日、広嗣は肥前国松浦郡で捕えられ、11月1日、同国唐津で処刑された。
これを藤原広嗣の乱という。


なお、広嗣の弟・藤原綱手(つなて)も兄・広嗣と同じ唐津で処刑されたとする記録もあるが、『公卿補任』によれば、広嗣の弟は、藤原田磨とされ、捕らわれたのち、隠岐国(島根県)へ配流されたといわれている。
そして、この藤原田磨が、後鳥羽上皇以前の朝廷関係者による隠岐国最初の配流人となっている。
【写真左】二ノ郭
 南方に伸びる郭で、本丸側から少し傾斜をもった形状となっている。長径30m前後、短径20m前後か。






鎌倉期から室町時代

 所在地が豊前国であることから、平安期は当然ながら平氏の支配となったが、壇ノ浦の戦いにおいて、平氏最期の城主・平吉盛は自刃(入水自殺)し、鎌倉期になると下野国の宇都宮氏の傍系・城井(きい)氏が地頭職として入った。しかし、直後に平氏系であった豊前長野氏が奪還している。

 南北朝期になると、これまでたびたび記したように、足利尊氏が九州に一旦退いたとき、尊氏に属した少弐頼尚が宮方であった松山城を攻略、頼尚の子・頼房が城主となった。
室町期に入ると、豊前国は北の大内氏と、豊後の大友氏らによって度々争奪戦が繰り広げられる。そして天文年間、大内義隆の代まで麾下の杉氏が治めていった。
【写真左】二ノ郭から本丸を見上げる。
 二ノ郭の両側は土塁状の囲繞遺構が残っている。








戦国期

 しかし、天文20年(1551)9月、陶晴賢の謀反によって大内義隆が自害すると、状況は一変。

 杉氏は毛利方に恭順を示すと、大友氏によって攻略された。その後毛利氏が周防・長門など大内氏の旧領を支配下に置くと、九州へ南下し、いったんは毛利氏の手に落ちた。
しかし、その後再び大友氏が奪還を開始し、将軍足利義輝の斡旋によって和議を結び、大友氏に引き渡された。
【写真左】三ノ郭
 二ノ郭の北側と接続された位置に配置されている。この先端部あたりから切崖状の遺構が見えるが、ご覧の通り「危険個所」の安全ロープが張られ、侵入しない方がいいようだ。


 また、三ノ郭から東部(周防灘方向)にかけては竹林となっており、奥の様子は確認できない。おそらく、数段の郭が配置されていると思われる。


秀吉の九州征伐と関ヶ原の合戦後

 秀吉が九州に進軍すると、北九州のほとんどの領主は秀吉に従うことになり、松山城は先鋒を務めた毛利氏の属将の支配下となった。

そして、関ヶ原の戦いの後は、同国を治めた細川忠興のものとなったが、慶長11年(1606)廃城となった。
【写真左】二ノ郭から本丸へ向かう
 二ノ郭から本丸に向かうと、いったん中間の郭(腰郭)がある。
 写真にみえる階段はおそらく戦国末期に設置されたものだろう。
【写真左】石垣と階段
 部分的には崩れているところもあるが、遺構としては良好な階段だろう。
 写真左側は主郭(本丸)を支える石垣がみえる。
【写真左】本丸跡
 ほぼフラットな仕上げとなっており、長径20m前後、短径10m程度の規模。
【写真左】本丸から東方に周防灘と北九州空港を俯瞰する。
 松山城から東方に見える陸地は、現代になって埋め立てられたもので、おそらく当時は北東部山麓に船着き場があり、多くの軍船が係留していたと思われる。
【写真左】本丸から北方の門司方面を見る
 当城の所在地は京都郡にあるが、西北の北九州市小倉南区と接している。


また写真に見えるように、周防灘を介して北方には門司地区を見据えることができ、戦国期など中国からの大内氏や毛利氏の船団が往来する様子は手に取るように見えたことだろう。
【写真左】本丸から南方を見る
 上記とは逆に南方を見たもので、苅田港付近。手前の煙突群は九州電力苅田火力発電所。


おそらく視界がいいときは、豊後(大分)の国東半島も見えるだろう。


こうしたことから豊前・松山城が戦略的にも重要なため長い間、海城形態の城砦としてつかわれてきたと考えられる。
【写真左】本丸北側に伸びる帯郭
 南側の二ノ郭に繋がる郭で、幅は3~5m前後の規模。
 なお、この下にも中小の郭群があると思われる。



◎関連投稿
豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)

2011年11月28日月曜日

城山城(香川県坂出市府中町)

城山城(きやまじょう)

●所在地 香川県坂出市府中町
●高さ 標高462m
●築城期 白鳳時代(668~670)ごろ
●築城者 不明
●遺構 城門・水口・石塁・土塁・車道その他
●形態 朝鮮式山城
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年11月12日

◆解説
 今稿の山城は一般的に知られている中世山城ではなく、古代朝鮮式山城といわれた城砦である。
香川県にある古代朝鮮式山城としては、以前取り上げた東かがわ市にある引田城跡(香川県東かがわ市 引田)もあるが、この他同県には源平合戦で有名な屋島の屋島城もある。
【写真左】城山(城)山頂部
 山頂部にはご覧のような展望台が設置してある。










現地の説明板より

“史跡 城山


 城山は標高462.5m、この付近における最高峰で、視野が極めて広く景勝の地である。山腹は比較的急峻であるが、山上部は緩やかに起伏している。南方部の急斜面を背に北方を正面とし、山頂および西北に向かって口を開く凹地を囲むように遺構が残る。


 主として北面に城門・水口などの施設があり、石塁・土塁は断続しつつも、稜線に沿い谷を横切って続いている。
 また、土塁の内側は城山長者の伝説と関連して、車道(くるまみち)と称せされる帯状の平坦地となっている。この車道付近の所々にホロソ石、カガミ石、マナイタ石と呼ばれる石造加工物が点在するが、その用途は未だ不明である。
【写真左】城山城遺構所在図
 城山城の城域とほぼ重なるように、現在はゴルフ場(高松カントリー倶楽部)があるため、遺構のすべてを踏査することはできない。
 ただ、主だった遺構は残っているようだ。




 築城の時期は明らかでないが、朝鮮式山城の様式を踏襲した古代山城と認められる。また、菅原道真の漢詩集『菅家文章』に、城山神社と記されている古代祭祀遺跡も存在する。


所々に改変跡はあるが、よく旧規模をとどめており、古代史研究上重要な遺跡である。
昭和26年6月9日史跡に指定された。


 平成21年3月31日
    坂出市教育委員会”
【写真左】石塁・その1
 西側の道(城山川津線:189号線)から登っていくと、途中で見える箇所だが、看板があるわりには「石塁」の管理はあまりよろしくない。



白鳳期(飛鳥時代)

 「引田城」でも述べたように、天智2年(663)8月末、日本と百済軍の連合軍隊は、朝鮮半島の白村江において唐・新羅の軍隊との戦い(白村江の戦い)で大敗、9月日本軍は百済の遣使とともに急ぎ帰国した。翌年、勝利した唐・新羅の連合軍が日本を攻め寄せることを想定し、対馬・壱岐・筑紫などに水城を築いた。

 引田城や屋島城の築城期は、天智6年(667)といわれているので、今稿の「城山城」の築城期もほぼこれらと同時期と思われる。
【写真左】石塁・その2
 車道があるため、当時の規模がこの大きさだったかわからないが、高さ1.5~2.0m程度で場所によっては数十メートル伸びている箇所もある。



讃岐の地勢

 ところで、引田城や屋島城などは、現在でも瀬戸内海に面した位置にあるが、城山城は現在坂出市の内陸部に所在している。したがって、古代朝鮮式山城がほとんど水城とされていることから当城については、不可解な場所に思える。

 しかし、飛鳥時代の白鳳期における讃岐・坂出付近の地勢を検証すると、現在の城山は北東部の五色台とともに瀬戸内に浮かぶ島であって、丸亀港・宇多津町などは瀬戸内の海の底にあった。
【写真左】もう一つの説明板
 山頂部に設置されたもので、この図でもわかるように、城域全体がゴルフ場となっているので、遺構を踏査できるのは限られている。


 なお、山頂部における石塁は二重に取り囲んでいるが、現場はほとんど手付かずの状態のようだ。
 記録上、山頂部の礎石群は11か所あると記されている。




 城山城の西麓(川津町)にある瀬戸内中央自動車道の坂出IC~同JCT間は、南方の飯野山(讃岐富士)とに挟まれた遠浅の入江であったことがわかる。

そして屋島の水城(屋島城)が北方にあることから、おそらく屋島城を前線基地の城砦として、城山城はそれを後方から支援するものとして築城されたものと思われる。

白村江の戦いのあと、唐・新羅の日本国侵攻を恐れた天智天皇は、それまで難波にあった都を内陸部の近江大津宮に遷都している。
【写真左】三角点
 山頂部は険峻な山容とは逆に広い平坦部となっている。
 また、下段に示すように眺望はほぼ360度俯瞰できるが、この日はだいぶ靄がかかっており、今一つだった。
【写真左】山頂部
長径100m余、短径50m前後の規模。
【写真左】山頂部から東方に鷲ノ山城、および府中湖を見る。
 坂出市府中町にあるダム湖で、正面の鷲ノ山(H322m)は、新名氏の居城とされた鷲ノ山城で、地元登山愛好家に親しまれているようだ。
機会があれば、登城してみたい。

2011年11月26日土曜日

土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)

土佐・朝倉城(とさ・あさくらじょう)

●所在地 高知県高知市朝倉字城山
●指定 高知県指定史跡
●別名 重松城
●形態 平山城
●高さ 102m(比高80m)
●築城期、築城者 不明
●城主 本山清茂
●遺構 郭・堀切・竪堀その他
●登城日 2010年3月18日

◆解説(参考文献「春野 歴史の風景」宅間一之著等)
 高知市西方を流れる鏡川の西、朝倉に築かれた標高100m余りの平山城である。
【写真左】朝倉城遠望
 朝倉城に向かうコースはやや分かりにくいが、国道33号線から高知大学方面に向かう県道38号線(高知土佐線)に入り、途中から坂道の多い団地の道路に入る。

 このコース以外にも道はあるかもしれないが、どちらにしても麓の道路は大変に狭くカーブの箇所が多い。

現地の説明板より

“県指定史跡
 朝倉城跡
 古くは重松城ともいう。長岡郡本山城主の本山梅慶は、天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的・地理的に重要なこの地に築城して、天文9年(1540)ここに移った。

 永禄3年(1560)に始まった長宗我部氏との激突は、数度に及んだが、勝敗は決せず、梅慶の後を継いだ子の茂辰(しげとき)は、不利な形勢と朝倉城死守の困難さを悟り、永禄6年(1563)1月、城を焼いて本城本山に退去し、廃城となった。

 詰・西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、竪堀も深く残っている。県内随一の規模を誇る中世城跡である。

平成元年3月   高知市教育委員会”
【写真左】朝倉城平面図
 標高は102mであるから平山城だが、その割に城域面積は約13haと規模が大きい。

 登城口は北東部・南部・西部の3か所があり、この日登城したルートは、右側の詰ノ段といわれる主郭側の西部から入った。
 主だった遺構は、堀切・土塁・竪堀・空堀などが残る。



 説明板にある本山城(高知県長岡郡本山町本山)、高知県のほぼ中央部の長岡郡本山町に所在する。

 本山町は、東隣に大豊町、西隣には土佐・和田城(高知県土佐町和田)や、土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)が所在する土佐町が隣接し、南北に長く北部は愛媛県の四国中央市と接する。このため町域全体が山林で覆われ、東西に吉野川が流れ、四国の山間部特有の深い谷間に街部を形成している。
【写真左】西側の登り口
 西側とあるが、ほとんど南側といった方がよさそうな位置になる。





 本山氏については、以前取り上げた長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)でも紹介しているように、戦国期前半の永正5~6年(1508~09)、当時周辺の有力国人として、山田・吉良氏と合力し、当時の岡豊城主・長宗我部兼序(かねつぐ)を攻め、兼序は自刃し、嫡男・千雄丸は、幡多の一条氏のもとに逃れたとされている。

 同氏の出自については諸説あり確定していない。主だった説を挙げると、「清和源氏吉良氏の庶流」というものや、平家の末裔などといわれている。
【写真左】棚田
 登城道はしばらく木立の中を歩いていくが、途中で、忽然と明るい景色が現れる。谷を隔てて棚田が見えた。





土佐七雄と一条氏


 ところで、土佐の国(高知県)を探訪する際、高知自動車道を車で走らせると、切り立った四国山脈を南北に縦断する40本前後のトンネルと、100箇所前後の橋梁を通過しなくてはならない。初めて通った時、あまりの数の多さに驚いたものである。

 時が移った現代の乗り物に変えても、中世、この国・土佐が陸の孤島とも呼ばれた理由を解することができる。このため、昔から罪人や戦に敗れた者の配流先ともなった。
【写真左】空堀と土塁
 朝倉城の特徴は写真のような空堀と土塁を駆使し、詰ノ段(主郭)をほぼ円周上に囲繞している遺構である。
 特に東側を中心に施工が残る。



 南北朝時代になると、四国東部を治めた細川氏が守護代となって土佐国を支配下に置くが、応仁の乱ごろより細川氏の衰退によって、在地豪族が独自の発展を遂げていく。そしてのちに彼らは、「土佐七雄」と呼ばれるようになった。
【写真左】広大な空堀
 図面上は空堀となっているが、事実上、郭としての役目を持ったものだろう。

 この日訪れた朝倉城は、詰ノ段の箇所以外は写真に見えるように、竹林が繁茂し視界は今一つだが、伐採すれば見事な山城の姿を現すだろう。


 土佐七雄の一族名称と当時の本貫地
  • 名称         支配地
  • 本山氏      長岡郡
  • 長宗我部氏   長岡郡
  • 大平氏      高岡郡
  • 津野氏      高岡郡
  • 香宗我部氏   香美郡
  • 吉良氏      吾川郡
  • 安芸氏      安芸郡
なお、この七雄とは別に、以前にも取り上げた土佐一条氏が幡多郡(現在の四万十市)に最大の所領を持ち、七雄を超える土佐の盟主となっていた。
【写真左】詰ノ段(主郭)・その1
 詰ノ段は整備され、見通しがいい。
 規模は長径30m、短径20m程度か。





本山氏と吉良氏

 さて、朝倉城だが、説明板にもあるように、当城は本山氏の居城とされている。

 最初に居城としたのは、本山茂宗とされ、それまでの本拠城であった本山城(本山町本山)は、息子の茂辰に譲っている。
 茂宗はその後、長宗我部兼序を攻めた際の協力者であった南方の吉良氏の支配する土佐・吾川両郡を攻略しようとする。
【写真左】詰ノ段(主郭)・その2
 主郭跡には写真にみえる樹木が植えてあるが、おそらく桜の木だろう。
 残念ながら、主郭の周囲は木立が遮り、眺望はあまり芳しくない。



 このため、吉良氏は前記した土佐の盟主・一条氏に援軍を求めた。
伝承では、吉良駿河守は一条氏の支援を得ることを確約され、大いに悦に入り、仁淀川で「鵜飼いの宴」を計画した。

このことを知った本山氏は、密かに700余騎を二手に分け、一つは吉良氏の本城・吉良城(高知県高知市春野町大谷)へ、もう一つは宴の場所である仁淀川の「如来堂」に差し向けた。
【写真左】土塁
 詰ノ段に残るもので、位置的には北東部にあったものと記憶している。

 高さは約1m程度で、部分的に低くなったところもあるが、経年劣化だろう。



 「如来堂」が宴たけなわになったころ、吉良氏の老臣・中島近江守が大盃をとり舞を舞おうとしたところ、突如本山氏の300余騎がどっと押し寄せ、駿河守をはじめ吉良氏の主だった面々や、本城・吉良城もあえなく落城したという。
【写真左】城八幡宮
 詰の城の隅に祀られている。









朝倉城

 本山氏が吉良氏を攻略し、土佐の南方の平坦地に進出したころ、本城としては朝倉城を置き、主だった支城としては、長浜城、浦戸城を重要な拠点とした。

 これは、永禄3年(1560)ごろにはすでに、北東部にある岡豊城の長宗我部氏が、本山氏の領地を度々攻撃してきていたからである。
 同年(永禄3年)5月、長浜表の戦いでは、本山茂辰は浦戸城を死守できず、朝倉城へ退却した。
それから本山氏と長宗我部氏の戦いは、約3年にわたって繰り広げられることになる。
【写真左】詰ノ段から下段の郭を見る
 杉と竹林の混在した状態で、今一つの光景だが、規模はかなり大きなものだ。



 永禄5年(1562)9月、家督を相続したばかりの長宗我部元親は約3000の兵を率いて、朝倉城に攻め入った。

 その後戦いは長引き、最後は長宗我部氏による本山氏家臣への懐柔策が功を奏し、翌永禄6年(1563)1月、茂辰は城に火を放ち、朝倉城は落城、茂辰らは本山氏の本拠城長岡郡の本山城へ奔った。
【写真左】井戸跡
 詰ノ段の下にあったもので、現地の説明板を転載しておく。







“朝倉城の井戸について

 この井戸は、詰ノ段から北西へ一段下がった所に残存している。南国市の長宗我部氏の居城である岡豊城でも、詰ノ段と二ノ段との接続部に井戸が設けられており、同じような配置である。

山城では、水は食糧とともに籠城のときの生命線であるので、水源の確保のために井戸を掘り、その井戸に上屋をかけてきびしく管理していた。
 地元の古老の言い伝えによれば、井戸は渇水期でも枯れることはなかったという。井戸水は、朝倉城が廃城となった後には、農業用水として重宝がられていた。

 現在の井戸は、昭和21年(1946)の南海大地震で周りの石積みが崩れたために、地元の人々が積みなおしたものである。
 平成13年3月 高知市教育委員会”
【写真左】詰ノ段から西方の茶臼ヶ森方面に向かう。
 詰の丸から200m程度西方に向かうと、「茶臼ヶ森」という出城形式の城砦がある。


この写真はそこに向かう途中の写真だが、このエリアは、図面以上に変化にとんだ遺構が残る。

 写真ではわかりにくいが、途中で極端に尾根を細めた「土橋」と切崖を巧みに配置し、窪みのような空堀を数か所設け、「茶臼ヶ森」と「詰ノ段」の往来を困難にさせている。
【写真左】茶臼ヶ森付近
 茶臼ヶ森跡は全く整備されていないので、紹介しないが、その奥に伸びる平坦地にこのような畑地が見えた。

2011年11月22日火曜日

岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)

岩倉城(いわくらじょう)

●所在地 徳島県美馬市脇町田上
●築城期 鎌倉期
●築城者 小笠原長房
●城主 三好徳太郎康俊、長宗我部親吉
●高さ 標高110m(比高50m)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2011年6月25日

◆解説(参考文献『サイト:城郭放浪記』等)
  吉野川市の川島城(徳島県吉野川市川島町川島)でも少し触れているが、川島城から吉野川をさかのぼり、「うだつの町並み」で有名な脇町(美馬市)の吉野川北岸に築かれた山城である。
【写真左】岩倉城遠望
 北東部からみたもので、ご覧の通り遠望する限りではこの小丘が山城とは思えない。


 写真手前に車1台分の駐車スペースがあるが、この位置の頭上(北側)は徳島自動車道が走っており、当城に向かうには、この自動車道下のトンネルを潜る。



現地の説明板より

“岩倉城跡
      所在地 徳島県美馬市脇町田上

岩倉城は、中世に築城された阿波国西部地区を代表する城の一つです。阿波国西部の戦略的要衝である脇・岩倉点在する城館群の中核的機能を果たす城であり、最盛期には六坊を備えた広大な城域を持っていたといわれます。

代表的な城主として、三好長慶の叔父の三好康長(笑岩)が挙げられます。


正確な築城年代は不明ですが、一説によると、阿波国守護の小笠原長房が、文永4年(1267)に居城していたとされていることから、古くから阿波西部の防衛拠点としての重要な役割を果たしていた城郭といえます。

東の脇城とは密接な関係にあり、岩倉城と東の脇城の二城は、地理的に近く相互連携することで、防衛拠点機能を果たしていましたが、次第に主たる機能は、脇城へと移行していきます。

現在までの地形改変により、本来の岩倉城の姿は大きく失われており、現在その痕跡が確認できるのは、本丸跡と思われるこの位置のみである。
美馬市教育委員会”
【写真左】堀切
 現在の遺構として明瞭なものは、この堀切と郭程度で、全体に整備されていないようだ。


 東側に走る道路(帯郭跡か)を進むと最初に西側に見える。



阿波・小笠原氏

 中世阿波国を最初に支配したのは、説明板にもあるように守護として下向してきた小笠原長房とされている。承久の乱による論功行賞によるものと思われるが、当初長房の兄・長忠が阿波国守護として任ぜられたものの、長忠は生まれ故郷の信濃国へ戻り、代わりに弟の長房が当地に入った。
 説明板には、長房が文永4年(1267)には居城していた、となっているので、下向してきたのはこれよりだいぶ前のことと思われる。
【写真左】登城道
 本丸は右側にあるため、この写真の道も当時は帯郭もしくは、犬走りのようなものだったかもしれない。






戦国期

戦国期に至って当城の代表的な城主として、三好氏の名が挙げられている。

ところで、この阿波三好氏は先述した小笠原氏の末裔といわれている。小笠原氏から三好氏に改称した時期は、南北朝後期の義長のころといわれ、三好郡に住んで三好氏の祖となった。したがって、小笠原長房が阿波国守護となって以来、小笠原・三好一族は、およそ300年近く同氏が当地を支配していたことになる。
【写真左】説明板
 この説明板にもあるように、遺構としては本丸跡付近のみが残っている。
南側先端部に設置されている。






 戦国期の三好氏といえば、三好長慶がもっとも有名であるが、岩倉城主として名が残るのは、三好康長とされている。

説明板にもあるように、かれは長慶の叔父にあたり、長慶の父は元長である。従って、元長と康長は兄弟で、元長が長子である。

 三好氏が阿波国に勢威を張り出したのは、この元長の代からである。彼は、特に吉野川流域の支配拡大を行い、戦国期阿波三好氏の基礎を築いたともいえる。
【写真左】石碑
 南側に設置されたもので、小規模な五輪塔形式の墓石が2,3基祀ってある。








 室町期における三好氏は、細川家の家臣として仕え、之長の子長秀は、細川政元に重用された。

 この政元は室町幕府の重鎮で事実上幕府を牛耳っていた。しかし、晩年にいたると後継者問題に嫌気がさしたのか、厭世観が次第に強くなり、都を離れ修験者になりたいと言い出した。これに対し、之長・長秀がその都度諌めることがあったというが、最期は行水をしていたところを襲われ、殺された。享年42歳。

 このあたりから細川家における後継者問題が拡大していき、三好長慶の時代になると、同氏は畿内を長慶が、阿波国を弟の実休が治めるようになる。
畿内における長慶や、のちに出てくる松永久秀の活躍については他の史料で度々取り上げられているので割愛させていただく。
【写真左】郭跡
 現在の岩倉城跡は南と北にそれぞれ郭が残り、その間に前掲した堀切が介在している。
この写真は南側の郭だが、墓石のようなものが倒れたままになっている。


 この郭の規模はおよそ15m四方程度か。
 東側には土塁のような高まりを残していた。



 さて、岩倉城に関する資料はほとんど持ち合わせていないが、前記した三好康長の子・康俊が城主となった天正年間、東方の脇城(城主武田信顕)とともに、南方から侵攻してきた長宗我部氏に降り、同族の三好氏をおびき寄せ勝利したという。おそらくこのときと思われるのが、天正7年(1579)12月の岩倉合戦といわれるものだろう。

 敗死した側の阿波の諸将の中には、上述した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)川島兵衛之進がいた。
【写真左】西側の郭
 西方に少し伸びた郭だが、この写真では単なる藪に見えるかもしれない。








 一旦長宗我部氏に降った康俊らだったが、再び三好氏に復帰するも、長宗我部氏に攻められ、康俊らは降伏し討死したともいわれている。
【写真左】南側から南東麓を見る。
 南端部には現在朽ち果てた小屋があるが、農業用の施設跡のようだ。
 この位置から吉野川が見える。
【写真左】岩倉城から東方を見る
 写真に見える川は吉野川で、遠くに見える橋は国道193号線にかかる穴吹橋。
【写真左】岩倉城から東方に「脇城」方面を見る
 脇城は岩倉城から1キロ程度離れているが、この写真では左側になる。






◎関連投稿
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白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)

2011年11月18日金曜日

脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)

脇屋義助の墓(わきやよしすけのはか)

●所在地 鳥取県倉吉市新町1-2411 大蓮寺
●探訪日 2011年10月15日

◆解説
 今稿では、前稿「田尾城」で紹介した脇屋義助の墓所を取り上げたい。
【写真左】脇屋義助の墓がある大蓮寺の本堂
 打吹山城の北麓、倉吉白壁土蔵群で有名な同市中心部に建立されている寺院だが、ご覧のとおり大変カラフルな近代的建物となっている。


 観光名所としての土蔵群のエリアから少し外れた場所であるが、この寺院にも観光客が訪れているようだ。



脇屋義助


 脇屋義助については、これまで前稿田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)や、川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)備中・福山城(岡山県総社市清音三因)世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)などで断片的に紹介しているが、南北朝期、新田義貞の弟として、南朝方に与し各地で転戦、康永元年・興国3年(1342)、四国の伊予国において病死した。
【写真左】脇屋義助の墓
 大蓮寺境内はさほど広くないが、規模の割に墓地の占める割合が高い。


 写真中央のものが脇屋義助の墓で、左右の墓については特に説明板のようなものがないためわからない。
 五輪塔形式のもので、高さは2mを超える大きなものだ。


二つの墓所

さて、彼の墓所については、今のところ次の2か所が挙げられている。
  1. 脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)
  2. 鳥取県倉吉市新町1-2411 大蓮寺
このほかに、兄新田義貞が亡くなった越前国(福井県坂井市丸岡町長崎 称念寺)にも所在するという史料もあるが、義助は当地で亡くなっていないので、供養塔と思われる。

1、の今治市に墓所があるのは当然だが、2、の鳥取県倉吉市になぜ建立されているのか、少し気になっていたので、関係資料はほとんどないものの、検証してみたい。
【写真左】山名寺
 倉吉市を横断する小鴨川北岸の磐城に建立されている。山名寺の前身は三明寺という寺院だったという。
【写真左】山名時氏の墓
 山名寺の西方に「三明寺古墳」と並んで建立されている。






 鳥取県倉吉市、すなわち伯耆国であるが、ここには以前取り上げた田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)、および打吹山城(鳥取県倉吉市)が所在する。

そして田内城の築城者であった山名時氏が約20年間居城としたところである。

山名時氏との関わり

 山名時氏は、山名政氏を父とし、母は上杉重房の娘である。父政氏は元々新田氏の一族である御家人の出(上野国新田郡新田荘)である。したがって、本来ならば、そのまま山名氏は新田氏に従ってもよいはずである。しかし、時氏は母方の上杉氏、すなわち足利氏に属した。

 山名時氏が生まれたのは、嘉元元年(1303年:別説では1298年)であるから、脇屋義助の生誕年(嘉元3年:1305年)とほぼ同時期である。そして、生誕地も義助と同じ上野国で、多胡郡山名(現在の群馬県高崎市山名町)である。

 ちなみに、脇屋義助や新田義貞兄弟の生誕地である太田市と、山名時氏が生まれた高崎市とは約25キロ前後離れている。また、足利氏の本貫地である足利市に近いのは、脇屋氏のあった太田市が近く、山名氏の高崎市のほうが遠い。
【写真左】大蓮寺境内に建立されているもう一つの五輪塔群
 脇屋義助の墓は山門から入ってすぐ左側にあるが、この写真のものは西方の奥に並んでいるもので、5基を数える。義助のものよりは規模が小さいが、それでも五輪塔としては大きな部類に入る。
 残念ながらこれらの五輪塔群については詳細は不明。



 金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)でも述べたように、新田義貞は延元3年・建武5年(1338)、越前国の藤島城(福井市藤島町)攻めにおいて、北朝方によって攻められ、討死した。そして、あくる延元4年・暦応2年(1339)、8月15日後醍醐天皇は譲位、義良親王(後村上天皇)受禅し、16日に後醍醐天皇は没した。

 兄の死、および後醍醐天皇の死去によって、ますます南朝方は弱体化し、康永元年・興国3年(1342)、義助は勢力を保持している伊予国に渡った(もっとも、「田尾城」でも述べたように、これ以前かもしれない)。
【写真左】大蓮寺山門から南方に打吹山城を見る。
 脇屋義助の墓はこの写真の右下に見える。







 このときの動きがはっきりしないが、義助は伊予国を含めた四国のみならず、中国方面も南朝方の取りまとめ役として総大将に任命されている。

 任命したのは当然ながら後村上天皇であるが、即位間もない天皇は、このころ矢継ぎ早に綸旨や、軍勢催促・所領安堵を行っている。南朝方の弱体化に焦りを感じていたのだろう。

 後村上天皇のこうした命に対し、南朝方総大将となった脇屋義助の献身的な姿が彷彿されるが、中国・四国において南朝方をまとめるという任務は義助にとって、大変な負担であったと思われる。

 さて、倉吉市の大蓮寺にある脇屋義助の墓の経緯だが、この墓については、結論から言って、限りなく山名時氏が関わっていると思われる。

 山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)でも紹介したように、時氏自身の墓は同じ倉吉市巌城にある「山名寺」に建立されているが、生前時氏は、新田氏の出身地である上野国から臨済宗の名僧・南海宝州を招き、禅院(光孝寺)を建てた(おそらく山名寺周辺と思われる)。

 時氏は南北朝初期には確かに、新田義貞らと袂を分かち尊氏に与したが、その後直義・直冬らと結び幕府に翻し、帰参後は管領細川氏と対抗していく。

 脇屋義助が病死した康永元年(1342)から、24年後の貞治5年(1366)、時氏は出家し道静を号した。おそらく、南海宝州を伯耆に招き、光孝寺を建てたのはこのころだろう。
 そして、併せて、時氏は同じ新田一族であった義助を追悼すべく、光孝寺から少し離れたこの大蓮寺付近に五輪塔形式の供養塔を祀ったのではないだろうか。
【写真左】大蓮寺に向かう参道
 手前の東西の通りから狭い脇道があるが、これが通称・弁天参道といわれ、大蓮寺に向かう参道となっている。

 大蓮寺の山門脇には、大弁天という弁天様が祀られている。


大蓮寺沿革

参考までに当院の沿革を記す。

“沿革
 打吹城址に東接する華到(げとう)(巷称は外道)山麓は、“法界門”の小字、“寺山”“寺屋敷”と名残るあたりに草創。養老年間に創建の厳城は見日千軒の興教院と南北に対峙した古刹である。


 小鴨の奔流は洪水の度に北遷し見日千軒を潰滅した反面、南部に沖積地を造成したので、武将山名は田内から打吹に居城を移し、山裾に陣屋を構え、外部に町屋を並べ居住区を用水路玉川で区切った。その頃の郊外で北に拡がる入江の面影を残し、“濱の松”の林立するところ、城山に正面し向山を借景に移建。時に永禄か。


 移築開山の文翁の西化を天正19年7月4日と墓に刻しているが、“延享の大火”で倉吉は全滅、当山も祝融を受け、寛保以前は定かでない。
【写真左】大阪の豪商「淀屋」の墓
 脇屋義助の墓に隣接して建立されているのが、倉吉を本拠として大阪で江戸時代繁栄した「淀屋」の墓である。

 大坂の陣(冬・夏)で徳川方につき、戦の跡残った武具などを集めそれを売って儲けたといわれる。今でいえば、リサイクル商売の先駆けだろう。
 なお、淀屋の出身については八幡市(京都府)との関わりも深い。



“エエモンがほしい”とおやつをねだる童に親は“エエモンは大蓮寺にある”と応えたという。その山門は地名にも現存。京都○○博士が“この門で偉容を偲べる”といった倉吉最初の葺瓦本堂は、昭和17年解体したが、昭和30年に倉吉最初の鉄筋混凝土建築・近畿以西最初鉄筋コンクリート造営の“赤蓮華僧伽藍”再建。


 草生期の成徳小学校や倉吉西高等学校が当寺を教場とし、旧制倉吉中学校(倉東高)創立の期成事務もここで執るなど文教に関与した寺歴があり、歴住に風騒の人も少なくない。…(以下略)”