2011年10月8日土曜日

恵良山城(愛媛県松山市上難波)

恵良山城(えりょうさんじょう)

●所在地 愛媛県松山市上難波
●別名 立烏帽子山城
●築城期 天暦2年(948)
●築城者 河野散位親経
●城主 河野氏・赤橋重時・土居通世・得能氏・来島一族等
●遺構 郭・城井戸
●高さ 標高302m(比高280m)
●指定 愛媛県指定史跡
●登城日 2011年9月13日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』等)
 前稿の高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)から北西約8キロの位置にある恵良山に築かれた山城である。
【写真左】恵良山城遠望
 南麓からみたもので、頂上部に祀られている社がかすかに見える。


 見るからに切り立った天険の要害であり、特に東側(写真右)は断崖絶壁となっている。


 西麓の今治街道(196号線)が北側から南下し、下難波の交差点で直角に東方に向きを変えると、左手前方にそれぞれ特徴のある三山が並んで見えてくる。
 手前から新城山(183m)、腰折山(214m)、そして奥にひと際切り立った独立峰恵良山(302m)である。

現地の説明板より

“恵良城(上難波)


 伊予旧跡史に「天暦2年(948)河野散位親経が城を恵良山に築いた」とあり、標高302mの山頂に天険を巧みに利用した石積みや、延長130mの帯状の腰曲輪、各所に張り出した枡形郭の名残り等、中世の山城として貴重な資料を提供してくれる城跡で、湯築の本城の控え要地として河野氏盛衰に直接的役割を果たした城である。”
【写真左】恵良神社奥之宮前
 恵良山城に登るルートは、南麓側にある最明寺側を目指していくが、この寺の駐車場は使用できない(「駐車お断り」の札があった)。


 この寺の手前で右に向かう狭い道があり、始点付近に「恵良山登山道」という看板があり、その道を向かう。幅は狭いながらも簡易舗装されているので、ゆっくりと慎重運転すれば写真にある中腹の「恵良神社」前の駐車場に辿り着ける。


 この写真にある階段を登っていくことになるが、右側にも林道のようなものがあったが、崩落などで使用できない。
【写真左】恵良神社の祠
 小規模なもので、階段右側に祀られている。








鎌倉期

 前稿「高縄山城」でも記したように、治承5年(養和元年:1181)7月、伊予の大族河野通清が源氏に呼応して高縄山城に拠って挙兵した際、平氏方として伊予に攻め入った主な武将としては、備後国の奴可入道西寂(ぬかにゅうどうさいじゃく)がいる。
【写真左】奴可入道西寂の居城・備後亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)







 奴可入道西寂は、亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)でも紹介したように、現在の広島県庄原市東城町小奴可にあった当城の城主であるが、当時備後の山奥からわざわざ瀬戸内を渡り、伊予に攻め入ったことを考えると、その頃瀬戸内周辺の主だった平氏方が少なくなっていたか、それとも、奴可入道西寂が抜きんでた武将だったのか、いずれかだろう。

 この戦いで、西寂は恵良山城を初めとする河野氏の諸城(日高・高穴)を攻め落としたという。
【写真左】登城道
 登城道は岩肌の箇所がほとんどだが、地元の方による手入れが行き届いているせいか、歩きやすい。


 終始つづら折りのコースがとってあり、急坂なものの途中から眼下に景色が見えだし、気持ちのいい登山ができる。



南北朝期

 奴可入道西寂が当城を落とした後の約100年間について、恵良山城の城主が誰であったかはっきりしないが、南北朝期に入ると、北条氏の一族・赤橋重時という武将が当城に拠って挙兵するも、宮方の攻撃を受けて滅亡したという。建武2年(1335)のことである。

 そして宮方の重鎮土居通世(湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)参照)が当城に拠り、暦応4年(1341)には武家方であった河野通盛が攻めよせたという。おそらくこの時の戦いで、河野氏が勝利したものと思われ、その後貞治3年(1364)になると、河野通堯が細川頼之の大軍に包囲され、宮方の水師村上義弘と今岡通任が通堯らを救出したとあるので、このときの河野氏は武家方から宮方に替わっていたことがうかがえる。
【写真左】頂上部の配置図
 麓から当山を見上げると、頂上部は尖った形をしているため、平坦部は狭いと思われるが、現地に足を踏み入れると想像以上の広さがある。


 全体に東西に長く、長径100m余り、短径20m前後の規模を持ち、西側に長径40m×短径20mの削平地(B)を設け、東隅に通夜堂がある。
 主郭とされる東側(A)は、(B)よりさらに15m程度登った岩塊に配置され、恵良神社・石鎚神社などが祀られている。






室町・戦国時代

 室町時代になると、得能氏の支族得居氏の居城と記録されているが、戦国時代になると、来島村上氏(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の支配が強くなり、村上通康の長子通久を養子に迎え、得居氏は事実上来島村上氏の麾下となった。

 その後、毛利氏や能島(能島城・その1(愛媛県今治市宮窪町・能島)参照)・因島水軍(因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)参照)の攻撃を受けたという。しかし、そうした攻撃に耐え、秀吉の四国平定後、その活躍を認められ改めて恵良山城主として3000石を与えられたという。

 関ヶ原の合戦では西軍に属したため、戦後豊後森へ移封され、恵良山城はこのときをもって鹿島城とともに廃城となった。
【写真左】西側の削平地
 上記の(B)の部分に当たるか所で、奥に通夜堂が見える。
【写真左】主郭付近
 通夜堂を通りすぎると、主郭に向かうルートがあるが、右側は鎖を伝ってよじ登るコースで、左に回り込むと倒木を利用した橋のような箇所を進む。


 写真にみえる社は恵良神社と思われる。なお、この日このあたりから大型の蜂が数匹飛び回り、盛んに威嚇してきた。恐らくこの社近辺に巣を作っているのだろう。
 できるだけ遠回りしながら北側の郭に進む。
【写真左】主郭東端部の郭
 上記の社裏に当たる箇所だが、全く予想外の平坦地となっており、しかも広い。もっともこの写真の先は断崖絶壁で、端の方には気安く近づけないが…。
写真左】主郭北側
 ぐるっと一周し北側に回ると、御覧の通り岩肌が露出した箇所が増える。

【写真左】主郭から瀬戸内の斎灘を見る。
 恐らく奥に見える島々は、広島県の倉橋島や以前紹介した丸屋城(広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬)がある芸予諸島の蒲刈島などだろう。
【写真左】主郭から鹿島城を見る。
 写真手前に見える島が鹿島で、当島も建武年間(1334~38)、風早郡那賀郷の地頭職・今岡四郎通任が築城した海城といわれている。

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