2011年10月27日木曜日

伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内)

伊予・松山城(いよ・まつやまじょう)

●所在地 愛媛県松山市丸の内●別名 勝山城・金亀城
●築城期 南北朝期(砦)、慶長7年(1602)
●築城者 加藤嘉明
●形態 平山城
●遺構 本丸・二の丸・三の丸・外堀・土塁・石塁・櫓・門
●規模 全周4km
●高さ 標高132m(比高100m)
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年2月19日他

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 伊予・松山城は、現在日本で12か所残る「現存天守」の一つで、西日本でも有数の連立式天守を持ち、その優美さと豪壮さで多くの観光客に親しまれている。
【写真左】本丸遠景
 予想通りこの日(2月19日)多くの観光客が訪れていた。









 湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)でも少し述べたように、松山城が築かれている勝山(味酒山)に最初に城砦が築かれたのは、南北朝期である。当時、湯築城には北朝方がこもり、勝山(松山城)には南朝方が対峙している。

加藤嘉明と足立重信

 現在の松山城の基礎を築いたのは加藤嘉明である。彼は豊臣秀吉の七本槍の一人として、加藤清正らとともに活躍した。文禄4年(1595)7月、朝鮮出兵の論功により、それまでいた淡路の志智城から伊予の松前城へ6万石を授かり移った。

なお、加藤嘉明が松前城へ移ることになった同月(7月)、秀吉は甥で後に養子とした豊臣秀次を高野山に追放、15日には秀次が無念の自害をしている。
【写真左】石垣・その1













 嘉明は松前城に入ったその年から慶長6年(1601)までの6年間、当城の改修や港湾工事を行っている。そして、こうした土木工事の経験が後に松山城へ移ったあとにも生かされてくる。

 特記される工事としては、それまでたびたび洪水を起こしていた「伊予川」を、家臣の足立(半右衛門)重信に命じて行わせ、これ以降、「伊予川」は「重信川」と命名されることになる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、加藤清正らとともに東軍方に従軍し、その活躍が認められ20万石を与えられ、松前城から勝山へ移り、松山城を築くことになる。
【写真左】石垣・その2
 待合番所跡付近から大手門に向かう。










 築城にあたって、その候補地を前述した足立半右衛門(重信)に当たらせている。
候補地となったのは、次の3か所である。
  1. 勝山(松山城)
  2. 天山(H51m:天山神社)
  3. 御幸寺山城(愛媛県松山市御幸)
このころ、各地で近世城郭築城の申請が幕府に提出されている。その際、幕府はおおむね第1候補を許可せず、第2候補を認定する傾向があったといわれ、このことを加藤嘉明らは事前に知っていて、あえて第1候補を天山とし、第2候補を勝山(松山城)としたという。
 結果、予想通り幕府の許可は第2候補である勝山となり、嘉明らの思惑通りとなったという。

 なお、上記のうち御幸寺山は室町時代に山城としてすでに築城さているが、要害性はあるものの、近世城郭を築くには条件が備わっていなかった。天山は施工の面では問題がなかったが、比高が低すぎていた。
【写真左】中の門付近から本丸を遠望
 近世城郭としてほとんどの遺構が復元されているが、さすがに見ごたえがある。







 さて、勝山に築城するにあたって最初に手がけたのが、川違い工事である。

 当時松山城付近は、雨季になるとたびたび洪水が発生し、しかも年中周囲は低湿地帯であったため、これらの問題を解決すべく、川違い工事を行った。

 ここでも土木工事を任せられたのが、足立重信である。かれは松前城の経験が買われ、嘉明から全幅の信頼を置かれていた。

 現在松山城の南東1.5~2.0キロを流れる石手川は、当時松山城の南麓直下を流れ、吉田浜に単独に流れる川であった。

 そこで、この石手川をできるだけ松山城から遠ざけるべく、先年工事した重信川に合流させた。石手川と重信川の合流地点は「出合」という地名だが、その由来はこの川違い工事によるものである。
【写真左】本丸戸無門














松山城築城嘉明転封

 松山城の築城経緯は他の資料で多く紹介されているので、詳細は省くが、普請開始日は、慶長7年(1602)1月15日の吉日である。普請奉行は、先述した足立重信で、下手代奉行には山下八兵衛、その後松本新右衛門が加わった。

 慶長12年(1607)、本丸のあと三の丸が完成すると、嘉明はここではじめて入居することになる。
しかし、その7年後の慶長19年(1614)及び同20年、大阪冬の陣・夏の陣が勃発。工事途中であったにもかかわらず、嘉明は出陣することになる。

 嘉明は徳川方につくが、豊臣方には豊臣家譜代の者のほかに、多くの浪人を抱えた。その中の一人に以前にも紹介した塙直之(塙団右衛門)千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)参照)がいた。
【写真左】太鼓櫓・太鼓門西塀













 彼は鉄砲大将として活躍し、嘉明にも仕えていたが、松前城時代に関ヶ原の戦いなどで軍規違反を犯し、嘉明は彼を除名した。

 除名された団右衛門は、冬の陣において、豊臣方に属し、彼の名が一躍有名になったは、周知のとおりこのときの活躍である。

 ちなみに、この時豊臣方に浪人(牢人)として雇われた武将には塙団右衛門のほか、真田信繁(幸村)、後藤又兵衛(基次)、大谷吉治(吉継の子)、長宗我部盛親など勇名をはせた者が多い。

 さて、嘉明が大坂の陣を終え、伊予に戻り再び松山城の築城を再開してから12年後の寛永4年(1627)2月、嘉明は会津若松へ移封される。これは、会津藩主蒲生氏(忠郷)の内紛が絡み、治政が安定しないと幕府が判断し、嘉明に命じたものだった。嘉明としては松山城の完成を見ずに、移封されることとなったわけで、忸怩たるものがあったと思われる。
【写真左】天守側へ向かう
 写真中央は小天守で、登城道はここから一旦ぐるっと右に旋回する。








蒲生忠知

嘉明に代わって入封したのは、蒲生忠郷の弟で上山藩(現山形県上山市)主であった忠知である。

 その年(寛永4年)6月、蒲生中務大輔忠知は、24万石をもって松山城に入った。そして嘉明が手がけた松山城築城を受け継ぎ、特に二の丸を整備したといわれる。

 忠知が松山城に入ったのは23歳のときであるが、生来の短気が災いし数々の奇行を残している。
寛永11年(1634)8月、参勤交代の帰途、京都で病死した。享年30歳。
【写真左】大天守
 さきほどの道を曲がるとすぐに真正面にみえる。










松平定行

 寛永12年(1635)7月、伊勢桑名城主・松平隠岐守定行が15万石で入封した。定行は入封後すぐには築城工事に取りかからず、5年後の寛永19年(1642)より、未完成部分に取り掛かった。

 このとき、すでにできていた五重の天守を三重に改築している。理由ははっきりしないが、土木工学的には、五重より三重の方が強度があるという説や、今治城主松平定房の勧めもあり、天守を小さくすることで幕府に対し、他意がないことを示すためだったとの説がある。

 さて、この結果松山城は、完成を見るまでに、慶長7年(1602)から40余年もの歳月を要したことになる。
【写真左】内庭付近
北隅櫓、玄関多聞、内門がある。
【写真左】大天守側から見る・その1
【写真左】大天守側から見る・その2

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