2011年10月31日月曜日

宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)

宇和島城(うわじまじょう)

●所在地 愛媛県宇和島市丸之内
●別名 丸串城・板嶋城・鶴島城
●築城期 嘉禎2年(1236)、および戦国期・慶長5年(1600)
●築城者 藤堂高虎
●形態 平山城
●遺構 天守閣・本丸・二の丸・搦め手門
●高さ 標高50m(比高45m)
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年3月18日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 愛媛県南予の中心地宇和島に築かれた平山城である。南予地方はこれまで2,3度訪れているが、豊後と並んで管理人にとって好きな地域である。特に豊後水道を望む入り組んだリアス式海岸を眺めていると、その自然造形美に魅了される。
【写真左】宇和島城
西側の二の門付近から天守を見る。









現地の説明版より

“宇和島城の沿革


 戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
 その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には、伊予の国が小早川隆景の所領となり、持田右京が城代となった。その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり、戸田与左衛門が城代となった。


 文禄4年(1595)、藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築き上げた。
【写真左】藩老桑折(こおり)氏武家長屋門
 北東側の登城口付近にある建物で、宇和島藩家老桑折氏の長屋門を、昭和27年この場所に移設したものという。


 なお、登城口はこの場所のほかに、南側に「上り立ち門(搦め手)」があり、そこからも向うことができる。


 慶長13年(1608)、高虎が今治に転封となり、富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。


 慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後、宇和島城と改めた。
 それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。
 天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。

 宇和島市教育委員会”
【写真左】登城途中
 この付近から「井戸丸」「井戸矢倉」(下の写真参照)が見えてくる。






築城期

 高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)でも少しふれたように、南予地方は鎌倉期にそれまで支配していた橘氏に代わって西園寺氏が支配するようになった。

 ちなみに、橘氏は承平・天慶の乱(936~41)の戦功によって支配をしてきたが、承久の乱(1221)によって没落、代わって西園寺氏が当地を支配するようになる。

 従って、築城期は厳密に言えば、天慶4年(941)ごろと思われるが、中世城砦としてその形を成したのはおそらく鎌倉期、すなわち嘉禎2年(1236)、西園寺公経が統治を治めた時期と思われる。
【写真左】井戸跡(井戸丸)
 宇和島城には3か所の井戸があり、この井戸がもっとも重要なものだったという。直径2.4m、周囲8.5m、深さ11mの規模を持つ。




戦国期

 説明版にある高串道免城主の家藤監物という武将は、西園寺氏の麾下であり、天正3年ごろになると、当城の役目がさらに重要なものとなり、主君である西園寺氏が入城したものと思われる。

 『清良記』という史料によれば、天文年間から永禄年間にかけて、豊後水道を挟んだ対岸の豊後国大友氏が度々南予を攻めている。ただ、このころは宇和島城付近よりも、西園寺氏の本拠であった黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)などが目標とされていた。
【写真左】石垣
 井戸丸を過ぎて二の門に向かう途中に見えた石垣で、下から登ってくると威圧感を覚える。







天正13年(1585)、小早川隆景の所領により城代持田右京が統治するが、2年後の15年には小早川隆景は筑前に転封され、同年10月に豊臣秀吉の家臣・戸田勝隆が、宇和・喜多両郡併せて16万石を領し、大洲地蔵ヶ嶽城(大洲城)に入り、丸串城には戸田信家が城代として入った。

藤堂高虎

 そして文禄4年(1595)7月22日、藤堂高虎が宇和郡7万石に封じられ、丸串城に入城した。このころから丸串城は、板島城とも呼ばれ、のちに宇和島城と改称されていく。現在の宇和島城の原型ができあがるのは、この藤堂高虎の時代からである。
【写真左】櫛形矢倉跡
 二の門を過ぎると二の丸があり、そこからUターンするように本丸に向かう。本丸手前には一の門(櫛形門)があり、西に櫛形門矢倉、東に北角矢倉がある。


 写真はそのうちの西側にある櫛形矢倉跡の石垣に植えられた桜である。
 この日(2010年3月18日)の早朝登城したが、すでに地元の方数人が散歩を兼ねて登城していた。桜の開花は5分咲き程度だったが、城跡の風景と相まって美しい。


 藤堂高虎は加藤清正と並んで築城技術に長けた武将である。特に石垣を高く積み上げ、堀を重視した設計思想に特徴がある。

 宇和島城については、慶長元年8月に修復に着手するも、翌2年に朝鮮出兵し、帰国後5年に再開、翌6年に天守閣がほぼ竣工したとされている。その後高虎自身が行ったものではないが、付属する施設として、月見櫓を増築するため、河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)の天守閣を解体し宇和島城へ移設設置した。慶長9年のことである。
【写真左】鉄砲矢倉跡
 本丸南西部に設置されている。
 石積み2段で、長さは20m弱、幅3m程度か。礎石のようなものが2,3点在している。




 ちなみに、このころの高虎は各地の築城工事のため多忙を極めている。慶長7年には今治城の築城に着手し、竣工後当城を居城とした。そして同13年には伊勢・伊賀22万石に転封し、伊賀・上野城(いが・うえのじょう)・三重県伊賀市上野丸の内を改修した。
【写真左】井戸跡か
付近に表示板のようなものがなかったと記憶しているが、井戸跡かもしれない。
【写真左】御大所跡
 本丸には天守のほか、前掲した櫛形矢倉・北角矢倉・鉄砲矢倉・御弓矢倉のほか、写真にある御大所(御台所)などがある。
【写真左】天守・その1
 三層三階の総塗籠造り。
 1階は6間四方、2階は5間四方、3階は4間四方でバランスをとっている。
【写真左】天守・その2
【写真左】本丸から宇和島の街並みを見る・その1
【写真左】本丸から宇和島の街並みを見る・その2










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2011年10月27日木曜日

伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内)

伊予・松山城(いよ・まつやまじょう)

●所在地 愛媛県松山市丸の内●別名 勝山城・金亀城
●築城期 南北朝期(砦)、慶長7年(1602)
●築城者 加藤嘉明
●形態 平山城
●遺構 本丸・二の丸・三の丸・外堀・土塁・石塁・櫓・門
●規模 全周4km
●高さ 標高132m(比高100m)
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年2月19日他

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 伊予・松山城は、現在日本で12か所残る「現存天守」の一つで、西日本でも有数の連立式天守を持ち、その優美さと豪壮さで多くの観光客に親しまれている。
【写真左】本丸遠景
 予想通りこの日(2月19日)多くの観光客が訪れていた。









 湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)でも少し述べたように、松山城が築かれている勝山(味酒山)に最初に城砦が築かれたのは、南北朝期である。当時、湯築城には北朝方がこもり、勝山(松山城)には南朝方が対峙している。

加藤嘉明と足立重信

 現在の松山城の基礎を築いたのは加藤嘉明である。彼は豊臣秀吉の七本槍の一人として、加藤清正らとともに活躍した。文禄4年(1595)7月、朝鮮出兵の論功により、それまでいた淡路の志智城から伊予の松前城へ6万石を授かり移った。

なお、加藤嘉明が松前城へ移ることになった同月(7月)、秀吉は甥で後に養子とした豊臣秀次を高野山に追放、15日には秀次が無念の自害をしている。
【写真左】石垣・その1













 嘉明は松前城に入ったその年から慶長6年(1601)までの6年間、当城の改修や港湾工事を行っている。そして、こうした土木工事の経験が後に松山城へ移ったあとにも生かされてくる。

 特記される工事としては、それまでたびたび洪水を起こしていた「伊予川」を、家臣の足立(半右衛門)重信に命じて行わせ、これ以降、「伊予川」は「重信川」と命名されることになる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、加藤清正らとともに東軍方に従軍し、その活躍が認められ20万石を与えられ、松前城から勝山へ移り、松山城を築くことになる。
【写真左】石垣・その2
 待合番所跡付近から大手門に向かう。










 築城にあたって、その候補地を前述した足立半右衛門(重信)に当たらせている。
候補地となったのは、次の3か所である。
  1. 勝山(松山城)
  2. 天山(H51m:天山神社)
  3. 御幸寺山城(愛媛県松山市御幸)
このころ、各地で近世城郭築城の申請が幕府に提出されている。その際、幕府はおおむね第1候補を許可せず、第2候補を認定する傾向があったといわれ、このことを加藤嘉明らは事前に知っていて、あえて第1候補を天山とし、第2候補を勝山(松山城)としたという。
 結果、予想通り幕府の許可は第2候補である勝山となり、嘉明らの思惑通りとなったという。

 なお、上記のうち御幸寺山は室町時代に山城としてすでに築城さているが、要害性はあるものの、近世城郭を築くには条件が備わっていなかった。天山は施工の面では問題がなかったが、比高が低すぎていた。
【写真左】中の門付近から本丸を遠望
 近世城郭としてほとんどの遺構が復元されているが、さすがに見ごたえがある。







 さて、勝山に築城するにあたって最初に手がけたのが、川違い工事である。

 当時松山城付近は、雨季になるとたびたび洪水が発生し、しかも年中周囲は低湿地帯であったため、これらの問題を解決すべく、川違い工事を行った。

 ここでも土木工事を任せられたのが、足立重信である。かれは松前城の経験が買われ、嘉明から全幅の信頼を置かれていた。

 現在松山城の南東1.5~2.0キロを流れる石手川は、当時松山城の南麓直下を流れ、吉田浜に単独に流れる川であった。

 そこで、この石手川をできるだけ松山城から遠ざけるべく、先年工事した重信川に合流させた。石手川と重信川の合流地点は「出合」という地名だが、その由来はこの川違い工事によるものである。
【写真左】本丸戸無門














松山城築城嘉明転封

 松山城の築城経緯は他の資料で多く紹介されているので、詳細は省くが、普請開始日は、慶長7年(1602)1月15日の吉日である。普請奉行は、先述した足立重信で、下手代奉行には山下八兵衛、その後松本新右衛門が加わった。

 慶長12年(1607)、本丸のあと三の丸が完成すると、嘉明はここではじめて入居することになる。
しかし、その7年後の慶長19年(1614)及び同20年、大阪冬の陣・夏の陣が勃発。工事途中であったにもかかわらず、嘉明は出陣することになる。

 嘉明は徳川方につくが、豊臣方には豊臣家譜代の者のほかに、多くの浪人を抱えた。その中の一人に以前にも紹介した塙直之(塙団右衛門)千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)参照)がいた。
【写真左】太鼓櫓・太鼓門西塀













 彼は鉄砲大将として活躍し、嘉明にも仕えていたが、松前城時代に関ヶ原の戦いなどで軍規違反を犯し、嘉明は彼を除名した。

 除名された団右衛門は、冬の陣において、豊臣方に属し、彼の名が一躍有名になったは、周知のとおりこのときの活躍である。

 ちなみに、この時豊臣方に浪人(牢人)として雇われた武将には塙団右衛門のほか、真田信繁(幸村)、後藤又兵衛(基次)、大谷吉治(吉継の子)、長宗我部盛親など勇名をはせた者が多い。

 さて、嘉明が大坂の陣を終え、伊予に戻り再び松山城の築城を再開してから12年後の寛永4年(1627)2月、嘉明は会津若松へ移封される。これは、会津藩主蒲生氏(忠郷)の内紛が絡み、治政が安定しないと幕府が判断し、嘉明に命じたものだった。嘉明としては松山城の完成を見ずに、移封されることとなったわけで、忸怩たるものがあったと思われる。
【写真左】天守側へ向かう
 写真中央は小天守で、登城道はここから一旦ぐるっと右に旋回する。








蒲生忠知

嘉明に代わって入封したのは、蒲生忠郷の弟で上山藩(現山形県上山市)主であった忠知である。

 その年(寛永4年)6月、蒲生中務大輔忠知は、24万石をもって松山城に入った。そして嘉明が手がけた松山城築城を受け継ぎ、特に二の丸を整備したといわれる。

 忠知が松山城に入ったのは23歳のときであるが、生来の短気が災いし数々の奇行を残している。
寛永11年(1634)8月、参勤交代の帰途、京都で病死した。享年30歳。
【写真左】大天守
 さきほどの道を曲がるとすぐに真正面にみえる。










松平定行

 寛永12年(1635)7月、伊勢桑名城主・松平隠岐守定行が15万石で入封した。定行は入封後すぐには築城工事に取りかからず、5年後の寛永19年(1642)より、未完成部分に取り掛かった。

 このとき、すでにできていた五重の天守を三重に改築している。理由ははっきりしないが、土木工学的には、五重より三重の方が強度があるという説や、今治城主松平定房の勧めもあり、天守を小さくすることで幕府に対し、他意がないことを示すためだったとの説がある。

 さて、この結果松山城は、完成を見るまでに、慶長7年(1602)から40余年もの歳月を要したことになる。
【写真左】内庭付近
北隅櫓、玄関多聞、内門がある。
【写真左】大天守側から見る・その1
【写真左】大天守側から見る・その2

2011年10月19日水曜日

荏原城(愛媛県松山市恵原町)

荏原城(えばらじょう)

●所在地 愛媛県松山市恵原町●別名 恵原城・会原城・柵居城・平岡城
●築城期 南北朝期以前
●築城者 不明
●城主 大森盛直、平岡房実・通資・通倚・通房等
●形態 平城(沼城)
●遺構 水堀・土塁・郭
●規模 125.4m×105m
●指定 愛媛県指定史跡
●登城日 2011年9月14日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻)
 松山市を東西に流れる重信川の南岸にあって、同川の支流御板川沿いの恵原町に所在する平城である。

 この付近の地勢は全体に低丘陵地で構成され、大小の多くのため池があり、また古墳が多く点在していることから、古来より生活が行われていたところである。
【写真左】荏原城入口付近
 ほぼ全周囲が水堀で囲まれているが、唯一南側が外とつながっており、ここから中に入ることができる。





現地の説明板より

“荏原城跡
   愛媛県指定史跡
   昭和25年10月10日指定

 この城跡は、室町時代から戦国期、伊予の豪族河野家十八将の首位であった平岡氏代々の居城跡である。


 高さ5mほどの土塁を周囲に築き、方形の平地で、長さは約東西130m、南北120m、堀の幅は北側20m、西と東は14m、南は10mで、南側で外とつながっている。
 四隅に櫓があったらしく、西南の隅には石積みがある。矢竹が植えられているのは、この期の城塁に共通する特色である。
【写真左】説明版と石碑
 東側の土塁登り口付近に設置されている。









 建武2年(1335)、忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前である。


 土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正13年(1585)平岡通倚みちより)の時、秀吉の四国統一により、道後湯築城と共に落城した。
 松山市 松山市教育委員会”
【写真日左】東側の土塁
 荏原城の土塁は良好に残っており、歩きやすい。










築城期

説明板にもあるように、築城期が建武2年(1335)以前、すなわち南北朝期以前とされている。

 『忽那一族軍忠次第』という史料では、この荏原城において、同年(建武2年)12月29日から翌3年2月の間、北朝方の武将大森盛直(砥部庄)と、南朝方の忽那一族が戦ったと記されている。
従って、荏原城の築城期はおそらく鎌倉後期だろう。
【写真左】土塁に囲まれた平坦地
 現在は色々な樹木が植えてある。
 当時、この中に平岡氏などの館が複数建てられていたのだろう。






平岡氏

城主の名が具体的に記されているのは、天文年間(1532~55)以降で、平岡氏の名が残る。ただこの平岡氏がいつから当城の城主となったかは明らかでない。

 文安年間(1444~49)頃、河野一族内で惣領家と庶子家が争った際、平岡氏が忽那氏に対し河野本家(惣領家)に忠節を尽くすよう申し送った書状があり、南北朝時代には平岡氏が砥部・恵原地域を治めていた可能性が高い。
 もっとも、この平岡氏は文亀3年(1503)、下総守の時代砥部の千里城で河野氏に背いてはいるが…。
【写真左】土塁に祭られている祠
 土塁をぐるっと反時計方向に回っていくと、西側で一旦土塁が途切れるようになったところがある。


 この位置に写真に見える祠が祀られている。
 祠の左側に石碑が建っているが、奉納者名が平岡・水口という名が刻んである。平岡氏はおそらく、当城主であった平岡氏の末孫だろう。



当城における平岡氏の世襲は、房実・通資・通倚・通房と続いた。戦国時代末期もっとも警戒したのは、土佐の長宗我部元親である。


 当時土佐から伊予河野氏の本拠であった湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)を攻め入るルートとしてこの荏原城が立ちはだかることになる。具体的な合戦の記録は残っていないようだが、当城の役割は重要なものだったと思われる。
【写真左】土塁内部から北を見る。
 土塁側には全区域に樹木が生えているため、全体の遺構が分かりにくいが、中に立つと予想以上に広い館跡地である。
【写真左】西側の外堀
 水の循環が悪いせいか、堀の中の水は淀んでいる。
【写真左】東側の外堀

2011年10月17日月曜日

湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)

湯築城(ゆずきじょう)

●所在地 愛媛県松山市道後湯之町
●築城期 建武3年(1336)
●築城者 河野通盛
●別名 湯月城
●形態 平山城
●高さ 72m
●遺構 外堀・内堀
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年2月19日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
 伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内)とともによく知られた平山城で、建武年間に河野通盛によって築かれた。
【写真左】湯築城の土塁
 湯築城の特徴としては、外堀と内堀及び、土塁が挙げられる。
 写真は内堀の一部で、内回り約820m余りある。



現地の説明板より

“ようこそ、道後公園/国史跡湯築城跡へ
(中略)
 この公園は、地元住民や観光客の散策や休息の場として利用されているほか、桜の名所となっており、多くの人が花見などに訪れ広く親しまれています。

 公園の一角には、松山市立子規記念博物館があり、正岡子規の俳句、短歌、小説、水彩画などのほか、松山とかかわりの深い文化人などの資料が収集・展示されており、松山の伝統文化や文化についての認識と理解を深めることができる場となっております。
【写真左】湯築城配置図
 現在の姿を現したもので、南側から西側にかけて復元化され整備されている。













 道後は古くから開けていた地域で、道後温泉は三千年の歴史をもつ日本最古の温泉といわれています。

 公園周辺には、四国遍路八十八か所第51番札所の石手寺や、伊佐爾波(いさにわ)神社、一遍(いっぺん)上人の生誕地といわれる宝厳寺(ほうごんじ)など、歴史のある社寺も多く、愛媛を代表する歴史・文化・観光の中心地となっています。

 公園内南側の動物園のあった区域では、昭和62年(1987)10月に動物園が閉園した後、埋蔵文化財発掘調査を実施したところ、中世当時の湯築城の武家屋敷跡や土塀跡、道、排水溝などの遺構や、陶磁器などの遺物が数多く出土しました。

 このため、武家屋敷や土塀の復元などを内容とする文化財を活かした公園として平成10年(1998)度~平成13年(2001)度にかけて整備を行い。平成14年(2002)4月、リニューアルオープンしました。
【写真左】土塁跡
 外堀と内堀の間に設置されたもので、規模が大きく、高いところでは4mぐらいあるだろうか。






 湯築城は、中世の伊予国守護河野氏の居城でした。南北朝期(14世紀前半)から戦国期(16世紀末)まで、250年以上にわたって伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。

 現在の道後公園全体が湯築城跡(南北350m、東西300m)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。

 築城当初は、丘陵部を利用した山城でしたが、16世紀前半に外堀と外堀土塁を築き、現在の形態になったものと推定されます。また、江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手(表)西側が搦手(裏)と考えられます。
【写真左】外堀
 幅は10~15m程度で、外回り約930m余りある。
 この写真に見える道路を奥に向かうと、伊予松山城へつながる。



 
 河野氏は、風早郡河野郷(北条市)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180~85)で、河野通信が源氏方で功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ました。
 承久の乱(1221年)で没落するものの、元寇(1281年)で通有が活躍し、確固たる地位を築きました。
 また、鎌倉時代には、河野氏から出た一遍上人が時宗を興しました。南北朝期、通盛の頃には本拠を河野郷から道後の湯築城へと移しました。


 その後有力守護細川氏の介入や、一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ、伊予支配を維持しました。
【写真左】いこいの広場付近
 西側にある位置で、外堀と内堀の間に挟まれた平坦地。
 文字通り市民の憩いの広場で、夕方ともなると多くの人が散歩やウォーキングなどに訪れる。
 桜の木が沢山植えてあるようだ。



 庶子家との争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化しました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより、小早川隆景に開城し(1585)、河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。


 管理者:コンソーシアムGENKI 道後公園管理事務所/湯築城資料館(089-941-1480)
 湯築城資料館や復元された武家屋敷では、湯築城や河野氏にまつわる歴史の詳細をご覧いただくことができます。
【写真左】丘陵広場
 内堀を超えて中央部の丘陵部分に登っていくと、御覧の広場が見える。
 規模は25m×100mで、河野氏の別邸「湯の館」があったところとされている。


 この場所から南に向かい更に高くなったところに展望台(下の写真参照)があるが、これらを含めた区域は、本壇とされている。


河野通盛

 湯築城を築いたとされる通盛は、当時の河野氏惣領家であるが、南北朝期他の地域と同じく、同族間にあって、北朝方と南朝方に分かれるという構図が生じている。通盛らは北朝方であったが、一族である土居・得能氏及び忽那(つな)・村上氏などは南朝方に与した。

【写真左】展望台
 湯築城の最高所で、高さ72m。
当時、この場所には望楼が築かれていたといわれる。






 暦応4年(1341)11月、土居通世・忽那義範らが湯築城を攻めた。この戦いは翌年の3月まで続き、湯築城は陥落した。しかし、足利尊氏が近隣の武家方であった細川皇海に、通盛への援助を命じ、安芸・土佐からの軍を率い、再び通盛は湯築城を奪還することになる。
【写真左】湯築城展望台から西方に松山城を遠望する。
 湯築城から松山城までは直線距離で約2キロほどである。松山城は高さ132mであるから、湯築城の約2倍近い高さとなる。



 ところで、湯築城西方にある現在の松山城は、当時味酒山(勝山)といい、南朝方の拠点であった。湯築城がこの場所に築城された理由の一つは、この味酒山(松山城の前身)に籠る南朝方を攻略するためだったかもしれない。
【写真左】展望台から東麓を見る
 湯築城の東側にはグランドやゆうぐ広場といった施設が設置されている。






戦国期

 享禄年間(1528~32)湯築城主の継嗣をめぐって内部対立が勃発した。このころ城主は、弾正少輔通直であったが、嫡男がいなかったため、女婿である来島城(愛媛県今治市波止浜来島)主村上通康を迎え入れようとした。これに対し、重臣のほとんどが異を唱え、分家である予州家河野通存を擁して湯築城を攻撃した。このため、通直は通康とともに湯築城から来島城へ逃げ込んだ。

 その後、家督は通存の子通政に譲られるが、通政が早世したため、通直は再び復帰する。この争乱はのちに来島騒動と呼ばれるようになったが、背後には大内氏・大友氏・一条氏・尼子氏・安芸武田氏など近隣の権力者たちによる内部干渉も絡んだものだった。
【写真左】湯釜
 湯築城の最北端部にある。
この湯釜は日本最古で、湯釜薬師が祀られてる。

2011年10月13日木曜日

宮崎城(愛媛県今治市波方町宮崎)

宮崎城(みやざきじょう)

●所在地 愛媛県今治市波方町宮崎
●築城期 貞観9年(867)・又は室町時代
●築城者 伊予海賊・又は来島村上氏
●形態 海城
●高さ 30m前後
●廃城年 天正14年(1586)
●登城日 2010年10月11日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
 前稿「遠見山城」でも少し触れたが、波方館を支えた諸城砦の一つで、西方に突き出した宮崎地区の南岸に築かれた海城である。
【写真左】宮崎城遠望
 写真の車が止まっている所から城域となる。写真に見える部分は二の丸。
 右に見える民家は本丸東麓部となる。





現地の説明板より

“⑥ 宮崎城跡
 この城跡は、最も優れた海賊城で、ピット(桟橋跡柱穴)、堀切などの城郭跡がはっきり残っており、本来港湾の監視を主な目的とするもので、根城を中心に港の出入口等の丘陵上の要衝(軍事上大切な場所)に城砦(砦)を配置した典型的な城跡ともいえる。


 鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在であったが、江戸時代に入り廃止となった。”
【写真左】「波方町ふるさとこみち案内板」
 道路脇に設置されているもので、色がだいぶ薄くなり、番号の位置がかすれているため、各史跡の場所がはっきりしない。


 宮崎城は、「宮崎漁港」と書かれた付近の海岸部に位置している。



上記説明板の⑥の番号は、下段に示す「波方町ふるさとこみち案内板」に図示された史跡表示№で、この区域の他の城砦としては、
  • ① 梶取鼻砦
  • ⑤ お頭の家跡
などが表示されている。また、当該案内図には図示されていないが、西南端の御崎には、「御崎城」という城砦も記録されている。

 ところで、当城の概要を示した説明板には記されていないが、『三代実録』という史料によれば、宮崎城の初見は、貞観9年(876)に「…伊予国宮崎村海賊群居掠奪尤切…」と記され、すでにこのころから瀬戸内近海に多くの海賊集団が跋扈していたことがうかがえる。

 そしてこれら海賊集団の末裔は室町期に至って、来島村上氏の手兵として組織化され、宮崎の地にもこうした中世の海城形態の城砦が配置されることになる。
【写真左】宮崎城の二の丸付近
 現在は道路があるが、当時は二の丸から直下で海に出て行く形状だったと思われる。








 写真の説明でも述べたように、この日城下まで来たものの、城域となっている箇所が民家の軒先のような位置に見えたこともあり、遺構の残る現地まで踏査していない。

 宮崎城要図によれば、規模は総延長200数十メートルに及び、南端部に二の丸を置き、空堀を介して細長い本丸が続き、一旦鞍部(堀切)を渡して詰の郭が尾根伝いに伸びているという。

遠見山城(愛媛県今治市波方町郷)

遠見山城(おみやまじょう)

●所在地 愛媛県今治市波方町郷
●別名 海山城(砦)
●築城期 貞観年間、承平年間
●築城者 村上氏
●高さ 標高155m
●遺構 一部犬走り
●登城日 2010年10月11日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
 瀬戸内しまなみ海道を本州側から走ってくると、四国今治市の来島海峡SA手前で本道が大きく左にカーブする箇所がある。
 この付近から天気がいいと、正面に模擬天守のようなものが見える。
これが今治市波方郷にある「海山城公園」の展望台である。
この公園一帯が旧海山城(遠見山城)とされている。
【写真左】遠見山城近影
 最高所には天守台を模した展望台が設置されている。








現地の説明板より

海山(遠見山)砦


 遠見山(現在は海山という)とは、遠見番所(見張所)に由来する地名であるが、ここには大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。


 中世初頭には、現在の養老地区の「別台(べだい)」に「館(やかた)」を構えた在地勢力があり、海山を「詰の城」として活用していたが、室町時代に来島村上氏が勢力を増し、その勢力下に吸収された。
【写真左】海山城展望公園の配置図








 守りの拠点であった海山の砦も「来島城」や「波方館」防衛のための水軍城砦群の一つとなったが、来島氏も海山を重視し、ここに遠見番所を置いた。
 しかし、関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後は、砦も壊され、当時の遺構の面影は失われ、犬走りの一部がわずかに散見されるのみである。


 この城塞型の展望台は、構造、規模は異なるが、当時の面影を偲んで建設したものである。


 波方町  波方町教育委員会”
【写真左】展望台(主郭跡か)
 公園化した段階で遺構は相当改変されたと考えられる。現地には当時の縄張図のようなものはなく、上掲した説明板のみが残っていた。





 説明板にもあるように、16世紀頃に至って、それまで本拠としていた村上氏は、居城・来島城(愛媛県今治市波止浜来島)から西方の波方浦に移した際、当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した。

このとき本館としていたのが、波方館で、ここを中心に四周にわたって小砦を配置した。

 今稿の遠見山城はそのうちの南方を担う城砦である。ちなみに、他の主だった城砦としては、東岸部では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦があり、北岸部では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、黒磯城、西岸部では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがある。

 なお、遠見山城の遺構として『日本城郭大系第16巻』では、「土塁」があると記されているが、当日その箇所を確認できなかった。
【写真左】展望台から東方に瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)を見る。
 手前が四国来島(小浦町)で、その先に「馬島」、さらに先の島が大島になる。

 なお、来島城がある来島はこの写真には載っていないが、左側になる。



合戦の記録

 天文10年(1543)、村上通康来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)による河野家の家督相続をめぐり、同族内で反対派が蜂起し、来島城を攻撃したという。このときの合戦の場所は、遠見山城付近ではなく、来島領辺りとされているが、その後天正9年(1581)になると、能島・因島の水軍能島城・その1(愛媛県今治市宮窪町・能島)参照)が波方浦へ攻めよせたときは当城もふくめた広い範囲で戦いが行われたという。

 その際、当時の村上通総は来島城を脱出奔走した。その後、秀吉による四国征伐の際、一時通総は波方館に戻ったが、翌14年風早郡へ移封され、この段階で波方館を中心とする城砦はすべて廃城となった。
【写真左】展望台から南方に石鎚山系を見る。
 頂上部がかすかに見えているが、視界が良いともっと鮮やかに見えるだろう。
【写真左】東麓に来島海峡を望む。