2011年5月31日火曜日

院庄館(岡山県津山市院庄)

院庄館(いんのしょうやかた)

●所在地 岡山県津山市院庄
●築城期 鎌倉初期
●種別 館跡
●遺構 土塁・井戸・濠
●規模 150m×200m
●指定 国指定史跡
●登城日 2008年2月22日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」「図説岡山県の歴史」等)
 津山市の西方にあって、鏡野町から下ってきた吉井川が東に迂回する位置に所在する。院庄館が歴史上登場するのは、『太平記』にみえる後醍醐天皇の忠臣・児島高徳との出会いでとくに有名である。
【写真左】院庄館
 濠が残る。













現地の説明板より

史跡 院庄館跡
   国市指定史跡
    (大正11年3月8日指定)


 院庄館跡は、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館跡と推定される遺跡です。
 ここはまた『太平記』に登場する後醍醐天皇児島高徳の伝承の地としても有名であり、明治2年には館跡の中央部に作楽(さくら)神社が創建されました。

 大正時代の館跡周辺の切絵図には「御館」「御館掘り」「掘り」等の地名が見られ、当初の館の区域は現在の史跡指定地よりさらに大規模なものであったと推定されます。

 また、「方八十間(ほうはちじゅっけん)」といわれた広大な館跡からは、昭和48年から49年と55年から56年に行われた発掘調査によって、井戸跡、建物の柱穴等が検出されました。

 現在、館跡の東・西・北の三方には、幸いにも延長約500mにわたる土塁が残っており、往時をしのばさせています。
   津山市教育委員会”
【写真左】院庄館跡切絵図
 現地に設置されているもので、国指定を受けた大正11年頃に作成されている。

 現在中央には作楽神社が祀られ、遺構としては周囲をめぐる濠や土塁が残る(他の写真参照)。









児島高徳(こじまたかのり)

 児島高徳の出生地についてははっきりしないが、その姓から考えて、南方の児島地方の出と考えられる。父は和田備後守範長で、このことから、高徳の名も、別名、備後三郎・三郎・備後守・三郎入道志純ともいわれている。

※関連投稿
 上寺山館(岡山県瀬戸内市邑久町北島)

 「太平記」で高徳が活躍する期間は、後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、当地(院庄)に立ち寄ったときから、観応3年・正平7年(1352)までの約20年間とされている。
 
 高徳はまた、一時その名を三宅三郎高徳とも名乗っており、このことは児島の熊野五流山伏や伊予国の河野氏などとも接点を持ち、水軍領主としての一面も見える。

 隠岐を脱出し、船上山に登った後醍醐天皇の許に駆け付けた一族については、名和長年(5)船上山周辺の動きでも述べたように、備前からは、今木・大富幸範・知間親経・藤井・射越範貞・小嶋・中吉・美濃権介・和気季経・石生彦三郎がおり、さらに記録上児島高徳は載っていないが、彼の父・和田備後守範長の名が見える。
【写真左】土塁
 外周部に残っているもので、高さは1.5m程度か。









 この備前から駆け付けた一族は、ほとんど豊原荘(現在の瀬戸内市邑久町)を根拠とするもので、当時当地における「悪党」であったという。東大寺領備前国豊原荘雑掌宗朝の訴えによれば、彼ら悪党によるたびたびの違勅・狼藉があり、隣国の御家人らにその制圧を指示している。

 児島高徳は、名和長年らと同じく一貫して後醍醐天皇(南朝)に随従した。足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かち、北朝方を率いた時、備作地方(岡山県)の国人たちも多くは、その後尊氏派に属し、その末孫は室町・戦国時代へと続いていく。庄(荘)・三村・松田の一族らがその例である。

 これに対し、最期は播磨国坂越(現、赤穂市坂越)で病死したといわれる児島高徳の血をひく者は、200年後登場した宇喜多直家砥石城・その1(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)参照)まで待たねばならない。詳細は不明だが、直家の父能家(よしいえ)は、高徳の後胤といわれている。
【写真左】館井戸跡
 昭和49年の調査で発見されたもので、地表下50cmのところにあって、上部は口径60cmの円形、河原石によって枠を組んでいた。

 この井戸の中から須恵器片、土師質・瓦片などが出土し、鎌倉時代のものとされている。

【写真左】作楽(さくら)神社
 明治2年11月27日創建されたもので、祭神は、後醍醐天皇と児島高徳。




当地の由緒より

“元弘2年(1332)北条幕府のために隠岐に流される途中の後醍醐天皇が、この地にお宿りになり、児島備後三郎高徳が桜の幹を削って「天匂践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」と記して天皇をお慰めした故事により、貞享5年(1688)津山藩森家の執政長尾勝明が顕彰碑を建て、のち、松平家の家臣道家大門らの努力によって神社が鎮祭された。

 境内地は約1万坪、鎌倉時代の守護職の館であった。大正11年、「院庄館跡、児島高徳伝説地」として国指定の史蹟となった。社宝の太刀(銘、来国行)は、国指定の重要文化財である。
境内神社  護桜神社
        水神祠
(平成11年11月 鎮座130周年記念)”



 前文の由緒にある津山藩森家の執政長尾勝明は、以前取り上げた備後の五品嶽城の城主であった長尾隼人本願禅寺及び衆楽園(岡山県津山市山)参照)の末孫と思われる。
【写真左】神楽殿
 児島高徳にまつわる芝居を全国的に広めたのは、オッペケペー節で有名な川上音二郎である。

 彼は、晩年児島高徳が祀られているこの作楽神社(院庄館)を訪れた際、あまりの荒廃を嘆いて、自費で拝殿と石橋を寄進した。

 この写真にある神楽殿は、音二郎が当時拝殿として寄進したもので、その後神楽殿として使用されているという。

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