2011年4月4日月曜日

備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)

備前・茶臼山城(びぜん・ちゃうすやまじょう)

●所在地 岡山県赤磐市周匝(すさい)
●築城期 天文初年(1532)
●築城者 笹部勘二郎
●形態 山城
●標高/比高 172m/110m
●遺構 郭・土塁・堀切・井戸等
●登城日 2008年2月22日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 当城は備前国北端部に当たる位置にあり、吉井川と美作国から流れてきた吉野川の合流地点に築かれた山城で、戦国期いわゆる境目の城として戦略的要塞であった。

【写真左】茶臼山城
 天守跡には模擬天守が建っている。











現地の説明板より

茶臼山城址

位置
 岡山県立備作高等学校の背後に聳える茶臼山(標高約180m)の上にあり、前は吉井川に沿える周匝平野、後は津山川を隔てて、飯岡平野を望み、景観は非常に優れている。

遺構
 本丸は東南に向かって広い楕円形をなし、二の丸はその西続きの山頂に、とりでは津山川に臨む大仙山の上にあり、他に出丸・太鼓丸・空堀・井戸・小池・土塁などの跡が遺り、当時として相当の防備を持つ代表的な山城である。

事歴
 戦国の昔、安芸の国より来た佐々部亦次郎が改築を行い、天神山城主浦上宗景に属して、勢を振ったが、子の勘斎貞利に至り、宗景を滅ぼした宇喜多直家方の延原弾正を撃ち破ったことにより、天正7年3月、直家に攻められて、城と運命を共にしたのである。
 なお、津山川に面した一の谷には、勘斎の子の千千代の墓がある。”
【写真左】入口付近
 小規模ながら整然とした造りである。












笹部氏の出自

 「備前軍記」によれば、浦上宗景の麾下であった笹部勘二郎が天文初年(1532)頃に築いたとされている。

 この笹部勘二郎は、説明板にもあるように「安芸の国より来た」とある。この笹部氏はおそらく広島安芸高宮の面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)や、牛首城(広島県安芸高田市高宮町佐々部五十貫部)の城主だった佐々部氏の一族と思われる。

 安芸の佐々部氏は、元々当地に勢を張った高橋氏に属し、大永5年(1525)過ぎ、高橋氏が滅亡した後、宍戸氏に属している。その後佐々部氏は大半が毛利氏に属することになるが、大永5年すぎの高橋氏から離れた同氏の一部が、この備前国周匝にやってきたと思われる。
おそらく、安芸佐々部氏を勧誘したのは、浦上氏であろう。

【写真左】模擬天守
 中には展示物が置いてある。










宇喜多直家の攻略

 天正5年(1577)浦上氏滅亡後、それまで宗景に従っていた国人層や名主層は、なおも宇喜多氏に従わず、美作国の三星城(岡山県美作市明見)主・後藤勝元をリーダーにして、笹部勘二郎もこのグループに入っていた。

 このため、宇喜多直家天神山城(岡山県和気郡和気町田土)参照)は美作国の奪取の前には、備前最北端のこの茶臼山城を攻め落とす必要があった。天正7年、直家は大軍をもって当城に攻め込み、攻略した。笹部氏側は多勢に無勢で城と共に討死した。以後当城は廃城となった。

【写真左】東側に伸びた腰郭その1
 茶臼山城の規模は、さほど大きなものではない。
 本丸付近は7,80m四方、でそこから南西の方向100m付近には二の丸(出丸)があり、更に当日探訪していないが、西北西250mの谷を隔てたところには8条の堀切群が単独に残る。
【写真左】腰郭その2
 訪れたこの日、現場には整備工事中だったのか、袋などがあった。
【写真左】腰郭その3
 北東部に伸びた郭で、三角形の形を成している。
 写真奥に見える川は、左側が吉井川、右上の川が吉野川。
大型竪穴遺構

 当城で特筆されるのが、「大型竪穴遺構」である。山城遺構の中でこうしたものがあるのは管理人の知る限りここだけである。

【写真左】大型竪穴遺構その1
 説明板より

大型竪穴遺構
 復元したこの遺構は、長径約9m、短径約7mの楕円形で、深さは4.5mである。

 1.5m下がった所に踊り場があり、底には長方形(2.6×4.8m)の床面があり、この中からは炭・焼土・灰とともに備前焼(大甕、甕(かめ)、擂鉢、徳利、壺、土師器、鉄製品、陶磁器、青磁、白磁、天目染め等)古銭(永楽通宝など)室町時代中期の遺物が出土した。

 復元は、竪穴内にある二本の大きな柱を根本柱とし、遺構周囲に検出された柱を、又首として組立てたものと推定して復元したものである。

 この竪穴は、人間が住むうえで十分な空間を持っているため、貯蔵も兼ねた居住施設であったと考えられる。戦国時代の城郭でこのような遺構の発見例は珍しく、極めて重要な遺構である。
(出土した遺物は町役場横郷土資料館に展示してある)”
【写真左】大型竪穴遺構その2
 格子窓から写したため、余り精度はよくないが、かなり大きな穴であることはわかる。






空のお塚(上のお塚)

本丸手前の位置に周匝領主だった池田家の墓地がある。
江戸期、備前領主として岡山城に入った池田氏は、周匝地域を一族や譜代の家老の知行地として宛がい、池田伊賀守が陣屋を構えた。

【写真左】「空のお塚」その1

明細は次の通り

“位置
 茶臼山城(周匝城)の西続きの山の中にある。
周匝領主池田家世代
池田長政(初代)-長明(2代)-長久(3代)-長喬(4代)-長處(5代)-長仍(6代)-長玄(7代)-長紀(8代)-長貞(9代)-長常(10代)-長準(11代)-長康(12代)
墓碑
 空のお塚(上のお塚)と呼び、『東の塚』8基と『西の塚』4基とである。
東の塚
 2代 池田伊賀守長明(1606~78)72歳
      備前州老池田長明之墓

 3代 池田大学長久(1645~97)52歳
      義雲院殿前國子監乾外全龍大禅定門
    香昌院殿梅獄法春大姉 

 4代 池田主殿長喬(1676~1723)47歳
    亮心院殿前典設局一山禅徹大禅定門

 5代 池田大学長處(1695~1754)59歳
     常照院殿前國子監超翁天心大居士神儀
    法壽院殿松室貞操大姉淑霊
      池田主殿長宗
    真観院殿倚天元凛大居士神儀
【写真左】「空のお塚」その2
西の塚
 6代 池田近江守長仍(ながより)(1725~91)66歳
     備前州老池田長仍墓
    善性院殿涼宵浄圓大姉淑霊

 7代 池田大和守長玄(ちょうげん)(1741~1814)73歳
     徳源院殿前和州孤山静翁大居士神儀
    良壽院殿延実昌慶大姉淑霊

 なお、初代長政、8代長紀(ながとも)、9代長貞の墓は、茶臼山麓の大竜寺跡の上にあり、『通称新のお塚』と呼ばれる。”

【写真左】「空のお塚」その3
【写真左】本丸から北方に吉野川を見る
 前記したように、写真下の川が吉井川で、上に見えるのが吉野川である。この吉野川の両岸から美作の国に入る。

 また、この写真の左に少し見える山は、鷲山城といい、茶臼山の出城もしくは、向城として使用されたという。

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