2011年4月26日火曜日

美作・高田城 その2

美作・高田城 その2

はじめに

 今稿は、前稿で少し紹介した「出丸(太鼓丸)」と西麓に残る「三の丸」、及び三浦貞勝の妻で後に宇喜多直家に嫁いだ「お福」を取り上げたい。

出丸(太鼓丸)

 本丸のある如意山は標高322mで、南方の出丸(太鼓丸)が築かれた山が、勝山といい、標高261mである。これら二つの山を合わせて、「大総山」という。
 出丸あるいは出城ともいわれているこの太鼓山は、本丸に比べ当然その規模は小さいが、現地を踏査してみると、思った以上の遺構を見ることができる。

 なお、現在残る出丸の主だった遺構は、明和元年(1764)、三浦明次が真島郡23,000石の領主となり、本丸の修復及び、この出丸に太鼓櫓を設置したといわれ、その時、高田城を「勝山城」と改称したといわれている。
【写真左】鼓城橋(こじょうばし)
 本丸と出丸の間にかけられている橋で、近年のものであるが、この下を道路が走っている。
   
 現地には何も書かれていなかったが、元々出丸東麓にあった東虎口から伸びるルートでもあったことから、この谷間は事実上の堀切を兼ねていたのではないかと思われる。
 なお、写真の右側が本丸で、橋の向いが出丸に繋がる。
【写真左】鼓城橋を渡り切った出丸側から本丸を見る。
 写真上段部に二の丸(野球場)が設置されている。
【写真左】堀切
 出丸の中で最もはっきりと残る堀切で、この付近には番所らしき平坦地が認められた。

【写真左】登城途中から北方に本丸を見る。
 樹木が遮り、登城途中の眺望は余り期待できないが、中腹付近から本丸を見ることができる。

【写真左】出丸主郭付近
 登城路後半から階段は設置されているものの、かなり傾斜がきつくなる。少し息切れしそうになったところで、主郭にたどり着く。
 写真の附近は20m四方程度だが、主郭の下東方から南方にかけて2,3段の郭が残る。

【写真左】主郭の下に残る帯郭
 写真右に主郭があり、この写真にみえる郭段が最も規模が大きく、東方から南方にかけて連続した郭構成となっている。
 また、更にこの下にも小規模な郭が残っているが、部分的に歩道(ウォーキングコース)が設置されたため改変されている。

【写真左】カンカン井戸
 上の写真にも見えているが、小規模な井戸跡がある。
 深さは5m以上あるとのこと。また説明板には「井戸は抜け道で、西側の町裏へ続くといわれているが、あり得ない」と書かれている。


三の丸遺跡

 本丸の西麓には、三の丸遺跡がある。市役所の隣に残されているもので、三浦氏時代の15世紀ごろから、江戸初期の森氏城番ごろまでの館跡とされている。
【写真左】三の丸跡
 石垣・鍛冶炉・井戸・溝など生活感の残る遺跡である。

 現地の説明板より抜粋しておく。

“……本遺跡を調査した結果、室町時代前期から江戸時代初期にわたる建物や、遺物が出土した。その中には大型の掘立柱建物や、瓦葺の建物・茶の湯にかかわる天目茶碗・輸入された中国製の陶磁器・武具・碁石・鉄漿付皿(かねつきさら)などの文化程度の高い武士の生活が営まれたと考えられ、15世紀の三浦氏から継続して、17世紀初頭の森氏の城番までの館跡の一部と推定される。

 平成15年3月、本遺跡が勝山にとって、貴重な歴史的価値があると判断して、現状に近い形で保存することになり、平成16年11月に保存整備が完成した。
真庭市教育委員会”


「おふくの方」

 さて、現地には、城主三浦貞勝の代に正室だった「おふくの方」について、詳しい略歴が紹介されている。

高田城(勝山)
 城山は、本丸を如意山といい、その南麓に二の丸と出丸があり、出丸を勝山と呼んだ。両山をあわせて大総山または、大津夫良山ともいい、これを総称して高田城と名付けた。
 高田城の築城は、三浦貞宗によると伝えられ、8代貞連の孫貞久が天文元年(1532)に城主となり、高田城は戦国時代に入る。

 西美作の軍事交通上の要衝であった高田(勝山)は、はじめ山陰の尼子氏が、次いで備前の宇喜多氏が、また西からは安芸の毛利氏が侵攻してきた。
 高田城を巡っての戦国の争奪戦については、種々の話が伝わっている。

【写真左】高田城本丸遠望

 天文13年(1544)、山陰の尼子氏が侵攻してきたが、まもなく尼子氏の勢力も衰え、永禄2年(1559)高田城を奪回し、貞久の嫡子三浦貞勝を城主とした。


 高田城第11代の三浦貞勝の正室「おふくの方は、後に石山城主(岡山市丸の内)宇喜多直家の室となり、秀家を産む。岡山城を築城した築城した宇喜多秀家の生母は「おふくの方」であった。

 「おふくの方」と桃寿丸は密かに城を脱出し、備前津高郡下土井村(現在の加茂川町)の縁故先にたどり着く。そこで宇喜多直家に匿われ、宇喜多氏の居城亀山城に送り込まれた。

 直家は、桃寿丸を我が子同様に養育につとめていたが、「おふくの方」の悲願であった桃寿丸を立て、高田城再興の夢も、桃寿丸が地震による圧死のため潰えた。八郎(後の秀家)が生まれて間もなく、直家は死去した。
【写真左】勝山の街並み

 「おふくの方」は、備中高松城攻めで岡山入りした羽柴秀吉に見初められ、寵愛を受ける。八郎は、羽柴秀吉が名付け親になり、秀吉の秀の一字と、父の直家の家をもらい、「秀家」と名乗った。

 それ以後、実母「おふくの方」の尽力により、秀家は養父の太閤の寵愛を受け、破格の昇進をした。 関ヶ原の合戦後、秀家の身を案じた「おふくの方」は、京都の圓融院に入り、尼となり、圓光院と名乗った。その後の足取りは定かでないが、一度勝山に帰郷後、備前に出て直家の菩提を弔ったと伝えられる。

 群雄割拠の戦国時代、「おふくの方」の美貌は、戦いに明け暮れた直家を捕らえ、時の天下人秀吉をもとりこにした。秀家の出世、岡山城築城の際には、「おふくの方」の力があったともいえる。”

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