2011年3月25日金曜日

赤穂城(兵庫県赤穂市加里屋)

赤穂城(あこうじょう)

●所在地 兵庫県赤穂市加里屋●別名 加里屋城、大鷹城
●形態 平城・海城
●築城期 文正元年(1467)~文明15年(1483)
●築城者 岡光広
●城主 池田氏、浅野氏、森氏など
●廃城年 明治6年(1873)
●遺構 石垣、堀
●指定 国指定史跡
●登城日 2011年3月6日

◆解説
 赤穂といえば、忠臣蔵などでおなじみの「赤穂城」が最も有名である。
 現在の赤穂城は、近世城郭としての姿を再現すべく、何期かに分けて整備が進められている。
【写真左】赤穂城本丸付近













応仁の乱

 もともと赤穂城は、室町期の応仁の乱が勃発する前年の文正元年(1467)ごろより築城がはじまったという。

 所在地である赤穂は、播磨国の西端・播磨灘に接する。この当時播磨は、山名宗全(持豊)を筆頭とする西軍方に属し、西隣の備前、美作、北の但馬、因幡国などまとまったグループを形成していた。

 築城者である岡光広という人物については史料がないため詳細は不明だが、前記したように彼も山名氏と同じ西軍方であったことは間違いないだろう。
 なお、このころの名称は、「加里屋城」と呼ばれていた。
【写真上】赤穂城案内図
 登城したのが夕方だったため、中に入ることはできず、もっぱら外の方を探訪した。



 ところで、赤穂城の位置を考えると、当城は限りなく平城もしくは、海城といった形態になる。

 応仁の乱が特に西国で激しかったことから、当然瀬戸内海の制海権を奪取することは当然のことで、しかも、瀬戸内対岸の讃岐国は、敵対する東軍方(香川・安富・香西・奈良氏など)であり、最も近い小豆島辺りににらみを利かす意味が大きかったと思われる。

 従って、加里屋城時代の機能は、舟戦用の船が多く停泊できるような軍港的城砦だったと考えられる。
【写真左】赤穂大石神社
 四十七義士・大石内蔵助らを祀る











江戸期

 慶長18年(1613)、池田輝政の次男で岡山藩主であった忠継の所領となった。そして、元和元年(1615)、忠継の弟・政綱が35,000石を領し、ここに赤穂藩が誕生した。

 その後、継嗣がうまくいかず、最終的に正保2年(1645)、浅野長直が53,000石で入封し、この段階で初めて近世城郭としての築城が開始された。

 その後、山鹿素行が承応元年(1652)に召抱えられ、赤穂城の設計・築城にかかわることになる。
 江戸城において、吉良上野介を刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭、すなわち長矩(ながのり)は、浅野氏3代で、長直の孫に当たる。
【写真左】片岡源五右衛門高房の宅跡
 現地の説明板より

片岡源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼いころから君側に召出された寵臣であった。

 出世加増の少ない元禄時代に、はじめ100石であった俸禄が、19歳で200石、24歳で300石、元禄12年(1699)正月には、32歳で350石元を給せられている。

 元禄14年(1701)3月14日、内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は、下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾に当たった。

 田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。

 討ち入りの時は、表門隊に属し、冨森助右衛門、武林唯七と3人組合って、真っ先かけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍を振って戦った。細川家にお預けののち、二宮新右衛門の介錯で、従容として切腹した。
 赤穂義士会”
【写真左】 二ノ丸の外堀













 元々赤穂浅野氏は、広島の浅野家の傍流で、浅野長政の三男長重を祖としている。

 浅野長政は豊臣秀吉時代、五奉行の一人に数えられ、関ヶ原の合戦では東軍方に入り、江戸幕府開幕後、家康の懐刀の一人ともなった。

 なお、浅野氏改易後は森長直が20,000石で入封し、以後明治まで森氏が受け継いだ。

【写真左】山鹿素行の銅像
 現地の説明板より

山鹿素行先生銅像
 兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(1622~85)は、承応元年(1652)から万治3年(1660)の間、赤穂藩主浅野長直に1000石で召抱えられ、承応2年には、赤穂城築城に参画して、二ノ丸虎口の縄張を一部変更し、家中に兵法を指南した。

 その後、寛文5年(1665)に「聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝3年(1675)まで赤穂に配流され、二ノ丸内の家老大石頼母助邸の一隅に謫居(たっきょ)した。

 配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全」「中朝事実」「武家事記」「謫居童問」など、素行の学問を代表する大著を完成して謫居いる。

 大正14年(1925)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成10年に赤穂城跡公園整備のため、現位置に移転した。
 赤穂義士会”
【写真左】大石頼母屋敷跡
 山鹿素行が身を寄せたといわれる大石頼母の屋敷跡。
 大石頼母良重は大石内蔵助の実の大叔父に当たる。

【写真左】本丸手前の門

【写真左】外堀回りその1

【写真左】外堀その2

【写真左】復元された米蔵
 現地の説明板によると、浅野家断絶のとき、二ノ丸内米蔵には、1,204石4斗(4斗俵で3,036俵)の残米があったという。
 また、当時はこうした米蔵が2~3棟建っていたとされている。
【写真左】水手門(みずのてもん)
 現地の説明板より

“瀬戸内海には、三原城や高松城など、海や川を巧みに取り入れて防御や、水運を利用した平城の海城が多数見られます。

 かつて、赤穂城は、古絵図に見られるように、東に熊見川(現在の千種川)、南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣まで迫っていました。

 水手門には、物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木」や、船を波から守る「突堤(波止場)」など、海城の特徴を伝える貴重な施設が、発掘調査などに基づき復元されています。

 ここから搬入された米などの物資は、二ノ丸内の蔵に蓄えられ、藩の財政を支えたのです。”
【写真左】外堀と土塁
 土塁の高さは5mはあるだろうか、かなり高い。

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