2010年8月31日火曜日

針藻城(島根県浜田市三隅町古市場 古湊)

針藻城(はりもじょう)

●所在地 島根県浜田市三隅町古市場 古湊
●登城日 2010年2月27日
●別名 七櫓・針藻山鐘尾城
●築城期 鎌倉時代
●築城者 三隅氏
●城主 大賀氏、三隅兼忠等
●標高 51m
●遺構 七櫓、石垣、郭等

◆解説(参考文献「三隅町誌」「益田市誌」等)
 針藻城は、別名鐘尾城とも呼ばれているが、同名の城砦としては三隅本城の麓にも出城のものがある。今回取り上げるのは、本城に位置するものでなく、三隅川河口に築かれた針藻山鐘尾城である。

【写真左】針藻城遠望
 浜田市街地と三隅町の中間地点に聳える霊山・大麻山(599m)頂上の展望台から見たもの。
 針藻城は、写真左に見える三隅川河口にある小丘部で、真後ろには三隅火力発電所の煙突が見える。
 発電所の左に聳えるのは、源田山(263m)で、当山にも中世山城である「大多和外城」や「碇石城」など三隅氏ゆかりの史跡が点在する。



 現地の説明板より

史跡 針藻城跡
 針藻城は、弘安の役(1281)以後、三隅城主3代の兼盛が鎌倉幕府の命令により、蒙古再来の防備のために築城したものである。このころ、石見地方に築かれた18砦のひとつである。
 南北朝時代以降は、三隅城の支城として要塞化された。また、河口や古湊を利用した、三隅水軍あるいは朝鮮貿易の拠点であったとも考えられている。

 大賀氏は、正長元年(1428)に城主となって以来、三隅氏の家臣として海事を担当したと伝えられている。
 戦国時代、針藻城主が尼子氏に味方したため、毛利氏の武将・益田藤兼に攻められて落城した。弘治3年(1557)のことであった。
   三隅町教育委員会”

【写真左】針藻城東麓に建立された石碑・墓碑など





 地元郷土史「三保村誌」によれば、南北朝時代にはこの砦は孤島として、針藻島と呼ばれ、当時三隅氏が海城形式の支城を設け、針藻山鐘尾城を築いたとされる。
 下って正長元年(1428)2月6日、土佐国(高知県)大崎城主であった大賀政清は、上杉家と合戦に至り、敗れた結果、この地に来住し、三隅氏の客将として針藻城を預かったとされる。
【写真左】石碑の隣に設置された墓石
 形式からいえば、宝篋印塔になるが、架台部分など大分欠損している。



 土佐国の大崎城とは、現在の高知県仁淀川町の大崎小学校の西にある小山と思われるが、戦国期には、甲斐国の武田勝頼が落ち延びたという伝承もある。
 太平洋側の四国・土佐国から、全く反対の日本海側の石見の国に来住するということ自体が、驚きだが、意外なことに、石見国は平安末期から戦国期に至るまで、四国それも太平洋側の阿波国や土佐国との交流がしばしば見受けられる。
【写真左】針藻城の北麓部の道路から、鞍部を見る
 登城路は、三隅川河口部から一旦海岸線の道を通り、民宿のような建物を過ぎた地点から当城に上る道が支線として分岐している。
 もっともこの道は、写真に見える鞍部に造られた農園関係者の利用がほとんどのようだ。
 この写真では、針藻城は左側になる。



 最も代表的な例としては、徳島市の「一宮城跡」(2010年1月15日投稿)にも紹介したように、石見小笠原氏が、阿波小笠原氏の流れであることや、江津市の「本明城」(2009年2月5日投稿)で、当城最後の城主福屋隆兼が落ち延びた先が、徳島の蜂須賀氏であったことなどである。
 両国には、そうした長年にわたる人的な交流を結ぶ、何らかのネットワークが存在しているようだ。
【写真左】針藻城本丸から西の頂部を見る
 針藻城本丸跡と隣り合うように西側にも頂が見える。三隅町誌によれば、石見18砦のとき(弘安の役・1281年)、7カ所の櫓が設けられていた。
 このため針藻城は、別名七櫓(ななやぐら)ともいうが、そのうちの一つが写真に見える櫓跡である。当城の中では最も最高所にあり、戦国期に至るまで、本丸を補完するものとして使用されていたものと思われる。



 さて、大賀政清は、針藻城主となってから、名を政豊と改め、三隅氏の家臣として専ら海事(水運)を担当する。
 この後の当城歴代城主名を下段に示す。

大賀政清(政豊・初代)⇒豊常(2代)⇒常道(3代)⇒道世(4代:鐘尾にて戦没)⇒道豊(5代:駿河守従大位下:尼子氏に加勢)
【写真左】西側から針藻城本丸を遠望する
 本丸と西側頂部の間は、現在農園が造られている。かなり面積としては広い鞍部で、郭跡であった可能性が高い。


 ところで、現地の説明板中、下線を引いた個所「針藻城主が尼子氏に味方した」というのは、三隅兵部少輔兼忠という人物である。三隅町誌では、兼忠は三隅家15代としているが、そうなると、三隅本城の最期の城主・隆繁も15代であったから、矛盾してくる。

 兼忠は、大賀家5代当主道豊の客将として、針藻鐘の尾城で毛利氏に降伏し、寄手の益田藤兼はこれを益田城下(七尾城か)に扶養して卒えさえたといわれるが、別の記録では、兼忠は益田家に引き取られ、益田兼康の弟惣右衛門尉兼久の養子となり、三隅姓を名乗り、萩藩に移り子孫栄えて、22代勘右衛門は、大組で高200石を受け、萩藩閥閲録にも載り、数多くの事績を残している、とある。

【写真左】本丸の西側麓付近からみた日本海
 写真左側に見える坂道が、現在針藻城に向かう唯一の道。
 突き出した護岸堤防付近は、三隅港で、奥に見える島は高島になる。 



 三隅氏の家臣であり、針藻城主でもある大賀氏が、三隅氏累代の将を客将として迎え入れていることは、三隅本城の15代城主・隆繁と同族であったことは間違いないだろうが、具体的な関係は分からない。

 ただ、三隅町誌によれば、三隅氏15代が兼忠であり、兼忠の子・寿久は、毛利輝元より養仙軒の号を貰い、吉見正頼・広頼父子の御附となって、忠節を尽くしたという。寿久の跡は嫡男元久(元信)と至り、彼には実子がなかったため、弟作蔵(後の就重)と続いた、と記している。

 参考までに同誌(三隅町誌)では、三隅氏系図として6種類のものを挙げている。
①享保譜録(萩閥 683三隅勘右衛門録上)
②「大家」家文書(三隅氏系図)
③「三浦」家系図(竜雲寺系図)
④島根県史蹟名勝天然記念物調査報告(野津佐馬助)
⑤寛保譜録(三隅作右衛門録上)
⑥石見三隅史蹟の三隅氏系図(木村晩翠)

 どちらにしても、いずれの説が正しいのか、管理人としては判断がつかない。
【写真左】本丸南側の郭付近
 この写真は南側に当たるところで、さらにこの位置から下っていくと、切崖状態になる。
 この日登城した際、畑で仕事をしておられた御年配の男性に当城について、貴重な話を聞くことができた。
 この方は、70代ぐらいの方だが、自分が子供のころ(戦前)、この崖下で多くの刀や屍がでてきたという。
 また、戦時中(第2次世界大戦)、この針藻城本丸や、西側頂部に監視台があり、敵機来襲を見張る役を、自分の父親がここで任務していたので、自分は弁当などを持って上ったという。
 
【写真左】本丸跡に立つ展望台
 本丸跡そのものはさほど大きなものでないが、眺望は極めてよい。
【写真左】針藻城から三隅川河口を隔てた湊浦の街並みを見る
 写真に見える街並みは、旧三保村といわれたところである。
 なお、この中に、針藻城主だった大賀氏の末裔が現在も住んでおられるとのこと。
 
 また、この写真の後方に見える山並みで、一番右に見えるのが、三隅高城である。
【写真左】針藻城から南方に茶臼山城を見る
 写真中央やや左に見える山で、茶臼山城はまだ投稿していないが、後期三隅高城の三城の一つといわれた支城である。

 先ほどの御年配の方から聞いたもう一つの話として、自分たちが子供のころ、三隅高城、茶臼山城、針藻城ともう一つの三隅支城(名前は忘れたとのこと)に、それぞれ手分けして登り、「狼煙」を挙げて戦国気分を体験したことがあるという。

2010年8月30日月曜日

石見・河内城(島根県浜田市三隅町河内)

石見・河内城(いわみ・こううちじょう)

●所在地 島根県浜田市三隅町河内
●登城日 2010年1月16日
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 三隅兼連・兼知
●標高 82m(40m)
●遺構 郭・土塁等

◆解説(参考文献「三隅町誌」等)
 三隅本城の西麓を流れる三隅川を3キロ余り上っていくと、河内という地区があり、三隅川がそこで大きく弧の字に曲がった位置に築かれた小規模な山城である。
【写真左】河内城遠望
 三隅城から三隅川と平行に走る48号線(三隅美都線)を上っていくと、右に旋回する地点で当城の全貌が見える。


現地の説明板より

河内(こううち)城址の由緒
 当、河内城は、三隅町河内の南西に位置し、独立丘山で標高40mにあり、三隅城(高城)の南門警護の出城で、要害堅固な河内城は、三隅氏の最初の居城もいわれ、築城は鎌倉末期と考えられている。
 数多くある出城の中で、本丸、二の丸、三の丸、また北側に馬場の跡などが現存しているのは河内城だけである。
【写真左】三隅川と河内城
 右に流れる川が三隅川で、左の傾斜面を上っていくと河内城の城跡にたどり着く





 今をさかのぼること670年前、延元元年(1336)、南北朝時代、三隅城四代城主兼連公は、時の後醍醐天皇に奉じ南朝方の勤皇軍として、石見で最初に旗揚げをした地である。

 そして、同年7月21日、ここを拠点に兼連公の長子・三隅兼知を総大将として、北朝方の益田城(七尾城)に攻め入り、大功を立てる。

 この時の様子は、兼知に加わり戦った石見の国、周布郷内内村地頭孫六藤原兼茂より、兼連公に宛てた軍忠状に記され伝えられている。
   平成19年3月吉日
        河内城山公園整備 河内自治会”

【写真左】河内城案内図
 登城口付近の神社側に設置されている案内図で、登城路は途中で分岐し、一方は直接本丸に向かう道と、もう一方は馬場側から向かう道とになっている。





 説明板にもあるように、延元元年は、建武3年(1336)のことで、後醍醐天皇の建武の新政が事実上崩壊し、南北朝時代が始まった年でもある。

 記録によれば、説明板にある同年7月21日、三隅兼知が北朝方の益田七尾城に攻め入ってから、1ヶ月余りのちの9月3日、三隅兼連は、河上(かわのぼり)孫三郎と合力し、稲田郷金剛山で赤羽朝房を攻撃している。

 河上孫三郎は、今年7月14日に取り上げた江津市の「神主城」でも紹介したように、松山城築城者・河上孫二郎と同族の者と思われるが、このころの勢力図としては、南朝方の勢力範囲は、西端は三隅地方で、東端が石央~石東方面まで伸びていたようだ。
【写真左】登城口付近
 小規模ながら要害性は高く、写真に見える登城坂の右端は断崖絶壁である。ガードレールがなかったら、気分的には落ち着かないだろう。

元亀元年(1570)ごろの攻防

 なお、前稿「三隅城・その3」で少し紹介した「元亀元年 三隅之役攻防一覧」(三隅地方史研究会)の中に、「龍門城(河内城)」が掲載されている。
 これによると、戦国期である元亀元年ごろにも、当城で三隅氏一族と、毛利方の戦いがあったことになる。

 興味深いことは、守備方(三隅氏)には、水軍1艘御手船が記載されていることである。三隅川河口から約7キロ程度上ったところであるが、河内城の特徴である河川を水堀としていることから、こうした船が使われていたということだろう。
【写真左】現地に設置された河内城とその周辺の城砦配置図
 本拠城である三隅城は、当城のほぼ北方に位置し、周囲の支城は幾何学的にも同心円状に配置されている。



 参考までに、主だった武将として、守備方では、古和長門守、澄川源之助、同千左衛門、小野小平太などがあり、攻囲軍(攻め方・毛利方)では、佐々田十郎、阿曽沼豊後守、熊谷伊豆守元時などの名が見える。

【写真左】河内城から、三隅本城を遠望する
 手前の山が三隅本城の山容を若干遮っているが、上部は十分に見える。
 このことは、戦略上重要で、特に狼煙の確認をする際、どの山からあがったものかを判断する際、大きな要素となる。

 河内城が三隅本城より先に築城されたとあるが、結果的には理想的な地どりであったわけである。
【写真左】三の丸から二の丸を見る
 登城路②のコースで行くと、最初に南端部に築かれた三の丸があり、その上段(北側)に二の丸が控える。

 河内城の特徴である細尾根を巧みに利用した郭群で、規模は小さいものの、要害性は高い。

【写真左】二の丸付近
 現地には休憩所が設けられている。地元の人にとって、文字通り憩いの場だろう。
【写真左】本丸跡
 現地には天守を模したミニチュア版が建っている。本丸そのものの規模は小さいもので、4,5m四方だったと思う。




【写真左】本丸付近から北方下段の馬場跡方面を見る
 本丸を過ぎると、再び数段の郭ののち、馬場跡が北方に伸びていく。北側の登り坂も急峻になっているので、この場所まで馬を移動させることは、相当訓練させた馬だったのだろう。


三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)

三隅城・その3


◆解説(参考文献「三隅町誌」等)

【写真左】「伝三隅兼連の五輪塔」
 三隅町にある三隅氏菩提寺「正法寺」に建立されている。
 現地の説明板によれば、「兼連が宮方についた契機のひとつに、奈良の真言律宗般若寺の本性明覚が、この石見地方に来て教化したことが挙げられている。…」と書かれている。

 兼連は、以前にも記したように、正平10年(1355)、京都洛中で討死しているが、亡くなる時「自分の墓は東(都方面)に向けてくれ」と遺言したという。このため、この五輪塔は「東向(とうこう)の墓」とも呼ばれている。


はじめに

 前稿で紹介した三隅兼連は、当城の歴代城主の中で特にその名をはせたため、その後の城主については、あまり詳しくは伝えられていない。今稿では、その後の三隅氏の主だった活躍を断片的ながら紹介しておきたい。
【写真左】正法寺の指定文化財
 彫刻 木造雨宝童子立像と木造薬師如来坐像の二つが指定されているが、写真の仏像は、本堂前に左右同じような形式で彫刻された像で、これが文化財かどうかは不明。ただ、非常に大胆でユーモラスな作品だ。


【写真左】三隅本城本丸付近




 三隅氏を語る上では、前稿でも述べたように、益田氏が常に絡んでくる。というのも、三隅氏や福屋氏・周布氏などは、惣領益田氏の庶子家であることから、庶子家は常に惣領家の支配下に置かれ、分家したあとでもその独立性は拘束されてきた。

 応永6年(1399)10月28日、周防国の大内義弘関東管領・足利満兼と呼応し、倒幕を企て兵を募った。いわゆる応永の乱であるが、このとき石見の主だった諸将は大内氏の支配下にあったが、直接的には当時の益田兼世の命によって、大内(義弘)氏の軍に加わったという経緯がある。
【写真左】三隅城(その1)で示した水来山と三隅高城との間の谷
 写真の左側が三隅高城側で、右側が水来城側になる。現在は御覧のようにこの谷付近は整備されているが、鞍部となった付近にはおそらく、水来山から布設された導水管(竹樋)が、その傾斜を保つために、高所の石積みか、もしくは、この谷を上空で横断するような導水施設がもうけられていたと思われる。


 ただ、益田氏を中心とする石見武士は、このとき泉州(大阪)堺城義弘を裏切り管領畠山基国に寝返ったこともあり、義弘は堺城陥落と併せ討死した。このことから、守護大名であったとはいえ、石見の国人領主が必ずしも大内氏に忠誠を誓っていない、きわめて不安定なつながりであったことを示している。

【写真左】三隅本城遠望
 上記の谷からさらに東へ100m程度いった芦谷地区から見たもので、この道をさらに東進すると、三隅城の支城である井野の井村城に繋がる。



長引いた三隅氏と益田氏の抗争
 
 さて、前段で示したように、三隅氏は、戦国期に至るまで、惣領家の益田氏との関わりが続く。主な原因は、本家と分家との間で、領地をめぐって抗争が行われてきたものである。記録で初期に見えるものは

 「正長2年(1429)6月27日、三隅氏と益田氏が戦端を開きそうになったので、幕府は、僧・満済に意見を徴した。」(満済准后日記)

とある。

 おそらく、両者の抗争はこのときが初めてのものでなく、前稿で紹介した南北朝期頃よりその兆候が出ていたものと思われる。

 その後、永享11年(1439)11月12~14日になると、今度は両者の抗争に対し、幕府は守護山名煕貴にその仲裁をさせているが、このときも一時的な和解で、抜本的な解決には至らなかった。

  このような石見の状況下のもと、大和国(奈良県)では、越智氏と筒井氏を軸にした「大和永享の争乱」が起き、越智氏没落後は筒井氏の内部抗争が勃発する。これらを鎮圧すべく、幕府は諸国から守護を通じて諸将に招集をかけた。

 石見からは対立したままの益田氏と庶子家が上洛することになった。他国の鎮圧に向かうよう命じられても、不和のままの石見諸氏がまともな任務を務めることはできない。果せるかな、京において、益田兼堯は、庶子家である三隅信兼・周布知兼・福屋某とその溝をさらに深くしてしまった。

 このため、管領細川持之、守護山名煕貴の斡旋が行われたが、またもや不調に終わった。穿った見方をすれば、このことは、室町幕府の確立時点からの脆弱さがすでに露呈していたともいえる。

【写真左】龍雲寺その1
  開基した人物については、三隅信兼とし、同じだが、その時期については、現地の説明板では、南北朝時代(1382)としているので、下段の「嘉吉元年(1441)」と合致していない。

 また、信兼を当地の説明板では、第6代としているので、これも下段の第9代と符合しない。
 ただ、彼の逝去した年が康正2年であることを考えると、開基時期は、嘉吉元年の方が信憑性が高いと思われる。



 下って、嘉吉元年(1441)、三隅氏9代能登守信兼は、美濃郡種村にあった一院を、三隅本城山南麓に菩提寺として「龍雲寺」を開基した。彼はその15年後の康正2年(1456)2月晦日卒している。
【写真左】龍雲寺その2
 石見札所20番となっており、「紙本墨書大般若経六百巻」は、県の文化財に指定されている。
 境内庭園は大変に優美なもので、観光地の一つとされている。

 なお、写真奥に聳える山が、三隅本城でこの角度から見ると、険峻さは感じられないが、登るにつれて要害堅固な山城であることが実感できる。



 ところで、信兼の長男である太郎長信の代になって、一時益田氏と和睦している。文明9年(1477)9月27日、石見国大浜でのことである。

 しかし、その1ヶ月後、元石見守護山名教清の領地である美作国(岡山県)で反乱がおこり、長信と嫡男・豊信は、教清に従って上京、その征途中、美作で長信は討死した。

 9代信兼の長男である長信については、当然三隅氏10代となるが、資料によっては三隅氏の系図に入れていないものもある。

 さて、長信の嫡子で三隅氏第11代となる豊信の代になると、応仁の乱が勃発する。石見国人の対応の中で三隅豊信は、西軍方につき、益田貞兼・吉見信頼・周布元兼・福屋国兼らと歩調を合わせた。しかし、益田氏をはじめ石見中部の国人層は、一方で東軍方にも家臣を送ったりして、必ずしも態度を明確にしていない。

【写真左】三隅神社と三隅城
 龍雲寺から下って三隅の町に入る前の谷に建立されているのが、三隅神社である。

 祭神は第4代城主・三隅兼連を祀っている。昭和12年(1937)に竣工している。ちょうどおとずれたとき(2010年6月頃)は、本殿などの改修工事が行われていた。
 なお、写真奥の山が三隅本城である。

 
 京都に起こった応仁の乱から、しばらくすると、西国では大内政弘の叔父・大内教幸(道頓)の乱がおこった。このときは、三隅豊信・周布元兼らは道頓に味方した。こうした一見矛盾した行動は、石見武士に限らず、 室町期における国人領主の一般的な動きであったという。

 ところで、明応8年(1499)は、この三隅興信に関する史料が意外と多く残っている。

(1)3月9日、三隅興信、石見国永安別府半分・弥積分を吉川国経に譲る(吉川家文書)。
(2)9月23日、三隅興信、石見国二宮神社・岡本次郎左衛門尉の軍功を賞し、小石見郷政所名などを領有させる(岡本)。
(3)10月2日、三隅興信、安芸国廿日市に出陣中、肥塚三郎右衛門が石見国三子山城を留守にしたことを賞する(肥塚)。
(4)11月16日、三隅興信、肥塚吉久が中原城攻めで軍功を挙げたことを賞する(肥塚)。

三隅氏と益田氏が争った領地

 冒頭でも記したように、三隅氏は益田氏との抗争が絶えず行われていた。特に領地に関することが最大の理由だが、その主な領地とは次の3カ所が挙げられている。

 ①津毛  ②疋見  ③丸茂

 いずれも美濃郡内だが、このうち、③の丸茂については、「丸茂城」(2009年12月27日投稿)で紹介したように、現在の益田市美都町丸茂地域である。

 ②の疋見は、丸茂地域を流れる益田川をさらに上った匹見地域のことで、①の津毛については、「津茂」としている史料もあるが、現在の「都茂」地域と思われる。位置的には益田川中流域から上流部で、三隅側からいえば南方になり、益田側からは東方の領地に当たる。

 この3地域は、もともと益田兼高の子・兼信、すなわち三隅氏の祖のとき、領有していたものである。その後、永享3年(1431)、益田兼理の代のとき、筑前深江で討死し、それを憐れんだ大内持世が、強引に三隅氏からその土地を奪い、兼理の子・兼堯に与えた。

 これが発端となり、以後益田氏と三隅氏の抗争が続いたわけであるが、この経緯を考えると、両者の不和を惹起させた責任の一端は、大内氏にもあったわけである。

 明応9年(1500)10月、三隅興信はこの土地の領有回復について、幕府に自領であることを訴えた。これに対し、益田宗兼は大内義興の臣・杉勘解由左衛門尉を通じて義興に訴えた。義興は宗兼の訴状の通りの回答を出したため、興信は益田氏に対して兵を挙げることになる。

 前掲の明応8年の興信の動きに関する4点の記録は、先述した幕府に対する訴状時期より1年前になるが、すでにこのころから益田氏が領有争いをしていた3カ所以外の土地、すなわち石央(浜田市付近)まで侵攻していたもので、三隅氏にとっては、益田氏の東上阻止のための防戦であった。

 この期間で行われた主な城砦として記録されているのは、浜田市の小石見城・三子山城、同じく長浜にあった中原ヶ城(場所不明)などがある。

 途中で、大内義興による数度の仲裁があったが、全く両者は歩み寄りもなく、戦端はますます拡大していった。興信が幕府に自領であることを訴える1ヶ月前の、明応9年の9月15日、益田勢は猛烈な勢いで、本城三隅城へ迫った。このときの戦は特に激しくなったが、三隅氏の勇将・三浦左京助兼貞は益田氏の勢いを阻止すべく、果敢に防戦に努めた結果、益田氏は崩れ去った。


戦国期の状況

 この後も度々両氏の抗争が続けられるが、天文年間になると様子が変化していく。天文7年(1538)10月、大内義隆は長年両家の紛憂の根源であった津茂・疋見・丸茂の3カ所について、益田氏に対し、その所有を放棄し、その代償として、大内義興時代から示唆されていた長州阿武郡河島の地を与えることとした。

 さて、以前取り上げた瀬戸山城や、京羅木山城の時示したように、天文11年(1542)1月、大内義隆は尼子氏討伐のため、芸備諸豪や石見国人らを集め、3月二ツ山城に着陣したが、このとき石見武士の中に、三隅氏は名を連ねていない。

 同国で集まったのは、益田藤兼・福屋隆兼・吉川和泉守・周布氏などである。三隅氏は、その3年前の天文8年、尼子経久が石見に侵攻した際、尼子氏によしみを通じていた。おそらくこうした背景があったため、参陣しなかったものと思われる。

 その後、陶晴賢の謀叛によって大内義隆が滅ぼされ、尼子晴久が山陰・山陽の8カ国守護職に補任されると状況は大きく変化していった。陶晴賢の謀叛の際は、益田氏も三隅氏一族は陶氏に合力したが、他の石見国人は毛利氏についた。このあたりが非常に微妙、かつ複雑な対応で、当時、益田氏は吉見氏とも対立していたため、こうした態度をとったものと思われる。

 なお、このころから三隅城主であった三隅隆兼の代になると、次第に同氏の勢威は衰えていく。

 ここで、三隅氏の系図について、前回取り上げた同氏の系譜と少し内容が違うが、三隅氏最期の城主まで記載されている資料を挙げておきたい(木村晩翠著「三隅町史」による)。

三隅氏系図
 益田兼高⇒三隅兼信(初代)⇒兼村⇒兼盛⇒兼連(4代)⇒兼知⇒直連⇒氏世⇒信兼(10代:9代とする説もある)⇒豊信⇒興信⇒興兼⇒兼隆(隆兼か)⇒隆繁(15代)

 弘治3年(1557)3月23日、益田藤兼は毛利元就に服属するが、その軍門に下った場所は、三隅本城であった。というのも、この前に、益田藤兼は自城である益田七尾城を修復すると、すぐに三隅城に向い、無気力になった三隅隆兼から当城を奪い取り、ここに立てこもり、毛利氏と対峙したわけである。

 正式に益田藤兼が毛利氏へ降伏を申し込んだのは、「大内義長墓地・功山寺」(2010年3月21日投稿)でも紹介したように、同年(弘治3年)4月3日、大内義長が当寺で自刃したため、益田氏としてはこれで全く大内氏に対する義理・忠義の必要がなくなり、その2日後の、4月5日、益田藤兼は吉川元春に対して正式に降伏の締結が行われた。

 三隅氏の本城である三隅城が陥落し、毛利氏に対する降伏を行ったとあるので、同氏はこれでほとんど歴史のかなたに消えゆくような印象を持つが、三隅町誌によると、本城を支えてきた多くの支城では、その後も三隅氏の一族として攻防を続けていたと記している。参考までにその資料のタイトルを掲載しておく。

元亀元年(1570) 三隅之役攻防軍一覧
 これには、城(砦)名として、湊口城(針藻砦)があり、三隅氏側守備軍に、大賀党(水軍)、川上源左衛門など、攻囲軍として、児玉伊勢守就英(児玉水軍)、村上出雲守通廣(村上水軍)

このほか、古市城、大多和外城、普源田城、三本松砦など約15カ所の支城での記録が掲載されている。

三隅氏の最期

 以上の記録とは別に、この時期記録されたものとしては、「益田市誌・上巻」に、三隅氏最期の城主隆繁の動きについて述べたものがある。

 元亀元年は出雲国・石見国が、同時多発的に毛利氏に席巻される年であるが、特にこの三隅城も激しい戦が行われた。

 この年、毛利勢は茶臼山城(三隅川南岸にある三隅三城の一つ)と四ツ山城(2009年12月27日投稿)を落とし、三隅城に迫った。毛利勢に加勢し主力部隊となったのは、益田藤兼らである。その後、吉川元春が福光の戦いを終え、大軍でさらに大手側から攻め入った。

 防戦の三隅氏の中で、特に活躍したのは小野盛吉で、毛利方の熊谷飛騨守を討ち取ったものの、残兵は僅かとなり、元亀2年(1571)9月26日(5日とも)、城主隆繁及び、弟国定兄弟は自刃した。

【写真左】 厄よけ石
 三隅神社境内に設置されているもので、元亀元年の三隅城落城の際、隆繁の愛児梅千代を守ったという石である。

説明板より

厄よけ石
 元亀元年(1570)三隅城落城のとき、城主隆繁は幼少の愛児梅千代を郎党惣蔵・乳母お房に守らせ、真言の霊場大麻山尊勝寺へ逃がした。

 夜陰にまぎれて城を脱出したが、正法寺谷で敵に発見され、惣蔵は敵と渡り合って討死。その間に、お房は梅千代を抱き、谷川の石橋の下に隠れて難を逃れた。

 そのとき石橋に使用されていたのが、この石で、以後、人々は厄よけ石としてあがめている。
 その後、東平原を通って尊勝寺に駆け込んだお房は、梅千代を法印に頼み、直ちに引き返し、われ一人なりと、追手の中に果てた。

 「乳母が塚」が室谷地内の旧道のそばにある。梅千代は大成して、尊勝寺中興の祖・良海法印と仰がれ、彼が描いた大麻山諸伽藍坊中絵図は、県の重要文化財に指定されている。”

2010年8月8日日曜日

三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)

三隅城・その2

◆解説(参考文献「三隅町誌」「益田市誌上巻」等)

益田氏

 三隅城を築いたとされる三隅氏を語る前に、本家であった益田氏を最初に紹介しなければならない。
 元暦元年(1184)5月、梶原景時は下文を発し、益田(藤原)兼高を石見国押領使に任命。ついで同月、源義経は、さらに石見国御家人に対し下文を発し、押領使・益田兼高の下知に従い、平家の追討を行うよう命じる。

 以上は益田家文書に残る資料だが、当時山陰地方での平家与党として有力な武将だったのは、出雲国の岐須木次郎兄弟及び、横田兵衛尉らで、進軍ルートとしては、当然ながら石見国から出雲国に向かう構図だった。

 戦の結果は押領使・益田氏の率いる石見軍の勝利で、早くもその年の11月25日に、頼朝より益田兼栄・兼高父子の所領が安堵された。この後益田氏は着々と石見国支配に領土を広げていく。

【写真左】三隅高城遠望
 三隅城の西麓国道9号線脇から撮ったもの






三隅氏始祖

 三隅家の祖となったのは、兼高の第2子で、兼信とされている。

 兼信が領した土地は、三隅郷及び永安別符で、那賀郡の南部地域である。居住を開始した時期は、三隅城が築城されたという寛喜元年(1229)とされ、承久の乱後、西国で多くの地頭が任命された時期と重なる。

 このころ益田氏から分家した他の支族としては、先述した福屋氏があり、兼高の第3子・兼広が、有福・跡市に天福元年(1233~34)、本明城(2009年2月5日投稿:参照)を築き、福屋氏初代となった。

【写真左】三隅城登城口付近
 車で当山の9合目付近まで行くことができる。駐車スペースも3,4台は確保されており、便利だ。
 写真左側が登城路始点で、右は下り方面で1.5キロ程度下がると、龍雲寺がある。


 また、周布氏は、周布城(2009年2月3日投稿:参照)で紹介したように、兼高の第1子・兼季の二男・兼定が始祖とされている。彼は次郎左衛門尉といい、那賀郡周布の地頭となり、三隅城が築城される時期とほぼ同じ頃の安貞2年(1228)、周布鷹ノ巣に築いた。

 さて、三隅氏初代・兼信は、仁治3年(1242)末になると、先述した所領地の一つである永安別符(浜田市弥栄町長安本郷)を次男・兼祐に譲り、兼祐は当地名をとって、永安氏の始祖となった。
 彼が築城したのは、永安城(別名矢懸城)である(2009年12月2日投稿:参照)。 
【写真左】北側の郭
 最初に見える遺構で、前稿で示した「五段郭」付近で、その上が「三の平郭」になる。



 その後の三隅氏直系の系譜としては、複数の資料があり、どれが正式なものかはっきりしないが、益田氏の祖・御神本氏系図によれば、兼信の嗣子・兼村が引継ぎ、以下兼盛(信時)・兼連(信性)と続き、兼連の二人の子・兼知と兼春が生まれ、兼春が三隅氏を継ぎ、その子には兼覧・千福の二人が記されている。

 なお、兼連の子としては、もう一人・兼雄がいたとされ、彼は鳥屋尾(とやお)氏始祖となり、息子兼時は、三隅城から北東約5キロ向かった井野の上今明に、鳥屋尾城(480m)を築く。ただ、資料によっては、兼時の父を三隅氏庶流の井村兼武とするものもある。

【写真左】二の平端にある本丸櫓跡
 現状は大分崩壊しているが、当時の面影は十分残している。この位置が三隅高城の最高所となる。



 元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇が隠岐から船上山に拠って、西国武士に鎌倉倒幕の綸旨を起こした時、以前にも紹介したように、石見国からは、佐波顕連・周布彦次郎兼宗・益田兼衡・同兼家・同兼員らと共に、三隅兼連が馳せ参じた。

 その時の動きについては、「高津城」(2009年12月24日投稿)をご覧いただきたい。

 その後、いわゆる南北朝時代となり、暦応5年(1342)2月、尊氏派の派遣将軍・上野頼兼の軍が、三隅城に攻め入ったが、当城は落ちなかった。三隅城のそうした要害堅固な特徴がさらに発揮されたのは、8年後の観応元年(1350)の戦いである。

【写真左】本丸櫓跡その2
 上記写真と反対側の南から撮ったもの。なお、全体に東側の方は伐採されていないため、遺構が分かりずらいが、かなりの切崖状となっている。やみくもに伐採すると、崩落する可能性があるからだろう。



 この年6月21日、光巖上皇は、院宣により足利直冬の追討を命じる。

 これにより高師泰が石見国へ出発。直冬はこのときすでに石見国に入っており、7月20日には出雲市(旧平田市)の鰐淵寺に祈祷を命じている。8月に入ると、出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉らが、直冬に応じて挙兵を行う。

 高師泰の軍が三隅城を攻めはじめたのは、おそらくこの年の10月初旬と思われるが、結局、当城の堅牢さと併せ、当時周防・長門(山口県)の動きが攻囲を支えたため、三隅城は堕ちなかった。

 周防では、10月大内弘世が師泰の軍を攻め、師泰の代官山内彦次郎通秀入道行聖を討ち取り、弘世の長男・但馬権守弘員は、上野頼兼の守護代乙面左近将監を追い落として、三隅城の援護に回った。

 こうした結果、年が明けた1月には、師泰らはあきらめて引き揚げている。「太平記」の中に「三角(三隅)入道謀叛事」として、

「…石見国中に32カ所ある城は皆落として、今はただ三角入道(三隅兼連)の拠る三隅城一つ残った。この城山は険しく用心深く、たとえ力攻めににしても叶わず、援けの兵も近国になし…」

 と記されている。
【写真左】二の平・三の平の西側帯郭
 前稿で転載している平面図では表記されてないが、現地は上段の郭(二の平・三の平)の下段にも写真のような帯郭が構築されている。

 この個所は西側に当たり、石積み(石垣)の崩落した状況に見える。全体にどの石も規模が大きいものを使用していたようだ。



 師泰が1月の段階で石見を離れた理由のもう一つは、この年(1351)1月14日には、足利直義が地元の武将・諏訪部扶重(三刀屋)に高兄弟の誅伐を命ずるなど、足利直義軍が高師直・師泰兄弟を討伐するため諸国に兵を募り、翌年京都に進撃したことが大きな理由でもあった。

 2月20日、京都を目指していた尊氏軍は、摂津打出浜で直義軍と激突。尊氏軍は直義軍に敗れ、高師直・師泰の出家を条件として和議を結んだ。高兄弟は摂津から京都へ護送中に、上杉能憲に殺された。2月26日のことである。上杉能憲は、師直に殺害された重能の養子である。
【写真左】三の平の2段目郭
 幅は全体に20~25m程度の郭だが、この南端部の三の平の2段目は、さらに帯郭状に仕上がっている。当日この場所からさらに下の方へ向かったが、途中からブッシュで踏査不能となった。

 前稿で紹介したように、この下には「東丸跡」や「一の砦跡」があり、さらにそれを過ぎると当時の「大手道」があった。



 師直は以前にも紹介した(「塩谷氏と館跡・半分城」2009年1月4日投稿)ように、塩冶判官高貞の妻に横恋慕し、最後は讒言を以て同氏を追いこみ自刃させた張本人である。


直冬の上洛戦と兼連の討死

 正平8年(1353)9月、直冬は朝廷より惣追捕使を命ぜられ、尊氏の討伐を任せられた。このとき三隅兼連をはじめ石見の兵を率いて山陰道を東上、翌年1月入京し、勝利を南朝にもたらした。このため、尊氏らは後光巖院を奉じて近江国武佐に一旦逃れた。
【写真左】本丸跡から北東方向に、水来山、大麻山を見る。
 山が重なった状態にみえるが、手前が水来山で、奥の青濃色の山が山岳信仰の大麻山(599m)である。



 その後、尊氏は再び戦力を整え、近江を発し東坂本へ侵攻、山名時氏を敗走させ、洛中の諸所で合戦を交えた。3月12日は特に激戦となり、直冬は七条に敗れ、三隅兼連は討死した。

 直冬の上洛戦は、彼自身にとって最初で最後の天下取りの戦であった。その戦で三隅兼連は最期を遂げたわけである。

 「石見軍記」によれば、石見に帰った直冬は、兼連の娘を娶って、伊豆守兼直を産み、兼直は三隅の総家を継いだ。そしてその子孫に隆繁が出たとしている。この説でいくと、前段で示した御神本氏系図とまったく合致しない話になるが、直冬がいかに兼連に全幅の信頼を置いていたかを示すもので、後世の美談話として十分理解ができる。
【写真左】本丸跡から東方を見る
 この写真のさらに奥に向かうと、三隅氏一族の井村氏の居城・井野城が控える。

【写真左】本丸跡から三隅川河口の田の浦海岸を見る
 写真河口付近に見える小丘は、針藻城(七櫓)で、石見18砦の一つでもある。
【写真左】西丸跡その1
 杉の植林などで、写真では分かりずらいが、規模は極めて大きい。

 奥行きは上段の郭で50~60mあり、さらにその先に数段の郭が連続しているので、総延長は100mは十分にあるだろう。
【写真左】西丸跡その2
 先端部にも連続する郭が続いているが、南側にも3,4段の腰郭が残る。

 南側は大手側に接近しているため、この位置から下っていけば、まだ他に遺構が残っている可能性がある。