2010年6月24日木曜日

小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)

小倉山城(おぐらやまじょう)

●所在地 広島県山県郡北広島町新庄字小倉山
●登城日 2006年10月25日、及び2009年4月27日
●別名 小倉城・紅葉山城
●築城期 南北朝末期
●築城者 吉川経見
●形状 放射状連郭式山城
●遺構 本丸、三の丸、空堀、礎石等
●指定 国史跡
●規模 700m×700m
●高さ 標高460m、比高80m

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 前稿「駿河丸城」でも述べたとおり、駿河丸城を築いた初代・経高(吉川)から、四代目となる経見がこの地に本拠を移したとされている。駿河丸城からは直線距離で約3キロ下った同町の新庄地区に築かれた。
【写真左】現地にある案内図
 写真上が南になり、散策コースは赤字が南回りコース、青字が北周りコースとして図示されている。
 主たる遺構が多いのは青字の北周りコースで、この日も北側の駐車場に停めて向かった。

 図示されているように、当城の見どころは、本丸、二の丸、三の丸、御座所跡、堀切などである。



 駿河丸城、小倉山城とも北方の隣国石見国に接しているが、小倉山城の方が街道筋(石見街道・国道261号線)の峠(中三坂の峠)にアクセスがしやすく、交通の要衝でもあり、領地経営がしやすいと考え、移ったものと思われる。

 経見の後、当城を引き継いだのは、5代経信、6代元経、7代経基、8代国経、9代元経、10代興経と6代が続き、この興経の時代に、次の移城先である日野山城までの百数十年間、安芸吉川氏の居城となった。もっとも、興経自身が移城を計画したものではなく、結果的には養子として入った元就の次男・元春が移城を完了させていると考えられる。
【写真左】北側駐車場側(北周りコース)にある案内標識
 駐車場から城域までは1,2分程度で着く。北周りコースも西側の登城路から入って行った方が、効率がいいかもしれない。



 興経は、自身の領主としての能力・器量が極めて低く、尼子や大内の間を度々鞍替えし、このため一門や他の国人領主から信頼を失い、最後は強制的に幽閉・隠居させられた。
 その後も興経は元就に復活の嘆願を行うが、これが逆に不穏な動きととられ、天文19年(1550)元就の命を受けた熊谷信直・天野隆重らによって殺害された。吉川氏直系の嫡流(駿河国藤原姓)は、この時をもって断絶した。
【写真左】本丸へ向かう
 最初に右手に二の丸が見え、前方にある御座所跡を見て左側にある坂道が本丸登城路になっている。

 写真にあるように高さは優に10mは越えているだろう。



 小倉山城の略歴で特徴的なことは、当城で合戦の記録がほとんど見られないことである。前記したように、経見から元春(興経)まで約150年以上もの長い間居城とされたが、戦が行われなかったというのも珍しい。

 そのため、代が変わるごとに規模が拡大され、特に応仁・文明の乱の7代経基のとき、領地の大幅な取得があり、それにともなって当城の規模も大きくなり、整備も進んだ。おそらく現在の遺構の大半は、この7代経基のころに施工されたものといわれている
【写真左】本丸跡その1
 掘立柱跡が復元されている。全体に整備が行き届いていることもあるが、郭群の仕上げが非常に丁寧である。




 城域の規模は、駿河丸城をはるかにしのぎ、およそ700m四方の中に造られた。地元北広島町教育委員会のパンフレットによると、発掘調査では次のようなものが発見されている。

 掘立柱建物跡、堀切、登城路、什器関係では備前焼、瀬戸・美濃焼、陶磁器(明・朝鮮製)、太刀金具、切羽、コギネ(鎧の一部)
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡から南方に日野山城を見る
 左側の山で、標高705mと高く、比高も300m以上もある。小倉山城のあと、吉川元春が居城とした県内屈指の大規模な山城である。

 管理人は麓を度々通過するが、山容を見ただけで躊躇している。

【写真左】本丸から南方に門跡を持つ郭を見る
 写真の郭からさらに南に伸びる舌状丘陵にも小規模な郭段が連続しているが、おそらくこのルートが大手口のものと思われる。

 門跡の後部にも建物跡があることから、いわゆる番所の役割を果たしていたのではないかと思われる。

 なお、この門跡を過ぎると本丸に向かうには、最初の登り口まで一旦左へ向かわないと登れない設計になっている。
【写真左】土塁跡
 本丸の北側下段にある帯郭から三の丸方面に向かう位置にあるもので、東側の進入を意識したものと思われる。

【写真左】三の丸から見上げた本丸北端部 上記の土塁を過ぎると、三の丸が配置されている。

 三の丸は当城の最北端部の郭になっている。 戦略的な構図でもあるが、景観的にも山城としての美しさがうかがえる。

【写真左】御座所跡
 本丸から一旦降りて、南西部に巨大な平坦地を構成しているのが、御座所跡である。

 詳細にみると、3~4程度の段差をもっているが、ほとんどフラットである。長径は100m前後はあると思われる。この場所で多くの将兵が戦の準備をしていたことだろう。
【写真左】御座所跡から本丸を見る
 写真は本丸の西端部にあたるが、この位置から見ると、さらにその高さを感じる。
【写真左】堀切

 御座所跡の西端に設置されたもので、堀切の左側丘陵部は当城の城砦施設として図示はされていないが、小規模な郭がさらに連続して構成されているように見えた。


◆まとめ
 訪れた時期も良かったかもしれないが、当城の保全管理は極めて良好で、しかも各遺構ごとに詳細な説明板が設置され、探訪する者にとって十分に満足できる山城である。
 改めて、当地・北広島町(教育委員会)の御尽力に感謝したい。

2010年6月22日火曜日

駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町)

駿河丸城(するがまるじょう)

●所在地 広島県山県郡北広島町大朝胡子町
●登城日 2008年3月12日、2010年5月19日、及び6月16日
●別名 平家丸・間所城
●築城期 正和2年(1313)
●築城者 吉川経高
●城主 吉川経高、経盛、経秋
●遺構 郭、空堀、土塁
●規模 250m×70m
●高さ 標高420m/比高30m

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 前稿「壬生城」のある旧千代田町から浜田自動車道を浜田方面に向かっていくと、大朝という地区がある。この大朝の地区を見下ろしている山が、寒曳山で、その山の稜線延長線上に造られたのが駿河丸城である。
 登城口に行くには、途中の大朝ICで降りて、一般道の石見街道(5号線)から向かう。
【写真左】駿河丸城遠望
 後方の山は寒曳山で、駿河丸城は手前の民家の後にある丘に築城されている。





 駿河丸城に登城するのは、3回目である。第1回目は2008年の冬で、現地に着いたものの、余りの竹林状態で、形状の確認もままならず、撮影した写真も納得のいくものがなく、消化不良の登城だったことを覚えている(下の写真参照)。
【写真左】2008年3月に訪れた時の写真
 このころは、どの場所もこうした竹林の映像のみで、山城の雰囲気がまったく残らなかった。



 その後、今年(2010)5月初旬、たまたま、千代田IC付近にある「道の駅舞ロードIC千代田」に立ち寄ったところ、地元北広島町で中世遺跡の散策をするというチラシをみつけた。この中で、駿河丸城の竹林を最近伐採したので、史跡見学の参加を募集するという内容になっていた。
【写真左】駿河丸城の配置図
 現地に設置されているもので、竹林の伐採作業が行われた区域は、この図の左半分(本丸・二の丸)で、右(東)側の出丸(三の丸)や神社跡地はそのまま残っている。


 それから数日たって、史跡見学には参加しなかったものの、現地を訪れ、駿河丸城のベールを脱いだ姿を見ることができた。ちょうど当城麓の民家に住んでおられる老夫婦の方がおられ、いろいろな情報を聴くことができた。

 駿河丸城の土地所有者は、4,5人おられ、地元教育委員会の方で、同じく当町にある小倉山城と併せ、国指定を受けた際(昭和61年)、整備するという方針が出たが、駿河丸の方は、所有者の方から了承が得られず、結局その予算は小倉山城整備に回されたということらしい。

 そうした経緯ののち、今年になって主郭を中心とした区域の竹林を伐採することが決まり、春になってその作業が行われたようだ。
【写真左】二の丸下段から本丸方向を見る
 二の丸の下段にも数段にわたる郭段があるが、規模は小さい。






 史跡の所在地はほとんどが民有地である。当然所有者としての権利が優先される。土地そのものが生業の元となっておれば、なおさら、外部の者が干渉することはできない。

 しかし、史学的に価値の高いものとなれば、自ずと其処を探訪する人が増える。今回、所有者の方に伐採を了承していただいたことは、山城ファンにとって大変ありがたいことである。
 特に、安芸吉川氏が、駿河国(清水市)から最初にやってきて築城した居城であることを考えると、管理人としてはより興味も募る。
【写真左】二の丸
 駿河丸城は、御薗宇城の稿(6月18日投稿)でも述べたとおり、中央部に広い郭を設け、その周りを馬蹄形の郭群が上部から覗き込むような構成となっている。

 駿河丸城の場合、本丸は右(東)郭となっているが、左側から囲むように伸びたこの二の丸が規模としては大きい。




 さて、前置きがだいぶ長くなった。先ず、現地の説明板より、当城の概略を転載しておく。

史跡 駿河丸城跡
 多くの中世山城は、地域、地域の人々、財産を侵略から守る砦としての位置づけが大きかったと考えられています。
 駿河丸城跡は、大朝盆地の北側、寒曳山南麓の標高440m、比高約30mの丘陵上に位置する丘城です。この丘城からは、大朝盆地の大部分を見渡せます。
【写真左】堀切
 二の丸の右端と、本丸左端の境界部に設置されたもので、現状でもかなり急峻な傾斜を保っているので、当時は相当深く、梯子でもなければ簡単に登ることができなかったと思われる。


 本城は、鎌倉時代末期(1313)に、吉川経高が駿河国(今の静岡県)から移り、築城し、以後、小倉山城に本拠を移すまでの約70年間、本拠地として使ったと伝えられています。

 しかし、これらを裏付ける史料は乏しく、駿河丸城跡の名前については、別名間所(まどころ)城跡ともいわれ、江戸時代の中期以前は、平家丸城跡と呼ばれていたとの史料があります。

 駿河丸城跡の遺構は、南に伸びる2本の丘陵先端部を利用したものです。郭群は、堀切や土塁で区切って造成し、郭の周囲は斜面を削り急峻にしており、中世山城の初期の形態を呈しているといわれています
【写真左】本丸に設置された土塁
 本丸は2段の構成となっており、中央部に面した位置に1m程度の高さを持った土塁が両端部まで繋がる。

 反対側(東南部)には土塁の痕跡は認められなかったのが、この場所から下段にかけては約10m程度の切崖状の斜面を設けているため、その必要性がなかったものと思われる。


 城の築造にあたっては、地域の人々が、自分たちの暮らしを守るため、各自が技術を発揮し協力して、汗を流した姿が思い浮かばれます。
1986(昭和61)年 8月28日 国指定  大朝町教育委員会”
【写真左】本丸下の郭
 写真右に見える斜面の上が本丸になるが、予想以上の高低差(10m程度)がある。

 写真奥の南東に見える山並みは、吉川氏が3回目の移城をした日野山城(火野山)方面。


【写真左】本丸奥の空堀付近
 本丸の奥から東部にかけての区域は、造林の姿のままだが、竹の繁茂が少なく、じっくりと見ると、遺構の確認も不可能ではない。

壬生城(広島県北広島町壬生)

壬生城(みぶじょう)

●所在地 広島県北広島町壬生
●登城日 2010年5月19日
●別名 高峰城
●築城期 鎌倉期
●築城者 山県氏
●高さ 標高358m/比高90m
●遺構 郭・空堀・土塁等

◆解説
 前稿有田城(広島県山県郡北広島町有田)から東方4キロの小丘(津久羅山)に築城された山城で、寿永2年(1183)当地壬生荘に下向した山県為綱が築城したといわれている。
 壬生城ともいうが、現地では「高峰城」という呼称が一般的なようだ。

【写真左】壬生城遠望・その1
 北東部の道路わきから撮ったものだが、壬生城も前稿の「有田城」も中国自動車道を下り方向に走っていると、右手にはっきりと確認できる。
【写真左】壬生城遠望・その2
 西側にある道の駅「舞ロードIC千代田」から見たもの。
撮影日 2016年7月25日





現地の説明板より

高峰公園 いこいの森
 いこいの森は、城山と呼ばれて広く親しまれてきた高峰城跡に造られています。

 壬生の町の背後にそびえるこの山は、この地方に大きな勢力を持っていた山県氏(壬生氏)の居城でしたが、数度の合戦の後、享禄3年(1530)には、毛利氏によって完全に滅ぼされ、壬生の地は毛利氏の直接支配下に置かれることになりました。
【写真左】いこいの森公園に設置されている案内図
 壬生城側は、同図左側の細くなった個所で、文字が小さいものの、配置・距離感がよくわかる。

 なお、東麓の壬生神社から登るコースは山城探訪者としては正規のものだが、ハイキング気分の人には、この北側の「いこいの森」側から向かうと、4,5分でたどり着く。

 ちなみにこの日探訪した時は、雨天であったため、汗と雨ですっかり濡れてしまい、千代田のスーパーで、連れ合いに、衣類を買ってもらうはめになった。店員さんに壬生城登城の話をしたら、神社から登る人は少なく、ほとんど北側のこのコースだという。気の毒そうな顔をされた。


 城は海抜357mの小高い丘の上に築かれ、北側に本丸・二の丸が、南側に突き出たゆるやかな尾根に三の丸があります。
 また、城の東側のふもとには、北から壬生城主のものと伝えられる墓、壬生八幡宮とともに古くから崇敬された大蔵神社山県氏の菩提寺と伝えられる善福寺跡、壬生八幡宮跡、毛利元就が建立した壬生新宮社(現壬生神社)が、南側のふもとには同じく山県氏の菩提寺とされる多聞寺が並んでいます。
【写真左】壬生神社
 写真の鳥居の前にもう一つ鳥居があり、これには「新宮社」とあった。

 登城口はこの左側からだが、かなり傾斜のある崖に沢山の墓地が並んでおり、墓地用の道と混乱してしまった。




 これらの寺社は、この地域の人々の厚い信仰心を示していますが、同時に合戦の時は、城を防衛するための拠点にもなったものと思われます。
 壬生神社横の登山道を登ると、約15分で頂上に着き、山頂からは壬生市街はもとより、千代田町の主要部が一望できます。特に毎年4月第3日曜日に行われる「つつじ祭り」の前後には、全山がつつじの花に覆われ、大変見事なながめが見られます。”
【写真左】壬生神社側に設置された壬生城附近の絵図
 小さい写真なので分かりにくいが、およその配置がつかめる。




 上記の説明板は壬生神社付近に設置されたものだが、これとは別に壬生城の北側にある千代田運動公園「いこいの森」側に設置された説明板には、次のように記されている。


“「のぼり来て昔の跡を尋ぬれば
     音信(おとず)れにけり峰の松風」
 と、歌われた清楚典麗な山容高峰城は、壬生の庄を一望にあつめ、山県五郎信春を城主として戦国の世は流れていました。 しかし、天文5年(1536)8月18日、安芸吉田に興った毛利元就によって山城は、炎に包まれ跡形もなく戦国の舞台から消え去ったといいます。


 今でも、山頂「一の丸」からは、その歴史の一コマを証言するかのように炭と化した米が掘りだされています。
【写真左】多聞寺跡
 二の丸、三の丸などは小ぶりだが、写真に見える多聞寺なども含め、全体に変化に富んだ郭形状が多く、立位置が分からなくなるときがあった。




 時は移り、この地に暮らす人々は四季折々の風情に着飾るこの城山を遊びの山とし、またふるさとの山として親しみを込めて壬生城・高峰城と呼び「いこいの森」として整備されました。…(以下略)”



 以上のように、壬生城が落城した時期について、上段にある享禄3年(1530)説と、下段にある天文5年(1536)説の二つが記されている。

 享禄3年の大きな出来事としては、同年7月15日に大内義隆が毛利元就に対し、高橋興光の遺領・石見国上下荘を領有させている。
 これは前年の享禄2年5月、高橋弘厚が大内義隆に反し尼子経久についたことから、大内方であった毛利元就に弘厚の居城・松尾城を攻略させ、その子・興光の居城・藤掛城・阿須那城藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)参照)を占領、興光が自害したことからの戦後処理であった。

【写真左】本丸跡その1
 当城の中でもっとも規模が大きく、整備されている。位置的には北側というより、東側に眺望が確保されているで、東方の睨み、すなわち毛利氏を意識した地どりだろう。





 天文5年については、9月17日、尼子勢、安芸国戸坂において大内方・毛利勢と戦い、敗走する(「吉川家文書」)、という記録があり、翌6年3月7日、元就が当時尼子方であった生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)を攻略したとある。

 これらの動きを考えると、享禄3年説より、天文5年説の方が事実に近いだろう。どちらにしても、当城の記録はその後ほとんど記録されていないので、自動的に廃城の形となって朽ち果てていったと思われる。
【写真左】本丸跡その2
 この位置に立つと、東方からの動きが手に取るようにわかる。






【写真左】西方に有田城を遠望する
 前稿の有田城も、壬生城とほぼ同じ高さの標高を持つ。大朝方面からの動きも、有田城と合わせて、東西から挟み打ちにして攻める戦法を考えていたのだろう。

2010年6月21日月曜日

有田城(広島県山県郡北広島町有田)

有田城(ありたじょう)

●所在地 広島県山県郡北広島町有田
●登城日 2010年6月16日
●別名 茗荷(みょうが)丸
●築城期 室町期か
●築城者 小田信忠
●城域規模 300m×200m
●高さ 標高370m/比高40m
●遺構 郭・空堀等

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
中国自動車道と、島根県浜田市から伸びた浜田自動車道が接続する千代田IC付近にある山城で、前稿「不動院」の中で少し触れているように、この地で永正年間(1504~21)、毛利元就が安芸守護で銀山城主・武田元繁を破った「西国の桶狭間」といわれた舞台として有名である。


【写真左】登城口付近
 当城の東麓側から狭いながらも車で行ける道があり、有田城登城用と、麓に鎮座している有田八幡宮参拝を兼ねた駐車場が造られている。

 車はそこに停めて、傾斜はきついものの、しばらく簡易舗装の道を登り、一旦踊り場のような平坦地を過ぎると、写真に見える登城路が続く。この場所から本丸までは5分程度でたどり着く。



 現地の説明板より

有田城跡と有田合戦

  有田城跡山頂には4つの郭と、郭の北西端を固める土塁が残っている。
 城主は、山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏・西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していた。

【写真左】三の丸付近
 最初に見える郭で、時節柄草木が伸びて遺構の十分な姿は把握できないが、主だった遺構は確認できる。

 全体に城域は南から東方を見下ろす位置に構築されているので、北側背後の状況は切崖状態が多い。



 永正12年(1515)、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城の武田元繁が反旗を翻し、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍した。これに対し、大内氏の命を受けた郡山城の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城した。

 1516~17年に有田城奪回を目指す武田氏と、毛利・吉川氏の間で、有田合戦が繰り広げられたが、武田元繁は戦死、山県一族の壬生・有田・今田氏も没落した。元繁戦死の地の碑は、現在又打川河畔にあるが、今田、中井出など異説があり、確定できない。

【写真左】本丸跡
 三の丸から西方に少し行くと犬走り状の帯郭があり、西端部に二の丸を設け、その東方に高さ8m程度の法面を保った本丸が造られている。

 本丸の大きさはおよそ7,8m四方のもので、小ぶりである。



 この有田合戦は、武田氏の威勢を失墜させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなった。
  芸北東部広域観光連絡協議会
  千代田朝観光協会”


 説明板にはないが、元々有田城主であった小田信忠の変心に対して、守護である武田元繁が怒り、5千の大軍で攻め入ったことから始まっている。いわば毛利氏としては、武田氏のこれ以上の北進を阻止したいという目的が起点となっている。

【写真左】二の丸から東方に本丸を見上げる
 前述したように、三の丸から二の丸にかけてフラットに帯郭状に連続しているので、主たる戦力はこの場所に陣取っていたと思われる。

 なお、本丸から一旦下って再び後方に上がると、「茗荷丸」と呼ばれる小郭があるが、ほとんど見張り櫓の規模で、この場所が一番高所となる。




【写真左】有田城本丸から東方に千代田の街並みと中国自動車道を見る
 有田城は標高が高くない割には視界が広く、東・南・西方向はほとんど見渡すことができる。






【写真左】有田城から東方に山県一族・壬生氏の拠った「壬生城」を見る
 写真中段の山で、有田城から直線距離で約4キロ程度である。






【写真左】有田八幡宮
有田城北麓に鎮座する社で、縁起などは分からないが、おそらく有田・小田氏を祀ったものだろう。

新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)

新日山安国寺 不動院(ふどういん)

●所在地 広島市東区牛田新町
●探訪日 2010年6月20日
●山号 新日山
●宗派 真言宗別格本山
●本尊 薬師如来
●創建 平安時代
●開基 空窓(伝)
●別称 安芸安国寺
●文化財 金堂(国宝)、鐘楼、楼門、薬師如来坐像、梵鐘(重要文化財)等

◆解説
 前稿で取り上げた銀山城(広島市安佐南区祇園町)城主・武田氏の菩提寺でもある「新日山 安国寺 不動院(以下「不動院」とする)」を取り上げる。

【写真左】不動院の楼門
 国重要文化財で、左右に鎮座する門内の金剛力士像は県重文になっている。





 現地の説明板より

“新日山安国寺 不動院の歴史

 新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓(くうそう)であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
 
 ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来像が定朝(ていちょう)様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。 当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本60余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
【写真左】配置図
 「二葉の里歴史の散歩道」より
 広島市内を流れる太田川の東岸にあって、左図の左上にある。



 しかし、戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後50年は藁屋(わらや)に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。

 当寺を復興したのが、戦国大名毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊(えけい)です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に与した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊亡き後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
【写真左】不動院内の配置絵図
 下段に紹介する豊臣秀吉遺髪塔・福島正則供養塔・安国寺恵瓊墓・武田刑部少輔墓などは本堂の奥(左)の墓所にある。




 毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国49万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍(ゆうちん)が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺全体を不動院と称するようになりました。

 正則公の治政は20年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。

 原子爆弾投下に際しても、地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。”
【写真左】金堂・その1
 大変に優美な建物である。

 この金堂を見た瞬間思い出したのが、前年訪れた長府(山口県)の功山寺大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)参照)である。
 大きさ、形など実によく似ているため、時々二院の記憶が混乱することがある。



 所在地は、広島市の国道54号線が二つに分かれた祇園新道側の大田川にかかる祇園新橋の麓にあり、後背には牛田山が控える。前稿でも取り上げたように、不動院の墓地から北西方向に目を転ずると、銀山城をいただく武田山が見える。

 もともと南北朝期に尊氏らが創建させた安国寺の一つで、後に武田氏の菩提寺となった。武田氏の墓は、前稿で紹介しているように銀山城南麓に歴代のものがあるが、不動院にあるのは、光和のものである。
【写真左】金堂・その2
 国宝指定になっているもので、堂内には薬師如来像(国重文)が祀られている。




 戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより、伽藍が焼失した。その後50年間は、藁屋(わらや)を建てて、本尊の薬師如来を安置していたという。

 当寺がそのあと本格的に復興したのは、毛利氏の外交担当として手腕をふるった僧・安国寺恵瓊で、伽藍をはじめ、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などほとんどの施設を再建した。
【写真左】武田刑部少輔墓
 武田刑部少輔は、光和のことで、この五輪塔は彼の墓とされている。生没年がはっきりしないが、文亀3年(1503)~天文4年(1535)という短い生涯を終えた。

 永正14年(1517)、有田中井手(現在の北広島千代田付近)の戦いで父・元繁が亡くなり、安芸武田氏を継ぐ。父同様、尼子氏に従属して、大内氏や毛利氏と抗争した。

 特に、大永4年(1524)大内義興・義隆父子による安芸国侵攻の際、尼子氏属城の一つであった武田氏の拠る銀山城の戦いは壮絶で、落城しかけた銀山城に尼子氏(経久)が、配下の国人衆を急ぎ動員して救い、大内氏は退却を余儀なくされている。なお、このころは毛利氏は尼子氏の配下にあった。


 しかし、その恵瓊も関ヶ原の戦いで西軍が破れたことにより、処刑され、毛利氏転封後、入国した福島正則の祈祷僧であった宥珍(ゆうちん)が当寺に入り、住持した。
 この時、それまでの禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を「不動院」と称した。
【写真左】福島正則の墓
 福島正則の晩年は、安芸・備後50万石を没収され、信濃(長野)の山奥(高井野藩)に減封され、当地で亡くなっているので、この墓はいわゆる供養塔と思われる。



 正則はよく知られているように、わずか20年足らずの治世で、そのあと浅野氏が入り、同氏が歴代藩主となっていく。
 第二次世界大戦の広島への原爆投下の際、奇跡的に災禍を逃れ、今日に至っている。
【写真左】豊臣秀吉遺髪塔
 福島正則が当地に入国した際、祀ったものと思われるが、正則の秀吉に対する忠義心がよくあらわれている。



安国寺恵瓊

 恵瓊の出自は諸説あり確定していないが、一つの説として、安芸武田氏の一族、もしくは武田元繁の娘婿・伴繁清の息子ともいわれている。
【写真左】安国寺恵瓊の墓












 天文10年(1541)毛利元就が武田氏を滅ぼすと、家臣の手によって脱出し、当院に一旦出家する。
 その後京都東福寺に入り、以後さまざまな形で毛利家に仕え、外交交渉に活躍した。
 戦国期に合戦などの交渉事にあたった僧は、幾人かはいるが、その案件の数の多さでは群を抜いている。

 後年は僧侶の身分のまま、大名としての禄高も取得している。
 関ヶ原の戦いでは、西軍方であったため、捕らえられ、京都六条河原において、石田三成・小西行長らととともに斬首された。享年62歳。
【写真左】不動院から銀山城を遠望する。
 太田川を挟んで北方に安芸武田氏の居城・銀山城(武田山)が見える。

2010年6月19日土曜日

銀山城(広島市安佐南区祇園町)

銀山城(かなやまじょう)

●所在地 広島市安佐南区祇園町
●登城日 2010年6月2日
●別名 金山城
●築城期 鎌倉末期
●築城者 武田信宗
●高さ 標高411m、比高400m
●遺構 郭(40か所以上)、空堀(5)、門跡等
●指定 広島県指定史跡

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 広島市を流れる大田川の西岸に聳える武田山山頂付近に築城された山城で、城域規模は650m×450mと近在の城砦のなかでも特に規模が大きい。

 なお、「銀山」と書いて、「かなやま」と読むが、近世以前の文献では「金山(城)」が使われている。
【写真左】武田氏の墓
 南側登城コースである「武田山憩いの森」の道から少し西にそれた宅地上部の竹林付近に建立されている。

 墓石はだいぶ劣化していて、五輪塔のようなものがそれぞれ3カ所にまとめて積んである。現地の説明板によると、戦国期の当主光和(元繁の子)の墓は東区の不動院に建立されている。




【写真左】不動院にある光和墓地付近より銀山城を見る
 不動院は次稿で紹介する予定だが、銀山城から直線距離で約4キロほど南南東に向かった大田川の麓にある寺院で、南北朝期、足利尊氏、直義兄弟が全国に創立した安国寺が元となっている。後に、武田氏の菩提寺となった。






【写真左】銀山城配置図
 山頂に設けられているもので、全体に北東から南西にかけて伸びた尾根を利用して作られている。



 最初に銀山城頂部に設置された現地の説明板から、当城の概要を記す。 

鎌倉時代初期、旧祇“広島県史跡 銀山城跡

 指定 昭和31年3月30日園町一帯には、安芸国内から運ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。また、この地域は、古市、今津などの市場や港町でにぎわい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所を占めていました。

 こうした要衝の地をおさえるため、承久の乱(1221)で手柄を立てた甲斐(山梨)守護職武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えられています。

 銀山城は、これ以後、天文10年(1541)大内氏の命を受けた毛利元就らに攻め落とされるまで約300年間、大田川中下流域を中心として安芸国支配をすすめようとした武田一族の一大拠点として重要な役割を果たしていました。

 現在、銀山城跡には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭の跡や、堀切などが残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡と呼ばれる郭跡には、通路を直角にとるかぎの手の石積みを残しており、近世城郭の枡型の原形として大変貴重なものといわれています。

 このように広島市域で最大の規模を持つ銀山城は構造的にもきわめてすぐれており、広島県を代表する中世の山城といえます。
平成2年2月10日 広島県教育委員会、広島市教育委員会”
【写真左】武田山ルート案内図
 当山にはいろいろな登城ルートがあるが、今回のルートが一番利用されているようだ。






 説明板にもあるように、築城者といわれる武田氏は、承久の変(1221)により安芸国守護に任命され、本国甲斐(山梨県)と併せ持つことになる。

 当初、武田氏(信光のころ)本人は安芸国に入国せず、守護代を送って、主に鎌倉に在任した。孫の信時の代になって、蒙古襲来などがあり、当国に入り本格的な領地を始めたようだ。

 鎌倉時代中期になると、早めに入国していた同氏庶流などは地頭として当地を支配しているが、記録によれば、今月取り上げた北方の三入荘「伊勢ヶ坪城」を本拠とする熊谷氏と、川船の通行税などをめぐって争っている。
【写真左】大蔵屋敷跡
 登城路の途中「祇園高校枝分かれ」を真っすぐ向かうと、大蔵(大倉)屋敷といわれるところがある。

 幅は約20m前後で、奥行き10m程度の平坦地が2段に構成され、東部には谷川が流れている。おそらく数棟の建屋があったものと思われ、平時の生活も可能だったと思われる。


 その後、銀山城は信時の孫・信宗の代(鎌倉末期)に武田山に築城された。信宗の子・信武は南北朝期足利尊氏に追従し、周辺の毛利・熊谷・吉川など率い東上している。

 ちなみに、このころ石見国での戦いで、安芸武田氏らの動きが記録されているので、付記しておきたい(「益田市史」)。

 建武4年(1337)4月、安芸の武田兵庫助信武は、吉川五郎次郎経盛、長門の厚東修理亮武実、石見邑智郡の小笠原氏を連合し、石見三隅に迫った。

 暦応2年(1339)7月には、石見の宮方軍(後醍醐派)である高津長幸らを主軸とした連隊が、孤立した武家方軍(尊氏派)の天野氏の拠る邑智郡市山城を攻めるというので、武田孫三郎入道、小笠原信濃守貞宗代らが救援に向かい、一戦を交えた。
【写真左】御門跡
 大倉屋敷跡から再び急坂を上り、「大手枝分れ」から本丸方向へ直進していくと、最初にこの「御門跡」が現れる。

 写真に見える説明板の内容を転載しておく。
御門跡
 ここは銀山城の南麓の出入口にあたり、城内への門があったと伝えられているところです。
 かつては、通路を直角にとる「鉤(かぎ)の手」に石積みがあったと思われ、この石積みで囲まれた部分は、近世の城郭で「枡形」と呼ばれる防御施設にあたり、その原型として注目される遺構です。”


 康永元年(1342)6月、足利直義は安芸国守護武田信武に命じて、兵を石見に進めさせ、7月安芸の武家方は芸州山県郡大朝(広島県北広島町)に陣し、石見の武家方と連絡を取りながら、市木の三坂峠(島根と広島の県境:浜田八重可部線)を避け、雲月峠(同県境で西方の今福芸北線)を目指していった。(中略)6月4日、来原の合戦が開始された。
  以上が石見国における武田氏の動きである。
【写真左】城跡(千畳敷)
 上記の御門跡から180mほど登っていくと、規模の大きな平坦地が出てくる。

 この場所が本丸跡とされているところで、幅は2,30mだが、奥行きは100m程度はあると思われる。


 さて、南北朝以降、武田氏は守護大名となり、熊谷氏、香川氏、己斐(こい)氏などを家臣としていくが、それ以上の伸長はなく、元繁の代には当初大内氏に従い、その後離反し独自に勢力拡大を図るため、毛利氏を討つべく有田合戦で戦うも、敗死してしまう。

 元繁の子・光和は後に尼子氏と組んで大内氏に対抗したため、度々銀山城は同氏に攻められるも持ちこたえた。
 しかし、次第に同氏の勢いは衰え、説明板にもあるように天文10年(1541)5月、大内義隆の命を受けた毛利元就によって落城した。
【写真左】御守岩台
 銀山城が最も偉容を見せる場所で、巨大な岩が武田山頂部に残る。
 また、ここから俯瞰する広島市街は絶景で、苦労して登城してきた者の疲れを一気に吹き飛ばすものがある。

 この場所の北東部には、大岩に囲まれた平坦地に館跡があり、さらに東に向かうと見張り台がある。ここから一旦数メートル下がって尾根伝いにいくと、出丸が控えているが、当日は見張り台までしか向かっていない。
【写真左】御守岩台より広島市街地を見る
 写真に中央部に見える道路は、山陽自動車道で、右方面が東方になり大坂方面に向かう。

 山陽自動車道は、この武田山(銀山城)や西峰の火山を北麓からぐるっと囲むように走り、火山西麓から大きくカーブして五日市方面に向かっている。
【写真左】御守岩台から広島市中心部および広島湾を見る
 この日は少しかすんでいたが、冬季などになれば、瀬戸内方面も鮮やかに見えるだろう。
【写真左】館跡付近から北西麓を見る
 安佐南区の西部方面も見ることができる。
写真左】弓場跡
 御守岩台から西側の尾根伝いに向かうと、北側の平坦地に弓場が見える。現地には手作りの弓・矢が備えられ、的も設置されている。
【写真左】観音堂跡
 弓場側から尾根を越え南側に廻ると、観音堂という個所がある。現地の説明板にもあるように、本来は郭として搦手の防御の役目をしていたものだろう。
【写真左】馬場跡
 観音堂付近から下山するルートは今一つはっきりしない案内標識で、少し迷ったが、途中から西の方に降りていくと、長さ30~40m(資料では70m)程度の平坦地が現れる。これが、馬場跡で近くに「水飲み場」という施設もある。
【写真左】櫓跡
 搦手ルートのものだろうが、石積み状況は大分崩れている。
【写真左】鹿ヶ谷自然道付近
 結局、登り道とはかなり離れた西側の谷に降りてしまった。鹿ヶ谷という谷らしいが、この道をさらに上に向かうと、武田山の西峰である「火山(H488m)」に行くようだ。
【写真左】鹿ヶ谷砦
 この砦名が記された施設(櫓)が、当時もあったものか判然としないが、戦略的には十分に考えられる。


 この後、この谷から一旦下まで降り、南麓の小路を北東部に向かって歩き、最初の登城口である「武田山憩の森」に戻った。

 銀山城は規模も大きいこともあり、すべての遺構をじっくりと見ようとすれば、半日では足らないだろう。まさに見ごたえ十分な山城である。