2010年3月28日日曜日

伊秩城跡・その2

伊秩城跡(いじちじょうあと)・その2

◆解説(参考文献「佐田町誌」等)
 前稿(その1)の続きとして、今稿は山口県の伊秩本家に残された、伊秩城落城の記録を中心に取り上げたい。なお、伊秩城が最終的に落城したのは天正7年(1579)となっているが、今回とりあげるものでは、天正2年の話である。
【写真左】伊秩城遠望その1
 東麓の神戸川を挟んで国道184号線から見たもの





 その前に、この時期の尼子方と毛利方の状況を見てみると、天正6年(1578)、尼子再興を目指した山中鹿助らは、播磨上月城に拠って、毛利軍の攻撃に耐えたが、7月同城は落城、尼子勝久は自害し、同月17日、山中鹿助は捕らえられ、護送中備中国の阿井の河原で殺害されてている。

 そうした状況も踏まえて考えると、このころ、出雲部はほぼ毛利方の手中に収まっていたと考えるのが一般的だが、伊秩城のみが、この時期(天正7年)まで、毛利方と争っていたということになる。
【写真左】伊秩城遠望その2
 同じく国道184号線の南側からみたもの







 尼子再興軍は、山中鹿助が事実上の司令塔になって動いてきたわけであるので、本人がこのころ出雲に在任していなかったにも関わらず、伊秩城・伊秩氏がこの佐田の山奥で一人孤軍奮闘していたことになる。

 さて、前置きが長くなったが、落城時の挿話として、記録されたものだが、佐田町誌によれば、
 「毛利氏に憚ってか、同家では秘書として他見を許さなかったが、伊秩本家・伊秩秀宜氏の好意によって、転載する
 とある。原文は漢文のため、佐田町誌において意訳している。

“時は天正2年(1574)3月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・穂井田元清の連合軍は、伊秩城攻略のため軍を起こした。

 これを察知した甲斐守元苗は、弟の源左衛門久正を伯耆の大山に落とし、末弟を僧として玄房と名づけて赤穴に、また長女(当時16歳、後に熊谷信直の家中に嫁がす)と、妻の二人を石見浜田に落として、弟の元忠と共に籠城したのである。
【写真左】伊秩城登城口と伊秩城
 この写真は2007年12月に訪れた時のもので、手前の道路などは工事が行われていた。駐車場は写真の手前広場。
 登城路は整備されている。




 しかしながら、尼子の勢力はとみに衰えているので、他からの救援は全く望まれず、善戦するものの、寡は衆に敵せず、5月某日攻撃軍の猛攻により、城はまさに落ちようとしていた。
 討死の覚悟を定め、最後の出撃をしようとした元忠を、甲斐守元苗は、急ぎ召し返して
 「自分は当主であるから、討死するのは当然のことだ。もし仮に逃れることができたとしても、将来多病のため、再び家を興す力はない。それでは多くの人から辱めを受けるから、この際討死したいと思う。
 お前も討死すれば家が絶えることになるから、先祖に対してこの上もない不幸となる。苦しかろうが、ここを脱出して、後に時を得て、家を再興せよ。それが最大の孝というものだ。それができないようなら、弟とも思わぬし、兄とも思うな。」
【写真左】本丸方面手前の郭付近
 この場所には石碑などが建立されている。なお、伊秩城の東西は険阻な切崖となっており、特に東麓からはほとんど攻め入ることは困難な形状となっている。




 と諭した。元忠は
 「兄の死を見て逃れるのは、義ではありませんが、申しつけのことは、天に誓って固く守り、家の再興に力を尽くします。もし、成就しないとしたら、それは天命です」
 と答えたので、甲斐守は大いに喜んだ。そうしている間に「敵は二の丸門を打ち破って乱入した」との注進を受けた甲斐守は、元忠の脱出を促し
 「家中の者に、元忠を助けて落ちさせるものあらば、第一の忠義の者とする」
 と言ったので、5騎の騎馬武者は、馬の首を立てなおした。元忠は、涙ながらに暇乞いをして搦手の門から落ちて行った。甲斐守は、最早これまでと覚悟を決め、城に火を放ち僅かに残るものと共に大手門に打って出て、壮絶な最期を遂げた。

 元忠の脱出の時、随った者は、松野茂助(子孫・小野村に住む)、熊野(子孫・金屋町に住む)、江本(同住勝筈)、布勢、勝原住(住安養寺)などの18人であったという。

 元忠は、後に毛利氏の旗下・穂井田元清に召出され、備中神戸村6千石を受け、安房守を名乗ったが、慶長3年3月20日、京都で病没。享年65歳。京都建仁寺門大通院の南化大和尚が導師となった(建仁寺過去帳・南化全集)。”



 前段でも示したように、この落城期の挿話とされている時期が、天正2年(1574)となっている点は、前稿で示した時期(天正7年)と異なる。
 また、その他細かな点で差異が認められるが、これを整理する知見もないので、紹介のみとしておきたい。

2010年3月27日土曜日

伊秩城跡(島根県出雲市佐田町一窪田)その1

伊秩城跡(いじちじょうあと) ・その1

●所在地 島根県出雲市佐田町一窪田 錦
●登城日 2007年12月14日、および2010年3月27日
●標高 236m
●遺構 土塁、郭、竪堀、櫓台、堀切、井戸、虎口他
●形式 山城
●築城期 応仁元年(1467)
●築城者 伊秩伊勢守政行

◆解説(参考文献「佐田町誌」等)
 今月の投稿で取り上げた山口県下関の大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)の際、大内義長の墓地の隣に安置されていた「伊秩氏累代之墓」を少し紹介していたが、今稿はその伊秩氏が関わった出雲国(島根)の伊秩城を取り上げる。

【写真左】伊秩城遠望
 南側からみたもので、伊秩山は独立峰として本流神戸川と支流・伊佐川の分岐点に立っている。

 この位置からは、神戸川を下っていくと東方の高櫓城に繋がり、北方へは日本海に面した多伎町へ、また伊佐川を登ると石見に繋がり、戦国期の毛利尼子合戦の際、重要な戦略上の境目となった。


 場所は、出雲の西部にあたる旧佐田町窪田という地区である。佐田町は、古代出雲の歴史発祥の地ともいわれ、出雲大社と非常にかかわりが深く、特に須佐神社は有名である。

 伊秩城の東麓を流れる神戸川は、島根県と広島県の境に位置する女亀山(830m)を源流とし、赤名・来島(飯南町)と下り、佐田町を通って出雲市・大社と流れ、日本海にそそぐ。この神戸川と沿うように国道184号線が走っている。中世の歴史的な関連でいえば、伊秩(窪田地区)は、この神戸川を中心として特に南部の飯南町との関わりが濃い。

 記録によると、伊秩地区(窪田)において、暦応4年(1341)、佐々木高綱5代の孫・佐々木備後守常宗が、足利尊氏の命によって、吉栗山に城櫓を築いて居住(出雲風土記考証、簸川郡史)し、伊秩山には応仁元年(1467)、この地に封ぜられたと伝えられる伊秩伊勢守政行が、伊秩城を築いた(明教寺文書)、とある。
【写真左】麓にある案内図
 伊秩城を含むこの場所は、「やすらぎの森」と命名され、伊秩山多目的保安林整備事業によって管理されている。地元の人にとって、気軽に登れる山である。




 なお、同町東部には須佐地区に戦国期、本城経光が拠った高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)があり、この城は伊秩城築城から約20年後の文明18年(1486)、尼子経久が出雲守護となってから築城を見ている。

 このことからわかるように、佐田町の中でも東部・須佐地区は、国守(文治系)が長らく当地を治め、伊秩城のある西部・南部は、南北朝時代から武士の支配下に入っていたようである。これらを補完する史料として、文永8年(1271)の千家文書によると、当時の荘園について

(イ)伊秩庄
  来島松助(※ 一説に杢助とあり)入道、60丁4反300歩を、来島庄(飯南町)兼ねる。

(ロ)須佐郷
  相模殿(北条氏、式部大夫北条時輔?)30丁3反歩。(これは後に、足利尊氏が石清水八幡宮へ寄進した)

 また、須佐地区は、須佐神社が社領として、上古から鎌倉、戦国時代までその石高をほとんど変えることなく続いたようである。

※来島松助
 来島氏は、伊秩のある窪田地区から神戸川を登り、現在の飯南町来島地区を治めていた一族である。
【写真左】伊秩氏の菩提寺といわれた明教寺本堂
 伊秩城南麓に創建されている寺院で、周辺には旧窪田小学校跡地や、三所神社などがある。



 さて、伊秩城主である伊秩氏については、前掲のとおりであるが、同氏の出自等について改めて記す。

 伊秩氏の菩提寺であったという、一窪田の「明教寺縁起」によると、

 伊秩氏の本国は、因幡国で、初代は井筒行守といい、山名宗全の家臣であった。応仁の乱では、山名氏に属し、細川勝元と戦い、戦功があったので、宗全は将軍・足利義政にその旨を言上。論功行賞として、伊勢守と義政の政の一字を授けられ、このときから伊勢守政行と名乗る。

 さらに所領として、出雲国伊秩庄を賜り山名家から家臣300人を下附され、前述の通り応仁元年(1467)当地に城を築き、井筒を改め、地名の伊秩をもって姓とした。
 山名家から下附された主だった家臣としては、矢田兵部少輔(出身は上州秩父)、吉川讃岐、京極三郎、高木左門、溝口五男などがいた。
【写真左】明教寺前の道路から伊秩城遠景
 写真に見える集落は当時、伊秩氏家臣らの屋敷があったところ思われ、具体的な遺構は残っていないものの、中世・戦国期の雰囲気が濃厚に感じられる景観を持った場所だ。



 下って戦国期である。大永3年(1523)3月、月山富田城主・尼子経久によって、合戦10数日の末、落城した。時の城主は、5代・伊秩甲斐守重政であったという。
 参考までに、初代から5代までの城主名を下段に示す。

●初代 伊秩伊勢守政行
●2代 伊秩下野守政方
●3代 伊秩常陸介一政
●4代 伊秩日向守政元
●5代 伊秩甲斐守重政

 ここまでは具体的な史料があるため、把握できるが、落城したといわれる大永3(1523)年から56年後の天正7年(1579)、今度は毛利氏によって攻められ落城した、という記録がみえる。
 現地の説明板にも、どちらの落城についても載せてあるが、この間の経緯については示されていない。

 ただ、現在の出雲市大津町来原の三谷神社に、天文20年(1551)10月27日、伊秩左京亮保連から、石塚神社に対して、

 「雲州神門郡久留原の三谷権現の神主敷、いち敷(神主、巫女の職務手当を作り出す田地)、権現御神田に関する諸々のことを、今後も今まで通り相違なく勤めよ」

 という申渡し状がある。同社では伊秩保連は、伊秩城の城主であると伝えている。
 このことから推察すると、5代甲斐守重政のあと、再び伊秩氏を名乗る一族が当城を治めていたと考えられ、重政直系のものとすれば、保連は孫あたりになるだろうか。

 以上の内容は、主に地元に残る史料・所伝からまとめたものだが、次に長門国・下関にある伊秩氏関係から、同氏に関する記録を拾ってみる。
【写真左】井戸跡
 内側の施工も丁寧で、おそらく当時の状況とほぼ変わらないものだろう。








長門国の伊秩氏

 佐田町誌によると、下関在住の伊秩秀宜氏一族は、先祖が出雲国伊秩城の城主であったという。
 この一族の系図では、下関の伊秩氏の祖が、尼子経久の子であるとし、政久、国久の次に「伊秩美作守元久」がいたという。そして美作守元久の子として下記の4人を挙げ、さらにその子を並べている。
1、伊秩甲斐守 
    その子:男 元忠・甚次郎・左京・安房守
         :女 伊秩城落城の際12歳
2、某
    その子:田儀家養子 次郎左衛門
         母家女 実は美作守長男、出雲国田儀の家督
         天正6年、田儀城落城の際自害
3、伊秩源左衛門(久正)
    近侍勝久(その他省略)
4、玄房
    天正7年伊秩城落城の際、乳母に抱かれて避難し、後出家その後、還俗して赤穴に棲む。

 上記のうち、山口県に住む伊秩氏の本家は、1、の元忠の末裔であり、長府藩(5万石)に仕えて、家老職(1千石)を勤め、伊秩源左衛門久正の末裔(下関伊秩秀宜氏)は、同じく長府藩馬廻り役(250石)、玄房の末裔(山口県豊浦郡菊川町吉野の伊秩氏)は、長府藩の分藩である清末藩(1万石)に仕えている(30石)。
【写真左】本丸付近
 写真のように公園化を図っているものの、山城としての主だったところはほとんど改変されていない。

 休憩用の小屋が作られており、くつろげる。ただ、この位置から周囲の眺望は、一部を除いて期待できない。
 特に東方の眺めが確保できると、最高なのだが…。


 さらに、同じ山口県で、伊秩家と深い関係のある上里家の累系によると、前掲の三谷神社文書に出てきた伊秩左京亮保連と、おそらく同一人物と思われる「保連」の名前が見え、元忠は、伊秩元処の子となっている。

 以上、地元の記録と、長門・下関の伊秩氏関係の記録を照合して整理すると、佐田町誌では次のような経緯が考えられるとしている。

 先ず、因幡国出の井筒氏が伊秩城に居城し、大永3年(1523)尼子氏によって陥れられる。その後、石見銀山が近いこともあり、尼子・毛利の同山争奪戦が始まり、当初尼子方は、同町須佐の高櫓城に本城経光を置き、西方の伊秩城には、尼子一族であった元苗(元久の孫?)を置いた。しかし、天正7年(1579 )毛利氏によって落城した。

 なお、ここで最大の疑問が、同誌でも述べられているように、尼子経久の子として、元久なる人物が全く記録にもなく、またよく取り上げられる「陰徳太平記」や「雲陽軍実記」にも出てこない点である。
 経久の子として定説になっているのは、長男・政久、次男・国久、三男・興久(塩冶)で、あとは長女・いとう(北島氏室)、二女(千家氏室)、三女(宍道久慶室)の6人である。

 こうなると、伊秩美作元久は経久の実子ではなく、大永3年の尼子氏が当城を落とした際、経久が伊秩政行の遺児を養子として引き取り、後に偏諱を与え元久としたのではないかと思われる。その際、経久としては、姓も尼子を名乗らせるところを、あえて当地および、伊秩氏の命脈も残させるためにこうした形をとったのではないだろうか。

 次稿では、山口県の伊秩本家にあるという、天正2年の伊秩城落城の記録について紹介したい。

2010年3月26日金曜日

萩城(山口県萩市堀内)

萩城(はぎじょう)

●所在地 山口県萩市堀内
●登城日 2008年11月21日
●別名 指月城
●形式 平山城/海城
●築城期 慶長9~13年(1604~08)
●築城者 毛利輝元
●遺構 石垣、土塁、堀
●指定 国指定史跡

◆解説(参考文献「日本城郭大系 14」等)
 萩市は萩城を中心とした城下町として、山陰でも指折りの観光地となっている。築城期は江戸期に入ってから造られているので、中世山城ではない。しかし、麓の平城と、指月山山頂に詰の丸が構築されているので、他の天守閣を持った近世城郭とは少し形態・形状が違うということになる。
【写真左】萩城 指月公園案内図












 毛利輝元が当地に入部する前は、石見(島根)津和野城主だった吉見正頼が晩年、この地を隠棲としていたようで、その頃は吉見氏の廟所と指月山善福寺があったという。

 築城当時の概要は次の通りとなっている。

《構成》

●本丸(天守閣)
 東西約200m×南北約145m、天守(五層)高さ14.5m、当該石垣高さ11m、郭塀回り528m、
●郭内
 藩主邸宅、諸役所、櫓5カ所(西丸門櫓、本丸門櫓、月見櫓、台所門櫓、井上門櫓)、井戸12カ所
●二の丸
 東西約278m×南北約106m、櫓13か所(北門櫓、山中櫓、三摩地院櫓、荒川櫓、紙櫓、三階櫓、時打櫓、塩櫓、青貝櫓、革櫓、妙玖寺櫓、潮入門櫓、東門枡形櫓)、井戸34カ所
【写真左】萩城水堀その1










●三の丸
 東西981m×南北655m、総門3カ所(北・中・平安古):堀内
●詰丸
 指月山山頂、本丸東西44m×南北36m、二の丸東西35m×南北36m、本丸・二の丸併せて土塀約288m、櫓5カ所、および2階櫓2カ所。


 関ヶ原の合戦に敗れた輝元は、それまでの領地であった中国8カ国・112万石を没収され、改めて家康から、防長2カ国・36万9,411石を封ぜられた。

 慶長8年、この防長2カ国の中から、新しく築城候補地を選定する。候補地としては、以前取り上げた山口の高嶺と、防府の桑山、そしてこの萩の指月山の3カ所が選ばれた。これをもとに幕府老中本多佐渡守正信、同上野守正純父子に伺いを立てる。その結果、当地萩が正式に通知された。
【写真左】萩城水堀







五郎太石事件

 「日本城郭大系 14巻」によると、築城の始まった翌年(慶長10年:1605)、石垣の材料である石の盗石事件が起こった。

 事件の元となった石とは、熊谷元直の担当箇所(二の丸東門入口北部)で、松の木の下に積んでおいた五郎太石(拳大の石)2,100余荷が、何者かに盗まれた。

 熊谷一族の天野元信が捕まえた犯人は、益田元祥配下の人夫であった。このことから益田側に盗んだ石を戻す、あるいは償うようにと要求したが、益田家臣の栗山は、盗んだ1日分は償うが、その前に盗んだものは自分たちではないといい、対立が生じた。

 このため築城作業は遅延し始め、しかもその頃は徳川秀忠が2代将軍に補任されるため、輝元は上洛する日程が迫っていた。輝元は処置を益田父子(玄蕃頭元祥とその子・修理亮景祥)に託し、4月2日に萩を発った。
【写真左】本丸跡その1













 熊谷元直始め一族は繁栄し、毛利家家臣として忠節を励んだが、黒田如水との知遇を得た時、キリスト教に入信し、しかも心驕ることが多く、輝元の意に反することもあった。

 7月2日、萩に帰ると輝元は兵を遣って一族(熊谷・天野・三輪・中原)の家を囲み、誅伐を加えた。このころ熊谷氏以外にも、キリスト教に入信していたものがいたらしく、輝元としてはこの機を待っていたとも考えられる。

 なお、2007年ローマ教皇庁が、17世紀前半に江戸幕府の追害によって殉教した日本人カトリック信徒188人に対して、複者の敬称を与えるとし、現在の教皇ベネディクト16世が正式承認している。
【写真左】本丸跡その2












【写真左】詰丸のあった指月山遠望
 登城路があるが、この日は時間がなく登城は断念した。










【写真左】奥の方にある志都岐山神社
 毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱とし、初代から12代までの萩藩主を祀る。

2010年3月22日月曜日

大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)

大内義隆墓地・大寧寺
          (おおうちよしたかぼち・たいねいじ)


●所在地 山口県長門市深川湯本1074
●探訪日 2007年3月14日

◆解説
 今稿は義長の養父・大内義隆の最期の地となった大寧寺を取り上げる。大寧寺は、山口県長門市にある。近くには湯本温泉がある。
【写真左】大寧寺境内

















 初めに当院の縁起などを現地の説明板より転載しておく。

曹洞宗瑞雲山
 大本山總持寺御直末


 大寧寺略案内(正式には瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺という)
開創
 室町時代 応永14年(1401)
 開山    石屋真梁禅師
 開基    長門守護代 鷲頭弘忠(わしのうずひろただ)
史跡および文化財の指定
 本堂 県指定有形文化財

 境内 県指定史跡
 墓地 県指定史跡(中世・近世の墓地群)
 梵鐘 市指定有形文化財
 塔頭興阿寺 市指定有形文化財

大内義隆公 大寧寺にて最期
 天文20年(1551)に連綿として栄えた当主大内義隆公は、突如重臣陶隆房の謀叛により山口を追われ、大内氏の香華寺である当寺に逃れ、13世異雪慶殊和尚に示戒を請い、従臣と共に自刃。大内家系譜は31代にして断絶した。
 主従の墓は裏山遊仙窟(ゆうせんくつ)に眠る。
【写真左】大寧寺本堂
 本堂は大内義隆が最期を遂げた際の戦乱で、七堂伽藍とともに焼失し、現在あるのは文政12年(1829)移築再建されたもの。

 写真中央にある梵鐘は、応永3年(1396)長福寺時代に、大内氏に属していた筑前(九州)麻生氏と関係があるといわれている芦屋(福岡県遠賀郡)の鋳物師製作のものといわれている。


上杉憲実公の終焉地
 足利幕府の管領であった上杉憲実は、幕府内の政争に疲れ、諸国行脚の後、享徳元年(1457)、当寺4世竹居正猷和尚の弟子となり、安居参禅の晩年を送り、寛政7年(1466)に入寂。墓は史跡墓地群の中にある。

湯本温泉由来
 湯本温泉は、当寺3世定庵殊禅和尚の威徳を慕って、長門一の宮の住吉大明神が大寧寺で参禅。特戒を果たされた報恩の温泉で、応永(1427)に沸き出した。開山堂には住吉大明神の尊像が奉安され、寺域には坐禅石・手洗いの池などゆかりの古跡がある。
【写真左】大内義隆墓所その1










義隆の自害

 大内義隆は陶晴賢に追われた際、計画では仙崎(長門の港)から海路の脱出を図ったが、折からの強風で押し戻され、再び当院に戻り、この段階で自害の覚悟を決めたという。

 介錯は、冷泉隆豊冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生)参照)が行い、寺には火が放たれた。その後、残った義隆勢は敵中に打って出、次々に倒れ、最期は介錯した冷泉隆豊が経蔵に入り、壮絶な割腹自害を行い、やってきた陶方に対し、自らのはらわたを投げつけたという。

 彼は、義隆を支えてきた相良武任(文治派)と、陶晴賢(武断派)の抗争を回避すべく奔走した人物で、大内氏にあっては最期の忠誠を全うした人物である。

 ちなみに、天文年間大内氏が、出雲月山富田城攻めを行った時、中海の大根島で奮戦。個別の勝ち戦では、神田源太郎の手結浦の戦とともに軍功を挙げている。

辞世の句
    みもや立つ 雲も煙もなか空に
             さそいし風の 末ものこさず

 享年39歳。 おそらく、最期の「末」は「陶晴賢」の「陶」を充てたものだろう。
【写真左】経蔵跡
 現地に立つ説明板では、辞世の句は少し簡単になって

「見よや立つ煙も雲も 半天に さそいし風の音も残らず」
 となっている。




長門豊川稲荷禅宮
 昭和36年(1961)愛知県妙厳寺の守護神豊川稲荷が勧請祭祀された。

 御祭神は仏法を護持する叱枳尼真天(だきにしんてん)という仏さまで、福徳成就の大誓願を持つ。明治になって神仏分離政策で妙厳寺と豊川稲荷を分離しようとする権力に直面したとき、当寺45世簣雲泰成(きうんたいじょう)和尚が、三条実美(さねとみ)卿を説得した因縁によって結ばれている。

境内の墓碑群
 この中の、「大寧寺境内」の墓碑群については、大内義隆墓地も含め多くのものがあり、詳細に記録されているので、参考までに転載しておく。
【写真左】大内義隆墓所その2












県指定史跡「大寧寺境内」(昭和54年2月6日指定)の墓碑群

●鷲頭弘忠大寧寺開基・長門守護代・深川城主)(生年不明~1448)
  文安5年(1448)同族の守護・大内教弘に攻められ深川城で戦死。

上杉憲実(関東管領・足利学校中興)(1411~66)   
 永享の乱後、関東を去り大寧寺境内の槎留軒に隠棲。この地で没。

●大内義隆主従(33基、義隆は中国・九州7カ国の太守)
  天文20年(1551)「山口の乱」の戦死者。義隆は大寧寺で自害。
  墓所は県指定史跡。
【写真左】大内義隆墓所その3
 左の宝篋印塔が義隆のものと思われる。
なお、大内義隆墓所の隣には、三条公頼の墓所もある。
 当地深川庄は大内時代には三条家の領地であった。公頼の娘は武田信玄の正室に嫁いでいる。

 天文20年9月の大寧寺の乱がおこる前、たまたま三条公頼は大内氏の山口に招かれていたことから、この事件に巻き込まれた。

 義隆が先に逃走し、そのあと三条氏らもあとを追ったが、途中暴徒に襲われたらしく、大内氏よりも2日前の8月29日に亡くなっている。こうしてみると、実に不運としか言いようがない。
 

児玉花外(詩人。明治大学校歌の作詞者・分骨墓)(1874~1943)
  昭和18年(1943)東京で没。父精斎は当市板持出身。大寧寺47世白毛和尚は児玉家出身。

横山幾太(松下村塾に学ぶ・大津郡長・深川村長)(1841~1906)
  住吉大明神坐禅石 大寧寺に湯本温泉を贈った明神坐禅の石。
【写真左】鷲頭弘忠の墓
 鷲頭弘忠は、説明板にもあるように、当寺・大寧寺(長福寺)の開基でもあり、近くにある深川城主でもあった。文安5年(1448)大内教弘に攻められなくなる。



萩藩重臣の墓碑群
 この大寧寺境内の墓域には、江戸時代のはじめ、萩藩初期の財政再建に力を尽くした益田元祥(牛庵)の墓を始め、井原、山内、天野、桂、堅田、宍戸、国司、粟屋、佐世、児玉、志道、榎本、宍道、内藤、赤川、乃美、熊谷氏等の寄組、大組の上級藩士70余家、250余墓がある。

 このような藩(毛利家)重臣層の墓が集中して所在する例は県内にはなく、全国的にも稀有のことである。それは大寧寺が江戸初期より中国、四国、九州一円の僧録司(禅宗寺院行政を管轄する役目)の地位を占めていた高い寺格によるものと考えられる。

 しかも、墓石の態様も、五輪塔、宝篋印塔、自然石塔、板碑型、石憧型、笠塔婆型、磨崖形式等多種にわたり、墓石建築の上からもまた近世封建社会における地方武家層の信仰生活を知るためにも歴史的、学術的にも貴重である。”

【写真左】宍戸十郎兵衛門就通の墓と一畑薬師如来

 この墓石以外にも多くのものがあるが、写真でもわかるように、この日訪れた時、周辺の多くの墓石が倒壊・破損し、立て札のあるものだけが何とか墓石として立っていた。

 位置的にも急峻な斜面に何段にもわたって墓所が造られているが、原形をとどめている墓石の方が少ない状況だった。

 ところで、同境内で、「一畑薬師如来」像が見られるとは思ってもいなかった。16歳と60歳の女性の名前があるところを見ると、出雲国に縁のある者が建立したのだろう。

勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)

勝山城(かつやまじょう)勝山御殿(かつやまごてん)

●所在地 山口県下関市
●探訪日 2009年10月25日

◆勝山御殿
●築城期 元治元年(1864)
●築城者 毛利元周
●遺構 館、石垣

◆勝山城
●別名 且山城
●標高 359m
●築城期 不明(永和年間)
●城主 永富上総介嗣光、相良民部少輔、内藤興盛、内藤隆世等

◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」「日本城郭大系14巻」等)
 今稿は、前稿でとりあげた功山寺義長が自刃する前、内藤隆世を頼った勝山城周辺を取り上げる。
【写真左】勝山三山(青山・勝山・四王司山)登山マップ





 功山寺からは直線距離で約3キロほど北に向かった場所で、勝山城の東方にある「四王子山城」、南南西1.5キロにある「青山城」を含めた三山を、勝山三山と呼び、地元では多くの人に親しまれ、ハイキングコースとなっている。呼称の通り、三山とも山城である。

 今回探訪したときは、功山寺が目的だったこともあり、時間がなく、これら三山の登城はできず、勝山御殿のみであったが、次回機会があれば、三山を登城してみたい。

 幸い、「城格放浪記」さんが、これら三山をすべて登城し、詳細な写真を紹介しているで、御覧頂きたい。
【写真左】勝山御殿











 勝山御殿は、ちょうどこれら三山が取り囲むほぼ中央部の麓に建っていた館跡で、建物は消滅しているものの、敷地周辺が整備されている。

 幕末期に造られたもので、関門海峡において外国船との交戦が始まり、長府毛利藩主が在城していたそれまでの串﨑城が危険なことから、急遽造られたという。

 文久3年(1863)6月28日に起工し、翌年正月に竣工させた。当時の石垣・石畳なども残り、御座の間、大書院室、御寝所などがあったという。
【写真左】勝山城遠望
勝山御殿から全景の勝山城は見られないが、頂部付近は見ることができる。
【写真左】青山城遠望



















 別名形山、面影山ともいい、形が富士山に似ていることから、「長門富士」ともいった。標高290m。

 伝説では昔、青山城と隣の勝山城とが争った時、水利の乏しい青山城が破れ、夥しい屍がさらされた。周辺にそれらの墓が散在し、俗に「青山くずれ」の墓といって、これに触れば祟りがあるといわれ、里人たちはそれを恐れ敬われている。。
【写真左】四王司山城遠望
 標高392mの山で、南北朝時代、厚東氏が拠った。

2010年3月21日日曜日

大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)

大内義長・墓地(おおうちよしなが・ぼち)
功山寺(こうさんじ)

●所在地 山口県下関市長府川端1-2-3
●探訪日 2009年10月25日
●山号 金山
●宗派 曹洞宗
●創建年 嘉暦2年(1327)
●開基 虚庵玄寂
●旧称 長福寺
●文化財 仏殿(国宝)他

◆解説
 功山寺は旧名・長福寺といわれた寺院で、前稿で取り上げた高嶺城(山口県山口市上宇野令)主・大内義長が同境内(仏殿)で自刃したところである。

【写真左】功山寺の国宝仏殿
桁行三間、梁間三間、一重もこし入母屋造、檜皮葺
指定年月日 昭和28年11月14日




 所在地である長府は、「長門国府」と呼ばれたことから、この中の二字をとって、長府となった。

 地名からも想像できるように、総社跡もあり、この地域の中心的な場所でもあった。
 また鎌倉期になると、長門探題がおかれ、室町時代には同地守護として厚東氏が在任している。

【写真左】境内の配置図
 大内義長の墓は同図左上にある。右側には毛利家の墓所がある。










 前記したように、功山寺は、元は長福寺といわれ、創建時の嘉暦2年(1327)から慶安3年(1650)までこの名称が使われた。

 現在功山寺付近には多くの史跡があり、観光客が訪れる。主な史跡としては、功山寺を始め、長府毛利邸、長府博物館、忌宮神社、覚苑寺、菅家長屋門、長府藩侍屋敷長屋、笑山寺などがある。

 ただ、幹線道路の幅員は旧山陽道のまま残っているため、車ではかなり狭い道を通ることになる。
 大内義長の墓は、功山寺境内にある国宝仏殿の裏にある墓所にたたずんでいる。
【写真左】大内義長の墓その1











同地にある説明板より

大内義長の墓

 大内義長は、その重臣陶晴賢の叛にあい深川大寧寺に自刃した。晴賢は義隆の甥・義長を豊後の大友氏から迎えて大内氏を継がせた。

 弘治元年(1555)毛利元就は晴賢を厳島に敗り、同3年後義長の山口城を陥れた。

 義長は山口を逃れて下関の勝山城に拠って、九州一族の援軍を待った。しかし、毛利勢の急襲で長福寺(功山寺)の仏殿に入って自刃した。山口に200年も栄えた大内氏は、これで全く断絶した。”
【写真左】その2











 弘治3年4月2日、義長は当山に逃げ込み、3日には福原貞俊ら毛利方が寺を囲み、義長に自刃を迫った。   

 当初、勝山城主・内藤隆世のみの自刃で、義長の命は保証するとの福原貞俊の言を信用していたため、義長は貞俊に欺かれたと怒ったが、ここにきてもはやどうすることもできず、切腹した。

 介錯は、杉民部大夫によって行われ、義長の後、民部大夫、陶鶴寿丸らがこれに殉じた。
 墓は三基あり、左から小・大・中と並んでいる。おそらく大が大内義長、中が杉民部大夫、小が陶鶴寿丸のものと思われる。なお、陶鶴寿丸は、陶晴賢の末子ともいわれている。僅か6歳であった。
【写真左】大内義長の墓より左側あった「伊秩(いじち)家累代の墓」
 伊秩氏については、いずれ出雲・伊秩城も含めとりあげたいが、同氏の墓がこの地にあったことに驚いた。

関連投稿
伊秩城跡(島根県出雲市佐田町一窪田)その1

【写真左】長府毛利家墓所
 長府藩は、毛利元就の四男・穂井田元清の子で、輝元の養子となった秀元から、第14代・元敏まで続いた。

【写真左】功山寺前を走る旧山陽道
 別名「野久留米街道」と呼ばれている旧道で、当時の幅員のままと思われる。
狭い道であるにも関わらず、交通量は多い。 
【写真左】長府毛利邸
 現地の説明板によると、長府毛利家14代・元敏が東京から帰住するため、この地を選んで建てたという。
明治31年起工し、同36年完成し、大正8年まで長府毛利家の本邸として使用された。

2010年3月20日土曜日

高嶺城(山口県山口市上宇野令)

高嶺城(こうのみねじょう)

●所在地 山口県山口市上宇野令字高嶺
●登城日 2008年4月11日
●築城年 弘治3年(1557)
●築城者 大内義長、毛利元就
●城主 大内義長、市川伊豆守経好、柳沢元政、佐世元嘉
●形式 山城
●標高 338m
●遺構 石垣・井戸・郭
●指定 国指定史跡
●別名 高峰城・鴻峰城
●廃城年 寛永15年(1638)
◆解説(参考文献「『日本城郭大系14巻』新人物往来社」等)
【写真左】登城口付近
 登城口は国道9号線の北側の狭い脇道から入るようになっており、入るとすぐ木戸公園や木戸孝充(桂小五郎)旧宅跡がある。

 写真は公園と、木戸孝充旧宅との間にある道で、この右側の道を登って行く。




 築城者である大内義長は、今月取り上げた臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)主・大友宗麟の異母弟である。彼が大内家に養子となっていったいきさつは、前稿の周防・若山城(山口県周防市福川)主であった陶隆房(晴賢)が、主君・大内義隆を打倒する(陶隆房のクーデター)ことから始まる。

 天文20年(1551)8月下旬、陶隆房は若山城から山口に入ると、義隆は逃走し、9月1日、長門深川の大寧寺で追い詰められ自害する。代わって、義隆の甥に当たる大友晴英(はるふさ)が、翌天文21年3月、豊後から山口に入り大内氏の家督を継ぐことになる。同時に、大友晴英を改め、大内義長とし、陶隆房は、大友晴英の偏諱を受け、陶晴賢と改名する。

 大内義長は大内家の家督を継いだといっても、明らかに陶晴賢による傀儡政権である。当初、異母兄である大友宗麟は反対していたという。
【写真左】木戸神社遠景
 ちょうど桜が咲き、この地区の住民の憩いの場所でもあるようだ。



【写真右】木戸孝充邸址
 現地の敷地内には民家があり、その庭に写真にみえる石碑が建っている。民家には現在も住んでいる人がいるので、断ってから中に入った。

 明治新政府樹立の立役者の一人だが、明治10年に病気により45歳で亡くなる。亡くなる前に彼は、この地にあった本宅・山林などを地区民に与え、子弟育英の資とするよう言い残した。地元民はこれに感謝し、後にこの地に社を建てたのが木戸神社である。



 弘治元年(1555)10月、厳島で陶晴賢が敗死すると、急速に大内・陶家臣団は弱体化し、その2年後の弘治3年4月、毛利元就による防長計略によって、義長は高嶺城を捨て、重臣内藤隆世の居城・勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)へ敗走するも包囲され、最後は長福院(現・功山寺)にて自害した。享年26歳。


辞世の句は、以前当ブログのタイトルに添付していたものだが、改めて紹介して置きたい。

 誘ふとて  何か恨みん  時きては
          嵐のほかに  花もこそ散れ

【写真左】高嶺城跡地形図
 木戸神社から車で登れる道はあるが、普通車1台がやっとで、対向車が来たらアウトである。幸いこの日は下りの車もなく、下の写真にある駐車場まで行くことができた。

 写真地図が小さいのでわかりにくいが、登り道はこの木戸神社側とは別に、東麓にある山口大神宮側からのルートもあるようだ。

 ただ、これは完全な歩道である。遺構をすべて見ようとすれば、この山口大神宮から3,4カ所の郭段があるので、そちらの方がいいかもしれない。
 なお、この付近一帯は「鴻ノ峰想像の森」という名称の森林公園形式となっている。

【写真左】駐車場付近
 左側の建物は以前使用されていたテレビ局の建物で、写真右にはNHKの建物が建っている。

 なお、この位置からすでに遺構の一部で、郭跡でもある。なお、写真の中央奥にみえる山の方向に主郭がある。

この場所にも説明板がある。上記の内容と重複するところもあるが、全文を転載しておく。

“史跡 大内氏遺跡
高嶺城跡
 昭和34年11月27日文化財保護法により指定
 大内氏は全盛時代、他に見られないような城郭は設けなかったといわれている。


 大内氏最後の義長は、弘治2年(1556)の春、毛利氏の来襲に備えて標高338mのこの鴻峯に築城した。弘治3年3月、毛利元就が来攻のとき、義長はこの城に拠ったが、ついに守り難きを察して、長門国勝山に逃れ、4月3日、長福寺で自刃して果てた。

 この城は、高嶺城と呼び、高嶺は、また高峯・鴻峯ともかかれ岳山ともいった。急峻な崖をめぐらした独立した丘陵の稜線上に階段状に郭を連ねている。

【写真左】途中にある長い平坦地(郭)
 テレビ塔から頂上部までの距離はさほどないものの、2,3段の郭を経ていくと、写真のような長い平坦地がある。おそらく馬場跡かもしれない。



 最頂部の郭は、石垣をめぐらしており、一つの山城として典型的なものである。

 大内氏滅亡後、山口は毛利氏の手中に入り、城番をおいてこの城を守った。ところが、元和元年(1615)6月、幕府は一国一城令を発した。
 これにより、毛利氏は居城・萩指月山城を残し、山口・高嶺上、長府・串﨑城、岩国・横山城を破却することとなり、寛永15年(1638)に高嶺城は廃された。

 現在、最頂部にはこの城の主要部分である郭の遺構が残っているが、尾根の平坦部にも郭の跡があり、また、石垣・井戸も現存している。
 最頂部の郭からは、大内菱の紋のある棟瓦も出土している。
管理団体 山口市
昭和47年 月建 山口市”



【写真左】主郭直前の郭からみた石垣の一部
 写真では主郭・本丸の大きさを感じなかったが、登城してみてその予想以上の大きさに驚く




【写真右】本丸跡
 目測では長径60m、短径40mの変形6角形の形状である。




 また、本丸跡にも説明板があり、これも上記と内容が重複する部分もあるが転載しておく。

“史跡 (大内氏遺跡附凌雲寺跡)

高嶺城跡
昭和34年11月27日国指定
 高嶺城は、大内氏最後の当主・大内義長が毛利氏の侵攻に備えて、弘治3年(1557)に築いた城です。同年、義長は形勢が不利となり、長門国(下関方面)に逃れましたが、4月長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃しました。

 義長が去ったのち、毛利氏は城の改修を行い、市川経好を城番として置きました。永禄12年(1569)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。

【写真左】本丸跡に残る瓦片
 説明板にもあるように、現在でも当時の瓦片が散在しており、高嶺城は、当初から本格的な城造りを目指し、さらにこうした主だった郭部分にも建造物を計画していたものと思われる。
 

 元和元年(1615)、徳川幕府から一国一城令が出されたため、毛利氏は萩指月山城を残し、山口県高嶺城、長府串崎城、岩国横山城を破却することとしました。寛永15年(1638)高嶺城は廃城となりました。

 高嶺城跡のある鴻の峰は、標高338mの丘陵です。城跡は頂上の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群が広がっています。主郭やその周囲の曲輪には石垣がめぐらされ、礎石や瓦片が発見されています。

 なお、史跡大内氏遺跡は、館跡・築山跡・高嶺城跡・凌雲寺跡の4遺跡で構成されています。
管理団体 山口市
平成17年3月建 山口市”
【写真左】本丸下の帯郭付近にある井戸跡
 井戸はおそらくこの場所以外にも数カ所あったものと思われる。手押し用のポンプが設置されている。




【写真左】本丸跡から眼下に山口市内を見る
 位置的にも長い山口市街を眺望できる場所にある。









佐世元嘉
 
 ところで、冒頭の高嶺城城主のうち、廃城前の城番として、佐世元嘉を挙げているが、彼は元は出雲国(島根)大東町(現雲南市)の佐世城に拠った佐世氏の一族である。

 佐世城は当ブログでまだ紹介していないが、大東町に正中3年(1326)、佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝にいたるまで270年余り続いた。8代の伊豆守清宗までは尼子氏の家老格として忠誠を励んだが、永禄8年(1565)より毛利氏に属し、防州山口に移住。

 高嶺城の城番を務めた元嘉は、9代正勝の弟である。兄正勝は、文禄3年(1594)再び郷里佐世城に迎えられたが、彼には嗣子がいなかったため、慶長6年(1601)逝去と同時に、甥に当たる防州山口佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、当地佐世家は断絶した。


◎関連投稿
佐世城(島根県雲南市大東町下佐世)

2010年3月19日金曜日

周防・若山城(山口県周防市福川)

周防・若山城(すおう・わかやまじょう)

●所在地 山口県周防市福川
●登城日 2008年4月11日
●築城期 文明年間(1470年代)
●別名 富田若山城
●標高 217m
●形式 山城
●城主 陶氏
●遺構 本丸・西の丸・蔵屋敷・空堀・石垣他

◆解説(参考文献「『日本城郭大系14 鳥取・島根・山口の城郭』新人物往来社」「益田市誌」その他)
【写真左】登城口に入る道に設置された案内板












 若山城の所在地は、以前、新南陽市といっていたところで、2003年に合併し現在の周南市となっている。

 山陽自動車道福川付近の北方300m付近にある山城で、地元では手軽なハイキングコースとしても利用されている。平成16年に日本ウォーキング協会という団体から「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に認定されたという。

 現地の二の丸・三の丸跡付近まで車で行くことができ、駐車場も完備されている。この日(2008年4月11日)訪れた時もかなりの人が登ってきており、ちょうど桜が咲き始め、眼下には周防灘が望めることから、ピークには賑やかな場所となるようだ。


【写真左】二の丸・三の丸跡
 現在駐車場となっているところで、遺構は大分消滅している。







 当城の概略については、現地に「陶の道を発展させる会」という団体が設置した詳細な説明板があるので、下記に転載しておく。


若山城悠久の歴史

 陶氏と若山城
 陶氏は、1350~1557年までこの地方を治め、若山城築城は1470年。
 9代目城主・陶晴賢が1555年10月1日、毛利元就との厳島合戦に敗れ、事実上滅亡する。
若山城での主な戦い。
  • 1551年8月 陶晴賢が主君・大内義隆打倒に蜂起
  • 1555年10月 杉重輔兄弟らが襲撃
  • 1557年2月 毛利元就の防長侵攻
それからの若山城
  • 昭和43年 福川青年団による新春登山および若山城公園化事業
  • 昭和48年 登山道開設
  • 昭和62年 若山城が山口県指定史跡を受け、保存協議会設立
  • 昭和63年 「全国の桜」を植樹


【写真左】若山城跡見取り図
 全体に東西に長く設置されている。


 中央部が本丸跡。右側の曲線が車で登ることのできる道で、右下の二の丸・三の丸が駐車場となっている。



  • 平成2年 「蘇れ若山城!防長の三武将(大内・陶・毛利)物語」、ジャンボ紙芝居の創作
  • 平成3年 NHK大河ドラマ誘致運動(若山城サミット開催)
  • 平成4年 三武将行列および合戦を町中の寺社で再現
  • 平成6年 城門および俳句碑設置
  • 平成8年 第1回「陶の道ウォーク」
  • 平成9年 大河ドラマ「毛利元就」が放映(35話で若山城が出る)
  • 平成12年 若山一夜城の築城
  • 平成16年 「陶の道・若山城登城のみち」を日本ウォーキング協会が「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に認定
  • 平成17年 陶晴賢公450年忌(復権祭)
  • 平成19年 若山城跡顕彰碑建立

陶の道を発展させる会”
【写真左】壇床(だんどこ)と呼ばれる場所
 この説明板の下段には「海からの攻撃を防いだ」とあるから、当時はこの麓まで海岸が迫っていたものと思われる。階段状に設置した形状なので、幅の狭い帯曲輪を何十段にも構築したものだろう。


 同じく、現地に当城の概要を示した説明板があるので、転載しておく。

“山口県指定 
 史跡 若山城
 昭和62年3月27日指定
周南市 大字夜市、大字福川

 若山城は、大内氏の重臣・陶氏の本城で、文明2年(1470)頃、陶弘護が石州津和野(現島根県)の吉見氏の侵攻に備えて築城したものと考えられています。

 この城は、連郭式城郭と呼ばれる中世山城の典型的特徴を示し、中心をなす本丸のほか、東西に伸びる尾根上を利用した郭や空堀、竪堀、壇床などの遺構がよく残されています。

 特に、本丸の北側斜面から東にかけて残る大規模な畝状空堀群(竪堀)は、中世城郭の遺構をよくとどめており、全国的にも極めて貴重なものです。
 山口県教育委員会 周南市教育委員会 昭和63年1月31日”
【写真左】本丸に向かう途中に設置されている鳥居
 刻銘を見ると明治33年とある。


 若山城は本丸・二の丸・三の丸と西の丸からなり、本丸は最も高い東部山頂にあり、西の丸は本丸の西部の山頂にある。

 本丸は東西34m余×南北20m余、面積500㎡とあり、二の丸は1a、三の丸198㎡(ただし現在駐車場)。西の丸は東西40m×南北15m、このほかに大小の郭が多数点在している。

 築城者である陶弘護は、弘房の長子である。応仁元年(1467)応仁の乱が勃発すると、西軍の山名持豊(後の宗全)に応じて大内政弘が山口を発つ時、父弘房も同行。弘護は幼年ながら周防の留守を預かった。


【写真左】本丸跡に立つ多くの石碑
 本丸は説明にあるように、さほど大きなものではない。

 現地にはいろいろな石碑や記念碑などが設置されているが、ここまで多くのものが建立されていると、少し、くどい感がしないでもない。もう少し整理してもいいのではないだろうか。



 翌応仁2年、11月弘房は京都の営中で急死。このころ大内政弘の伯父である大内教幸(道頓)が東軍細川勝元の誘いに応じて、応仁元年2月、赤間関で兵を挙げた(大内道頓の乱)。

 しかし、文明2年(1470)12月、周防国玖珂郡鞍掛山において陶弘護に破られ、道頓は石見津和野城主・吉見信頼のもとに身を寄せた。

 この後文明3年に吉見信頼は、長州阿武郡嘉年(かね)城に進軍したが、ここでも弘護が防戦した。同年12月、大内教幸の軍を遂に破り、教幸逃れて豊前へ走る。弘護追走し、教幸は遂に長岳城(馬ヶ岳城)で自害した。
【写真左】西の丸跡
 規模としては西の丸の方が本丸より大きい。
 先ほどの多くの記念石碑を少しこちらに移してもいいと思うのだが…





 その後幾多の合戦を経たのち、文明10年吉見信頼は罪を謝し、大内政弘に和を請いこれを許された。

 しかし、その4年後の文明14年(1482)5月27日、山口築山館で大内政弘が催した宴において、吉見信頼は、突然同席していた陶弘護を刺殺し、信頼もすぐに内藤弘矩に討ち果たされた。一説には、大内政弘が計画したものといわれているが、真意のほどは分からない。
【写真左】西の丸付近から南方の周防灘を見る
 前方に見える島は黒髪島や仙島など。その手前は工場地帯だが、ほとんど埋め立てによる人工島なので、当時は件の2島や大津島だけが見えたものと思われる。
【写真左】蔵屋敷跡
 西の丸からさらに西に向かうと「蔵屋敷跡」がある。本丸の管理に比べると、余りの野放図状態で
びっくりする。



 倒木・枯木がそのままで、とても中に侵入することが不可能である。


 せっかく西の丸まで整備されているので、この蔵屋敷跡も当城の貴重な遺構として保存管理してもらいたいと思うのは管理人だけではないはずだ。