2010年2月26日金曜日

瀬戸山城・その2

瀬戸山城・その2


◆解説(参考文献「飯南町教育委員会資料」等)
 ここで、瀬戸山城主としての佐波氏から、赤穴氏(戦国期)まで続く、主だった系譜を記しておきたい。
      
 瀬戸山城を築城したとされる佐波常連(赤穴常連)の父は、佐波実連で、常連の兄弟として頼清がいる。頼清はそのまま石見国の所領を継承したと思われる。常連以降の系図は以下の通り。

①常連⇒顕清⇒②弘行⇒③幸重⇒④幸清⇒⑤久清⇒⑥光清⇒⑦久清⇒⑧幸清⇒⑨元寄(中川氏)

 なお、2番目に記した「顕清」が2代目とならず、弘行が世襲した扱いになっている。前稿で示したように、正平6年1月、顕清は足利直冬に地頭職の安堵を請い承認を得ているが、父である常連の意向なのか、孫が世襲したことになっている。
【左図】藤釣城附近警備之古跡図
 藤釣城は、瀬戸山城の別名である。
 この図は「飯石郡誌」に掲載されたもので、これによると大手は北側に、搦手は南に配置され、上赤名から登る道があったようだ。また、次稿で予定している永禄5年の毛利氏攻略の際、陣を築いたとされる東方の武名ヶ平城も記され、そのほか出城と思われる下赤名の杉谷城、鳶ヶ城もある。



 さて、戦国期の瀬戸山城を舞台にした大きなな戦いは、天文11年(1542)と、永禄5年(1562)の二つがあげられる。

 最初の天文11年のものは、今月取り上げた「京羅木山城」における大内義隆方大敗の時のものである。

 その前年(天文10年)1月、尼子晴久が安芸吉田郡山城攻めで大敗し、富田城へ敗走する。しかも、この年の11月には山陰の雄といわれた尼子経久が亡くなる。
【上図】衣掛城郭図
 衣掛城も瀬戸山城の別名である。
 この図は、高橋謙二氏という方が作図されたもので、フリーハンドの絵図だが、立体的な表示で分かりやすい。

 特に左側の武名ヶ平から瀬戸山城に至るまでの遺構(郭段、空堀、郭)の内容や、南登山道付近に、数段の土塁や、竪堀、空堀が図示されている。


 尼子氏隆盛を極めた中心人物が亡くなり、しかも大敗間もない時期である。当然、尼子方の戦意は落ちている。毛利元就からはじめに山口(大内氏)に向けて使者が送られる。大内氏の出雲国攻略が翌年の天文11年1月決まった。それまで尼子に与していた者が次々と大内氏へなびいていった。
【写真左】登城口付近にある稲荷神社
 あとから知ったのだが、この神社奥に松田左近将監の墓が安置されている。松田左近は関ヶ原合戦の後、新しく入部してきた堀尾吉晴の家臣で、本城・富田城(のち松江城)とは別に、出雲南方の押さえ・城番として当城に入った。



 3月初旬、大内氏は先ず石見国出羽の二ツ山城(2009年12月投稿・参照)へ陣を構えた。そこへ石見国のほとんどの領主が馳せ参じた。
 このころ、すでに赤穴城では城主・赤穴右京亮光清をはじめ、尼子富田月山城から、田中三郎左衛門を大将として、約一千騎が在城していた。

 『雲陽軍実記』によれば、双方の規模は、大内軍4~5万、対する瀬戸山城籠城軍は、尼子方の援軍を併せても、わずか2千という明らかな差があった。
【写真左】稲荷神社付近にみえる数段の平坦地
 上図(衣掛城郭図)でいえば、「軍集合場」と思われるが、一部には戦国期の武家屋敷跡であったかもしれない。


 大内軍が瀬戸山城周辺に陣を構えた時期は明記されていないが、記録上最初に動きがあったのが、6月7日大内方の熊谷直続(なおつぐ)の先陣とされているから、5月の段階では大方の大内連合軍は、二ツ山城から当地に移動していたものと思われる。

 熊谷直続の先陣は、抜け掛けの功名が動機とされているが、これは大内連合軍が余りにも大軍であるため、各諸将の意見がまとまらず、軍議を開いても結論が出されないというジレンマを起こしていた。こうした状況のため、熊谷のように命が下されれないことに、いらだった結果だったとも言われている。この状況は結局、後に京羅木山に移っても変わらず、大敗していく最大の要因になる。

 組織が肥大化すると、とかく意思疎通が希薄になる。もともと思惑のそれぞれ違う一族・郎党の急造組織の軍団である。長期化すればするほど、内部での調整が困難になる。
【左図】瀬戸山城縄張図
 作図:寺井毅氏(平成5年4月29日)による。なお、左方向が北を示す。
 築城期は南北朝時代とされているが、その後毛利氏時代になって、大型の土塁や、郭群の改築がなされているという。

 さらに堀尾氏時代(松田左近将監城番)には、近世城郭を目指した跡が残り、特に石垣を多用し始めている。おそらく、当初天守閣のような建造物があったものと思われるが、一国一城令が出たため、工事半ばで中止しているではないかと思われる。


 さて、直続は先陣するも、赤穴光清・吾郷大炊助に討たれる。次に福屋・山内の2,000が城下へ向かうものの、これも光清らによって撃退される。

 次に本城経光を中心に出羽の軍2,000が向い、田中の陣へ攻撃してきた。この後、7月の後半まで瀬戸山城は陥落せず、持ちこたえたが、いよいよ同月27日、大内軍は全軍あげて総攻撃が始まった。

 おそらくこのころと思われるが、城主赤名右京亮光清は、陶晴賢軍の弓矢で喉を射られ、城中で亡くなった。田中三郎左衛門は、このことを大内方には明かさず、降参の旨を伝えた。そして、瀬戸山城開城の前に、密かに城内の者は城を抜け出し広瀬月山へ向かった。

 それにしても、大内軍4~5万の大軍に対して、瀬戸山城にこもる赤穴氏ら2,000余騎で、2か月も持ちこたえるということは奇跡的なことである。大内軍の拙い戦ともいえるが、赤穴氏の奮闘ぶりは、月山で待ち構えた尼子晴久の言で示されている。

 「汝は永らくの間、赤穴に在城し、城主右京亮(光清)と心を合わせて守ったばかりでなく、一同をつつがなく月山まで連れ戻したことは、まことに殊勝である。赤穴で籠城した者の妻子はすべて当城で養育し、大内さえ片付けば必ず本領へ帰し、また討死した者もねんごろに弔ってやるであろう」
【写真上】本丸から二の丸、三の丸を見たもの
 この写真も当町教育委員会から頂いた資料である。おそらく、昨年秋におこなわれた作業の時のものと思われるが、これだけ地元の方々や賛同者が参加されたことは近在でもあまり例がないだろう。
【写真左】武名ヶ平方面に向かう尾根
 管理人が登城したこの日は、東方にある武名ヶ平山城までは行っていないが、その手前付近はかなり広い削平地が見られる。

 高橋氏の城郭図によると、この先には数段の郭、空堀などが配置されている。
 特に、永禄年間毛利氏がこの武名ヶ平城を向城とした際、大堀切と土橋が明瞭に残っているという。
【写真左】石垣
 本丸周辺にこうした石垣の跡が残る。堀尾氏時代のものと思われるが、いかにも工事が中断したような痕跡である。
【写真左】本丸下の郭
 どの方向の郭か記憶が薄れているが、おそらく搦手側のものだろう。 
【写真左】主郭跡
 資料によれば、主郭から第5郭にかけての石垣は、横矢をかけることを意識した造りという。
 主郭の形状は変形の5~6角形で、いびつな形をしている。

2010年2月24日水曜日

瀬戸山城(島根県飯石郡飯南町下赤名上市)その1

瀬戸山城跡(せとやまじょうあと)その1

●所在地 島根県飯石郡飯南町下赤名上市
●登城日 2008年10月28日
●指定 飯南町指定史跡
●標高 683m
●築城期 永和3・天授3年(1377)
●築城者 佐波常連
●別名 衣掛城、藤釣城、赤穴城
●遺構 郭、帯郭、腰郭、土塁、堀切、虎口、石垣など

◆解説(参考文献 「『尼子十旗』島根県中近世城郭研究会 1997」「飯南町教育委員会編資料・」「『出雲・隠岐の城館跡』1998 島根県教育委員会」「新雲陽軍実記・妹尾豊三郎編著」その他

 これまで出雲、石見の主だった山城を取り上げてきているが、特に出雲部の中では、今まで取り上げていない地域として、この飯南町がある。当町は、数年前、北部にある頓原町と、南部にある赤来町が合併した町である。

 この飯南町を南北に走る国道54号線の道の駅「赤来高源」から、南東約1.5キロに見えるのが、瀬戸山城である。
【写真左】瀬戸山城遠望(2011年6月撮影)
 国道54号線の道の駅「赤来高原」から見たもの。







 昨年暮れ、当地旧頓原町の図書館に出向き、地元の郷土誌関係の本を借りた。このとき、受付の女性の方に大変親切な対応をしていただいた。

 さらに詳しいことを知りたい場合は、I氏という方がいるが、本日はこちらにいないので、コンタクトを取りましょうとのこと。数日後、拙宅にI氏から同町の山城関係の資料が送られてきた。
【写真上】案内図
 上記道の駅に、2011年ごろ設置されたもので、「赤穴瀬戸山城登山道 案内図」と記されている。


 頂上部には、主郭(本丸)・第2郭・第3郭・南西郭群・東郭群が図示され、麓には松田左近の墓・稲荷神社・恵厳寺・愛宕神社なども紹介されている。
 そのほか左側にも関連する史跡の紹介があり、大変わかりやすい案内図である。


 同封されたI氏の手紙に、瀬戸山城について、つぎのようなコメントが載っていた。

“ 近年、飯南町では特に瀬戸山城のある赤名地域の住民を中心に、地域資源として地元の歴史や文化を見直そうという活動が行われるようになりました。
 瀬戸山城は、木々に埋もれた格好でしたが、平成20,21年度で、本丸周辺の雑木が伐採され、登山する人々も増えております。
 瀬戸山城については、城の歴史、構造など未だ不明な部分も多く、教育委員会としましても調査中です。云々…”

 主だった資料は、瀬戸山城、賀田城、祇園山城の縄張図や、略歴等であるが、地元ならではの情報もあり、こうした資料はなかなか手に入りにくい。あらためてお礼を申しあげます。
今稿では、その主だった資料を紹介しながら、瀬戸山城を含めた飯南町の山城・中世を概観したいと思う。


出雲国「八所八幡」(石清水八幡宮)

 鎌倉期におけるこの地域は、赤穴(あかな)といい、石清水八幡宮の別宮の出雲国「八所八幡」の一つとされている。このころ他の別宮とされたものには、近くでは日蔵(掛合)などがある。
石清水文書に初見される八所八幡の時期は、保元3年(1158)ごろである。保元3年は、後白河天皇が譲位し、いわゆる院政を始めた年である。

 下って、文永8年(1271)の文書によれば、当時来島郷内の位置づけだった赤穴庄の規模は、50町2反60歩とされ、近在ではもっとも規模が大きい。このときの地頭としては赤穴太郎という人物である。

 頓原町誌によると、この時の赤穴太郎は、嘉暦元年(1326)8月付のある赤穴八幡宮神像胎内銘に書かれた「地頭・紀季実」と同族で、おそらく石清水八幡宮から派遣された下司の流れを組む人物であろう、としている。

 ただ、このときの赤穴氏が 瀬戸山城を築城したかどうかは明らかでないとしている(「『尼子十旗』島根県中近世城館研究会1997」)。
【写真左】石清水八幡宮
 京都府八幡市にあり、木津川、宇治川、桂川の3本の川が合流し、淀川となって大阪に下る位置にある。春になると、同社境内周辺や上記河川土手に見事な桜が咲き、多くの人が訪れる。



 ところで、石清水八幡宮(写真参照)は、貞観2年(860)大分県にある宇佐八幡宮(写真参照)を勧請したもので、現在の京都府にあるが、源頼信が篤く八幡神を信仰し、それ以来清和源氏の氏神的存在となり、全国に八幡神が勧請される。

 さきほどの保元3年時点では、宮寺領100カ所、33か所にも及ぶ巨大な荘園領主となった。前記した出雲国「八所八幡」もその中のものである。
【写真左】宇佐八幡宮
 大分県宇佐市にあり、八幡総本宮である。祭神は、八幡大神、比売(ひめ)大神、神宮皇后の三神を祀る。最近では、中国や韓国からの観光客が増えている。
【写真左】赤穴八幡宮
 瀬戸山城北西麓に鎮座し、創建は宝亀元年(770)といわれ、当時は松尾神社といわれた。平安末期に赤穴庄が石清水八幡宮の荘園となり、赤穴別宮が併せて置かれる


 さて、大分前置きが長くなったが、瀬戸山城が記録上出てくるのは、これまでのところ南北朝初期である。

 このころ、赤穴氏(この出自は石清水八幡宮の下司・赤穴氏とは違い、石見国佐波氏の庶流といわれている)一族・兄弟の中で、所領をめぐって争いがおこり、兄は隣国石見佐波郷の佐波実連と結び、貞和7年(正平6年・観応2年:1351)に、その弟常連に所領を譲ったという。

 そうした経緯で常連が瀬戸山城を築城したとされている。このころには、常連は当地名の赤穴氏を名乗ったとされている。

 これらの状況を裏付ける資料としては、同年1月、佐波顕清赤穴庄内東方惣領分地頭職の安堵を請い、18日足利直冬これを承認する(萩閥37)、というのがある。

 足利直冬は主に石見国で活躍するが、出雲国赤穴庄にまで範囲を広げている理由として考えられるのが、当時、赤穴庄北方に接する来島荘付近まで侵攻してきた、高師直方である三刀屋の諏訪部扶貞がいたからだと思われる。この年の彼の戦歴は華々しい。

 7月8日、阿用荘(大東町)蓮花城、12日、来島荘由来城、13日、同荘野萱・下小城、8月8日には東出雲に転戦し、安来津、13日、富田関所、14日平浜八幡宮という軍功をあげ、高師直の証判を受ける(三刀屋文書)。

【写真上】瀬戸山城遠望
 昨年秋ごろに地元有志のみなさんによって、本丸付近の伐採作業が行われ、城下からこうした光景が見えるようになった。 

【写真左】瀬戸山城本丸跡
伐採前の2008年10月に登城したときのもので、このころは眺望も北方方面程度しか確保できなかった。

2010年2月20日土曜日

大内神社(島根県東出雲町 西揖屋)

大内神社(おおうちじんじゃ)

●所在地 島根県東出雲町 西揖屋●創建時期 天文12年以降
●創建者 網元・八斗屋惣右衛門
●探訪日 2008年2月11日

◆解説
 前々稿京羅木山城・砦群(島根県八束郡東出雲町植田)その1の転載した説明板に、すこし触れてあるが、 天文12年の大内氏による富田城合戦の大敗時、多くの武将が討死や溺死をしている。この中で、特に悲運の武将として伝承されているのが、大内氏の嗣子であった若干20歳の春(晴)持である。

 当社所在地は、京羅木山から北西に向かった中海沿岸部にある東出雲町の西揖屋というところにある。 現在は陸地となっているが、当時はこのあたりまでは中海湖岸だった。
 なお、このとき同じく悲運の討死をした大内氏方武将には、小早川正平がいる(小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)参照)。

【写真左】大内神社前の鳥居
 東出雲町の街部にあり、手前の道は旧道のため狭い。

 駐車場はこの付近にはないので、東西どちらかの空地を見つけないと駐車困難。



 当社に詳細な説明板があるので、転載する。

“今から450年ほど前(天文12年)、瀬戸内海沿岸を支配していた山口の武将・大内義隆は、山陰地方を支配していた尼子氏を討つため北進してきた。尼子氏の城は広瀬の富田城だったので、広瀬が見下ろせる京羅木山に陣をとった。

 義隆は、3万の軍勢で富田城を落とそうと、2度も総攻撃をかけたが、成功せず、持久戦となった。しかし、その間に尼子氏に味方する武将が現れたり、長雨が続いたりして義隆の軍勢は次第に弱っていった。

【写真左】大内神社本殿
 規模は小さく、周囲は住宅が並んでいる。









 そこで、義隆は山口に退却することを決心し、ある夜に全軍を京羅木山から脱出させた。そして、自らは、揖屋から津田、宍道を経て、尼子氏の追撃を振り切り、石見路から山口へ退却していった。

 義隆の軍勢の中に、義隆の嗣子・大内晴持(20歳)という若大将(別名:義房)がいた。彼は海路出雲から脱出を命じられていたので、大混乱の中、揖屋の灘へたどり着いた。
 灘には船が用意してあったが、沢山の将兵が我も我もと乗り込んだために、晴持の乗った船は転覆してしまった。暗闘の中、とうとう晴持はおぼれ死んでしまった。

 翌日、晴持の水死体が揖屋の漁師の網元・八斗屋惣右衛門の網にかかって、引き上げられた。見れば、若いがその装いからただならぬので、調べてみたら、大内氏の若大将だと分かった。揖屋は尼子氏の領地なので、敵方である晴持の屍を葬ることは、厳しく禁止されていたが、心の広かった惣右衛門は、年若くして他郷で死んだ晴持を憐れんで、現在の大内神社の地に密かに葬り、回向した。

 葬った当初は、晴持の霊魂が馬で通行する武士などを悩ませた。そこで、惣右衛門は、その霊を慰めるために、小さな社を建て、晴持を祭神として大内権現と名づけ、毎年催事を執り行った。
 明治時代になって、大内神社と改めたが、古いしきたりで今でも「権現さん」と呼ばれて親しまれている。
【写真左】境内にある石碑












 昔の道は、神社の北側を通っており、社殿は道路を背にして建ててあった。それは晴持がはるか南方の故郷・山口を慕う心を酌んだ思いやりのある建て方であったと思われる。

※大内晴持は、京都の公家・一条大納言の次男で、母は大内義隆の姉。3歳のとき、義隆の養子となる。顔形が美しく、詩歌、管弦、蹴鞠の道はもとより、武芸にも優れた腕前を持っていたといわれている(原典:陰徳太平記)。"

京羅木山城・砦群 その2

京羅木山城・砦群 その2

◆解説
 今稿は、前稿の続きとして、主郭からさらに南の尾根伝いを踏破し、途中の峠から西の谷を降り、本谷地区乗光寺まで歩いたコース周辺を紹介したいと思う。
 前稿でも述べたように、京羅木山城・砦群はその範囲が広く、遺構も数カ所に点在している。一般的な居城とされた山城ではないため、その施工精度は劣るが、毛利氏などが東麓の勝山城を中心として、この京羅木山や星上山を有機的に使用していたことが、現地に足を入れてみるとよくわかる。
【写真左】主郭付近
 前稿でも紹介したが、この場所には記念碑的なものが数カ所設置され、もっとも管理された場所である。
 ここから写真奥に向かって尾根伝いに進む。

【写真左】勝山城遠望
 おそらく方向としては、この山が勝山城の頂部と思われる。写真の川は飯梨川で、勝山城の東麓には足立美術館や、鷺の湯温泉などがある。

写真左】南尾根途中の郭と思われる平坦地
 全体に尾根幅は狭いところが多いが、途中でこうした平坦地がある。この場所などは、明らかに人為的に改変された地形で、ある程度まとまった広さが必要だったと思われる。
【写真左】切崖
 尾根が長いため全域にわたって城砦施工はされてはいないが、要所では徹底的な施工をおこなったものと思われる。
 この写真は途中で見えた切崖。

【写真左】峠の茶屋跡
 大内氏や、毛利氏が当城へ陣を行った時、月山富田城へ向かう道として考えられるのが、この写真に見える峠の茶屋分岐点から東下する道である。
 おそらく戦国期前から、この峠は揖屋方面から広瀬に抜ける古道として使われてきたものと思われる。

 この写真では左側へ向かうと、半場(飯場)地区に出、飯梨河畔の石原地区にたどり着く。ここから月山富田城までは南方約1.5キロになる。
 また写真上部(南)の尾根をさらに向かうと、星上山に向い、右の谷筋を降りると乗光寺に着く。今回はこの右の谷を降りて行った。
【写真左】責鞍(せめくら)の滝(ドウドさん)
 下山途中に、上記の滝がある。谷下までは降りていっていないが、天文12年(1543)の大内氏大敗の際、一武将兵頭の討死を悼み、地元民によって祀られているという。
 説明板より転載する。
責鞍ノ滝
 ここは昔、築陽川、今の意東川の上流である。
 この滝は古くは責鞍の滝と呼んだが、地元では「ドウドウさん」といった。
 昔、騎馬の武士がこの滝壺に落ちて死んだ。その馬のクツワを祀ったのが、この祠であると伝える。
 この滝壺には耳の生えたウナギが住んでいるという。
 旱天でここの水がなくなると、そのウナギが現れ、待望の雨を降らすということである。”

【写真左】討死した多くの部将を祀る塚山
 この塚も上記のとき(大内氏か)、多くの屍を地元民が一カ所に埋葬し、塚をもって祀ったとされる塚山
 伝承では、この大内氏の大敗北は凄惨さを極めたという。大内氏に与していた元尼子方の大半が寝返ってしまったことから、大内氏の残兵はほとんどこの京羅木山西麓側や、飯梨川を下った中海方面に逃散していった。
【写真左】下山麓にある乗光寺
 現地の縁起より
山号 楊瀧山 宗派 高野山真言宗
 開基創立の年代は明らかでない。この地が真言密教の行者の道場となったのは、平安末期とみられるが、多くの末寺を持ち、当時安徳山星上寺と共に真言寺院の中心的存在であったことは確かである。
 本堂裏の築庭は山陰の名園にも紹介され、月山富田城築城の王平悪七兵衛景清の築庭による枯山水式で有名である。
 また樹齢数百年を数える本堂前の銀杏の大木が往時を物語っている。
 これら乗光寺の歴史は、尼子時代をいろどるが、堀尾氏以来寺領7石5斗を受け、その寺領が維新まで継続した記録を持つ寺院である。
 本堂左側の金毘羅宮は、畑地区金刀比羅宮の下・富士ヶ瀬にあったが、明治41年現在地に移転奉祀された。
 永禄年中、毛利氏が京羅木山に滞陣中守護神とした十二所権現も、その金毘羅宮に合祀されている由緒深い歴史的寺院である。
 東出雲町観光物産協会”

月山富田城が築城されたのは、治承元年(1177)とされ、前掲説明板にある「王平悪七兵景清」すなわち、平景清とされている。ちなみに、その前年(安元2年)1月、藤原頼定が出雲権守に、藤原信清が出雲介にそれぞれ任命され、10月には出雲宗孝(のり)が国造職に任命されている。いずれも平清盛が事実上の最高権力者となって、特に西国に強力な指揮権を発揮している時である。
 その3年後(1180)の8月、源頼朝が伊豆で挙兵。このときから、武者の動乱の時代が以後400年にわたって繰り広げられることになる。

京羅木山城・砦群(島根県八束郡東出雲町植田)その1

京羅木山城・砦群(きょうらぎさんじょう・とりでぐん)
                  ・その1

●所在地 島根県八束郡東出雲町上意東釜池、植田
●登城日 2009年3月8日
●標高 473m
●遺構 郭、腰郭、連続竪堀、虎口、土塁、堀切
●築城期 天文11年(1542)、および永禄年間(1564~65)
●築城者 大内義隆、毛利元就

◆解説(参考文献「尼子物語」「新雲陽軍実記」等)
 尼子氏の本城・月山富田城を東麓に見下ろす京羅木山は、天文年間と、永禄年間に大内氏と毛利氏が陣を張った場所で、本格的な城砦が造られたのは、毛利氏が攻め入った永禄年間といわれている。
【写真左】京羅木山西麓にある「おちらと村」に設置してある地図
 当城に上るコースは複数あり、今回は西側(東出雲町)から向かった。駐車場の確保としても休憩場としても「おちらと村」は便利な施設だ。なお「おちらと」とは、こちらの方言で、「ゆっくりとくつろぐ」という意味である。

 おそらく天文年間、大内氏が京羅木山に陣を張る際には、この西麓(意東川谷)から向かったと思われる。


 先ず、京羅木山頂に設置してある説明板から当城の概略について転載する。

史跡 京羅木山

 京羅木の語源については、「清木(きよらぎ)」「京萩(きょうはぎ)」など諸説あるが、標高473m、実に中海をめぐる連山中の最高峰である。
 天文12年(1543)山口の大内義隆は、尼子攻めに宍道からこの京羅木山に陣替えをしたが、同年出雲の諸将たちが尼子氏に寝返ったため大敗した。
 その子義房は、20歳の若さをもって揖屋(いや)沖で溺死し、のち西揖屋権現の祭神として祀られた。
【写真左】「おちらと村」から南東に京羅木山方面を見る
 京羅木山から星上山にかけての稜線は、ほぼ東出雲町と安来市の境界になっており、登山者の多い山である。


 永禄7年(1564)より同8年にかけて、広島の毛利元就は、星上・京羅木の両山に進出してきた。そして勝山(広瀬町石原地区)に本陣を置き、翌年富田城を三面より攻撃したが、落とすことはできなかった。そこで、兵糧攻めにするほかなしと考えた元就は、京羅木山上より見下ろされる中海、富田川からの富田城への輸送路を先制的に断ち、ついに月山をして開城のやむなきに至らしめ
た。
【写真左】金比羅宮に向かう途中にみえた郭跡らしき個所
 地図を見ると、京羅木山に向かうコースは南東方向になるが、途中の金比羅宮(後段参照)に向かう道は、当時の古道をそのまま残したような雰囲気で、写真にもあるように、途中でこうした郭跡と思われる個所があった。


 このように、京羅木山は富田城の死命を制する外縁上の重要地点であった。その後これを案じた吉川広家(米子城築城)、堀尾吉晴(松江城築城)も広瀬には城を築かなかった。

 星霜ここに四百年、その雄大な眺望は山容と共に今も変わらず、戦国争乱の世の兵どもが夢を偲ぶに最適の山である。一度山頂に立つと、雲伯の山野がその足下に広がり、海上遥かに隠岐を望むことができる。この大観に接する時、煩わしい浮世を忘れ、清新の気が全身に満ち、大自然の中に生きる喜びと平和の尊さが自ずから湧くのを覚える。
【写真左】金比羅神社
 毛利元就が月山富田城を陥れ、後に勧請したといわれている。

 ここまでの道は前記したように古道の雰囲気があり、少し傾斜はあるものの、この場所は小休憩するにはちょうどいいポイントであり、便所なども設置されている。この写真の右奥に京羅木山へ向かう道が繋がる。  


 この山野に眠る戦国の強者ども、そして先の大戦に散った幾多勇士の慰霊と万邦恒久の平和を祈念して、ここに平和観音像を建立する。 いしずえの会
東出雲町教育委員会”
【写真左】登城途中の「山伏塚」
 金比羅神社から200mほど登ると、「おちらと村」からのコースとは別の登り道(畑地区)と合流する。この道は、地元の人が管理するためだろうか、軽トラック程度が通る広い山道になっている。一般の者は車は遠慮すべきだろう。
 途中に、写真にみえる「山伏塚」というのが尾根道右下にある。説明板を転載しておく。


山伏塚

 京羅木山、星上山一帯の山地は、平安時代末期には、真言密教の聖地であった。山岳信仰に発する修験道の行者を山伏と呼ぶが、このあたりでは「峯入り」の季節ともなれば、廻国修行の山伏たちの錫杖白装束姿が見られたことであろう。

 彼らの宿った僧坊跡も数多く残っている。この山伏塚は、即身成仏を願う彼らの斎場であったといわれ、行場にふさわしい巨岩があり、護摩壇らしい遺跡もある。
 戦国の世には、ホラ貝や鼓隊の陣立ての場所ともなったところであろう。(詳細 「東出雲町誌」)”
【写真左】郭跡
 島根県遺跡データベースでは、遺構の種類が多く記載されているが、城域範囲が極めて広いため、根気よく見ないと、見過ごす恐れがある。

 この場所は主郭の手前の尾根道沿いに見えたものだが、前記の山伏塚の手前には、「馬場跡」と呼ばれた長い尾根平もある。  



【写真左】主郭手前の階段部 ここにくるまでは、多少の登りこう配の道であるが、ハイキング気分でいける。

 ただ、主郭手前は急峻な斜面のため、階段が設置してある。直線で登るため、一気に登ろうとすると、息が切れる。
【写真左】主郭周辺
 この頂部は、京羅木山の頂点(473m)ではないようだが、高さ的にはほぼ同じ程度だろう。周りには説明板にもあるように、平和観音像やベンチなどが置かれ、除草管理も行き届いている。

 この位置からは、北部~南東部の眺望が確保され、天気のいい日には東方に大山、北方に隠岐島を見ることができる。
 以下、当日俯瞰できた主な眺めを示す。
【写真左】主郭跡より北東部に、中海、大根島、島根半島を見る

【写真左】 東麓に広瀬の町並みと、月山富田城を見る。
 写真中央の丘が月山富田城遠景で、左の谷奥には新宮党館跡、右の谷奥には尼子晴久墓所がある。

 この位置に立つと、富田城周辺の動きはすぐに把握できただろう。しかし、時期によっては靄がかかることが多く、写真のような視界が確保できるのはすくないようだ。

 なお、広瀬の町並み手前で、京羅木山東麓には、勝山城があり、毛利方が攻めた永禄年間には、当城が実戦的な城砦となった。


【写真左】主郭付近から西方に星上山城を見る。
 永禄年間の毛利方侵攻合戦時、京羅木山と併せて使用されたのが、西方に屹立する星上山である。

 この山城は西方の八雲町岩坂周辺の警固も兼ねた城砦である。

2010年2月19日金曜日

八幡城跡(島根県安来市安来町八幡)

八幡城跡(はちまんじょうあと)

●所在地 島根県安来市安来町八幡
●探訪日 2008年2月3日
●築城期  不明
●築城者 不明
●城主 木戸民部少輔
●標高 50~80m

◆解説
 「十神山城」の稿で少し触れたように、天文年間(1532~53)十神山城城主が松尾遠江守や左馬頭(さまのかみ)重長のとき、前稿「愛宕山城(砦)」の南にあった社日山(八幡山)に、木戸民部少輔(主計頭(かずえのかみ))が砦の守将として任じていたいという。

 彼はその後、西側に流れる木戸川を灌漑工事によって開削、用水路を設置したといわれている。
 当時の城域がどの範囲までだったのか、島根県遺跡データベースには明記されていないので、想像するしかないが、現在のJR山陰線より南へ約300m前後、東西は当山西麓から東の日立金属工場敷地直近付近までと考えられる。
 特徴的なのは、低山の割に崖が急峻さを持ち、内側の峰も高低の頻度が多く、改変削平された割に城砦の面影を持っている。
【写真左】八幡城跡その1
 西側にある安来公園の広場












【写真左】社日茶屋付近
西麓の南側からみたもので、中央奥の小丘はおそらく当時の見張り場だったかもしれない。










【写真左】西麓の安来公園演舞場から八幡城跡を見る
 西の底部には地元の民謡・安来節を演ずる屋外舞台が設置されている。この位置からみると傾斜は予想以上にある。









【写真左】公園上部西端
 市民の散歩コースのような設備が付帯されている。なお写真にはないが、これよりさらに東に向かうと、頂部へ向かうと思われる登りこう配の道があり、当時の頂部からは安来港をはじめ、中海、、宍道湖、美保関なども俯瞰できたと思われる。

2010年2月17日水曜日

愛宕山城(島根県安来市安来町十神)

愛宕山城(あたごやまじょう)

●所在地 島根県安来市安来町十神
●探訪日 2008年2月3日
●築城期 中世
●築城主 不明
●標高 20m前後
●遺構 削平され遺構が不明

◆解説(参考「島根県遺跡データベース}等)
 前稿「十神山城」から南西約1キロほどに位置する小丘が愛宕山城といわれている。現在JR安来駅の西端部に周囲を相当削られた小丘が残り、十神山城主松田氏の支城・砦と伝えられている。
 当城に関する資料は極めて少なく、現地の説明板より転載する。
【写真左】愛宕山城遠望
 所在地は前述のように、安来駅の西端部にあり、北側は国道9号線が走り、南側はJR山陰線が走っている。
 地形から考えると、当時この愛宕山は、南方の八幡城跡(現安来公園)の丘陵の北端部として繋がっていたかもしれない。現在JR安来駅の南方は日立金属安来工場が、東西500m、南北300mにわたって設置されているため、大幅な改変がなされている。このため、中世の地形を把握することは困難だが、愛宕山の位置は北方の十神山との連絡に欠かせない砦だったのではないかと思われる。
 全周囲が削られ、南北70m、東西40mほどの小丘となっている。

安来の愛宕山の由来
 今からおよそ500年ほど前、対岸の十神山に尼子氏と勢力争いをしていた松田備前守の十神山城がありました。そして、当時古城山と呼ばれていたこの山にも、松田氏の城砦が築かれました。
 江戸時代になって、安来に松江藩主の参勤交代の折、宿泊所(お茶屋と呼ばれた)が置かれることになり、火難除けを祈願して、山頂に愛宕大権現(愛宕地蔵菩薩)と稲荷大明神が御祀りされました。

 そのころから、この山は愛宕山と呼ばれるようになりました。この愛宕さんは、家内安全、家業繁栄、防火息災の神として、安来の人々に篤く信仰され親しまれてきました。例祭は毎年7月23日です。
 近年にいたって、北清事変(1900年)の慰霊塔や、大きな石灯籠もあり、月の輪神事のときには、舟形のイルミネーションによる大念仏が飾られ、安来の夏祭りの夜を盛り上げてきました。
【写真左】登り口付近
 登城口は西側にある「西方寺」と公民館の間の路地先端にある。ここから階段が設置され、1分ほどで頂上にたどり着く。写真右が西方寺、左が公民館の建物。

 第2次世界大戦もたけなわとなった昭和19年、山頂の一辺の施設が取り払われて、高射機関銃の基地となりました。戦後、火災の頻発から安来消防団の方々や、有志のみなさんの尽力で、再び祠を山頂に御祀りしました。

 この山には、東に大山、西に中海・島根半島・十神山を、そして眼下に安来の町を展望できるこの山は、四季折々の風情があり、心の故郷として親しまれてきました。
 このたび、市民の皆さんの浄財により、愛宕権現・稲荷大明神の祠を新造再建し、また昭和58年につくられた商業近代化実施計画による「やすぎらしさ」を打ち出したまちづくりの一環として、発展する安来が一望に見渡せるよう、ふるさとと出会いの場として整備しました。
昭和60年7月
愛宕山整備委員会”

 前稿「十神山城」で紹介した、当城主・松尾左馬頭重長の時代、十神山の薬師谷に薬師如来が祀ってあった。しかし、江戸期になって薬師堂が荒廃したため、上記写真に見える「西方寺」に移転されたという。残念ながら、その西方寺の写真や薬師堂を撮っていないので紹介できない。
【写真左】頂上部
 説明板にある愛宕権現・稲荷大明神の祠。
 平坦な面になっており、小規模な公園といったところか。
【写真左】愛宕山北端から十神山城を見る
 十神山を紹介した資料や遠望写真は、この角度からのものが多く、一見すると単一の独立峰に見える。しかし、前掲で紹介したように、この背後(北側)に中十神、小十神の山が繋がっている。
 当時はこの愛宕山付近まで中海として迫り、当山直下が船の出入り港だったかもしれない。

2010年2月13日土曜日

十神山城(島根県安来市安来町)

十神山城(とがみやまじょう)

●所在地 島根県安来市安来町
●登城日 2010年2月5日
●築城期 不明
●築城者 松田氏
●城主 松田氏、松尾遠江守・佐馬頭(かみ)重長、尼子氏
●標高 93m
●遺構 郭
●備考 尼子十砦

◆解説(参考文献「安来市誌上巻」「島根県遺跡データベース」など)
【写真左】十神山城遠望
 十神山城のある安来町から東に約1キロいくと、新興住宅団地「汐手が丘」というところがある。この岸壁から西方に当城を見ると、十神山の三峰が一望できる。
左から十神山、中十神、小十神の三山。


 所在地は、島根県の中海に面する安来港の東方に突き出た十神山を中心とする区域で、城域としては3つの山(十神山・中十神・小十神)で構成されている。このうち西端の最高所92mの十神山に主郭が置かれたものと考えられている。

【写真左】当城の案内図
 西側の道路(黒井田安来線)から行くと、南側に10台程度の駐車場があり、この位置から登るコースを選んだ。



 現状では山城としての明確な遺構は多く確認できないが、3山まとめた規模からいえば、東西約700m、南北350m前後の城域となるので、標高はさほどないものの、城塞(形式からいえば「海城」と定義した方がいいかもしれない)の機能は十分持っていたものと思われる。

 承久3年(1221)8月、後鳥羽上皇が隠岐に配流され、翌月には出雲国三刀屋郷地頭職に、源助長(諏訪部、後の三刀屋氏)が任命された。翌年の貞応元年(1222)7月8日、松田九郎有忠も承久の乱の戦功により安来庄の地頭に任ぜられた。松田氏は、相模国足柄上郡松田庄より起こった秀郷流藤原姓波多野氏族であるといわれている。
【写真左】十神山と中十神方面に向かう途中にある尾根
 幅はさほどないものの、郭としては十分な広さだろう。



 ただ、松田九郎有忠は、これより以前の建永元年(1206)に、すでに現在の宍道湖北岸にある秋鹿郡大野庄の地頭としても確認されている。この地は昨年取り上げた大野氏の居城・本宮城と同じ場所にあたるので、なんらかの関係があったものと思われるが、詳細は不明である。

 また、有忠の息子・日置(松田)小次郎有基は、島根半島西岸にある日御碕神社検校家・日置氏と関係を持ち、宝治元年(1247)5月6日付で、将軍頼嗣から父と同じ大野庄の地頭に補任されている。

 その後、文永8年(1271)の「出雲国杵築大社御三月会相撲舞御頭役結番帳」によると、このころ松田氏が大野庄を治めていた記録がなくなっているので、この段階で大野庄とは縁が切れ、安来庄が松田氏の唯一の本拠地として確立していたと思われる。
【写真左】最初のピークその1
 十神山(本丸)と中十神の中間地点で、尾根の鞍部になる。左方面が本丸、右方面へは中十神。このあと中十神に向かう。 





 室町期に入ると、同氏の勢力はさらに大きくなり、応永11年(1404)11月、守護京極氏の下で松田掃部助(常鎮)が平浜八幡宮の造営を行い、次いで翌12年10月になると、幕府からの依頼により杵築大社の造営も行っている。

 さらに応永25年(1418)から嘉吉3年(1443)ごろまでには、能義郡地域の他の社領もほとんど同氏が扶植し、さらに杵築大社領のうち、遙堪郷(安食神社)についても同氏の代官と思われる者が行っているので、在地領主として、このころが同氏の最盛期だったようである。
【写真左】その2
 上記の位置を中十神側から本丸方面を見たもの。 登り口は登ってきた左側からのものもあるが、右(北側)からもある。

 現状は公園になっているので、相当改変されたものと思われるが、このあたりに堀切があってもおかしくない。


 松田氏支配の特記事項としては、朝鮮との交流が挙げられる。当時、幕府や朝鮮・中国を悩ませていた倭寇を取り締まる権限を持ち、美保関のある美保郷にも支配を伸ばしている。

 「李朝実録」によると、応永27年(1420)閏正月15日の記録に、朝鮮の民衆が安来港(津)に70余戸暮らしていた、とある。このほか、同氏が中国との交易も行い、三河守の時代には隠岐国の国人を従えて、若狭国小浜の港とも商取引をおこなっていたという。
【写真左】中十神の頂部
 頂部平坦面はおよそ直径7,8mの大きさになっている。周囲には小規模な郭(段差)らしき跡が見える。
 数体の祠が祀ってある。



 十神山城の築城期については、室町時代とされている。となると、それまでに拠っていた松田氏の居城は、どこだったのかという疑問も出てくる。

 そこで、松田氏が治めていた安来郷の位置を考えると、それまでの本城はもう少し内陸部であったようにも思える。

 その場所として考えられるのは、今はまったく削平されて面影がほとんどないが、現在の安来公園にあった「八幡城跡」ではないかと思われる。この場所は西麓に伯太川や、木戸川といった中海にそそぐ河川もあり、中海にもすぐに出られる。戦時にも平時にも、有効な地どりとしては最良の場所といえるのではないだろうか。
【写真左】十神山本丸跡
 この跡には写真のような石碑が置かれている。長径15m、短径10m程度か。なお、この写真の後に登城路の一部があるが、多少郭段の痕跡が見られる。



 さて、応仁元年(1467)になると、いわゆる応仁の乱が勃発。出雲・隠岐国守護であった京極持清は東軍・細川勝元へ、石見国守護・山名政清は、西軍・山名宗全に味方する。

 尼子氏は以前にも取り上げたように、近江国犬上軍甲良庄尼子郷の出身で、在地名を名乗り、持久の時赴任したといわれている。当時の守護京極氏は実際には出雲に在任せず、その代りを一族の尼子氏に任せていた。

 しかし、もともと出雲国の守護は山名氏でもあったことと、安来庄に本拠を置く松田氏、仁多郡の国人領主三沢氏等々、尼子氏が出雲に赴任する前からの各地の地頭や土豪領主などがいたため、尼子氏が支配力を強めたり、杵築大社をはじめとする権威まで干渉しだすと、彼らは尼子氏包囲網を作り上げていった。
【写真左】中十神と小十神の鞍部付近から本丸方面を見る。
 この位置は、北側の中海に面した「なぎさ公園キャンプ場」に向かう峠付近で、左側の山が中十神斜面で、中央奥が本丸(十神山)の遠望




 応仁2年(1468)6月20日、十神山城主・松田備前守は、伯耆の山名六郎、仁多の三沢為信や周辺の土豪らと手を組み、富田城の尼子氏を攻めた。
 このとき尼子氏の守護代は清定で当城に在城していた。

 松田備前守は本城十神山を中心とし、支城である利弘八幡城、富尾城(いずれも比定不明)、から攻め入った。その後、尼子氏は反転し松田方の岩坂、外波の両所をせめ、三沢氏の代官福頼氏を討ち取る。同日、春日城(東出雲町春日)では尼子方重要被官人神保氏、ならびに西木氏らを失う。

 その後幾多の合戦ののち、10月21日、籠城していた松田氏・山名氏などの十神山城を開城したとある。しかし、この戦いは終結したが、松田氏の勢力は依然として強力な体制を誇っていた。
【写真左】なぎさ公園から小十神を見る。
 この公園付近には浜があり、遠浅の雰囲気があるが、小十神も、本丸になる十神山の海岸部に面した崖は、いわゆる切崖状態である。





 松田三河守の代になると、幕府や尼子氏との武力による争いは少なくなり、もっぱら懐柔策が採られていったようである。しかし、文明7年(1475)近江国で京極氏と六角氏の争いが生じると、京極氏は出雲国の国人たちに対し、直ちに京へ登るよう命を下した。この期に乗じて、松田氏はまたもや清定の拠る富田城を攻撃した。

 その後の経緯については具体的な史料が少ないため、なんとも言えないが、尼子氏が経久の代になってから、松田氏への懐柔策が功を奏したようで、経久の嫡男政久の娘が松田氏へ嫁ぎ、その後松田氏は後に尼子十旗といわれた松江・白鹿城主にもなっているので、このころには完全に松田氏は尼子氏の重鎮となっていく。

 記録によると、天文年間には十神山城主として、松尾遠江守・佐馬頭重長が城主であったといわれ、同時期には前記した八幡山には、城主・木戸民部少輔という武将がおり、安来港にそそぐ木戸川の開削工事も行ったという。

 松尾氏についてはその出自は不明なものの、松田氏の一族、もしくは家臣であるといわれ、宍道湖・中海、および日本海などにおける水軍領主ではなかったかと思われる。
 こうしてみると、松田氏が支配を広げていく基盤の一つが、安来港を中心とした海上権益からなりたっていったのではないかとも考えられる。 
【写真左】小十神の山頂
 三山の中で一番北方にあり、軍船の襲来を発見する場所としては重要な位置だったと思われる。

 現地には明確な遺構は見当たらないが、他の二山に比べると、最も山城(砦)の雰囲気を漂わせている。