2010年1月31日日曜日

羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)

羽衣石城跡(うえしじょうあと)

●所在地 鳥取県湯梨浜町羽衣石)
●探訪日  2007年9月3日
●築城期 貞治5年(1366)
●築城者 南条貞宗
●遺構 主郭・帯郭・虎口等
●標高 372m
【写真左】羽衣石城遠望
 2014年1月25日撮影











【写真左】本丸跡に建つ模擬天守












◆解説
 現地の説明板より転載

羽衣石城の歴史
 羽衣石城は、東伯耆の国人・南条氏の居城として貞治5年(1366)から慶長5年(1600)まで約234年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ、羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」「伯耆民談記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は、南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中ごろのものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが、南条氏を知る一つの手がかりである。
【写真左】羽衣石城跡 周辺案内図









 さて、これらの諸本によると、南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩冶高貞の二男で高貞が滅亡したとき、越前国南条郡に逃れた。この貞宗は成長後、将軍足利尊氏・義詮の父子に仕えて功績をあげ、義詮より伯耆守に任ぜられて、貞治5年(1366)に羽衣石城を築いたという。
【写真左】主郭付近
 探訪したのが9月初旬であったこともあり、草丈が伸びていて遺構部がはっきりしないが、主郭周りは奥行もあり、広々としている。


 この南条氏の活動が盛んになるのは、応仁の乱以後である。明徳の乱(1391)、応仁の乱(1467~77)のために、伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて、南條氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第8代南条宗勝の時には、守護山名澄之の権力を上回る武力を保持するにいたった。
【写真左】登城口付近にある駐車場
 所在地は合併前、東郷町と呼ばれていたところで、現在倉吉市と鳥取市の間に挟まれた湯梨浜町というところにある。位置的には以前取り上げた「田内城」「打吹城」(いずれも倉吉市)の東に構えた山城である。


 大永4年(1524)、隣国出雲の尼子経久は、伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城ならびに東伯耆の八橋城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し、同年5月中ごろまでにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の5月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子・国久が入城した。

 しかし、尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(1558~1569)には、支配権を失った。南条宗勝は永禄5年(1562)に毛利氏の援助により、羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
【写真左】羽衣石城案内図
 北にある東郷湖へ流れる羽衣石川からさかのぼっていき、途中から東側の谷沿いに入ると上記の駐車場がある。麓にある集落も当時の武家屋敷関係の跡らしく、残念ながら写真は撮っていないが、当時の面影を十分残している。

 駐車場までは車で行けるように整備されている(※竹下総理時代の「ふるさと創生基金」で造られている)が、そこから本丸までの道のりはあまり整備されていない。登り道はかなり傾斜があり、日蔭はあるものの、その分風が吹くところが少ない。真夏などは相当水分補給しないとつらい登山となる。


 天正7年(1579)、織田氏の山陰進出が本格的になると、南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが、天正10年(1582)羽柴秀吉の徹平とともに落城し、城主元続は京都へ逃走した。

 天正13年(1585)秀吉と毛利氏との間で、領土の確定が行われ東伯耆八橋城を残して、秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。しかし慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の役で、西軍に属した南条元忠は没後改易され、羽衣石城は廃城となった。  東郷町教育委員会”
【写真左】模擬天守下の郭から見上げる
 写真のような建物を建てた時、遺構部分も土木機械などでかなり手が加えられているようだ。

 山城探訪というよりも、手軽な登山の到達点として公園化を図っているようで、遺構の管理までは手が行き届いていない。
【写真左】本丸跡から東郷湖・日本海を見る
 俯瞰できる範囲は、北および西方が限度で、東・南は隣接する山並みが高く、ほとんど見えない。

なお、次稿でとりあげる「馬の山砦」(吉川元春本陣跡)が、この写真の東郷湖北方に見える。

 ところで、この山城も上記したように、探訪する時期は夏は避けた方がいいかもしれない。このとき訪れたのは9月の上旬だったが、とにかく蒸し暑く、風がない状況だったので、ずいぶんと疲れた印象がある。そうした状況の時は、いつもそうだが、写真を撮る集中力も散漫になり、当城の遺構関係写真をほとんど撮っていない。



南条氏の出自

 現地の説明板にもあるように、羽衣石城初代の南条貞宗は、塩冶高貞の二男としている。しかし諸説もあり、完全に断定はできないようだ。高貞の二男とする出典では、「羽衣石南条記」「伯耆民談記」などがあるとされているが、さらにもう一つとしては、「訳文大日本史」(水戸家蔵版・山路愛山訳)で、この中では、塩冶氏と同族の佐々木氏頼一族が彼を育てたという。このほかにも諸説あり、はっきりとしたことは分からない。
【写真左】城下の集落
 撮影日:2014年1月25日

 西麓を流れる羽衣石川沿いには、侍屋敷などがあったという。
 現在、この付近には「馬場(東・西)」「市場」「長屋」「赤屋敷」などといった地名が残る。


 さらに、上記の説明板にある南条氏が当地を支配する以前に、すでに南条氏が存在したという史料も見える。一つは「小早川文書」で、これによると、建武3年(1336)11月、足利尊氏の執事・高師直が、施行状をもって「南条又五郎」という人物に、「伯耆国富田庄内天万郷一分地頭職」を小早川氏に沙汰付するよう指定している。施行状を受けて政務をおこなう者は、守護職の分掌に相当する。

 もうひとつは当時羽衣石城西南を治めていた小鴨氏の系図で、小鴨氏基が「母は南条壱岐守元伯女、元弘元年(1331)3月13日、足利尊氏より加冠(元服)のとき、氏の字を契約…」とあり、このときからすでに南条氏が存在していたのではないかという。
【写真左】倉吉市の定光寺にある南条元続・元忠・元秋の墓
 三基とも南方の打吹山城を見る位置に建っている。


 さて、南条氏および羽衣石城の流れは説明板の通りであるが、天正13年ごろから豊臣政権下で統治することになった南条元続は、関ヶ原の役までの15,6年間のあいだに、羽衣石城から倉吉・打吹城へと本拠を次第に変えていったようだ。実際、羽衣石城を本拠として、東伯耆三郡の政務をおこなうのには地理的に不便だっただろう。

 当初打吹城への城番として派遣されていた人物には、南条備前守・山田越中守・小鴨元清らがいた。このときから倉吉の近世城下町としての土台が進められたという。

2010年1月28日木曜日

河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園)

河口城(かわぐちじょう)

●所在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町園
●登城日 2009年12月7日
●築城期  南北朝期
●築城者 山名氏
●標高 68m


◆解説
 これまで鳥取県の山城を探訪するたびに、河口城ほど、位置は分かっていても、登城口を探し出すのに手間取ったものはない。

【写真左】河口城の配置全体図











 そのせいか、他の山城探訪者のサイトなどをみても、ほとんどが遠望写真のみで、現地踏査した写真がなかった。
 今回も「駄目モト」覚悟で、現地をウロウロしながら探し当て、やっと目的の登城口を突き止めることができた。

 添付写真にある「全体図」が設置されているのは、河口城より南にある山の中の道端にあるもので、案内標識の設置場所としてはいただけない。
 やはり外部から来た者にとっては、近接のJR泊(とまり)駅構内付近など、分かりやすい場所に設置してもらいたいものだ。

 この日、向かったコースとしては、この全体図の右側、すなわち農免道路から入って行った。この農免道路に入るには、西側の県道22号線から入る道もあるが、泊駅側からの場合は、当駅から西に国道9号線を300mほどいくと、南に向かう小さな農道のようなものがある。

 この道に入ってJR山陰線の上を越え、南東に約1キロ行くと農免道路に突き当り、そこから東に向かう。途中はカーブが多く、山陰道(青谷羽合道路)の泊トンネルの上を走っていく。しばらくすると、日本海側に突き出し東側にカー
ブする手前の左側に上記案内図が設置されている。
【写真左】JR泊(とまり)駅側からみた河口城遠望 
 城域としては左先端部から写真全体が入っていると思われるが、この方向からみた斜面には雑木・雑草類が繁茂していて、山城の遺構はまったく確認できない。




 さて、くだんの案内および説明板により当城の概要を転載する。

河口城跡
  村指定史跡 所在地 園字西前
  昭和49年1月23日指定
 東西40m、南北60m、標高68mの山城の遺構である。
 城地は、北は絶壁となって海に迫り、南は山地と続き、東西に走る山陰道に立ちふさがる天然の要害である。

 南北朝期の建武4年、伯耆の守護職に任ぜられた山名伊豆守時氏は、その守護所を田内(倉吉市)に置いた。後、治所は倉吉打吹山に移されたが、子孫は代々その職を世襲した。


【写真左】登城口付近
 この写真をみると、まったくのブッシュに見える。
 おそらく平成6年当時は整備されていたのだろうが、現在はこういう状態なので、よほど気をつけてみないと、通り過ぎてしまう。

 唯一この手前の道路沿道に看板が設置されているため、見つけることができた。



 その山名氏は、国の固めとして国内の軍事、交通の要点を選びその地に堅城を築いた。東の端因伯の国境近く築いたのがこの河口の城で、城主には世々一族を充てた。

 代を重ねて刑部大輔久氏の世の大永4年(1524)5月、出雲尼子氏の伯耆侵攻を受け落城。城は、尼子方の領有となり、久氏らは諸国流浪の身となった。
 永禄(1560)のころには、伯耆一円は完全に毛利の制圧下に置かれ、その庇護を受けてその昔放逐されていた伯耆の諸城主は、故城に帰ったが、天正年間、毛利に背き織田方に与した羽衣石南条は、幾度となく毛利方のこの城の攻略を試みたが、落とすことはできなかった。

 天正9年(1581)秋、鳥取城を包囲中の羽柴秀吉の水軍は、毛利水軍の基地となっていたこの城を海から襲い、城は苦闘を重ねた。
 豊臣政権下の天正13年(1585)以後は、羽衣石南条4万石の領域となり、その15年後の慶長5年(1600)の関ヶ原の役には南条は、大阪方西軍に味方して大敗し、ために城は付近一帯の山野とともに炎の中に消えた。今は「因伯古城跡図志」にわずかに当時を偲ぶことができる。(泊村誌より)
平成6年3月 湯梨浜町教育委員会”

【写真左】「河口城跡ふれあいの森」の「魚見の森」付近
 当城は現在「河口城跡ふれあいの森」という公園のような扱いになっている。
上の写真に示した農免道路側からは、登るというより、下がっていくコースになり、公園の各ブロックエリアの名称でいうと、「果実の森」「針葉樹の森」「憩いの森」「魚見の森」と続き、最終の北端部が「自然の森」とされている。

 このうち河口城の主郭を含む城域は、「自然の森」というエリアに含まれている。
 公園化されているため、城跡の遺構がどの程度残った状態なのか、判然としないが、史料から判断すれば、上記のエリアでいえば、少なくとも、「自然の森」「魚見の森」と「憩いの森」の付近までは当時の城域と思われる
【写真左】「魚見の森」から河口城本丸に向かう階段
 手前の広場(魚見の森)は、あきらかに帯郭の形状を残している。左側(西)をさらに進むと、数段の郭を置きながら城下の泊の街へ向かう。

 右(東)方向へ向かうと、主郭を取り巻くように北へ郭が伸び、そのあたりはさらに幅を広げた削平地を構成している。その先は一旦緩斜面が見えるが、雑林で確認できない。


【写真左】主郭付近
 上記の階段は主郭部の西側に西側に設置されている。

 写真でいえば右側に当たる。階段を上がると御覧のように、かなり広い郭段があり、この郭の南端部に、写真に見える石垣構成の本丸が設置されている。





【写真左】主郭部階段の脇に残る門柱用礎石
 説明が前後するが、階段を上がったところに写真のような石が見える。
 これと同じような礎石が対で残っているので、門柱用のものだろう。なお、柱穴の直径は25cm前後ある。






【写真左】本丸跡
 高さは2.5m前後あり、右側の崩れた石垣階段から登れる。幅は3m前後、東西長さは7m前後だろうか。








【写真左】上記石垣
 雑草が巻きついているので、全体の状況は分かりにくいが、石積みの保存状況は予想以上に残っている。








【写真左】本丸石垣上から北の郭を見る
 名称は便宜上使っているので、主郭と本丸の区分をこの城で明確にすることは難しい。石垣で組まれたこの部分は、見張的あるいは櫓の用途の可能性が高いので、戦時の陣所としては下の広い郭(本丸)が使用されていたのだろう。

 広さだが、目測では南北、50m以上、東西30m弱といったところか。なお、この写真の北側から西側にかけても不規則ながら数段の腰郭が取り巻いている。現状は雑木類が多いため、紹介していないが、戦国期は北の日本海からみれば、その威容を十分みせていたものと思われる。
【写真左】本丸下の郭(魚見の森)から、西方下のJR山陰線、山陰道を見る
 このあたりには、多くのモミジの木が植えられている。おそらく秋には紅葉を楽しむ場所として使われているのだろう。

2010年1月27日水曜日

桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)

桐山城(きりやまじょう)

●所在地 鳥取県岩美郡岩美町浦富
●登城日 2010年1月18日
●築城期 鎌倉末期・南北朝期
●築城者 塩冶高貞
●城主 山中鹿助、垣屋光成・恒総、鵜殿氏
●標高 203m

【写真左】桐山城遠望
 浦富の浜辺からみたもので、中央の最高所が本丸跡付近。右側尾根伝いにも遺構が点在してる(後段写真参照)



◆解説(参考文献「岩美町誌」等)
 この城の築城者は、前稿「加古川城跡」で少し触れている塩冶高貞といわれている。先ず、略歴については、桐山城本丸跡にあった説明板より転載する。

桐山城について
 桐山城跡は標高203mの日本海を一望できる桐山頂上にあり、郭が頂上と南東尾根に4カ所、東の谷に7カ所残っています。古くから浦富は因但国境海上交通の要所の港町でした。

 築城年は、不明ですが、鹽冶(えんや)周防守が桐山の攻め難く守り易く、かつ眺望の良い地形と、田後・岩本・網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたと伝えられます。

 そして、元亀3年(1572)尼子の勇者・山中鹿助が入城。その後は垣屋光成(1万石、子の恒総まで20年間)、池田政虎(5千石、15年間)さらに、鵜殿氏(5千石)が幕末まで浦富を領しました。

 この頂上までの散策道は、地権者の方々のご厚意により出来ています。気象条件がよければ、遠く大山や隠岐島が見えます。この素晴らしい眺望と四季折々の動植物を大切にし、ゴミ等は必ず持ち帰ってください。
平成13年3月 建”   
【写真左】荒砂神社
 浦富海岸西部に突き出した岩山に鎮座する神社で、草創は白鳳期(7世紀後半)。
 元亀3年桐山城に入城した山中鹿助は、山名豊国を援護し鳥取城を攻略する際、当社に戦勝祈願したという。


 岩美町誌によれば、「稲場民談記」にこの山城名として、「浦住木井ノ山城」と書かれ、「太閤真顕記」には「磯部の城」とも書かれているという。

 また、さらに古い「岩美郡史」によると、「雲州(出雲)佐々木氏の一族、塩冶判官高貞の築く所なり。(因州の守護・山名豊国の妹婿にして但州美方郡、阿勢井城主たる塩谷肥前守あり、以て塩谷家の因但に縁故あるを察すべし」 と書かれている。
【写真左】浦富海岸
 上記荒砂神社本殿北端部からみる。夏になると多くの海水浴客が訪れる風光明美なところである。


 同誌によると「古い国絵図に塩谷判官高貞の草創とある」ことから、築城者が高貞であっただろうと、断定はしないものの、記している。

 ただ、同誌にもあるように、では築城時期はどうなのか、という課題が出てくる。なお同文に「塩冶」と「塩谷」が混在しているが、原文のままとしている。

 後醍醐天皇が興した建武の新政時は、当然地元の最大の功労者である名和長年が領知している。しかし、それもつかの間で、長年は戦死してしまう。そのあと尊氏が実質上の政権を支配するが、これまで記したように、高貞と尊氏はたもとを分かち、暦応4年(1341)高貞は高師直の讒言によって、山名時氏により追われ自害している。
【写真左】登城口付近
 主な登城ルートは2つあり、この場所はおそらく一番利用されている「奥内登山口」というところである。もうひとつは、西側の「いわし山登山口」という網代地区が近いところである。

 写真後方の山が桐山城。なお、この日、出雲地方はほとんど雪が解けていたことから、こちらに向かったのだが、ごらんのとおり10センチ以上の積雪があり、これまでの山城探訪で初めての雪山登山となった。


 従って、高貞がこの因幡国・桐山城を築城できる時期は、その直前までとなる。さらに絞ると、長年戦死の延元元年(1336)から暦応4年(1341)の間に築城したことになる。この5年間の高貞の動きを知る資料としては、残念ながら因幡・伯耆においては今のところ史料がなく、地元出雲の神社に寄進(延元2年)、鰐淵寺衆徒の恩賞を幕府に申請(延元3年)などといったものしか見えない。

 しかも、状況を考えると、高貞も後醍醐と上洛した後、しばらくは京都にいたものと思われるので、因幡・伯耆に在任している期間はさらに短くなる。このような状況を考えると、高貞自身一時的には因幡国に来ているかもしれないが、実質上の築城者は、高貞の一族がその任を負っていたのではないだろうか。
【写真左】鵜殿家墓地遠望
 江戸期当城・当地を治めていた鵜殿氏の墓地。雪があるため、登城口から写真を撮ったのみとした。


 さて、戦国期である。 山中鹿助が同城に入るきっかけを作ったのは、以前にも紹介した塩冶氏の子孫塩冶周防守と、奈佐日本助の働きがあったからである。

 元亀3年(1572)、鹿助らは日本助らの海賊船数十隻を使って、岩美町岩本の海辺に上陸、さらに桐山城に拠って守護・山名豊国と連携し、豊国の元家臣だった武田高信を討つ。このとき鹿助は、桐山城を離れ、国府町の甑山に城を築いている。その後、豊国は以前紹介した「天神山城」から鳥取城へ移った。

 天正8年(1580)、秀吉の鳥取城攻めの際は、桐山城に垣屋播磨守を入れ、但馬との繋ぎを取らせる。同年、豊国が秀吉に降ったことにより、家中では豊国を追放、毛利方より吉川経家が入城し、のちに悲運の部将として最期を遂げていく。

 なお、垣屋氏の出自は、もともと山名家四天王の一人として、現在の豊岡を治めていたという。ちなみに他の三人は、太田垣(朝来郡竹田)、八木(養父郡八木)、田結庄(豊岡市山本)で、垣屋氏はこれらの筆頭格であった。
【写真左】当城の登城路案内図
 平成13年に当城の整備がされたようで、地権者のご厚意で登れるようになったようだ。
 登城前に、こうした案内図があるとイメージができ、一段と登る楽しみも増える。





【写真左】登城口前半のころ
 写真では分かりにくいが、この山のルートはいきなり急斜面を登る設定になっている。雪が上にいくほど多くなるので、何度も足を滑らす。(普通なら、この段階で断念するのだが、せっかく遠くから来たのだからという理由づけで、連れ合いを説得させながら、進んだ)



【写真左】最初のピーク到達点から下を見る
 登城口からの急斜面をのぼること10数分(雪がなければ、数分で登れるだろう)、やっと尾根始点に着く。雪があるため、遺構の確認は断定できないが、このあたりから小郭が点在しているように見えた。 


【写真左】奥内側からと、いわし山側との合流点
 この地点にいくまでに、すこし小高い尾根があり、そこから少し下がると、写真にある別の尾根との接合部分に差し掛かる。写真左方向が桐山城本丸方面で、右奥方向が、「いわし山」へつながる尾根が続く。
 なお、この合流点は盛り上がった地形になっており、戦略的にも小郭としての役目があったものと思われる。
【写真左】いわし山に向かう尾根
 方向としては西方になるが、この尾根は非常に痩せ尾根になっており、意識的に加工された可能性もある。
【写真左】桐山城方面への尾根ルート
 全体に登城コースに占める尾根の長さが多く、しかも尾根幅が狭いところが多い。右側は直接日本海の風が吹き付けるところで、この日も木立が途切れた場所では、強風と冷風で長居ができない。

【写真左】途中からみた「いわし山」の山容
 写真左下が網代の港。桐山城へ向かうコースよりも長いかもしれない。

【写真左】本丸北端部
 本丸北端部直下は急斜面で、ロープがあるものの、足もとは雪があるため、何度も足をすくわれた。そうやって苦労の末たどり着く。その甲斐があって、眺望は抜群である。写真は北端部から南に向いて伸びる主郭の奥行
【写真左】本丸跡からみた西南方向の網代の港、さらに遠く鳥取港をかすかに見る。
 これでもう少し空が澄んでいると、説明板にもあるように大山も見えるだろう。






【写真左】最初に見た浦富の街と海岸
 この位置からみると、但馬の芦屋城のある浜坂の港が非常に近く感じる。塩冶周防守や奈佐日本助が船で往来していたことが非常にリアリティをもって感じられる。
【写真左】本丸中央部
 積雪のため、遺構の精度が不明だが、この中央部の東側にこんもりとした高まりがある。おそらくこの位置が主郭としての位置づけだっただろう。
 また、南端部には3,4段の尾根幅に沿った郭段がみえた。
 頂上部での高低差はほとんどなく、南北総延長約150m前後はあると思われる。ただ基本的に尾根を余り加工していないようで、幅は最大で20m程度、平均すると5m前後しかない。

【写真左】本丸跡から南東に「道竹城」を見る。
 この山城は、昨年(2009)9月に取り上げた二上城の城主だった三上兵庫頭が、使い勝手が悪いとして同城を離れ、この地に築城したといわれる道竹城である。
 当日、時間があればこの山城も登城しようと思ったが、桐山城で時間とエネルギーを使い果たしたため、断念した。いずれ雪のない時に登城したいと思っている。

2010年1月22日金曜日

加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)

加古川城(かこがわじょう)称名寺(しょうみょうじ)

●所在地 兵庫県加古川市加古川町本町
●探訪日 2009年9月18日
●形式 平城
●築城年 寿永3年(1184)
●築城者 糟谷有数
●遺構 ほとんど消滅

◆解説
 平家追討の功により、糟谷有数が源頼朝よりこの地を与えられ、寿永3年(1184)に築城されたという。その後鎌倉時代まで糟谷氏が播磨守護代として在城した。

 糟谷氏累代の中でも、12代糟谷武頼は戦国期、羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、いわゆる七本槍の一人に数えられた。そのご一万二千石の大名まで出世するが、関ヶ原の合戦では豊臣方についたため、領地没収され、当城も廃城となった。
【写真左】称名寺入口
 所在地は、姫路方面から向かうと、国道2号線を通って加古川橋を渡り、すぐ右側の脇道のようなところから入っていく。

 当寺の案内板もはっきりしないが、路地のようなところをウロウロ探すと、何とか見つかるという目立たない寺院である。



現在、この加古川城跡は、称名寺という寺院になっている。城跡としての遺構はほとんどなく、山城探訪を目的とする者にとっては、参考になるものはほとんどない。

 実は、この城跡を訪れた目的は、南北朝期、出雲の塩冶高貞が高師直に追われた際、家臣が高貞の身代わりとなって、追手をこの地で阻み、最後は全員が亡くなったということからだった。
【写真左】称名寺境内











 はじめに、当寺境内に設置された「加古川城」に関する説明板によって簡単に概要を示す。

称名寺の文化財
加古川城址

 城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云)で、別所長治の幕下であった。天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。その後、書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。
 後年各所に転戦し、賤ヶ岳一番槍に武名を挙げたという。

(播磨鑑)
 加古川城50間(約90m)四方
 雁南庄加古川村
 村より1丁(約110m)西の方とあり、称名寺の附近一帯が加古川城址である。

石幢(せきどう)
 当寺の内庭に六角石幢がある。凝灰岩(竜山石)製で室町時代初期に造られたものと思われる。
 幢身高さ66cm
 径  27×18.5cm
石棺
 出門前の碑の台石に、家型石棺の蓋が使用されている。
 長さ 131cm
 幅  73cm
 厚さ 27cm
 昭和62年3月  加古川市教育委員会”
【写真左】七騎供養塔その1











 境内に建立された宝篋印塔で、その脇に説明板が設置されている。その内容を転載しておく。

七騎供養塔

 この碑は、撰文も書も頼山陽の筆になるもので、文政3年に建立されたものです。

 七騎とは、南北朝時代、正平5年塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまいました。

 その時、弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死してしまいました。

 この七騎の塚が船頭付近にありましたが、洪水等で流されてしまい、今はもう残っていません。この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。

 なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられています。
 昭和59年3月  加古川市文化財保護協会”


上掲説明板の中の、船頭という地区は、当寺の北を流れる加古川橋付近で、400m程度下ったところである。
【写真左】七騎供養塔その2


















塩冶高貞顔世御前の逃亡

 塩冶高貞については、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)などを取り上げた際、少し紹介しているので、そちらも参照していただきたいが、高貞らが逃亡する際には、高貞を含む家臣グループと、高貞の妻で絶世の美女といわれた「顔世御前」のグループとの二手に分かれていた。


【写真左】境内にある塩冶家の墓











 高貞らは一緒に逃亡すると、目立つことからの策だった。しかし、顔世御前らは子供連れであるため、姫路市蔭山というところで捕まり、自害する。

 この加古川城(称名寺)付近の船頭で戦ったのは、元々高貞のグループだったと思われる。実際に追手としての役を担ったのは、高師直ではなく、山名時氏らである。

 ところで、上掲の説明板に、高貞が逃亡を図った時期を「正平5年」としている。正平5年とは、観応元年(1350)である。上記の事件があったのは、興国2年(暦応4年)(1341)であり、明らかな間違いである。

 正平5年は、足利尊氏が直冬追討のため、高師直を率いて京都を出発したり、足利直義が南朝に降ったりする時期で、塩冶高貞が死亡してから9年も経っている。


【写真左】くしくも、塩冶氏を討った山名氏関係の墓もある。
 なお、写真にはないが、糟谷姓の墓石もあった。



 おそらく、この説明板を書かれた方(加古川市文化財保護協会)は、高貞追討と、直冬追討を混同して書かれたのかもしれない。 



糟谷氏

 なお、冒頭記した加古川城主・糟谷氏だが、説明板によると、寿永3年に当城を築いて、鎌倉期まで播磨守護代を務めたとある。

 そして戦国期に至ると、羽柴秀吉が当地を訪れた際、糟谷助右衛門が館において休息をとらせた、とある。二つの説明板から推測すると、助右衛門と、12代武頼は同一人物のようだ。

 となると、南北朝期の塩冶氏家臣の七騎が討死した際も、糟谷氏は当地・加古川城に拠っていたことになる。しかし、当地の説明板には同氏が関わったことは、一切書かれていない。地元にやってきた両者(高貞側、尊氏派)に対して、糟谷氏がどういう態度をとったのか、記録がないというのも不可解である。

 そこで思い起こされるのは、昨年(2009)1月の投稿で取り上げた鳥取県の糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城である。糟谷弥二郎は、元々北条一門の守護代で、その一族は鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職あった。
【写真左】岩井垣城














 元弘3年(1333)船上山に拠った後醍醐天皇は、名和長年に糟谷弥二郎の拠る岩井垣城を攻めさせ、同城は炎上し、同氏は滅亡した、とある。

 加古川城主・糟谷氏が7,8年前に起こった伯耆国の同族の情報を知らないはずはない。元々倒幕の両者であるため、どちらにも与せず、城は傷つけられることを覚悟の上、一旦同城から避難していたのではないだろうか。




鶴林寺

 所在地 兵庫県加古川市加古川町北在家424
 参拝日 2009年9月18日


【写真左】鶴林寺仁王門











 加古川城(称名寺)の近くには古刹・鶴林寺がある。

 創建ははっきりしないが、すくなくとも養老2年(718)、七堂伽藍が建立されている。

 当院には、黒田官兵衛及び父・職隆が鶴林寺に対して差し出した書状などが残る。信長・秀吉らの播磨侵攻の際、周辺の寺社仏閣が戦禍に遭っているが、鶴林寺は寺領などを差出したりしながら、延命を図った。
【写真左】配置図














 国宝2件、重要文化財18件、県指定文化財19件、市指定文化財16件など多くの文化財が残されている。
【写真左】境内












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2010年1月21日木曜日

明石城(兵庫県明石市明石公園1-27)

明石城(あかしじょう)

●所在地 兵庫県明石市明石公園1-27
●探訪日 2009年3月1日
●築城期 元和5年(1619)
●築城者 小笠原忠真
●形式 連郭梯廓混合式平城
●別名 喜春城、錦江城
●指定 国重要文化財(巽櫓・未申櫓等)、国の史跡
【写真左】明石城その1

◆解説(参考「サイト明石公園」など)
 明石城は、このブログでいえば、「山城」ではなく、典型的な近世城郭だが、前稿「三木城」探訪の折、時間があったことから当城にも足を運んだ。

【写真左】城跡も含めた明石公園の案内図

 当城については、これまで多くのサイトや資料で紹介されているので、詳細は省くが、現地に足を踏み入れると、その優美さと市民に親しまれている公園とがうまくマッチして、散策していても気持ちのいい城跡である。

●初代城主小笠原氏から始まり、藤井松平家、そして越前松平家など17代の城主が、めまぐるしく引き継いでいる。
 この内容を見ると、在任期間の長期なものと、極めて短い期間のものとが極端に混在している。
【写真左】明石城その2
 石垣もスケールが大きく、見ごたえがある。
【写真左】石垣
 長期政権の者は、第9代松平直常で43年、逆に短いものは、幕末の松平直致の5カ月は別として、初代小笠原氏の跡には、幕府直轄扱いとなって、本多忠義、同正勝のときはそれぞれ6カ月である。
 当然ながら、両人は結局2代目の記録として残らず、4人目の当主松平康直が2代目となっている。

 当時、特に近世城郭を引き継いだ藩主・当主の2代目から、3、4代目あたりは不安定なところが意外と多い。その結果、初代の禄高10万石も減じられ、6~8万石のままとなった。もっとも幕府の介入が一番厳しい時期であったことも事実だが。  
【写真左】明石城その3
【写真左】明石城その4
 この土塁の厚さは規模が大きい。
【写真左】明石城から明石の町並みを見る
 写真左奥には明石海峡大橋が見える。