2010年12月14日火曜日

七尾城・その3(島根県益田市七尾)

七尾城・その3

 前稿から大分日数が経ってしまったが、今稿では七尾城・その3として、歴代益田氏の中から主だった人物を挙げておきたい。

【写真左】 七尾城本丸付近より益田市内を見る。
 手前の川は益田川で、左上の方にかすかに高津城跡(万葉公園)の丘陵が見える。



益田兼堯(ますだかねたか)

 呼称が同じものとしては、以前取り上げた兼高(かねたか)がいるが、兼堯の方は、第15代で、父は兼理である。幼名は益一丸、または松寿・孫次郎と称した。兼堯の子は、二男三女で、貞兼と兼久があり、貞兼が家督を継ぎ、三女は大内氏の家老・陶弘護、益田兼春、吉見信頼に嫁がせた。

 父である兼理は、永享3年(1431)7月16日、足利義教の命によって、大内盛見に従って出陣し、筑前国深江で討死する。大内盛見も当地で戦死した。その3ヶ月後である10月23日、幕府は大内盛見の遺領を大内持世に相続させ、大内持盛に長門を与えた。同じころ、益田家では兼堯が跡を継いだ。

 兼堯は特に当時の状況が許さなかったこともあり、彼の一生はほとんど転戦に明け暮れている。主だったものだけでも次のようなものがある。

(1)嘉吉・宝徳の乱
 嘉吉元年(1441)7月4日、幕府(足利義教)は兼堯に赤松満祐の追討を命じた。8月23日、兼堯は山名道作の配下に属して、作州高尾の城を落とし、細川持之から感状を受けた。
 宝徳3年(1451)の夏、兼堯は吉川経信と連合し、伊予国にわたって、河野刑部大輔孝通を助けるため、河野伊予守通治の討伐に向かった。これにより、管領畠山持国から戦功を賞された。

(2)匹見三葛の戦い
 以前取り上げた三隅城の稿で、益田氏が三隅氏と長い間抗争を続けてきたことを紹介したが、益田氏はこれとは別に、益田氏領の南方にある石見・吉見氏とも長く抗争を続けている。
【写真左】七尾城 の絵図
 登城口付近に設置されている。この絵図にもあるように、登城口付近である北西麓には、益田川から濠を造るため開削した跡が残っており、現在もそのあとを残す池がある。


益田元祥(ますだもとよし)

 元祥は益田氏第20代である。先代である父・藤兼(19代)の子で、母は石津頼経の子である。
 永禄11年(1568)1月30日、加冠し毛利元就から偏諱の「元」を受け、益田次郎元祥と名乗った。そして、その2年後の元亀元年(1570)2月9日、藤兼は元祥に正式に益田氏の所領をほとんど譲ることになる。

 この時の詳細な譲状が残っているが、これによると、地元石州(益田市地域)はもとより、長州の東部一円、及び防州の恒富保・厚東・東豊田、そして九州筑前国にまで領有し、一時的には雲州(出雲)の生馬郷(松江市)までを領有していた。

 このように、防・長・雲・石・築の五州まで及んだことは、同氏累代の中で最も所領規模が大きく、元祥時代が一番繁栄した時期とも考えられる。
 ただ、その後支配した領地は、次第に毛利氏の権力強化により削減され、毛利氏の家臣団として主従関係の結果、同氏四家老の一人として位置づけされていく。

 ところで、元祥の活躍で主だったものとしては、秀吉の四国征伐と、九州島津義久の討伐がある。
 秀吉の四国征伐とは、長宗我部元親との戦いである。天正13年5月、益田元祥は毛利軍に属し、6~7月にかけて、先陣として高尾城(愛媛県西条市永見土居:標高240m)に向い、7月13日金子氏(金子山城)に攻め入り奮戦した。

 九州の島津氏討伐(天正15年:1587)では、特に宇留津・障子ヶ嶽の戦いが挙げられる。
 香春岳城(福岡県田川郡香春町)に拠った賀来恵慶は、島津軍に属し、その子久盛は手兵2000を率いて宇留津(福岡県築上郡築上町にある平城)の城に拠った。毛利方は先に息子久盛の宇留津の城を攻め、久盛は倒れ、残兵は香春城へ奔った。
 このときの益田元祥の戦いぶりは「安西軍策」に記され、僅かの部下を率いて多大な戦果を挙げた。これにより、元祥は毛利輝元から感状を、元長(吉川)からは太刀一腰、馬八疋を贈られた。
【写真左】 水源池
 上記した堀跡で、益田水源池といわれ、公園となって市民の憩いの場として使用されている。






 ただ、元祥にとってこの九州島津討伐の戦いは、決して晴れがましいことばかりではなかった。
 元祥の妻は吉川元春の娘であったが、天正14年(1586)12月25日、その元春が九州小倉の陣中で57歳の生涯を終えた。

 元春はその数年前には息子・元長に家督を譲り隠居していたが、秀吉の命によってやむなく出陣していた。死因ははっきりしないが、おそらく癌に冒されていたという。

 元春の死後、長子・元長がそのあとを引き継ぎ、益田元祥らは元長の指揮下に入った。天正15年6月、九州の平定がほぼ終了するころになって、今度は元長が急に病を発し早世した。日向(宮崎県)の都城で、秀吉帰洛の路を待っていたときであった。僅か40歳であった。
 元祥にとって、岳父(元春)と義兄弟の死は大きなショックであったと思われる。

 元長には実子がいなかったこともあり、しかも九州という陣地での出来事から、吉川家一門に動揺が走り、継嗣の議論が起こった。このため、宗家である毛利輝元と黒田如水が仲裁に入り、継嗣を弟の広家(経言)とした。そして、すぐに同月5日付で、下記の起請文を吉川家に諸将が提出している。その面々は以下の通り。
  • 益田右衛門佐元祥
  • 宍道備前守政慶
  • 天野民部大輔元弥
  • 周布左近太夫元城
  • 杉原弥五郎広亮
  • 湯 佐渡守家綱
  • 福屋左衛門尉元秀
  • 古志因幡守重信
  • 多賀彦三郎元忠
  • 都野弥次郎経良
  • 赤穴右京亮幸清
  • 熊谷豊前守元直
  • 佐波兵部少輔恵連
 これにより、吉川家の安泰が保たれたわけである。なお、この2日後の6月7日、秀吉は筑前国筥﨑(福岡市東区箱崎)で、諸将を会して、九州諸大名の封域を定めている。筥崎とは、おそらく「筥崎宮」のことと思われる。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた西軍側の益田元祥は、毛利輝元の家老として長門の須佐に移り、七尾城は300年の歴史に幕を閉じた。
【写真左】東尾根防塁群の一ノ段から西尾根防塁群との接続部(帯郭)を下に見る。

 東西防塁の接続点に馬釣井がみえるが、東尾根防塁群の下段の郭も尾根伝いに長く伸びている。

 【写真左】本丸付近
  現地の案内図では、一ノ段をまとめて本丸と定義しているが、幅はさほどないものの、南北に数十メートル伸びた構成をしている。

 この先にはかなりの高低差を持たせた切崖があり(7,8mはあるだろうか)、さらに南尾根防塁群へと続く。

 残念ながら、この南尾根防塁群は踏破していないが、相当起伏のある城砦のようだ。
【写真左】東尾根防塁群二ノ段から南方を見る。
 この場所から手前に下がって行くと、当時の登城ルートといわれる谷間にいけるが、現地は整備されていないので、省略した。

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