2010年9月21日火曜日

鳶ヶ松城(島根県益田市乙吉)

鳶ヶ松城(とびがまつじょう)

●所在地 島根県益田市乙吉
●登城日 2010年9月18日
●築城期 建久3年(1192)ごろ
●築城者 御神本(益田)兼高
●標高 58m
●遺構 郭等
●備考 鳶ヶ山城、乙吉八幡宮

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」、サイト「島根県遺跡データベース」)
 益田氏が築城した七尾城は近日のうちに取り上げる予定(編集の関係で前後し、すでに「七尾城・その1」を紹介している)だが、今稿ではその益田氏が七尾城に入城する前、仮城として築城したといわれる「鳶ヶ松城」を取り上げる。

 ところで、当城について「島根県遺跡データベース」では、「鳶ヶ松城跡」としているものの、その呼称を「わしがまつじょうあと」としている。これは明らかな間違いで、「とびがまつじょう」又は、「鳶ヶ山城(とびがやまじょう)」である。

【写真左】鳶ヶ松城(乙吉八幡宮)遠望
 御覧の通り、現在は乙吉八幡宮が建てられているため、中段部には遺構はほとんど認められない。
 当日、本殿脇の他の合祀された祠の上付近に登ろうとしたが、足元が不如意のため断念した。

 壇ノ浦の戦いに戦功を挙げた御神本兼高は、その勲功により建久3年(1192)、支族増野兵部左衛門に迎えられ、大谷氏の祖藤原房友を伴い、浜田の上府から益田に移住してきた。

 七尾城は、その頃は当然築城されていないので、それまでの仮の城が必要になってくる。
 このため、乙吉村の鳶ヶ山に仮の城を築城した。

 七尾城が築城されたのが、翌年の建久4年春といわれているので、このことから鳶ヶ松城に在城したのは、1年程度と考えられる。
 当城の規模はさほど大きなものでなく、4,50m四方の小丘に造られた。

 現在は乙吉八幡宮が祀られ、麓は住宅が密集しているため、遺構の確認は判然としないが、「益田市誌・上巻」によれば、本殿上部に土塁を残しているという。
【写真左】乙吉八幡宮本殿
 この写真の後部に本丸などがあると思われるが、小丘の割に切崖部分が多い。また、写真に見える本殿付近は郭跡であった可能性がある。
【写真左】本殿付近から南方に「稲積山城」を遠望する
 おそらく当時は、頂上部から稲積山城の東方に七尾城も見えたと思われるが、現在は樹木に覆われ、本殿付近からの俯瞰しか確保できない。

七尾城(島根県益田市七尾)・その1

七尾城(ななおじょう)・その1

●所在地 島根県益田市七尾
●登城日 2010年2月7日、及び9月12日
●築城期 鎌倉期
●築城者 益田兼高又は兼時
●標高 119m
●備考 石見18砦
●指定 国指定
●遺構 郭、土塁、礎石建物跡、炉跡、井戸その他多数

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」その他)
 前稿まで取り上げてきた「上久久茂土居跡」「大谷城」「大谷土居跡」と深いかかわりを持つ中世石見の豪族益田氏の本拠城である。

 現地の説明板より

“国指定史跡 益田氏城館跡
七尾城跡
    指定 平成16年9月30日

 七尾城は中世400年間にわたり、西石見に勢力を誇った益田氏歴代の居城でした。
 この城は、七尾山全体に築かれており、北方を流れる益田川に向かって開く東西二つの丘陵を中心に、大小40余りの郭(平らな区画)を設けた県下屈指の堅城でした。

 現在でも、郭や敵の侵入を防ぐ堀切(尾根を断ち切った空堀)、土塁、馬釣井と呼ばれる石積みの井戸跡が残り、当時の姿をよくとどめています。
 南北朝時代にはすでに築城され、延元元年(1336)に、南朝方の三隅軍が「北尾崎之木戸」に攻め寄せた記録が、益田家文書に残っています。

 発掘調査の結果、戦国時代末期には、毛利氏の攻撃に備えて大改修され、城の中心部には礎石建物が建ち、益田氏の当主とその家臣が城内に居住していたことが明らかになりました。
 慶長5年(1600)、益田氏20代元祥が、関ヶ原の戦に敗れた毛利氏の家老として、長門国須佐に移ると、七尾城は廃城となりました。
   平成15年7月
      益田市教育委員会”


益田氏

 これまで同氏については、三隅氏関係の稿などで部分的に取り上げてきているが、ここで改めて記しておきたい。

 益田氏は、藤原鎌足を始祖としている。鎌足7世の孫で忠通が出て、忠通9世の末に定道が出た。この定道は鳥羽天皇の時代(永久2年・1114)6月、前任者藤原貞仲(長治2年・1105見任)の後を追って、石見国司となり、当初那賀郡伊甘郷大浜の三宅に居を定める(「伊甘山安国寺」2010年9月21日投稿参照)。

 定道は任期が過ぎても当地に残り、現在の浜田市にある上府村御神本に土着し、姓も藤原から「御神本(みかもと)」と改め、名を国兼と称する。

 御神本国兼が石見に下向した際、家臣であった大谷知房と章房父子は、共に上府に到着し、その後、知房は波子村を領して波子氏を称した。また章房は上府に留まった。同じく家臣であった藤原親重は、国兼によって姓を草野と改め、美濃郡仙道荘八幡宮の神主となる。以来草野氏は今日まで、神主として33世・900年もの長い間、東仙道の神主を務めているという。

【写真左】益田氏系図
 この系図は、いずれ取り上げる「三宅土居跡」に設置された説明板の一つで、益田氏始祖・国兼から始まって、20代・元祥(もとよし)まで記されている。





 長く続いた一族の系図については、ほとんどの場合、複数のものがあり、益田氏についても同じように見られる。

 一般的には、国兼から兼栄までを旧姓である御神本氏とし、4代兼高の代になって、益田氏を名乗るので、兼高から益田氏始祖となるが、本稿では、御神本氏時代も含め、国兼を益田氏初代と定義しておく。


兼高(4代)活躍

 これまで、度々取り上げてきているが、益田氏の中でも特に4代兼高については、同氏の基礎を築いた人物として特に重要な武将である。

 兼高の時代は、いわゆる源平合戦のもっとも攻防の激しかったころで、しかも、このころ西国の武士はほとんど平氏に与する者が大半だった中で、兼高のみが源氏の下に馳せ参じた。

 元暦元年(1184)2月7日付の大江弘元から源義経に宛てた書状に、兼高の名が出てくる。

“さいこく(西国)の物(者)どもは、みなへい家に心をよせて、御方にそ(所)むきたるに、ごんのすけかねたか(権介兼高)が、一人ぬけいでて、御方にまいり、心ざしとててき(敵)のきわ(極)のたたかいして、かうみやう(高名)どもしたるよし、くわしくきこしめされ候…”

 文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いにおいて源義経は平氏を滅ぼした。以前にも記したように、益田兼栄・兼高父子は、このとき義経の幕下として抜群の戦功を立てた。

 兼高の軍に従った者としては、高橋九郎左衛門、大谷(藤原)章房の子・右衛門太郎時章、草野惣吉郎、同九左衛門らで、向横田城(島根県益田市向横田)の城主・石川治部少輔頼恒もこの中にいた。


論功行賞によって安堵された所領地

 元暦元年(1184)11月、源頼朝の下文案による安堵状、及び建仁3年(1203)の梶原景時などの書状を整理すると、以下の領地が益田氏に与えられている。
  1. 美濃郡  匹見・丸茂別府・上津茂別府・益田庄・飯田郷安富・高津・長野庄得屋郷・弥富名
  2. 那賀郡  木束郷・永安別府・吉高・伊甘郷・良方別府・千与米名・阿刀別府・周布・小石見・益田庄内納田郷・同井之村
  3. 迩摩郡  温泉郷・宅野別府・加万
  4. 邑智郡  市木別府・長田別府・久富名・千与米名
  5. 安濃郡  鳥居別府・吉光
以上の領地は、現在の津和野町付近(鹿足郡)を除く石見国全土となり、広大な面積である。



益田氏の系図

 益田兼高以降の系図については、上掲の写真の通りだが、この系図では、7代兼長のあと、10代兼世までの2代の嗣子が表記されていない。
 史料によっては、7代を兼久とし、以降8代・兼弼、9代・兼弘、10代・兼方、11代・兼見とするものもある。

 写真の系図にもあるように、7代・兼長の右に兼久が記されているのは、兼長は三隅兼信の娘・阿忍と結ばれたが早世したため、実弟の兼久が益田氏を継いだためである。
 益田氏累代の城主については「益田市誌・上巻」にその活躍が列記されているが、最初に、南北朝期に活躍した益田兼見を取り上げたい。


【写真左】萬福寺本堂(国指定重要文化財)
 萬福寺は益田川の北岸にあり、南岸には七尾城がそびえている。

 当院は益田氏11代兼見(かねはる)が建立したとされている。
 



 先ず南北朝時代には、益田兼見が度々登場する。高津城(島根県益田市高津町上市)でも記したように、兼見は「石見北朝方」の代表格として、「南朝方」の高津長幸や三隅兼連らと戦っている。

 兼見は祥兼ともいい、記録によれば、兼見の時代に特に益田惣領家として、上掲した多くの領地を分割相続している。分割譲渡された庶子家は代が進むにつれて、独立心が強くなる。しかし、惣領益田家とすれば、できるだけ初期のころと同じように、益田一族の連帯を保持しようとする。

 兼見の「置文」には、執拗なまでの土地に関する契約と、益田本家と一味同心としての結びつきを強要したものが残っている。また、その背景には、南北朝動乱の動きが大きく影響している。

 永和4年(1378)、剃髪した兼見は祥兼と号し、長男の兼世に跡を譲った。それから13年後の明徳2年(1391)6月1日、前々稿で紹介した伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)の住職を定め、4カ月後の10月14日、夭逝した。
【写真左】益田兼見の墓
 萬福寺から東へ100mほど行くと、墓地があり、 この奥の高い所に兼見の墓がある。

 これまでも度々石見南北朝期に同氏の活躍を紹介してきているが、現地に彼の足跡を記した説明板があるので、改めて転載しておく。

“益田市指定史跡

益田兼見の墓
(指定 昭和46年6月21日)

 益田兼見は益田氏11代当主で、山道庶子家から入って益田惣領家を継いだ知勇兼備の武将といわれています。
 兼見は、南北朝の争乱に伴い、暦応3年(1340)足利尊氏が派遣した石見の守護上野頼兼を助け、豊田城、高津城、稲積城、三隅城を攻略するなど、北朝方として石見の各地に転戦しました。

 その後、正平4年(1349)に尊氏の子足利直冬が九州に移って、南朝に帰順すると、兼見も南朝に転じましたが、直冬の死後正平19年(1364)に南朝方として石見に進出してきた大内弘世が幕府に降ると、兼見もまた弘世に従い北朝方として、三隅氏や福屋氏と戦いました。以後、益田氏は大内義隆がその家臣の陶晴賢に滅ぼされるまで大内氏に従属しました。

 また、兼見は強力な家臣団編成と、支配機構の整備にあわせ、三宅御土居を中心に益田平野の本格的な開発を行うとともに、萬福寺、崇観寺、医光寺(崇観寺のわき寺)、滝蔵権現(天石勝神社)など、寺社の創建にも力を注ぎました。

 中でも、兼見は時宗に帰依し、応安7年(1374)中須の安福寺を現在地に移転改築し、萬福寺と改め、自らの菩提寺としました。明徳2年(1391)に没し、萬福寺境内の椎山麓に墓が建てられましたが、昭和58年の豪雨災害復旧工事により、現在地に移設されました。墓石は、高さ約1.6mの五輪塔で、傍らにはひとまわり小さな父兼方の墓が並んでいます。
  平成8年5月  益田市教育委員会”
【写真左】益田兼見の墓から南方に七尾城を遠望する。

伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)

伊甘山安国寺(いかんざん あんこくじ)

●所在地 島根県浜田市上府町イ65
●探訪日 2010年9月18日
●創建 和銅年間(708~714年)

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」等)
 前稿まで益田氏関連の史跡を投稿しているが、益田氏が第4代・兼高の代に益田に移住する前の御神本氏時代に関する事項を記していないので、今稿では、主として上府地域(現浜田市)にある史跡を中心に紹介したいと思う。

御神本氏三代の墓

 藤原定道は、永久2年(1114)6月、前任者藤原貞仲のあとを受けて、石見の国司となる。任期が終わってもそのまま上府村御神本に土着し、名前も藤原定道から、当地の名をとり姓を御神本(みかもと)とし、名を国兼と改めた。
【写真左】安国寺山門
 当院はごく最近改修されたようで、本堂も含めほとんどの施設が新しい。







 国兼が国司として在任したのは4年間で、その後藤原盛重が来国し、その任を引き継いだ。したがって、国司として御神本氏が務めたのは国兼の代だけである。
 国兼のあと、子の兼実、孫の兼栄の代になると、公卿の門閥を捨て、武士として生きることになる。

 御神本国兼・兼実・兼栄の三代の活躍の場は、当時伊甘郷といわれた現在の浜田市上府・下府地域である。当然ながらこの地には、国府跡・国分寺跡などが残っている。

 今稿のタイトル「伊甘山安国寺」は、この上府町に所在し、当院には件の御神本三代の墓があり、「益田御廟」と伝えられ残っている。
【写真左】御神本氏の墓その1
 当院の本堂裏を少し上がったところの階段状になった墓地にある。
 形式は宝篋印塔のようだが、三基とも原形を留めておらず、部位が散在しているように見えた。
【写真左】御神本氏の墓その2
  「益田市誌・上巻」によると、三基の中の中央のものが、御神本国兼(益田国兼)のものだと記してある。
 現地の配列と状況を考えると、どれが中央のものか分からない。

 さらに不可解なのは、同誌に掲載されている国兼の墓の写真を見ると、その周辺部が、この安国寺境内の景色と合致しておらず、下段に示す「下府廃寺塔跡」に設置されている宝篋印塔とほぼ同じで、この墓を「国兼の墓」としていることである。


 現地の説明板より

伝 御神本三代の墓

 御神本兼高は、父祖以来四代石見国府庁役人として、この地に定住していた豪族である。
 寺伝によれば、兼高の祖・藤原定通(道)が、1114年(永久2年)石見国司として、伊甘郷上府の地に土着し、御神本国兼と称したといわれていた。

 この寺域にある三基の古墓は、国兼、その子兼実、孫の兼栄(かねひで)といわれている。
 兼栄の子兼高は、一の谷、壇ノ浦の合戦に石見軍を率いて源義経のもとで働いている。
 1184年(元暦元年)の源範頼の領地安堵状によると、所領は安濃邇摩、邑智、那賀、そして美濃の各郡にあり、特に後二者に多く、かつ国衙領に多くあって、有力な国庁権力者であったことを示している。
【写真左】安国寺境内の御神本氏三代の墓の下の段にあった宝篋印塔
 この宝篋印塔は一基で、特に説明板などはない。御神本氏に関係した武将のものだろうか。

 南北朝のころ、跡市の本明城及び今市の家古屋城を居城とした福屋氏、周布の鷹巣城にいた周布氏、三隅高城山にいた三隅氏等は、いずれも南朝方、足利直冬方として活躍し、益田氏は主として北朝方、足利尊氏方として戦っている。

 戦国の世には、一族は大内に従い、また、尼子の配下となるが、三隅福屋の二氏は早く滅び、周布氏と益田氏の末裔は、毛利に従って長州に移っている。
 当寺は、もと天台寺院福園寺であったが、益田氏によって禅院に改められ、足利尊氏これを石見の安国寺としたのである。なお、この寺にある「天邪鬼」は地方住民の信仰が厚い。
    2000年4月 記   安国禅寺”
【写真左】笹山城跡遠望
 安国寺の麓を流れる下府川を挟んで西方1キロにある山城で、この北麓に「下府廃寺塔跡」がある。

 笹山城については、南北朝時代、新田義氏や、日野邦光らが居城したと伝えられているが、それ以上の詳細な記録が残っていない。

 おそらく、当城はそれ以前の平安末期から鎌倉期にかけて、御神本氏と何らかの関係のあった城砦と思われる。
 ただ、当城と御神本氏がかかわったという明確な記録は、文献にも見えない。

 しかし、安国寺付近から下府川をさかのぼると、1キロ先には「八反原城」があり、さらに3キロほど行くと「龍ヶ城」という城砦もあるが、御神本氏が活躍した上府・下府の地理的環境を考えると、笹山城が御神本氏の居城であった可能性が高い。
【写真左】下府廃寺塔跡
 笹山城の北麓に設置されている。
 少し長いが、写真の説明板の内容を記す。

国指定史跡 下府廃寺跡(指定名称 下府廃寺塔跡)

 この地に古代寺院跡があったことは、古くから知られ、国鉄広浜線(現在は市道下府上府線)建設の際、下府廃寺塔跡として国の史跡に指定された。

 その後、平成元年から平成4年に浜田市教育委員会により発掘調査が実施され、塔を東、金堂を西に配した「法起寺式」の寺院であったことが判明した。出土した瓦や土器から県内では最も古い白鳳時代末~奈良時代初め(7世紀末~8世紀初めごろ)に創建され、平安時代前半(10世紀)まで存続したものと考えられる。
【写真左】下府廃寺塔跡に見える宝篋印塔
 写真奥にある宝篋印塔の詳細写真は下段に載せているが、この写真の右奥に「笹山城」が位置している。
 この写真の奥に見える宝篋印塔が、前記した国兼の墓として「益田市誌・上巻」では紹介している。


 現在見られる礎石は、塔の中心柱を支える塔心礎で、柱をはめ込むための円形の窪みや、舎利を納める円形の穴が確認できる。

また、この塔心礎の周辺は、周囲に比べて一段高くなっており、塔の基段の痕跡を残している。
 塔は発掘調査の結果、7.2m(24尺)四方、基壇は13.2m(44尺)四方と推定され、その構造などから五重塔であったと考えられる。

 この塔から西側約6mには、金堂跡が発見され、基壇の規模は東西15.4m(51尺)、南北約13m、建物は4×5間で、中央に仏像を安置していたと考えられる。なお、講堂や中門、回廊などの施設は確認されていないが、地形などから寺域は約109m(1町)四方と推定される。

 出土した軒丸瓦の文様には、創建時のものと考えられるこの寺独自のものや、修理で使用された石見国分寺跡や、旭町重富廃寺、大田市天王平廃寺出土瓦に似たもの、さらに近畿地方の瓦文様に近いものなどが認められ、寺院を建立した豪族の活動範囲を窺うことができる。

 なお、ここから東約500mにある片山古墳は、石見地方を代表する7世紀の古墳で、この古墳の後継者が下府廃寺を建立したものと考えられ、これらは石見の古墳時代から奈良時代を考える上で重要な遺跡となっている。
  昭和12年(1937)6月15日指定
  平成13年(2001)3月 島根県教育委員会、浜田市教育委員会”
【写真左】下府廃寺塔跡にある宝篋印塔・その1
 刻銘された文字が風化のため、はっきりしないが、「石見国那賀郡伊甘郷」とあり、その左側には「寛延…」とも読める。寛延となると江戸期になるので、建立されたのは鎌倉・南北朝期でないということになるが…。

【写真左】その2

2010年9月13日月曜日

上久々茂土居跡(島根県益田市久々茂)

上久々茂土居跡(かみ くくもどいあと)

●所在地 島根県益田市久々茂
●探訪日 2010年2月7日、9月12日
●創建期 平安時代末期
●築城者 益田兼高
●標高 56m
●遺構 掘立柱建物、土杭、溝等
●遺物 須恵器、金属製品、土師器、陶磁器等
●時代 縄文、古墳、奈良、平安、中世、近世、近現代、
●遺跡の現状 畑地など

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系第14巻」等)
 「大谷土居跡」(2010年9月8日投稿)の稿でも取り上げたように、益田氏初期の居館跡といわれているもう一つの土居跡が、「上久々茂土居跡」である。

 所在地は、大谷土居跡のある大谷地区からさらに益田川上流へ約3キロ程度登った久々茂というところにある。
【写真左】「上久久茂土居跡」と記された看板
 191号線のガードレール脇に設置されているが、設置高さも低く、車で走っていると見過ごすだろう。
 もう少し、分かりやすい位置に設置してあるといいのだが。



 冒頭の項目でも記しているように、この土居跡については、益田氏居館跡であったばかりでなく、遺構、遺物の調査の結果、縄文から中世、そして近世に至るまでの痕跡が見られたようで、この土居跡にどの程度益田氏が関わったのか、明らかにはされていないようだ。

 また、度々参考にしている「益田市誌・上巻」では、残念ながらこの上久々茂土居跡については、記載がない。

 「日本城郭大系第14巻」によると、下記のように記されている。

“…12世紀の中ごろ、住みなれた那賀郡上府(浜田市)の地を離れ、領地中最大の封土をもつ益田荘に来住した。

 この地は、地形・地名・伝承や、益田氏初期のころの墓と思われる五輪塔・宝篋印塔が付近にあることなどから、前述の居館跡と考えられるが、古記録や遺跡でそれを裏付けるものはない。しかし、また、そのことを否定するものも全くない。”

と断定まではしていない。

【写真左】上久久茂土居跡
 案内を表示しているのは、上段の道路脇のみで、あとは歩いて向かうのだが、標識がないため、分かりずらい。
 土居跡の遺構が残っているのは、写真に見える左側の小丘で、正面の寺院ももとは土居があったところのようだ。



  ところで、寿永4年・文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦に敗れた平家が、源氏の手を逃れるため、主として西国の山奥や、南海の孤島などに移って行ったという伝承がかなり多く残っているが、この石見国でもそうした例が残っている。

 同国でもっともその場所として知られているのは、本稿の上久々茂土居の前を流れる益田川をさらにさかのぼった匹見地区である。

 当地に潜入して、彼らは姓を変えた。澄川・斎藤・寺戸・大谷等の諸姓は、平家の一族といわれている。未開の地に入った彼らは、当地を開墾しながら生活の基盤を造り、やがて各地に本拠城を築城していった。
【写真左】土居跡の郭段のようなもの
 当時の規模がどの程度のものだったのか、今となっては想像するしかないが、先ほどの寺院も含め、現在の191号線と益田川にはさまれたエリア(奥行き、東西幅とも約100m)ではなかったのだろうか。
 なお、写真に見える最高所は10m程度の高さで、郭というより塚山の雰囲気が残る。



 彼らの動きが活発になればなるほど、そのうわさや伝聞が広がる。平家追討を主たる任務とした押領使益田兼高がこれを逃すはずはない。
 ただ、このころの兼高の対応は、一部には問答無用の誅殺処置を行った例もあったたようであるが、大半は兼高の下に帰順させ、被官化を図った。

 さて、この中で、上久々茂に最も近い所に逃れた平家としては、前稿「大谷城」で取り上げた馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)に在城した平宗兼といわれている。

 宗兼は、益田氏に降伏し、同地に留まり後に名族となる。宗兼の家臣・滝口半田時員(はんでんときかず)は、後に宗兼の冥福を祈り、高嶽山宗見院を菩提寺として建立する。
 宗県院の「宗」は宗兼からきている。当院は別名、半田寺とも呼ばれている。馬谷高嶽城は未登城のため、未だ紹介していないが、後に益田七尾城の支城となる。
【写真左】五輪塔
 段の下は畑地となっており、屋敷関係はこのあたりに建っていたのではないだろうか。
  写真にみえる五輪塔は小規模なもので、確か1、2基しか残っていなかった。



 大分前置きが長くなったが、馬谷高嶽城は、益田川支流の馬谷川上流部にあって、上久久茂土居に向かうには、馬谷川を下り波田川に合流し、その後益田川に下って行く方法もあるが、波田川に合流する手前の「大垰」を越え、そのまま谷を下ると、上久久茂土居に突き当たる。

 想像だが、平宗兼が高嶽城に居城していた時、この土居は宗兼の監視のための番所であり、その後、東方にある四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)ができたことによって、両城の中継地点としての役割があったのではないだろうか。
【写真左】土居の北側奥の崖付近
 北端部は断崖となっており、眼下には大きく蛇行した益田川が流れる。





 当該土居が設置された個所は、益田川の南岸部にあり、土居の北側は断崖絶壁となり、益田川が流れている。 

 この個所は益田川が大きく迂回する位置で、川幅も広く、この場所から下流へ向かうにはおそらくほとんど船が使われ、対岸の久久茂下という河原付近が、船着き場としての役割、すなわち湊でもあった可能性が高い。
【写真左】北側の益田川の河岸から南方に上久久茂土居を見る
 写真中央部が土居跡で、おそらくこの付近には数艘の川船が停泊していたのだろう。

 なお、左側が上流部になる。
【写真左】土居跡から南方を見る
 この谷を越えていくと、馬谷高嶽城へ繋がる。

2010年9月9日木曜日

大谷城(島根県益田市大谷)

大谷城(おおたにじょう)

●所在地 島根県益田市大谷
●登城日 2010年2月7日
●築城期 建久8年(1196)
●築城者 益田兼高
●城主 大谷氏(時章、兼光)
●標高 114m
●遺構 郭、腰郭、堀切等

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」)
 大谷城は、前稿「大谷土居跡」でも紹介したように、土居跡から益田川を隔てた北方に築城された山城である。

【写真左】大谷城遠望
 益田川対岸の西麓付近から見たもの。説明板は橋のたもとに設置されている。





 現地の説明板より。

大谷城跡
  〈岸谷山道(大手道)登山口〉

 大谷城は、益田兼高が建久8年(1196)、大谷の田才原、西谷の地高山を削造して建てた益田家大谷居館の北の守りとして、七尾城に近い直轄城として築いた山城である。
 後、この大谷の地の開拓や、益田氏に功績のあった大谷氏に、益田家が大谷時章を大田に地頭に命ずると共に、大谷城預かりとし、さらに大谷兼光のとき、大谷城主を命じ戦功に報いた山城である。
【写真左】本丸付近アップ
 191号線から見えるように、城跡の西側に「大谷城」の看板が一文字づつ設置されている。





 登山道は、ここを登って行く岸谷山道(大手道)と、上流の八幡宮のあったソネ道がある。
 城の辻は(110mある)地元の人により、桜やツツジ、サツキなど植栽されており、眼下を益田川が蛇行し、美しい田園、点々として石見瓦の農家のいらかなど、美しい景観である。

 若い人は5-6分で頂上に上ることができる。

 平成4年11月吉日
   ふる里おこし推進協議会”


 大谷城を築城したいきさつは、上掲の説明板の通りであるが、もともと大谷氏は益田兼高の家臣として、文治元年・寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いに参戦時章・房友父子が奮戦した戦功によるものである。なお、このとき時章の次男・時良と三男・時秋は戦死している。

【写真左】登城口付近
 説明板にもあるように、大谷城を登城するには、「岸谷山道」という大手道と、上流部にある「八幡ソネ登山口」の両方がある。この日は、後記の「ソネ登山口」から登った。

 写真に見える石垣は、以前祀られていた八幡宮跡のもので、瓦片なども残っていた。



 前稿「大谷土居跡」の築城期や、在住期間に不明な点があるとしたのは、同土居跡の場所と、大谷城との間に益田川が遮っているとはいえ、近接していることから、あるいは大谷城の築城時期に併せて、大谷土居跡も建てられたのではないかとも考えられるからである。

 大谷氏の系図については、下記のとおりとなっている(益田市誌・上巻)。

  大谷(藤原)時章⇒房友⇒兼光⇒章宗⇒知連(戦死)⇒章辰(弓の名人)
【写真左】登城路
 ソネ登山道は、御覧のようにほぼ直線のコースで、しかも傾斜がかなりある。
 「若い人は5,6分で登れる」と説明板にはあったが、中年の我々にはとてもそんな短時間では無理である。

 距離は多少長くなっても、つづら折りの登坂道のほうが断然楽である。数歩歩いては休憩しながら、20分ぐらいかかってたどり着いた。


 応安年間(1368~74)、大谷城において、益田兼世・兼利兄弟と、家臣である寺戸左近兄弟との間で異変が起きたとの記録があるが、詳細は分からない。
【写真左】本丸の南麓部
 登り切って最初に見えるのが、南麓の郭と本丸の切崖部である。

 このあたりの郭段は、本丸の下に一段あるのみで単純な構成だが、北側から東側にかけては、変化がある。




 さて、大谷氏にとって最も大きな出来事は、応永6年(1399)11月、和泉国「堺の合戦」で、一族の主だったものが討死したことである。

 「堺の合戦」とは、「応永の乱」の一つで、先月30日投稿した「三隅城・その3」でも記したように、石見国守護でもあった大内義弘らによる倒幕の計画に、益田兼世はじめ石見国諸将らが加わり、泉州まで参陣した。

 しかし、石見国の主だった国人領主は、途中から敵対する管領畠山基国に寝返った。ために、義弘は当地で討死した。

 ただ、詳細は不明ながら最期まで大内義弘に従ったものは石見国では益田兼世をはじめ、この大谷一族らもその中にいた。討死した大谷氏一族は次の通りである。
  1. 大谷兼光(大谷城主)
  2. 大谷範友(二男)
  3. 大谷知清(三男)
  4. 大谷知連(嗣子章宗の長子)
  5. 大谷知忠(同上 二男)
 下って文禄元年(1592)の朝鮮の役に、大谷氏は益田氏の三奉行の一人として活躍したという。
【写真左】本丸及び看板
 本丸の西側に設置された「大谷城」の看板
【写真左】本丸西側から北西部に益田川を望む
 写真に見える益田川を下ると、益田市街地へ向かう。

 なお、この反対側の麓に、前稿の「大谷土居跡」があるが、残念ながらその写真は撮っていない。
【写真左】本丸跡に立つ「緑の募金」公募事業の看板
 大谷城の本丸付近は、御覧のように整備され、桜の木などが植樹されている。春にはおそらく見事な光景になるだろう。

 地元の人によってこうした山城などを保存する方法は、浄財によるやりかたもあるだろうが、こうした公的な公募事業や、助成事業などへ申請する方法も一つの有効な手段だろう。
 どちらにしても、地元の皆さんの熱意がないと成就しないだろうが…
【写真左】本丸東側の郭段付近
 大谷城は益田川に面した西側には南側の一部を除いて、郭は切崖状のため、構成されていないが、東側は尾根伝いに繋がる他山との形状もあって、写真に見えるように数段の郭が確認できる。

 さらに東の尾根伝いに向かうと、下の写真にある「堀切」が見えてくる。
【写真左】堀切
 東に繋がる尾根との鞍部に造られたものだが、尾根幅がかなりあるため、規模は大きい。ただ、現在は大分埋まっているようだ。
【写真左】大谷城本丸から、南方に「馬谷高嶽城」を遠望する
 建久4年頃、七尾城の支城とされ、南北朝期足利直冬が石見に来住した際の最初の城といわれている。

2010年9月8日水曜日

大谷土居跡(島根県益田市大谷田才原)

大谷土居跡(おおたにどいあと)

●所在地 島根県益田市大谷田才原
●探訪日 2010年8月16日
●築城期 観応元年・正平5年(1350)又は建久年間か
●築城者 益田兼見
●標高 50m
●遺構 郭、石垣、井戸
●別名 下久々茂土居跡

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」)
 前稿「三隅大平桜」が植樹されたであろう観応元年・正平5年(1350)は、足利尊氏がこの年10月に高師直らを率いて直冬討伐のため、京を発ち備前まで軍勢を進めたところ、直義が挙兵を挙げたいわゆる「観応の擾乱」が起こった年である。

 「日本城郭大系第14巻」の記録から見ると、同じ年、石見益田の大谷に益田氏の邸宅の一つとされる「大谷土居」が建てられたことになる。
【写真左】大谷土居跡遠望
 所在地は、益田市街地から東に向かう191号線を通り、豊川小学校付近にある枝線の分岐点にある。
 また、目の前には益田川が流れている。


火災による古文書等の焼失

 応安元年・正平23年(1368)3月16日の夜、この大谷土居の益田氏邸宅の火災が起こった。この火災により、同氏が保管していた重要な書類(古文書)や、家財が焼失したという。

 書類の中には、元暦元年(1184)から貞応2年(1223)までの8通のものがあり、焼失後、兼見がおそらく思い出しながら書きとめたものだろうリストが残っている(下段参照)。
  1. 元暦元年5月27日、大江広元奉源頼朝状案
  2. 元暦元年5月□日、梶原景時下文案
  3. 元暦元年5月□日、藤原頼種奉書案
  4. 元暦元年5月□日、源義経下文案
  5. 元暦元年5月□日、梶原景時下文案
  6. 元暦元年11月25日、源範頼下文案
  7. 元暦2年6月□日、源義経下文案
  8. 建仁3年12月□日、益田兼季解状案並安堵外題案
 ただ、これらの紛失リストの作成や、その後の安堵御教書を手にするまでの経緯に不明な点があり、研究の余地があるとされているが、どちらにしてもこうした努力の結果、永徳3年(1383)2月15日、足利義満から袖判安堵御教書を得ている。

【写真左】入口付近
 周辺には住宅が建っているため、分かりにくいが、この看板のおかげで何とか探すことができる。






 火災にあう前の益田氏の石見における社会的権力などは、十分に幕府に認知されたものだろうが、それでもこうした過去の益田氏の略歴や、御家人としての必要条件とされる公式文書を紛失してしまうことは、同氏にとっても耐えがたいものがあったのだろう。
 その後、義満から安堵御教書を受理したのは、守護大内氏の手も借りて、10年以上もかかった。

 なお、この土居に屋敷として住んでいたのは、余り長くなかった、と「日本城郭大系第14巻」には記されているが、下段に示すように、この位置から益田川を挟んで、大谷城があり、当城との関連も十分考えられるので、断定はできないと思われる。

 また、当土居跡の名称については、別名「下久々茂(しも くくも)土居」跡とも呼ばれ、同じく益田氏の館跡であった久々茂にある「上久々茂(かみ くくも)土居」跡と区別されている。この土居跡については、いずれ取り上げたいと思う。

 現地にある説明板より

益田家居館跡
 益田兼高は、建久八丁已年七尾城北の尾に祇園社(八坂神社)を創建し、大谷田才原の南西、高山の裾に土居屋敷を営んで、これに住んだ(石見風土記)(益田市誌上巻)。

 土居屋敷は、一名越中様屋敷ともいう。低地の土居原は、益田家の馬の調教場であり、出陣などの広場であった。

 兼高は大明神の丘(今の忠魂碑)の低地に、御神本大明神(臼口)を、上府から分幣鎮守として奉斎した。明治の中ごろまで一族に崇拝され、存続したが、今は八坂神社(元七尾城の祇園社)に合祀されている。
  平成元年11月建立
     平成15年3月再建立”
【写真左】上記の説明板が設置された付近
 現在はほとんど畑地となっており、写真に見える位置に母屋が建っていたのだろう。敷地はさほど広くはない

【写真左】井戸跡
 上の写真の段からさらに奥に向い、次の段ができる位置に設置されている。

 御覧のようにほとんど埋まっている。なお、さらに上に向かうと、墓地が階段状に設置されているが、これは現在の地元住民のもので、遺構ではないようだ。
【写真左】上から下の方を見る
 説明板にある「低地の土居原」といわれているところが、車が停まっている個所と思われる。

 全体に岩の塊のような地質であることから、当時の形状と変わっていないかもしれない。
【写真左】大明神の丘を見る
 説明板にある御神本大明神(臼口)を上府(かみこう:現浜田市)から分幣鎮守として奉斎した場所で、同丘の低地とあるから、丘の下に広場があったので、その付近だったのだろう。

 御神本大明神(臼口大明神)は、益田氏一族の精神的なよりどころとして崇拝したもので、永徳3年(1383)の益田兼見の置文によると、このころは庶子家であった三隅・福屋・周布氏なども共同で回り持ちの頭役をしていた。

 しかし、これまで記してきたように、庶子家は、後に惣領家益田氏からの支配下から離れるようになったため、分祀の形をとるようになっていく。
【写真上】大谷土居跡から、北方に「大谷城」を見る
 写真中央の山にある山城であるが、築城期はこの麓の土居跡よりも大分早く、建久年間とされている。
 当城については、次稿で取り上げたいと思う。