2010年8月30日月曜日

石見・河内城(島根県浜田市三隅町河内)

石見・河内城(いわみ・こううちじょう)

●所在地 島根県浜田市三隅町河内
●登城日 2010年1月16日
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 三隅兼連・兼知
●標高 82m(40m)
●遺構 郭・土塁等

◆解説(参考文献「三隅町誌」等)
 三隅本城の西麓を流れる三隅川を3キロ余り上っていくと、河内という地区があり、三隅川がそこで大きく弧の字に曲がった位置に築かれた小規模な山城である。
【写真左】河内城遠望
 三隅城から三隅川と平行に走る48号線(三隅美都線)を上っていくと、右に旋回する地点で当城の全貌が見える。


現地の説明板より

河内(こううち)城址の由緒
 当、河内城は、三隅町河内の南西に位置し、独立丘山で標高40mにあり、三隅城(高城)の南門警護の出城で、要害堅固な河内城は、三隅氏の最初の居城もいわれ、築城は鎌倉末期と考えられている。
 数多くある出城の中で、本丸、二の丸、三の丸、また北側に馬場の跡などが現存しているのは河内城だけである。
【写真左】三隅川と河内城
 右に流れる川が三隅川で、左の傾斜面を上っていくと河内城の城跡にたどり着く





 今をさかのぼること670年前、延元元年(1336)、南北朝時代、三隅城四代城主兼連公は、時の後醍醐天皇に奉じ南朝方の勤皇軍として、石見で最初に旗揚げをした地である。

 そして、同年7月21日、ここを拠点に兼連公の長子・三隅兼知を総大将として、北朝方の益田城(七尾城)に攻め入り、大功を立てる。

 この時の様子は、兼知に加わり戦った石見の国、周布郷内内村地頭孫六藤原兼茂より、兼連公に宛てた軍忠状に記され伝えられている。
   平成19年3月吉日
        河内城山公園整備 河内自治会”

【写真左】河内城案内図
 登城口付近の神社側に設置されている案内図で、登城路は途中で分岐し、一方は直接本丸に向かう道と、もう一方は馬場側から向かう道とになっている。





 説明板にもあるように、延元元年は、建武3年(1336)のことで、後醍醐天皇の建武の新政が事実上崩壊し、南北朝時代が始まった年でもある。

 記録によれば、説明板にある同年7月21日、三隅兼知が北朝方の益田七尾城に攻め入ってから、1ヶ月余りのちの9月3日、三隅兼連は、河上(かわのぼり)孫三郎と合力し、稲田郷金剛山で赤羽朝房を攻撃している。

 河上孫三郎は、今年7月14日に取り上げた江津市の「神主城」でも紹介したように、松山城築城者・河上孫二郎と同族の者と思われるが、このころの勢力図としては、南朝方の勢力範囲は、西端は三隅地方で、東端が石央~石東方面まで伸びていたようだ。
【写真左】登城口付近
 小規模ながら要害性は高く、写真に見える登城坂の右端は断崖絶壁である。ガードレールがなかったら、気分的には落ち着かないだろう。

元亀元年(1570)ごろの攻防

 なお、前稿「三隅城・その3」で少し紹介した「元亀元年 三隅之役攻防一覧」(三隅地方史研究会)の中に、「龍門城(河内城)」が掲載されている。
 これによると、戦国期である元亀元年ごろにも、当城で三隅氏一族と、毛利方の戦いがあったことになる。

 興味深いことは、守備方(三隅氏)には、水軍1艘御手船が記載されていることである。三隅川河口から約7キロ程度上ったところであるが、河内城の特徴である河川を水堀としていることから、こうした船が使われていたということだろう。
【写真左】現地に設置された河内城とその周辺の城砦配置図
 本拠城である三隅城は、当城のほぼ北方に位置し、周囲の支城は幾何学的にも同心円状に配置されている。



 参考までに、主だった武将として、守備方では、古和長門守、澄川源之助、同千左衛門、小野小平太などがあり、攻囲軍(攻め方・毛利方)では、佐々田十郎、阿曽沼豊後守、熊谷伊豆守元時などの名が見える。

【写真左】河内城から、三隅本城を遠望する
 手前の山が三隅本城の山容を若干遮っているが、上部は十分に見える。
 このことは、戦略上重要で、特に狼煙の確認をする際、どの山からあがったものかを判断する際、大きな要素となる。

 河内城が三隅本城より先に築城されたとあるが、結果的には理想的な地どりであったわけである。
【写真左】三の丸から二の丸を見る
 登城路②のコースで行くと、最初に南端部に築かれた三の丸があり、その上段(北側)に二の丸が控える。

 河内城の特徴である細尾根を巧みに利用した郭群で、規模は小さいものの、要害性は高い。

【写真左】二の丸付近
 現地には休憩所が設けられている。地元の人にとって、文字通り憩いの場だろう。
【写真左】本丸跡
 現地には天守を模したミニチュア版が建っている。本丸そのものの規模は小さいもので、4,5m四方だったと思う。




【写真左】本丸付近から北方下段の馬場跡方面を見る
 本丸を過ぎると、再び数段の郭ののち、馬場跡が北方に伸びていく。北側の登り坂も急峻になっているので、この場所まで馬を移動させることは、相当訓練させた馬だったのだろう。


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