2010年7月25日日曜日

亀山城(島根県江津市江津町本町)

亀山城(かめやまじょう)

●所在地 島根県江津市江津町本町
●探訪日 2010年7月21日
●築城期 弘治3年(1557)
●築城者 都野隆安
●城主 都野三左衛門家頼
●高さ 30m

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」その他)

 亀山城は、前稿「神主城」で取り上げた都野氏の居城とされ、主に戦国期に活躍した都野三左衛門家頼の記録が残る城跡である。

 断片的な記録としては、戦国期、都野氏はそれまで大内氏(小笠原氏)の配下として活躍していたが、弘治3年(1557)4月、大内義長が毛利元就に攻撃され自害したため、同年7月都野隆安(刑部少輔と思われる)、毛利元就に服属したという。
 隆安はそれまでの居城であった前稿「神主城」から、江の川水運を確保するため、亀山城を築いたとされる。

 所在地は、江の川河口の西岸にあり、現在のJR三江線「江津本町駅」の北方の小丘である。ちょうど亀山城の真下を三江線のトンネルが走っている。
 亀山城の登城口付近を捜したが、明確な登城路は消滅しているようだ。今稿では遠望写真程度の報告しかできないが、その代り、都野氏に関わる寺院が現存しているので、併せて紹介したい。
【写真左】亀山城遠望

 都野氏菩提寺である観音寺(下段写真参照)から見る。
 小丘陵なので、冬季になれば、よじ登ることができるかもしれないが、東斜面は垂直に近い切崖で、足を踏み外せばそのまま江の川へ落下しそうな地形だ。

 なお、明治30年頃、地元飯田家が亀山城跡付近に別邸「二楽閣(じらっかく)」という建物を建てたという。残念ながらその個所は確認していない。
【写真左】観音寺
 臨済宗東福寺派 月航山 観音寺

 江津本町の西側高台に設置されている寺院で、都野氏の菩提寺とされている。
【写真左】都野三左衛門家頼の墓
 観音寺境内に祀られているが、もともと当山の裏山の中腹に建立されていたものを近年になって移設したという。

 家頼は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、毛利輝元の家臣として、当地蔚山(うるさん)での籠城戦に活躍したものの、討死している。

 家頼の墓は写真の左から2番目の宝篋印塔とされている。
【写真左】境内にある「朝鮮の石」と呼ばれる石
 写真手前の四角柱型の石である。

 この日、当院の御住職に少しお話を聞くことができたが、この石は昔から代々「朝鮮の石」といわれ、家頼公の亡骸と一緒に持ち帰ったものと伝えられている。

 ただ、この石がどういう意味を持つものかははっきりしないという。
【写真左】普済寺

 観音寺の北の峰を越えると当院がある。現在はその中間部の山の下を江津バイパス(R9号線)のトンネルが走っている。


 興国4年(1343)開創というから、前稿「神主城」で記したように、石見の南北朝合戦の真っ最中である。


 この普済寺から観音寺までの山中には、「三十三ヶ所観世音菩薩案内図」というコースが設置されているが、そもそも江の川に面する東斜面は険峻な地形で、しかもテレビ塔が建つ最高所までの道のりも険しく、普済寺の初期は事実上城砦の役割があったのではないかと思える。

【写真左】普済寺北側の墓所から江の川河口・日本海を見る
 普済寺本堂はこの写真の右下にあるが、この個所からは日本海や江の川河口がよく見える。
 戦略的に考えると、見張り台などがあったことが十分に考えられる。
【写真左】山辺神宮
 観音寺と同じ東側斜面に立つ社で、大和国山辺郡石上より、白雉3年(652)勧請されたという。
 祭事としては祇園大祭が7月に行われる。参拝したこの日はすでに終わっていた。
 特殊神事としては、松江市にもある「ホーランエンヤ」という水上渡御が有名だ。



◆追記
 上記投稿後、2011年1月に再び亀山城麓まで行き、登城口を発見し登城したので追加報告しておきたい。
【写真左】亀山城遠望
 写真に見える鉄道は、三江線で、本丸がほぼトンネルの真上にある。

 手前の駅は、「江津本町駅」という小さな駅である。
【写真左】江津本町駅
 写真左に見える川が中国地方最大の河川といわれる江の川。

 三江線はこの江の川と平行に走り、終着駅は広島県の三次駅になる。

 管理人は鉄道ファンではないが、島根県下を走る鉄道の中でも特に気に入った路線である。
 こうしたローカルな駅などを訪れると、なんとなく癒される。
【写真左】駅から亀山城に向かう途中の道
 駐車は駅と道路の間の狭い空地にとめ、そこから町の方に歩いて戻ることになる。
 この写真では奥に駅があり、亀山城は左側の斜面に当たる。

 道の上には大きな水道管のようなものが付設されている。

 近世になってから造られた道かもしれないが、なんとなく堀切跡にも見える。
【写真左】本光寺
 上記の写真にある道路を少し歩くと、亀山城の西麓にこの寺が建っている。

 小規模な寺院で、どうやら無住のようだ。亀山城はこの写真の右側の崖を登ったところにある。
【写真左】欠損した宝篋印塔
 亀山城登城路(といっても藪こぎに近いが)途中に、墓地がある。
 全体にほとんどの墓が管理されていないようで、この宝篋印塔も上部が欠損している。

 都野氏に関係する武将のものだろうか。
【写真左】墓地から江津本町を見る
 この景色をみると、ここに墓地や寺を建立した理由がなんとなくわかる。

 現在、江津の町の中心部は北の日本海側に移っているが、中世・江戸期までは、この場所が江津の商工業の中心部であった。

 近世城郭の城下町と違って、中世城下町はまた別の趣や風情がある。

【写真左】本丸跡付近
 墓地から本丸跡までは、高圧電線の鉄塔管理をするため歩いた踏み跡があり、これをたどって向かう。

 本丸付近は全く管理されていないので、このあたりは全面ブッシュである。
 目測では本丸規模は10m四方か。全体に南北に長い構造の城砦で、北端部で江の川側には、郭跡が残っているが、この場所だけ畑地となっていた。

【写真左】祠跡か
 本丸跡には、上記の建立物とは別に、小規模な石垣で組まれた積石が残る。
 おそらくこの上に石碑が建っていたのであろう。

 なお、上記写真の石碑には「明和4年」という文字がみえる。1767年となるので、江戸中期に建立されたことが分かる。

【写真左】本丸跡から北方に江の川河口を見る
 現在はほぼ全域が野放図にされているが、伐採・除草をすれば、この位置から江の川の上下流を見渡すことができるだろう。

 本丸跡に立つと、亀山城が山城としてではなく、むしろ海城としての機能の方が大きかったのではないかと思える。

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