2010年6月21日月曜日

有田城(広島県山県郡北広島町有田)

有田城(ありたじょう)

●所在地 広島県山県郡北広島町有田
●登城日 2010年6月16日
●別名 茗荷(みょうが)丸
●築城期 室町期か
●築城者 小田信忠
●城域規模 300m×200m
●高さ 標高370m/比高40m
●遺構 郭・空堀等

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
中国自動車道と、島根県浜田市から伸びた浜田自動車道が接続する千代田IC付近にある山城で、前稿「不動院」の中で少し触れているように、この地で永正年間(1504~21)、毛利元就が安芸守護で銀山城主・武田元繁を破った「西国の桶狭間」といわれた舞台として有名である。


【写真左】登城口付近
 当城の東麓側から狭いながらも車で行ける道があり、有田城登城用と、麓に鎮座している有田八幡宮参拝を兼ねた駐車場が造られている。

 車はそこに停めて、傾斜はきついものの、しばらく簡易舗装の道を登り、一旦踊り場のような平坦地を過ぎると、写真に見える登城路が続く。この場所から本丸までは5分程度でたどり着く。



 現地の説明板より

有田城跡と有田合戦

  有田城跡山頂には4つの郭と、郭の北西端を固める土塁が残っている。
 城主は、山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏・西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していた。

【写真左】三の丸付近
 最初に見える郭で、時節柄草木が伸びて遺構の十分な姿は把握できないが、主だった遺構は確認できる。

 全体に城域は南から東方を見下ろす位置に構築されているので、北側背後の状況は切崖状態が多い。



 永正12年(1515)、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城の武田元繁が反旗を翻し、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍した。これに対し、大内氏の命を受けた郡山城の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城した。

 1516~17年に有田城奪回を目指す武田氏と、毛利・吉川氏の間で、有田合戦が繰り広げられたが、武田元繁は戦死、山県一族の壬生・有田・今田氏も没落した。元繁戦死の地の碑は、現在又打川河畔にあるが、今田、中井出など異説があり、確定できない。

【写真左】本丸跡
 三の丸から西方に少し行くと犬走り状の帯郭があり、西端部に二の丸を設け、その東方に高さ8m程度の法面を保った本丸が造られている。

 本丸の大きさはおよそ7,8m四方のもので、小ぶりである。



 この有田合戦は、武田氏の威勢を失墜させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなった。
  芸北東部広域観光連絡協議会
  千代田朝観光協会”


 説明板にはないが、元々有田城主であった小田信忠の変心に対して、守護である武田元繁が怒り、5千の大軍で攻め入ったことから始まっている。いわば毛利氏としては、武田氏のこれ以上の北進を阻止したいという目的が起点となっている。

【写真左】二の丸から東方に本丸を見上げる
 前述したように、三の丸から二の丸にかけてフラットに帯郭状に連続しているので、主たる戦力はこの場所に陣取っていたと思われる。

 なお、本丸から一旦下って再び後方に上がると、「茗荷丸」と呼ばれる小郭があるが、ほとんど見張り櫓の規模で、この場所が一番高所となる。




【写真左】有田城本丸から東方に千代田の街並みと中国自動車道を見る
 有田城は標高が高くない割には視界が広く、東・南・西方向はほとんど見渡すことができる。






【写真左】有田城から東方に山県一族・壬生氏の拠った「壬生城」を見る
 写真中段の山で、有田城から直線距離で約4キロ程度である。






【写真左】有田八幡宮
有田城北麓に鎮座する社で、縁起などは分からないが、おそらく有田・小田氏を祀ったものだろう。

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