2010年5月11日火曜日

本郷城(広島県福山市本郷町字城山)

本郷城(ほんごうじょう)

●所在地 広島県福山市本郷町字城山
●登城日 2009年2月4日
●築城期 健保元年(1213)
●築城者 大庭三郎景連
●城主 大庭氏、古志氏等
●形式 山城(連郭式)
●標高 143m(比高110m)
●遺構 郭、空堀、土塁、石垣、井戸等
●指定 市指定史跡
●備考 大場城、古志城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
 前稿「鷲尾山城」から南東へ約5キロ下ったところに本郷城がある。別名、大場(大庭)城、古志城ともいわれている。
【写真左】本郷城遠望
 南側から撮ったもの。











 現地にある説明板より当城の沿革を記す。

大場山(城山)
 福山市本郷町字城山762番・字山手762番(619は間違い)
 標高 143m
 眺望 東 本郷町内・神村の山々 
     西 立神方面の山々
     南 本郷町内・四国石鎚連峰
     北 新庄奥山・大谷山

【写真左】大場山城(本郷城)見取り図
 規模は小規模で、構造も簡単なものである。しかし、本丸、三の丸などは広く、施工も丁寧である。



 大場山城

 ●1213年(健保元年)(鎌倉時代前期)
    大庭(おおば)三郎景連が新庄の地頭として築城
 ●その後12代大庭氏が居城 「伝承」
 ●その後、古志正光より古志清左衛門に至る6代居城 「水野記」
     古志正光…□□□□…古志豊清…左衛門太夫豊綱…
     …古志四郎五郎元清…古志清左衛門元綱(豊長)

 ●1512年(永正9年)
    「古志の城」と呼ばれていたこの城は、大内氏の命を受けた毛利興元により攻め落とされるも、後に古志氏は、大内氏と和睦し、城主に復帰する 「西備名区」
 ●1591年(天正19年)(安土桃山時代後期)
    古志清左衛門の時、毛利氏により改易される 「水野記」
 監修 備陽史探訪の会 会長 田口義之
【写真左】登城路
 小規模な山城であるが、登城路の傾斜はきつく、天然の要害を利用している。

桜植樹・登山道整備事業
 2002年(平成14年)3月17日
 事業実施 城山60会
  氏名列記(省略)
 桜苗木 100本 平成13年度環境緑化推進事業
            広島県みどり推進機構等
 活動資金援助 日野某”



 築城期・築城者については、「日本城郭大系14巻(以下「14巻」とする」(新人物往来社)によると、南北朝時代、古志氏(義綱か)とされているが、現地の説明板にもあるように、鎌倉期に地頭として入ってきた大庭氏が最初に築城したと考えられる。
【写真左】二ノ丸から三の丸を見る
 下段の三の丸の方が幅が長く、面積も広い。






 というのも、伝承ながら「12代」も続いたという経緯は、軽視できない。また、当地にやってきた時期である建保年間は、和田氏(義盛)による北条義時攻め(和田合戦)があり、義盛ら主だった和田一族は敗死するものの、残党の一部は新たな領地を求めて西国にやってくる(「土佐・和田城」2009年3月21日投稿参照)。

 おそらく、この和田合戦の際、鎮圧に当たった大庭氏(景連)が、その功によって当地に地頭としてやってきたと考えられる。
【写真左】「馬廻し」といわれているところ
 本丸、二の丸、三の丸を北側から東側にかけて取り巻いている郭で、全長180m程度になる。これだけ長い規模があれば、当時馬の数も相当なものだったと思われる。




 本郷(大庭)城主である大庭氏は12代まで続き、そのあと、古志氏が継ぐ。

 記録では、明徳2年(1391)の明徳の乱(山名氏による室町幕府に対して起こした反乱)の戦功によって、当地(備後新庄)を受けたことに始まるとしている。このことから、初期の大庭氏が当城を治めていた期間は、約180年間になる。

【写真左】石垣跡
 上記の馬廻しと接する本丸・二の丸・三の丸側壁部に残っているところで、石垣跡はこのほか2,3カ所確認できる。






 古志氏は、昨年(2009)2月に取り上げた出雲国の「浄土寺山城」や「栗栖山城」の城主である。特に明徳の乱の際、幕府方から鎮圧の要請を受けたとき、同氏はすでに浄土寺山城から、栗栖山城へ移っていたころで、現地の説明板では、初代を古志正光としているが、「14巻」では、古志義綱となっている。

 ちなみに、上記の説明板では、その後の城主名を、
   □□□□豊清、左衛門太夫豊綱、四郎五郎元清、清左衛門元綱(豊長
 とし、「14巻」では、
   国信、久信、為信、宗信、景勝、豊長
 などとなっており、ほとんど一致しておらず、最後の豊長だけが合致している。現地説明板の出典は、「水野記」という文献で、「14巻」のそれは、「西備名区」という史料のようだ。
【写真左】本丸跡
 西側から見たもので、奥行きがかなりあり、しかも平坦面の精度がよい。





 城主の名前が史料によってこれだけ違うのも珍しい。現地の説明板には、そのためか、あらかじめ出典元を下段に明記していることは親切だ。

 さて、「14巻」によると、為信の代の永正9年(1512)、尼子方に属して挙兵したため、これを大内義興の命を受けた毛利興元によって攻略され、一旦落城している。しかし、その後再び盛り返したとある。

【写真左】「人呼岡」付近
 呼称名が珍しいが、この写真の左側の高い所が「人呼岡」といわれているところで、さらに西側は「けぬきぼり」と呼ばれる堀切状の谷がある。ただその個所は伐採されていないため、写真には収めていない。
 なお、写真右手前には井戸跡がある。




 前年の永正8年、8月には京都船岡山において、将軍足利義稙を擁する大内義興・細川高国と、前将軍足利義澄を擁する細川澄元らの戦い、いわゆる「船岡山合戦」が勃発する。

 その際、大内義興は尼子経久らを従えて、当地で戦い、結果大内軍の大勝に終わっている。戦後になると、大内氏は京に長期間在京することになるが、先に帰国した尼子氏をはじめ、安芸武田氏らが不穏な動きを見せている。おそらく、古志為信の行動も、そうした対大内氏からの離反の動きの一つだったと思われる。
 その後、大内氏の元に再び属し、直接的には毛利氏の命に従っていく。

 元亀3年(1572)、前稿で紹介した西隣の「鷲尾山城」の杉原氏との関係が悪化、同氏に攻められたものの、小早川隆景の斡旋で和睦を結んだ。
 古志豊長はその後も所々の戦いで戦功を挙げたが、尼子方に内通しているとの讒言があり、隆景は三原城に豊長を呼び、酒宴の席で寝込んだ豊長の首をはねたという【写真左】本郷城本丸付近から南方に瀬戸内海を見る。
 手前に見える海は、松永湾。右側には瀬戸内しまなみ海道が走る。

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