2010年4月26日月曜日

亀井茲矩の墓(鳥取県鳥取市鹿野町寺内)

亀井玆矩の墓(かめいこれのり のはか)

●所在地 鳥取県鳥取市鹿野町寺内 武蔵山「明星ヶ鼻」
●探訪日 2010年4月26日

◆解説

 前稿で記したように、「譲傳寺」のある鹿野町今市の北隣である、寺内の武蔵山南端部「明星ヶ鼻」といわれる丘陵地に、亀井玆矩の墓が建立されている。 なお、玆矩を、「これより」ともいっていたようだ。
 ところで、玆矩の戦歴や業績については、これまで多くの文献などで紹介されているので、本稿では詳細は省略させていただく。

 さて、玆矩は同地鹿野城において病没しているので、遺骨も当然この墓地に埋葬されていると思われるが、玆矩の墓所としては、この他に、

(1)島根県鹿足郡津和野町後田
(2)京都市左京区の金戒光明寺黒谷墓地(金光院)
 の2カ所がある。
【写真左】墓所入口付近
 この写真手前に狭い道があり、数軒の家が並んでいる。車1台分しか通れないので、駐車はこの場所から西に降りた県道198号線の支線当たりに停めた。

 この地区は田仲(田中氏15代の石碑も付近にあった)という地区で、玆矩が青年時代にこの場所を住居としていたことから、同地の奥にある武蔵山の山頂に墓地を建立し、その位置からは南東方向に鹿野城が見えるようにしたという。

 写真にある鳥居を含め、特に左側は広く、緩やかな斜面となっており、おそらくこの位置に玆矩の住居があったものと思われる。
 墓所はこの鳥居をくぐり、途中から武蔵山斜面を登る道を向かう。
【写真左】鳥居右に設置された石碑
 「大井手用水路開鑿四百年記念」と刻文されている。
 慶長7年(1602)、玆矩は、因幡国最大の大河・千代川にそそぐ二本の支流(智頭川・八東川)それぞれの合流点上流に、取水堰を設け、1,200町歩の灌漑水路網を整備した。

 また、この鳥居はその恩恵を受けている大井手土地改良区の皆さんが、最近まで倒壊していたのを平成5年に再建したという。
 甲冑を覆い戦場を走駆していた戦国武将のイメージとは、また違った彼の偉功を覚える。
【写真左】墓所に向かう階段部
 当時の施工のものか分からないが、幅員が非常に広く、まるで城山に向かう道のようである。
【写真左】亀井玆矩の墓・その1
 現地に着くまでは、五輪塔か宝篋印塔形式のものと想像していたが、御覧の通り全く形式の違う墓石である。

 石積三段の構成で、基礎部分の一辺は7,8mもあるだろうか。非常に堅固な造りである。
【写真左】その2
 この部分の高さは2m前後はあるだろう。

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