2010年3月7日日曜日

臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)

臼杵城(うすきじょう)

●所在地 大分県臼杵市大字臼杵字丹生島
●登城日 2008年12月3日
●築城期 弘治2年(1556)~永禄5年(1562)
●築城者 大友宗麟
●城主 大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏
●形式 連郭式平山城(海城)
●別名 丹生島城
●指定 大分県指定史跡(昭和41年3月22日)

◆解説(参考文献「戦国九州三国志」学研、「西国の戦国合戦」山本浩樹著、その他)
 現地の説明板より

県指定史跡 臼杵城跡

 臼杵城は、永禄5年(1562)、大友宗麟によって臼杵湾に浮かぶ丹生嶋に築かれました。
 大友氏ののち、福原直高、太田一吉と城主が変わり、慶長5年(1600)からは、稲葉貞通が臼杵城主として入府し、明治4年(1871)の廃藩置県を迎えるまで、稲葉氏が城主として臼杵を治めてきました。
臼杵市・臼杵市教育委員会
【写真左】臼杵城遠望
 当城の西側にあたる部分で、写真手前の道路と向いの石垣の間には堀が残っている。宗麟時代には臼杵城全体は、丹生嶋という島に築城されていたので、いわゆる海城である。

 従って、この手前付近の道路も海で、その向の石垣部分が大手口といわれていた。
 城の規模はさほどないものの、こうした岩山を巧みに利用した情景は見ごたえがある。



大友宗麟

 大友宗麟(そうりん)という名前は、彼が32歳のとき(永禄5年・1562)、出家して号した名前で、それまでは鑑鎮(よししげ)と名乗っていた。

 生まれたのは、享禄3年(1530)1月3日(別説では5月4日)に、当時豊後守護だった父・大友義鑑(よしあき)の長男として、現在の大分市(府内)に生まれている。ちなみに、彼と同時期に生まれた戦国武将としては、越後の上杉謙信で、同じく1月生まれである。
【写真左】大手口付近
 この日(2008年12月3日)訪れた時、大手口も含め数カ所改修工事が行われていた。







 戦国時代によくあるケースとして、家督相続に絡み、身内同士で謀殺事件が起こることがある。彼もまた20歳のとき、実父・義鑑から廃嫡され、このことに宗麟の家臣らが反旗を挙げ、実父および嗣子とされた異母弟・塩市丸を殺害。

 このクーデターは「二階崩れの変」と呼ばれ、これによって、宗麟が大友氏の家督を受け継ぐことになる。

 よく似たケースとしては、武田信玄の例がある。常識的には当時、長男が自動的に世襲するのが通例である。宗麟も信玄も、どうしたわけか長男であるにも拘わらず、実父から嫌われる。
宗麟はこのクーデターを機に、一気に九州一の戦国大名に向かって走り出すが、他の戦国武将とは別の世界観・理想を持っていた。
【写真左】二の丸櫓門













賛美歌が流れる町

 天文20年(1551)9月、フランシスコ・ザビエルが当時大友氏の居館であった府内城を訪れ、宗麟に拝謁する。

 豊後でのキリスト教布教を許し、府内には教会も造られ、そこではビオラの演奏で賛美歌が歌われ、クリスマスの日にはキリストを題材にした演劇も行われたという。また、宣教師らによって造られた病院や福祉施設もあったというから、当時の日本の城下町としては、他に例を見ない別世界の町の姿があった。

 ところで、日本の戦国期で、これらヨーロッパ音楽などを生で聞いた武将としては、織田信長、豊臣秀吉らが挙げられている。ただ、彼らがどれほどこの当時のヨーロッパ音楽を聴いて、理解していたかとなると、疑問が残る。これはセレモニーの一つとして演奏されたので、信長や秀吉からみれば、音楽よりも楽器や、服装などに注目が置かれ、観賞会の態は成していなかったと思われる。
【写真左】二の丸跡の図











宗麟の音楽観

 それに対し、確証はないのだが、宗麟の場合はこのヨーロッパからもたらされた音楽、特に教会音楽や、ポリフォニー楽曲に相当興味を持ったのではないだろうかと思われる。

 というのも、彼はのちには、日向(宮崎県延岡)の務志賀(むしかに、キリスト教理の理想国家を建設することを夢見る。ちなみに、務志賀は、ポルトガル語の「ムジカ(音楽)」の語意から来たもので、宗麟がその地名を名づけたといわれている。そうした記録からも、彼が特に西洋音楽・教会音楽に熱心だったことが分かる。

そこで、少し脱線して恐縮だが、当時宗麟が、宣教師らから具体的にどのような音楽・楽曲を聞いていたかというのが、前から興味があった。
写真左】大砲「国崩し」の複製
 この「国崩し」といわれる大砲は、天正4年(1576)ポルトガル人から宗麟へ送られたものという。島津氏が攻めた天正14年(1586)、当城で2基が使用された。



 このころヨーロッパを中心にした音楽の中で、最も親しまれていた作曲家としては、ジョスカン・デ・プレ(1450?~1521)がいる。

 そこで、確証はまったくないのだが、おそらく彼の作品も演奏されていたのではないだろうかと想像される。彼の作品には、ミサ曲、モテット、世俗曲など多くの作品が残され、現在でもよく演奏されている。

 そして、管理人としてさらに興味が尽きないのは、これら宣教師らの中に、当時使用されていた「ビウェラ(ギター族楽器)」という楽器を弾きこなす者がいたのではないかと想像もするのである。もしその奏者がいたなら、おそらく彼は、ジョスカン・デ・プレの声楽曲「ミレ・レグレ」を定旋律に編曲した、当時の最も優れたビウェラ奏者・ルイス・デ・ナルバエス(※)の独奏曲「皇帝の歌(Cancion del Emperador)」を、たとえば「御前演奏」として、弾いたのではないか、と、そんな想像と期待をしてみたくもなる。

 なお、この「皇帝の歌」の譜面はオリジナル譜(タブラチュア譜)ではないものの、当方はギター版のものとして編曲されたものを持っていて、時々つま弾いている。despacio(ゆったり)とした曲で、格調高い雰囲気を持った楽曲である。

ルイス・デ・ナルバエス(Luis de Narvaez:1510~1555頃)
 グラナダに生まれた作曲家・ビウェラ奏者で、フェリーぺ2世に仕える。1538年「デルフィンの6冊の曲集」を発表。「皇帝の歌」はこの中に含まれる。

【写真左】臼杵城北側の石垣改修工事の模様
 これまで登城した時に、こうした工事現場を見る機会はなかったので、非常に興味深いものがあった。






丹生嶋城の攻防

 さて、臼杵城の話題からとんでもなく脱線してしまった。話を戻したい。
臼杵城が注目されるのは、宗麟の晩年で、天正14年(1586)島津氏に攻め入られ、同年10月ついに当城に立てこもった時である。いわゆる「丹生嶋城の攻防」といわれた合戦である。

 宗麟の最盛期は永禄2年(1559)で、この年、豊後・肥前・肥後と押さえ、さらに豊前・筑前・筑後の守護となり、さらに13代足利義輝から九州探題に任ぜられた時である。その3年後の永禄5年、冒頭に記したように、出家して宗麟を号す。

 元亀元年(1570)には、長期にわたりあった毛利氏と和睦(毛利氏側の都合:出雲国における尼子再興軍の進攻により撤兵)。

 このあとから次第に大友氏に陰りが見え始める。天正6年(1578)、正室・奈多氏と信仰上(キリスト教)の見解の不一致から離縁。3月になると、嫡男・義統(よしむね)を日向に出兵、一旦奪回するも、11月には耳川の戦いで島津側に惨敗。その後、島津氏は次第に北上し、前記したように当城で籠城することになる。このとき使われた大友方の大砲は威力を見せ、別名「国崩し」(上段写真参照)と呼ばれている。

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