2010年3月22日月曜日

大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)

大内義隆墓地・大寧寺
          (おおうちよしたかぼち・たいねいじ)


●所在地 山口県長門市深川湯本1074
●探訪日 2007年3月14日

◆解説
 今稿は義長の養父・大内義隆の最期の地となった大寧寺を取り上げる。大寧寺は、山口県長門市にある。近くには湯本温泉がある。
【写真左】大寧寺境内

















 初めに当院の縁起などを現地の説明板より転載しておく。

曹洞宗瑞雲山
 大本山總持寺御直末


 大寧寺略案内(正式には瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺という)
開創
 室町時代 応永14年(1401)
 開山    石屋真梁禅師
 開基    長門守護代 鷲頭弘忠(わしのうずひろただ)
史跡および文化財の指定
 本堂 県指定有形文化財

 境内 県指定史跡
 墓地 県指定史跡(中世・近世の墓地群)
 梵鐘 市指定有形文化財
 塔頭興阿寺 市指定有形文化財

大内義隆公 大寧寺にて最期
 天文20年(1551)に連綿として栄えた当主大内義隆公は、突如重臣陶隆房の謀叛により山口を追われ、大内氏の香華寺である当寺に逃れ、13世異雪慶殊和尚に示戒を請い、従臣と共に自刃。大内家系譜は31代にして断絶した。
 主従の墓は裏山遊仙窟(ゆうせんくつ)に眠る。
【写真左】大寧寺本堂
 本堂は大内義隆が最期を遂げた際の戦乱で、七堂伽藍とともに焼失し、現在あるのは文政12年(1829)移築再建されたもの。

 写真中央にある梵鐘は、応永3年(1396)長福寺時代に、大内氏に属していた筑前(九州)麻生氏と関係があるといわれている芦屋(福岡県遠賀郡)の鋳物師製作のものといわれている。


上杉憲実公の終焉地
 足利幕府の管領であった上杉憲実は、幕府内の政争に疲れ、諸国行脚の後、享徳元年(1457)、当寺4世竹居正猷和尚の弟子となり、安居参禅の晩年を送り、寛政7年(1466)に入寂。墓は史跡墓地群の中にある。

湯本温泉由来
 湯本温泉は、当寺3世定庵殊禅和尚の威徳を慕って、長門一の宮の住吉大明神が大寧寺で参禅。特戒を果たされた報恩の温泉で、応永(1427)に沸き出した。開山堂には住吉大明神の尊像が奉安され、寺域には坐禅石・手洗いの池などゆかりの古跡がある。
【写真左】大内義隆墓所その1










義隆の自害

 大内義隆は陶晴賢に追われた際、計画では仙崎(長門の港)から海路の脱出を図ったが、折からの強風で押し戻され、再び当院に戻り、この段階で自害の覚悟を決めたという。

 介錯は、冷泉隆豊冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生)参照)が行い、寺には火が放たれた。その後、残った義隆勢は敵中に打って出、次々に倒れ、最期は介錯した冷泉隆豊が経蔵に入り、壮絶な割腹自害を行い、やってきた陶方に対し、自らのはらわたを投げつけたという。

 彼は、義隆を支えてきた相良武任(文治派)と、陶晴賢(武断派)の抗争を回避すべく奔走した人物で、大内氏にあっては最期の忠誠を全うした人物である。

 ちなみに、天文年間大内氏が、出雲月山富田城攻めを行った時、中海の大根島で奮戦。個別の勝ち戦では、神田源太郎の手結浦の戦とともに軍功を挙げている。

辞世の句
    みもや立つ 雲も煙もなか空に
             さそいし風の 末ものこさず

 享年39歳。 おそらく、最期の「末」は「陶晴賢」の「陶」を充てたものだろう。
【写真左】経蔵跡
 現地に立つ説明板では、辞世の句は少し簡単になって

「見よや立つ煙も雲も 半天に さそいし風の音も残らず」
 となっている。




長門豊川稲荷禅宮
 昭和36年(1961)愛知県妙厳寺の守護神豊川稲荷が勧請祭祀された。

 御祭神は仏法を護持する叱枳尼真天(だきにしんてん)という仏さまで、福徳成就の大誓願を持つ。明治になって神仏分離政策で妙厳寺と豊川稲荷を分離しようとする権力に直面したとき、当寺45世簣雲泰成(きうんたいじょう)和尚が、三条実美(さねとみ)卿を説得した因縁によって結ばれている。

境内の墓碑群
 この中の、「大寧寺境内」の墓碑群については、大内義隆墓地も含め多くのものがあり、詳細に記録されているので、参考までに転載しておく。
【写真左】大内義隆墓所その2












県指定史跡「大寧寺境内」(昭和54年2月6日指定)の墓碑群

●鷲頭弘忠大寧寺開基・長門守護代・深川城主)(生年不明~1448)
  文安5年(1448)同族の守護・大内教弘に攻められ深川城で戦死。

上杉憲実(関東管領・足利学校中興)(1411~66)   
 永享の乱後、関東を去り大寧寺境内の槎留軒に隠棲。この地で没。

●大内義隆主従(33基、義隆は中国・九州7カ国の太守)
  天文20年(1551)「山口の乱」の戦死者。義隆は大寧寺で自害。
  墓所は県指定史跡。
【写真左】大内義隆墓所その3
 左の宝篋印塔が義隆のものと思われる。
なお、大内義隆墓所の隣には、三条公頼の墓所もある。
 当地深川庄は大内時代には三条家の領地であった。公頼の娘は武田信玄の正室に嫁いでいる。

 天文20年9月の大寧寺の乱がおこる前、たまたま三条公頼は大内氏の山口に招かれていたことから、この事件に巻き込まれた。

 義隆が先に逃走し、そのあと三条氏らもあとを追ったが、途中暴徒に襲われたらしく、大内氏よりも2日前の8月29日に亡くなっている。こうしてみると、実に不運としか言いようがない。
 

児玉花外(詩人。明治大学校歌の作詞者・分骨墓)(1874~1943)
  昭和18年(1943)東京で没。父精斎は当市板持出身。大寧寺47世白毛和尚は児玉家出身。

横山幾太(松下村塾に学ぶ・大津郡長・深川村長)(1841~1906)
  住吉大明神坐禅石 大寧寺に湯本温泉を贈った明神坐禅の石。
【写真左】鷲頭弘忠の墓
 鷲頭弘忠は、説明板にもあるように、当寺・大寧寺(長福寺)の開基でもあり、近くにある深川城主でもあった。文安5年(1448)大内教弘に攻められなくなる。



萩藩重臣の墓碑群
 この大寧寺境内の墓域には、江戸時代のはじめ、萩藩初期の財政再建に力を尽くした益田元祥(牛庵)の墓を始め、井原、山内、天野、桂、堅田、宍戸、国司、粟屋、佐世、児玉、志道、榎本、宍道、内藤、赤川、乃美、熊谷氏等の寄組、大組の上級藩士70余家、250余墓がある。

 このような藩(毛利家)重臣層の墓が集中して所在する例は県内にはなく、全国的にも稀有のことである。それは大寧寺が江戸初期より中国、四国、九州一円の僧録司(禅宗寺院行政を管轄する役目)の地位を占めていた高い寺格によるものと考えられる。

 しかも、墓石の態様も、五輪塔、宝篋印塔、自然石塔、板碑型、石憧型、笠塔婆型、磨崖形式等多種にわたり、墓石建築の上からもまた近世封建社会における地方武家層の信仰生活を知るためにも歴史的、学術的にも貴重である。”

【写真左】宍戸十郎兵衛門就通の墓と一畑薬師如来

 この墓石以外にも多くのものがあるが、写真でもわかるように、この日訪れた時、周辺の多くの墓石が倒壊・破損し、立て札のあるものだけが何とか墓石として立っていた。

 位置的にも急峻な斜面に何段にもわたって墓所が造られているが、原形をとどめている墓石の方が少ない状況だった。

 ところで、同境内で、「一畑薬師如来」像が見られるとは思ってもいなかった。16歳と60歳の女性の名前があるところを見ると、出雲国に縁のある者が建立したのだろう。

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